ハンガリー(その3)―真意なぞ伝わらないが互いに生きている

 英語がへたくそだからいけないのか。いや、下手だからこそ感じることが出来ることがある。真意なんて伝わらなくたって生きていけるし、楽しめるように思えた。
 これまでは、真意が伝わらないことを恐れ、そしてそこから生じる誤解に敏感になっていたから、海外に行って意思疎通が充分に出来ないことを当たり前に思うようになった自分が不思議に思える。まあ、自分が宇宙人なのか、相手がそうなのか。今は学生に鍛えられているというのもあるが。

 まあ、海外の観光地での話なんて、金を出しているからだって言い方もあるだろう。確かに、黙ってても客が来る店の店員や空港の職員なんてのは、愛想を振りまかなくたって飯が食える。だから、彼らは真意が伝わらないと簡単に憮然とする。

 真意が関係ないといえば、強い態度で出れば相手が折れることもある。相手に自信がないときは、それが奏功する。あとは駆け引きか。自分が正論と思えばそれで押し、相手が折れるとその行為にますます自信を深める。そんな繰り返しも、先達と同じことをしていれば不安がないし、歳を重ねれば知らずとついた立場が補強してくれるんだろう。反省もなく…。

 意思疎通も損得勘定の中で考えられるものなのだとすれば、それも納得できる。世間一般がそう考えるなら、どうでもいい人は切っていかないといけないのか。

 「草枕」の冒頭の一節を思い出し、どこで勝負すべきかを思う。有利に戦えるところ以外から逃げておきながらの強弁は嫌なのだけれどね。まあ、それを役割分担というらしい。

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ハンガリー(その2)―中央でないということ

 これまで旅した欧州の国々は、France (Paris, Grenoble), Swiss (Geneve), England (London)で、いわば西側の進んだ国々のそれも首都級の街である(まあ、Grenobleはちょっと違うか)。また、それ以外で行った国はUSA (Chicago, Hawaii島)とChina (Beijing)だ。
 今回、Hungary (Budapest), Croatia (Zagreb)という欧州の田舎町を訪れた。乏しい海外旅行の経験からの印象は、これまでとは大きく異なっていた。

 いまやそんなものはないという向きもあろうが、日本人の白人に対する劣等感がある。平たく言えば、それは田舎者の都会人に対する劣等感だったのかもしれない。となれば欧州の中央に対する周辺の劣等感もまた然りであろう。Budapestを初めて訪れたときの印象が、やはりこうした優越・劣等と無縁でないことは、その1に書いた文章から臭ってくるだろう。自分の中にある自己卑下や劣等感は、そうしたものと共鳴し、安堵や気持ちよさとして感じられるのかもしれない。

 こうしたえもいわれぬ感覚・感情はどこから来るのか。人生を穏やかに過ごしたいという欲求と、人に評価されたいという欲求とがある。これらは、適当な諦念と混ざり合って、適当な位置を見出す。そして、自分の歩むべき道を選択するということだ。しかし改めて思うのは、飛行機で何時間飛んでも、そこに人は住んでいて、そこで自信に満ちた人と打ちひしがれた人を見ることが出来るということだ。

 日本人のやり方というのは、ブームを巻き起こして一気に関心を集め、採算ベースに乗せ、常態化するということなのかもしれない。新しいものには金がかかる。それが定着するかどうかは、そのブームに見合った本質があるかどうかになるわけだが、高くても新しくて良いから欲しいというよりよいものを求める人間の本性の一部を引き出すということである。諦めずに常に動いていようと。その減価償却分を引き受けるから物価は高くなる。それを住みにくいと言っちゃうと、ああそれは降りるということなのね、となる。
 そんな風に諦めないことを強いれば、それを辛いといってくたびれてしまう人が居る。人が集まればそういう人もいる。評価される者の背景には、評価されない者がいる。その意味で日本の社会はストレスフルだろう。しかし、そういって癒しを求める彼らが前提にしているのは、この便利な世の中だったりする。田舎に隠居することを潔しとしないくせに、社会に押し付けようというのだ。まあ、スローライフなぞといっている人もいるし、それに共鳴できるけど。ただ、現実とはそういうものじゃなく、確実に今あるものを指している。

 刺激の多い忙しい街では疲れ、穏やかな町では刺激が恋しくなる。そんなバランスにわれわれは生きているんだろうし、こうした旅行も非日常だから楽しいのだ。現実に続いていく嬉しさは日常の中から意外さを引き出すところにあるのであって、非日常のなかで見つけた偶然ではない。まあ、その偶然を日常にひきつけられれば良いと思うが。旅の面白さは、新しいところに行くということもあるが、それよりもそんな日常と非日常の狭間を行ったり来たりして、日常を見つめなおすところにあるのかもしれない。それは、日常から切り離されてこそできる経験なのだろう。

 話は変わるが、Budapestの女性は愛嬌があって私好みだ。ゲルマン人のごつごつした彫刻のような顔や黒人たちの精悍さの美も分からないではないが、田舎者の劣等感も含めて人間くさくていい。Ferihegy空港でハンガリー人と思しき美しい女性が私の方を見ていた。変な東洋人が水とチョコレート(これは私が食うためじゃない)を買っているのを滑稽に思ったのだろう。目が合うと笑顔になったが、こちらも笑顔で返した。それだけで良い気分になるのだから、私も怪しいものだ。
 ところで、街を行き来するなかで、そんな彼女らに好感を持ったところでどうにかなることなんてないだろうと思うから、気持悪いと思われてもまじまじと眺めることに躊躇がない。これはある意味、日本のおじさんおばさんらと変わらない心境なのだろう。見たいものは見る。しかし、下着が透けた白いパンツをはいた女性は、お尻の形がくっきりとしていて参ったが…。ってちゃんと見ているが。
 ただ、この種の緊張感から降りちゃうことは、自らの美からは遠くなっていくのだろう。逆は真ならずとはいえ、それから降りなければ、(性的な?)魅力は維持できるということなのかもしれない。であるなら、カマトトぶるということは、頑張っているということなのだろうか。

 このことは、仕事に対する緊張感などとも全て繋がっている。この辺にしとこうと思うと、楽だし楽しい。ただ、それでは、自分の目指す美には到達できない。まあ、現実を見ずに出来もしない理想を掲げているのも辛いことだが。そんなとりとめのないことを感じた。

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ハンガリー(その1)―備忘録

 ハンガリーは以前から興味がある国だった。「ヨーロッパに投げられたアジアの石」とも言われるこの国は、アジア系民族が移民して出来た。ラテンはともかくゲルマン人が世界を牛耳っているように思える昨今、その中核の欧州にあって、アジア系であるということへの親近感がそうさせていたのかもしれない。
 そこにたまたまブダペストで国際会議が開かれるという。わくわくしながらの出発だった。

 成田からAlitaliaでミラノ経由、Marev Hungarian AirlineでBudapestには深夜に到着。疲れているうえに、気圧のせいで飛行機から降りるとしばらく耳が慣れないわたしのせいなのだろうが、英語がよく聞き取れない。ふてくされた入国審査とAirport Minibusのお姉ちゃん。帰りチェックインカウンターのおばさんも似たようなもんだったが、空港での印象はあまりよくない。まあだいたいどこもそんなもんだが、そういえば両替所もそうだった。ここで30,000円だして、53,336HUF (Hungarian Forint)にしてもらう。空港から一律料金のバスは、乗客8名を乗せ、順繰りに宿を巡る。夜は暗くて市街の雰囲気がわからなかったが、これまでに訪れた西欧の諸都市とは違い、雑多で洗練されていない印象。もっと悪く言えば、古臭い感じ。1時間くらいしてようやく宿に落ち着いた。

 初日は、すぐにメトロの切符売り場で一週間券を買う。そのまま、市街中心部から30分ほどかかる会場の大学へ。陽光の下で見る風景は、やはり古い都市だなという感じ。トラムも年季が入っている。そして、出勤時間帯の割にはあまり活気があるようには見えない。
 ドナウの河岸にある大学は、新しい建物が多くあり、立派なものだった。研究会の内容については別途どこかで。今回は自分の発表もない気楽さなので、ここの魅力に気付くためにも時間を確保したくて、聞きたい講演を選別して有効に時間を使いたいと思った。どうもどの日も午前中の講演に私の関心が集中しているようなので、そこを重点的に聞き、午後は市内を散策することにした。
 まず会場まで使うトラムを両端まで行ったり来たり。Moszkva terの近所の専門店街で、いつもの通り道路地図を買う。わたしにとってのお土産みたいなものだ。そして、宿の近所のSPARでビール2本とスナック菓子を。宿に戻り、それらを飲み喰いしてこれからを算段。夜は何にしようかと思っているうち、Tokajiのワイン(AszuではなくてSzamorodniのDry)をつい開けたら、おいしくて気分がよくなり、疲れていたのかすぐに寝てしまった。

 二日目は、やはりまず会場で午前中の講演を聴く。午後は抜け出して市内散策へ。夕方から城の教会でコンサートがある。そこに間に合うようにふらふらした。Tram.4からOktogonでMetro.1に乗り換える。世界で二番目に古いそれは、トラムが地下に潜ったみたいで、ミニ地下鉄といった感じ。そのまま終点の英雄広場まで。なにかパレードをするらしく人込みに紛れる。その後、宿周辺まで戻り、ドナウ川近所のレストランで遅い昼食を。Paprikaで煮込んだ牛のプレート。ブラウンビール(銘柄は不明)と一緒に頂いたが、腹は膨れ満足に。そのままMoszkva terから城内を行くバスに乗り、Matyas templomでのListzのコンサートを聞きに行く。早めについたので、王宮の丘を散策する。帰りに食事をしようか迷ったが、腹もこなれないので、そのまま帰って休んだ。

 三日目も午前中は講演を聞き、午後は抜け出した。ただ今日は日曜。店も閉まっていて、どこかにいく当てもない。Nepstadionのバスターミナルへ行き、出かけるのにめぼしい場所がないか見るが、思い当たらない。それならObudaのAquincumの遺跡でも行ってみるか。Tram.1でArpad橋を越えて、HEVのArpad hid駅へ。近くの小さな教会で鐘の音を聞く。これが悪かったか電車の時間が合わないので、駅の地図でAquincum方向に行くバス便を探す。わかんなくても帰って来れるだろうと、適当にBusz.42に乗る。どこで降りるか分からないまま、案の定、降車のタイミングを逃す。途中、道の悪い住宅地を通って、終点のHEVの駅へ。めぼしい店がなく昼飯も食う気がしない。仕方がないので、着いたバスでもと来たルートを戻る。今度は降りることが出来、遺跡へ。入場料は700HUFほど。一通り見て、バスでArpad hidへ。駅でビールを飲んで、昼飯に代える。疲れたからTram.1-Tram.17-Tram.4で宿周辺まで戻り、昼飯を食ったレストランで晩飯。今度はしっかり食べようと、白ワインにGulyasスープと七面鳥にフォアグラをつめたフライを。おいしい食事にそれなりの分量。満足したので、そのまま宿に帰って寝た。

 四日目は会合には出ないことにしたが、夕方からドナウを巡る船での夕食が用意されている。午前中は明日と帰りを気にして、空港までMinibuszを使わないルートを確認するためMetroとバスで行く。Ferihegy空港の出発ターミナルを確認して一安心。早朝は4:40にNyugati Pu.発のメトロがあるから、大丈夫だろう。続いてみやげ物を買うためKalvin ter駅まで戻り、中央市場にてTokajiワインとPaprikaの粉などを購入。
 昼過ぎにお目当ての列車に乗ろうと、西駅からMAV(ハンガリー国鉄)でCegled経由でKecskemetへ。電車で1時間半ほどの旅。往復で2,188HUFほど。ぎりぎりに行ったら、どのコンパートメントも空席はない。ビールを買い込んだが、仕方なく通路で外を眺めることに。イタリア人と思しき旅行者が、指定席はどこか英語で聞いてきた。運賃しか払っていない私には分からない。悪いけど分からんと言うと、重い荷物を引き摺って駅員のところまで聞きに言ったようだ。定刻に列車は出発。乗り過ごしたらいかんと思い、緊張しながら車窓を眺める。町を出るとプスタに広がる田園風景が延々と続く。
 Kecskemetに着くが、月曜は運が悪く多くの博物館・美術館が休業。広場のベンチで作戦を練るが、いつもの通りとにかく歩き回ることにする。喉が渇いたのでカフェバーに行くが、看板のビールは今切らしているという。仕方なく白ワインを頼むがそれでは足りず、わけの分からないまま頼んだ飲み物は、どう見ても栄養ドリンク。疲れていたから還ってよかったが…。街に戻って、スーパーで帰りの電車で飲むものを買う。Tokajiのワインが中央市場で買うよりかなり安いのを知り、もう1本追加。あとビールとパンとフォアグラのパテを買い列車に乗り込んだ。遅れた列車の待ち合わせなのか、30分以上遅れて西駅に到着。そこから歩いて一旦宿に戻る。
 歩きすぎで足にマメが出来、痛いことこの上ない。少し休憩して、Batthyani ter付近から出る船での食事。セルフサービスで少しがっかりするが、テーブルで同席したクロアチア人女性と話をする機会が出来る。日本に来たことがあるらしい。2時間ほどのディナーを終え、少し喰い足りなかったので、宿で昼に買ったパンとパテでワインを飲む。

 五日目は学生諸子とレンタカーでなんとCroatiaの首都Zagrebまで往復10時間のドライブ。Metro.3で終点のKobanya-Kispestまで行き、そこからReputer-BuszでFerihegy 2まで1時間くらい。Avisのレンタカーで、地図を持っている私はナビ役。混雑する市内を抜けて高速でBalaton湖の町までいけるが、そこから国境までは下の道しかない。その間、ガス入りミネラルウォーター1リットルを高速のサービスエリアで買い込み、この苦手な水になじんでみようと試みた。スナック菓子とあわせてしばらく飲んでいたら、これが悪くない。彼らは日常的に飲んでいるんだから、そうなるのが当たり前だと思いつつ、ここまで変わるものか。帰国してからも飲みたいけど、手に入れるのは容易じゃないだろうな。
 なんてやっているうちに、国境のLetenyeからCroatiaのGoricanに入国。入国審査の"Declere"の単語にすぐに気付かず、なんかいろいろチェックされる。まあ、車での入国は初めてだから仕方ないか。ここからはきれいな高速道路で首都まで。ただ、郊外にたどり着くも、Croatiaの地図はもってない。Hungaryと違って、あまり丁寧な案内板標記がない。まあ、大学生の頃の第二外国語はロシア語だったが、南スラブ系の言語であるCroatia語を解釈出来るはずもなく。というより、ここの言語がどこに近いのか、正直最初は分からなかった。ともかく、トラムの進む方向を頼りにどうにか駅近くまではやって来れた。ふと見つけた古本屋で道路地図を買い、中央駅周辺へたどり着くころには夕刻になっていた。
 さて、散策と買い物を。Euroは日本で両替して少し持ってきたが、ここの通貨はKuna(Kn)というらしい。Euroは高速代の支払いには使えたが、古本屋は駄目だった。両替所かとも思ったが、使った経験のない国際ATMを試してみよう。不安ながら機械ならぼらないだろうと、駅のATMに突っ込んでみた。新生銀行のカードはPlusに対応している。無事あっさりと500Kn(=9,264円)が出てきた。(帰国後、ネットで調べると相性とかあってそんなに簡単じゃないみたいだが、米国とは違ってヨーロッパでは手数料が安くていい換金手段みたい。今後は両替して持っていかなくてもいいかも。)
 遅い昼飯をとレストランを探すが、「地球の歩き方・中欧」にある店がない。まあ、5年前に中欧を知りたくて買ったものだから仕方がない。ともかくも散策しながらの印象は、旧ユーゴのここも国内事情はかなり安定している印象がある。ただ、天候が悪かったせいか、Budapestとは比較にならないくらいぱっとしない街だと思った。本当は見所もあるのだろうし、海岸沿いの街はもっと違った印象かもしれない。
 ようやく見つけたこじゃれたレストランでリーキのスープとラム肉のソテーを食う。まあ、悪くはないが、とてもいいというわけでもない。が、いい値段だった。愛想のいいお姉さんが救いで、彼女に礼を言い、時間がないから早めに退散する。もうレンタカー屋の閉店時間の9時には間に合わないし、早くしないと深夜になるのは分かりながら、もう諦めモード。駅地下のショッピングモールで時間をつぶす。ここの国の本屋は自由に立ち読みが出来ないのか、店員が書棚の前に立って客の注文を聞いている。なんだか買いにくいし、お金も限られていたので、駅前の露店で古本じゃない地図を買った。やっぱり客相手にはみんな愛想がいい。すっかり感心して、Zagrebを後にする。
 しかし地図の見方が分かりにくい。二度ほど違う道に出て失敗するも、どうにかこうにか高速へ。結局、Budapestに辿り着いたのは深夜になった。Balaton湖で淡水魚の料理をとも思ったが、またの機会を期待する。

 六日目。朝7時半のMilan行きの便に間に合わせるため、朝一のMetroに乗る。昨日0時ごろ着いたので、4時に起きるのは半分諦めたから、ほとんど寝ていない。寝ていたホテルマンを起こして清算。毎晩のメールチェックとビールかワインを冷蔵庫から出したから、4,000円ほど追加料金を取られるが、まあ6泊ならこんなものか。とはいえ、ハンガリーの物価は年々上昇しているらしい。通貨統合が済むと、一気に割安感がなくなるかもしれない。
 寝ぼけ眼で駅が開くのを待ちMetro.3に乗るが、朝というのに人が多い。夜歩いている人が少ないのに比べ、意外だった。5.30頃空港着。Marevのカウンターでチェックインを済ませ、Milanに向かった。

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人吉―球磨焼酎の味わい

 研究の会合を一日だけすっぽかして、列車で人吉を目指した。熊本から急行の気動車で一時間半ほど。球磨川沿いに列車は進む。連夜の飲み会で少し疲れていたのだが、晩秋の暖かい日差しの中、やや残っている紅葉の風情を愉しみつつ、うとうとしていた。

 小さな駅舎で観光案内を見つけ、河原を目指して歩くことにする。

 思いのほか小さな町。まっすぐ川を渡り、右に折れ、暫く歩くと焼酎の造り酒屋が。ひとまず通り過ぎ、人吉城址に辿り着く。

 もう櫓しか残っていないようだ。博物館のようになっているそこで、人吉の歴史に触れる。傍らにある石のベンチで策を練るが、やはり焼酎蔵でも見てみるほかないようだ。先ほどの酒屋に戻ることにする。


 見学に来たことを告げると、記名を求められ、プレハブの蔵の2階に試飲コーナーがあると説明を受けた。

 そこでは、既に3名の見学者が、案内の元気な女性と談笑していた。わたしは荷物を置き、彼らが去るのを待った。

 いよいよ女性は、わたしを蔵を見下ろす場所に案内し、米を蒸す機械や、醸造樽、蒸留槽などを説明した。あまり大きな印象は受けなかったが、人吉では大手の方らしい。そんな説明はそこそこに、試飲させてもらうことにした。

 銘柄がたくさんあって、それぞれ説明を受けるが、よく分からない。日本酒で二日酔いが気持ち悪くなって、焼酎に切り替えたとはいえ、芋焼酎くらいしかその味わいはわからない頃である。吟醸した米の、それも古酒ともなると、なんだかわたしの趣味とは違った趣だ。さらにすきっ腹に、いろいろ飲んだものだから、気分も微妙に…。

 しかし、焼酎といいながら、これはウィスキーだかスコッチだかの印象だ。やっぱり、蒸留酒を樽に入れているんだから木の香りがする。わたしの趣味には合わないとはいえ、これはおいしい酒なんだなとは思う。彼女お勧めの10年古酒を思ったより安い値段で入手した。酔ったところで腹が減った。帰りがけに、店を教えてもらい、散歩しながら向かうことにする。

 一旦駅のある川向こうに渡り、川沿いに古い町並みを眺めつつ歩く。穏やかな日差しが照りつける。人通りも少なく、のんびりしたいい感じだ。すこし歩き疲れたころに、対岸に渡れる橋に出る。


 対岸には教えてもらった店があった。地の物を喰いたいといったのだが、そんな感じでもない。ちょっとおしゃれな感じで、女性が好みそうな店だ。お勧めメニューは、小鉢がたくさんの懐石。ちょっと物足りないが、おいしい食事をゆったりいただいた。

 帰りの列車までは時間がある。仕方なく、駅近くの公園のベンチで読書。でも、こんな風にゆったり過ごしたのはいつ以来だったか。関東に復帰してから、そんな時間はなかなか取れなかった。自分のため、つまりは仕事のためにばかり時間を使っている自分に、それを気付かせる機会は滅多に訪れない。

 また会場に戻って飲み会か。帰りの列車では車窓のみを愉しんだ。

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鳥取―砂丘の美と寂寥感

 一度行ってみずばなるまい。そう思っていた。殊に兵庫に移ってからは。「月の砂漠」は御宿らしいが、既に鳥取砂丘はわたしのこころをひきつけていたのだ。

 自宅からは二つのルートがある。戸倉峠を通る番手の若い国道29号を使うか、距離的には長そうな智頭を経由する373号のルート。ためらうことなく29号を通ることにした。

 はっきり言って失敗。人家も見当たらぬ山間部ばかり。波賀町の道の駅を越えてからは、ああ…。戸倉峠から若桜の集落までたいへんな想いだった。ガソリンさえ入れられない…。

 例によって昼過ぎに出かけたため、砂丘に着いたのは夕刻。舗装された道にまで、防砂林を越えて砂が白く糸を引く。そのうえ、晩秋の冷たい風が吹きすさぶとき。この寂寥感といったらなく、それに静かにわくわくしている自分に気付く。

 ほとんど観光客はいなかった。駐車場も有料そうなのに、人もいない。適当に車を停め、砂丘へ。

 林を通り抜けると、そこには白砂と青海と灰色の空があった。丘の上に数名が佇んでいる以外、打ち寄せる波くらいしか動くものはない。わたしはうれしくなって、丘を駆け上っていた。

 海を見ながらどれほどいただろうか。何も考えることはなかった。ただ、ぼーっとすることができた。こんなことってあったろうか。


 その後、373号を通って行ったことがある。遥かに走りやすかったのだが、着いた砂丘は観光客が多く、初めて行ったときとは全く違う印象。孤独を愉しませてくれる場を、そのころは求めていたのかもしれない。

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鶴来―日本酒との出会い

 この旅は、贅沢さにおいては他に思い当たることがないくらいのものであった。

 この旅行は、わたしが学生のころお世話になった先生に誘われたものである。旅行の目的は、先生の弟子の一人の実家である造り酒屋を訪問するというものであった。

 春先ののどやかな気候のなか、新幹線で東京から来る先生と米原で落ち合い、金沢市に程近い鶴来の町へ向け車で向かった。宿は、白山神社のすぐ脇にある、しっとりした旅館であった。相当の老舗であるだろうその宿は、しっかりとした平屋建ての造りで、とても趣のあるものだった。シーズンでもなかったためか、他の宿泊客に出会うことはなかった。とても静かで、料理も酒もすばらしく、これまで経験したことのない充足感と落ち着きを感じることができた。夕刻から静かに降り出した雪と、造り酒屋との密接な関係からの気の利いたサービスがその原因かもしれない。食事後に、部屋の囲炉裏端で静かに雪を眺めた時間の満ち足りた感じは、ぜひまたうかがいたい気持ちになる。

 翌朝は、萬歳楽酒造に伺い、見学をさせていただく。初めての経験に驚きの連続であったが、絞りたての生酒の炭酸の爽やかな風味は、これまでいただいたことのない日本酒の味であった。

 その後、隠居された先代社長のお話を伺う機会を得た。わたしは日本酒に関して当時ほとんど知識のなかったので、つまらない質問をしてご機嫌を損ねかけたが、さまざまの経験をお話していただき、この仕事の奥の深さと、そのことに対する自信を垣間見ることができた。自分が、研究者として何を日々感じているかを振り返るよい機会にもなった。そして、日本酒のファンになった。

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長野−東山魁夷の絵を求めて

 生活が不規則な職場に居て、NHKの深夜の再放送を見ることが多かった頃、長野県信濃美術館の東山魁夷館を紹介する番組に出合った。これをきっかけに東山魁夷の作品に魅せられてしまう。東山魁夷は有名な日本画家で、あまりにポピュラーすぎる、と知り合いの永遠の画家志望のやからに言われたが、わたしもミーハーなところがあるのかもしれないと思わないではない。

 帰省をした折に、魁夷が住んだ千葉の市川や、千葉市内の美術館を訪問するが、その欲求は満たせず、兵庫に帰るついでに、長野に寄っていこうと考えた。長野は何度か訪れたが、市内を散策することはあまりなかった。

 せっかく来たのだから善光寺参りと思い、まずその目的を果たす。しかし、例によってただ外から眺めるだけの通り一遍であった。後に、弟の奥さんのお父さんから、ぜひとも善光寺をしっかり見てくださいと言われることになる。いつか、また訪れなければ。

 結局、善光寺で美術館の場所を確認して、訪ねてみると、思いもかけず休館であった。調べないわたしが悪いとはいえ、なんとも間が悪く、期待がはずれて大きな不満が残ってしまった。

 なんとも気分の悪いまま、車を走らせると、そういえば、魁夷のエッセイの中に、木曽の山口村でのことが書かれていることを思い出した。絵を描いていたところ雨に降られ、地元の人の世話になったという話である。それをきっかけに、後年、版画を収めた小さな美術館ができたことを思い出した。

 もう、帰りが遅くなってもそこに行くしかないだろうと心に決め、岐阜との県境にある山口村を目指す。

 美術館は、道の駅の一角にひっそりと立っていた。魁夷の三回忌か何かのイベントが町の集会所でもある道の駅で催されていたが、関係者だけのもののようだった。それを横目に館内に入る。小ぢんまりとした空間にリソグラフが十数枚掲げてあった。館内の照明が落とされているため、非常に静かで落ち着いた雰囲気になっている。夕刻になっていたので、他の客も少なく、堪能することができた。帰りがけに、額を一点買い求め、岐路についた。買ったのはグレーのモノトーンの有名な作品で、しばらく家に掛けてあったが、もう少しカラフルなのを求めておけばよかったと少し後悔。


 捲土重来を期して、車で帰省した折に、東山魁夷館を目指す。今日なら休みではないはずだ。とはいえ、夏の帰省の観光シーズンであった。

 もう慣れたもので、ちょっと隠れたところにある駐車場にきちんと車を停め、喜び勇んで入館する。が、なんとお客さんの多いこと。それもとても静かに鑑賞するような雰囲気ではない。周りには観光バスで乗り付けたと思しき中年女性が、わいわい言いながら鑑賞(?)していた。

 一通り眺め、確かによい絵だとは思えるものの、なんだかこちらの気が殺がれてしまった。とても損をした気分になった。売店で数枚の絵葉書を買い求め、それでなんとか気持ちを癒す。

 気を取り直して、奈良井宿の造り酒屋に寄って、酒を買い求めつつ、自宅を目指した。

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土佐清水への旅

 土佐蒼龍硯は、高知県三原村で産する石で作られる国内でも良質の硯である。軽妙かつ温かみのある語り口にすっかりファンになってしまった書家の榊莫山先生の本「文房四宝硯の話」によれば、現時点ではここのは国内最良の石だという。となれば、行ってみないはずはない。

 瀬戸大橋を渡って、高知道に入る。南国までは高速があるが、そこからがいよいよ本番。高知市内を経て、一般道をドライブする。(今は須崎東まで高速が通っている。)

 完全に甘く見ていた。高知から一般道で100キロ以上。海と山が繰り替えされる風景。段々日が暮れてきて、ついには暗闇の中のドライブ。いつになったら着けるのだろうという不安がいや増してくる。高知から中村までほとんど大きな街はないことも不安の要因であった。

 8時半頃、どうにかこうにか中村に到着。しかし、真っ暗な中、条理の整った町並みは却って街の中心部がわかりにくく、気に入った宿が見つからない。諦めて、もうひとつの目的地である足摺岬のある土佐清水市へ向かう。到達したのは小さな通り一本の街。安いビジネスホテルをすぐに見つけ、そこに宿を構えた。

 フロントで蒼龍硯のありかを聞いた。その方が、三原村の出身ということで丁寧に教えていただく。ついでに、鰹のタタキの旨い店を教わることもできた。

 早朝に出発し、まず足摺岬を訪れる。朝というのに観光客が多い。多分、ここで朝日でも拝んだのだろう。近くにはホテルが乱立している。人が多くて、堪能するには至らないが、まだ低い太陽と水平線と海面に映る太陽がとても美しい。爽やかな気分で、三原村を目指すことにする。

 中村に戻る途中の道を左に折れていく。急に車一台がようやく通れる道幅になる。またまた、不安になる。が、それを越えると田園風景が広がってきた。

 硯は主たる産業のひとつなのだろう。案内板にしたがって、硯の展示場を訪れるが誰も居ない。仕方なく、近所の食料品店に行って、工場を教えてもらった。

 恐る恐る工場に入って行くが、人が見当たらない。今日は日曜日。さすがに人は居ないかと思っていたら、一人の職人さんが仕事をしていた。

 ふらふら入っていったのもすべてお見通しだったようで、奥方と思しき人が隣でなにか言っている。5・6名が同時に作業できるその工場で、作硯の仕方や硯の砥石の話など教えていただいた。わざわざこんなところに出向く人間というのはそれほど多くないのか、若手の書家のような扱いを受けることに戸惑う。ただ趣味で回っているだけなのに。硯と文鎮を買い付け、辞去した。

 莫山先生が評価する硯も、このような田舎の小さな工場で一つ一つ手作りされていることに驚きを禁じえなかった。そして、このような職人さんの地道な仕事もきちんと評価されていることに安堵感を覚えた。そして、そのことを自分の置かれている状況に照らし合わせてみた。

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青森への旅

 青森の県立の研究所の招きで、講演をすることになり、青森を訪れることになる。東北生まれのわたしにとっても、青森はあまり縁がない土地である。弘前城を訪れた程度ではあったが、職場の先輩に数名青森出身の方がいらっしゃって、そこからの印象があった。

 講演が済み、見学が終わると夕刻近くになっていたが、所長さんの厚意で事務長さんの案内で、ねぶた祭りの山車を作っているテントを見学する。運転をしていただいた方が、やはり黒石市で山車を作っておられるかたで、とても丁寧に一軒ずつ見せていただいた。出来具合に巧拙の違いが見て取れるが、なによりその規模と熱意に圧倒される。そして、是非とも一度ねぶたに参加して「跳ねて」くださいと言われる。事務長さんには連絡してくれと言われながら、なにもしてない…。

 青森といえば地酒「田酒」が有名であるが、前日に所長さんに気分のいい居酒屋に連れて行っていただいて、堪能していた。しかし、ねぶたを見た印象も残っていて、もう少しこの青森を堪能したくなった。翌日が土曜ということもあり、もう一泊することにして、レンタカーを手配し、あちこち散策してみようと思い立つ。

 明日に備え、うまいものを食っておきたいと考え、書店で観光ガイドを買うが、気に入った店に行き当たらない。高そうだなと思ったホテルのそばの落ち着いた料理屋に、一時間以上市内を歩き回った後で舞い戻る。

 表から雰囲気があったのだが、店内の雰囲気はこぎれいで照明も暗くとても落ち着いていた。時間が遅くて客が少ないことも手伝って、気分が良くなってきた。メニューは青森近海物の小料理が中心で、日本酒のバリエーションも多い、好みの雰囲気だった。女将が間合いよく、勺をしてくれたり、静かな気の利いた言葉を掛けてくれたりしたため、とてもよい気分になった。勘定は決して安くなかったけど。

 翌日の計画は、三内丸山遺跡と棟方志功の版画とホタテであった。さらに、金山町の太宰治の生家のおまけつき。

 朝から雨で、今ひとつであったが、三内丸山の規模の大きさには圧倒される。静かに見たかったのに、案内のボランティアに気を使って、どうしても単独行動がしにくい。確かに、説明は欲しかったのだけど。

 棟方志功の美術館はとてもよかった。志功の油絵がまず印象的で、ピンク色の富士山は小品であったがその色彩に圧倒される。もちろん、有名な女人観世音や釈迦十大弟子にも感動するんだけど。

 昼は、青森湾沿いに東に車を走らせ、浅虫あたりの割烹旅館で海鮮丼を食う。時間が余って仕方なくなり、恐山に行きたいと思いながら、さすがに時間的に無理があるので、金山町の太宰の生家に行くことにする。

 太宰の作品は正直に言うとまったく読んでいない。訪れた旧家の立派さに、乏しい文学史の知識を照らし合わせる。奥野健男という大学の先輩もいるのに、もう少し勉強が必要かもしれないと思いつつ、青森空港へ向かった。

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対馬・長崎への旅

 前任地の同僚だったMさんが転職する九州の国立大学は、県内の共同実験施設の建設に関与するという。その施設とわたしが勤務していた研究所との関連から講演を依頼され、赴くことになった。それならばと、年休を余分に取って、Mさんの引越しに便乗させてもらい、他の土地もセットで観光してしまおうという欲張りなことを考えた。硯を目当てにした旅というテーマで、あちこち回っていたが、九州の硯産地といえば対馬はその筆頭である。それを目当てに訪ねることにした。

 Mさんと話しながら兵庫から福岡空港まで送ってもらう。短時間のフライトだが、もう夕刻が迫っている。最初の印象は、なにか植生に乏しい島だなあという感じ。予約していたレンタカーを借り、島の北端にある国民宿舎を目指して出発。

 中学生のころ楽しみで書いていた天気図で厳原という地名は知っていたが、対馬は6つの町からなっている。厳原は南端、空港のある美津島はそのすぐ北。宿のある上対馬は北端にあり、空港から直線距離で40キロ以上。確か案内板では100キロくらいあったと記憶している。これは急がないと日が暮れてしまう。そう思いながらも、安全運転で何度か往復するだろう道を愉しむことにした。

 いつもレンタカーは安いのを頼んでいる。今回はVitz。距離を考えてもちょっと力不足だったかもしれないとそのとき思ったが、狭い道を走ることが多くこれで正解だった。季節と天候のせいだろうが、植生に華やかさはない。しかし、なんとも言い表せぬ不思議な心地よさを感じつつ、上対馬町の比田勝港のそばにある国民宿舎にたどり着く。そのまえに、地酒とツマミ若干を買い揃えて。

 夕食は質素だが、地のものばかりでとてもおいしく、酔いも手伝って気分が良くなった。あと一泊するので、明日はなにか刺身でも頼むことにしようと思い立って、食事後フロントに。聞けば、アワビ、イカなどが用意できるという。そこで、いままで食べたことのなかったサザエの刺身を一皿明日の夕食に頼んだ。部屋に戻って地酒を煽ってみるが、糖類添加の三増酒でがっかりし、うっちゃってすぐに寝ることにする。今日は疲れたし、明日は一日予定がいっぱいだから。

 早朝に起きてみれば、イカ釣り漁船が操業しているのが部屋の窓から見える。疲れが若干残っているが、昨日の不思議な心地よさを味わいたく、わくわくしている自分に気づく。まずは比田勝港のそばの特殊な地形が見える網代漣痕(写真)へ。漣痕は「さざなみのあと」の意。2種の異なる地層のお陰で、さざなみのような文様が見えている。天気がよければもっといいのにと思いつつ、急ぎ次のポイントへ。

 今度は、韓国が見えるという鰐浦の展望台へ。朝鮮との交流が緊密だったこの地では、たびたび派遣隊が遭難することがあったという。それを偲んだ石碑が立ち、展望台も朝鮮風になっている(写真)。自衛隊のキャンプもあるここからは、冬の快晴の日には対岸の韓国が見えるという。しかし、春先はもやがかかって駄目なのだそうだ。あいにくその季節であり、また天候が今ひとつなのも相俟って、まったく見えない。展望台の中の展示で満足することにする。

 運悪く天候がいまいちで気分が乗らないが、硯の里を目指して南下する。その途中にある海神神社(わたつみじんじゃ)に立ち寄る。国幣中社のそれは、鬱蒼とした林の中にあって、中韓の影響を察することのできる雰囲気をしばし味わう。ここは本当に日本なのだろうかという錯覚を起こしてしまう。さすが国境の島。わたしは気がつくと、ここの魅力に捕らえられてしまったようだ。神社の傍らには、石積みの小屋が海岸に面して作られている(写真)。倉庫として使われていたというその小屋が、堂々と違和感なくそこに立っていること自体、この島の不可思議さを表わしている。海岸は韓国から流れ着いたと思しいゴミがあって、ちょっとがっかりするが。

 硯を産する若田に行くのに、椎根の石屋根を回って、厳原に出るルートを取ってみる。石を薄く割ったのを瓦の代わりに使った小屋が数件並んで建っている(写真)。それが石屋根なのだが、小学生と思しき女の子たち3人が、わたしを見て気に食わないようだ。「そんなにめずらしいかね」「いつまでみているんだろう」。まあ、いいんだけど。そういわれると、確かに大したことない。でも、これって変だよね。

 いよいよ目当ての硯なのだけど、なんの案内も見ぬままここに来てしまった。案内板を当てにして狭い道を走ってきたのだが、ついにわからなくなってしまう。仕方なく、近所の民家を見渡すが表に出ている人はいない。ふらふら走っていると、一軒の立派な屋敷の縁側に老婆が佇んでいるのに気づく。すぐさま、そこに車を停め、静かに歩いていった。

 硯工房の場所を聞くと道を挟んで向かい側だという。彼女は静かに、わたしがどこから来たのかを訪ねると、こういった一期一会のこと、家族のことを話し始めた。硯工房が気になりながらも、この穏やかに流れていく時間に、静かに従おうという気分になっていた。彼女はわたしのような怪しい輩に優しい言葉を掛けてくれた。そのうえ、家人には内緒だと、上着のポケットがいっぱいになるほど対馬椎茸を呉れた。なにか一緒に貴重な時間まで呉れたような気がした。こんな偶然が旅にはあるんだと、また旅することが好きになった。

 30分以上話しただろうか。その老婆に暇を告げ、工房に向かう。初老というには早い男性が硯を造っていた。若田硯は歴史も古く、いい石であることで有名である。石のこと、作硯のことなど1時間くらい話したろうか。前から欲しかった二面硯を頼んだ。しかし、予定の期日には出来て来ず、その後わたしは引っ越したので、どうなったことやら。そのあとで、新しい工房に行かないかと誘われる。

 県道に面したその新しい工房(写真)は、町のサポートもあってのことなのだろう、小奇麗で、対馬そばの食堂も隣接している。都合2時間くらいお話をして、わたしも大概満足し、次を目指すことにする。その前に遅い昼食としてそばを食した。

 本当は南端の岬なども訪れたかったのだが、もう時間がない。宿を目指しつつ立ち寄ることにした。まず通過する厳原は対馬一の町である。ここは差したる印象はない。そのまま通り過ぎて空港の傍らまで一本道である。明日、宿舎から空港までは早く起きればまだ見ることもあるだろう。そのまま国道を避け、東岸沿いの県道を進むことにした。

 道沿いに小さな漁村が点在する。人のテリトリーに土足で入っていくような気がして躊躇するくらいの、本当に小さな漁村である。夕刻にはもう一日の仕事を終えたのだろうか、人影もまばらである。その風情に、あの老婆の優しい心持ちを重ねながら、大銀杏の木や清水の湧水を訪ね、夕刻に宿にたどり着いた。

 風呂に入って疲れを癒し、夕食に望む。頼んでいたサザエの刺身があまりに大盛りなのに驚きつつ、ビールのツマミに頂く。わたしの好きな歯ごたえで食わせるそれに嬉しくなってくる。それ以外のやはり素朴だが、地のさつま揚げや地鶏のソテーなどがとてもおいしい。晩酌のツマミに鶏の焼いたのはこっそり部屋に持っていく(とはいえ、疾うにばれていたが…)。


 対馬に堪能したあとは、やはり飛行機で、今度は長崎空港に降りる。Mさんが長崎を案内してくれて、実家に泊めてくれるというのだ。彼は、この機会に結婚して、大学のそばに居を構えるという。その奥方とともに、大村湾にある空港まで迎えに来てくれた。そこから長崎までは少しくかかる。どこか行きたいところはないかと言われていたので、ボタ山は長崎にはないのかと聞いた。九州といえば青春の門ではないが、やっぱりボタ山が見たいと思っていた。何度か九州は訪れたものそれは成就していなかった。まあ、この回もだめだったんだけど。

 干拓事業で水門を閉められた諫早湾を眺める公園に寄り道し、長崎市内へ向かう。途中急斜面を縫うように走る道と、崖にへばりつくように点在する民家に驚いたりした。市内では、中華街の有名な店に案内してくれ、堪能する。多分、一番価格的には豪勢だったろう。味ももちろんよろしかった。

 その後、浦上天主堂やグラバー園などを訪れ、観光気分に浸る。残った時間はどうするか聞かれ、軍艦島を見たいと子供のような無理を言う。彼は、その要求も呑んでくれて、長崎半島の南端の野母崎町まで行ってくれた。正しくはには端島(写真)というその島を遠くに望む展望台で、十数分を過ごし、彼の実家にお邪魔することになる。

 実家に着くなり、夜景を見に行きましょうという話になる。稲佐山公園は谷あいの町である長崎を一望できる山にあって、名所なのかたくさんの観光客が来ていた。確かに、浦上川から長崎湾へ至る細長い低地に街は伸び、街の灯が列なっていた(写真)。夜景の美しい町は多少は訪れたが、このまとまりのある感じは初めてかもしれない。写真に収めるなどして堪能して、家に戻る。

 対馬空港で買った二枚貝の折り詰めを手土産に伺ったその家からは、なんとも言えぬ温かみを感じた。それは家族、特に彼が尊敬するお父さんの人柄によるもののような気がした。高校の数学の先生をしていたという彼の父は、定年を早めて退職し、近所に畑を買い農作業に勤しんでいるという。彼の兄も来ていて、その可愛い娘が恥らいながら、わたしの持ってきたパソコンに興味を持つ様に愛らしさを覚える。料理は盛りだくさんで、彼の父上が作ったモツの煮込みなどおいしいものばかり。わたしの故郷東北の田舎とは違って、九州の豊穣さに羨ましさを覚える。翌日は昼から講演なのに、ゆったりと堪能してしまった。

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