わからないといえるための自覚

 人は限られた時間を生きている。それを自覚できないから、精一杯生きてみようという気にはなれない。そして、精一杯生きていないから、追い詰められても居直れない。弁明とか嘘とか都合のいい言葉を述べて逃げたくなるのだ。精一杯生きていたら、これ以上どうしたらいいんだと言えるんだと思う。


 一所懸命やっているつもりでも、結果が出ない事だってあるし、分からない事だってある。しかし、大事なことは、人からの質問や意見に、率直に耳を傾けることである。他者は自分が生きていない時間を生きている。だから、自分が気付かないこと、意識していないことを教えてくれる。

 それが納得できれば、指摘されることは恥ではない。その場で恥じ入る必要は特にはない。その指摘を、そのときあるいはその後に確認したらいいのだ。とはいえ、咽元過ぎれば熱さを忘れる。そういう執拗さは、普通はあまりない。終わったらあっけらかんとしているものである。育ちのいい人ほどそうかもしれない。却って恥じ入った者が悔しさから反省し、時間をうまく使うことが出来る。

 身内の会話でいい格好をしようとしているやつは、外に出ればなおのこと保身に回る。都合のいい言葉で言い逃れしようとしても、聞く人によっては簡単に分かる。


 自分を正しく見つめる。自分の社会における位置を正しく認識することは、自分の欲望を制御し、自分のゆとりを確保し、愉しく生きていくために大切なことである。このバランスがとれていないと、背伸びして失敗することになる。実力もないのに、余分なことをしてみたくなる。

 それでも、何もしないより、失敗してみたほうがいいかもしれない。その失敗を、分析できる力があるなら。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

博士の悲哀

 「理系白書」(講談社)は、理科系の人々のシビアな現実を丁寧な取材で浮き彫りにした興味深い本だ。しかし、こうした現実を直視しているのかいないのか、学生さんたちは安易な人生の選択をしているんじゃないかと感じないではない。
 昨日、また別のサイト「博士の生き方」を見つけて眺めていたが、具体的な数値に基づいた現状分析は、私自身の今後のありようも含めて必ずしも安楽ではない今を痛感させられる。

 まず、博士修了後の就職先である。私は学位取得後直ちに、運良くある研究所に常勤職で採用された。別に珍しいことではないと思うかもしれないが、今やすぐに常勤職に就けるなんて滅多にないことである。大概はポスドクを数年は経験しなければならない。研究者としての試用期間をきっちりとチェックされるのである。
 博士は研究をする者だ。これだけ大学院進学者が増えても、その認識は変わっていない。となれば、社会から見て、これほど扱いにくい存在はない。与える仕事が限定されるからである。実際に、博士修了者の就職率は6割くらいで、女性に限定すると更に下がって5割という。一方、学部卒で8割、修士で7割。進学するほど下がってくるのだ。要するに就職したいなら、進学しすぎるなということを意味している。
 今やコネや情実はあまり効かない。ポスドクくらいなら何とかなっても、常勤職に採用されるのはそれほど甘くないのだ。

 現実を見ないのは勝手だが、それを後悔するのも自分だ。今のうちから厳しい現実を眺め、日々精進して欲しい。楽に渡って行ける人生なんてないってそろそろ覚悟しないといけません。


 と、書いたのだが、国立大学も法人化すると、いろいろ考えねばならないことがある。
 博士課程の定員充足率が問題になっている。目安として定員の85%に足りていないところには、ペナルティがあるという。その観点からは、現実を見ようがどうしようが、進学する学生が増えることが大事だということになる。

 まあ、いつものやり方だなと思う。どの分野がいまどれだけの人材を必要としているのか、また、学生諸子が関心を持てる、もっと言えばある時間を研究なりに費やそうという覚悟をもてる分野かどうかということをどう考えているんだろうか。

 でももっと厳しく見れば、教育の成果としては、きちんと覚悟した上で進学することが望ましく、それで定員を満たすべきであるということなのだろう。しかし、それは現実を見ていないなあと思う。研究成果を挙げて研究費を稼ぎ、学生をきちんと教育し、大学運営にも熱心で、社会活動も行う。そんな立派な教員たれというつもりなのだろうが、わたしにはとっても辛い。どこかで気が抜けていないといけないのだが、それを許して欲しいっていう甘えがある。気を抜きたいなら抜いていいんだろうし、それは自分で決めることなんだけど、それが出来ていないんだな。と、いつもながら結局自分に帰ってきてしまう。

| | Comments (0) | TrackBack (2)

「やっても意味ない」ってどういうこと?

 学生と研究の話をしていると、よくこの言葉に出くわす。

 「それはかくかくしかじかだと思われるので、やっても意味がないのでは?」

 研究ってそもそもなんだろう。「かくかくしかじかだからこうなる」ということを探すことであって、「思う」ことだけでなんかないはずだ。

 どうも皆さん首尾よくやりたいという想いが強すぎるのか、うまく行きそうなことだけを選んで実行する。そういう態度だと、行動すべきことはかなり限定されることになる。結果、じっと座っていて、調べものばかりして手を動かさない。大体、ろくな経験もないくせに、そんな判断なんてできないはずなのだが、なぜか自分の感性に自信があるようだ。自分の感性を説明して満足している。どうして、自分の感性に疑いを持つことがないのだろうか。そして、もっと問題なのは、こういう人が大学院に溢れている。それはなぜなのだろう。

 試みは、どんな結果であれ失敗ではない。それによって、思い込みを覆すきっかけになるのだ。感性という名の先入観によって限定されていた自分の視野の狭さに気付き、さまざまな可能性を考えていくことができる。どうしてそれを否定的に捉えるのか。結局、「勉強をしていい会社に入れば、残りの人生安泰」なんていう、持たざるものの愚かな発想としか思えない。面倒なことはしないほうがいい。そのために勉強してきたんだ、といわんばかりである。

 勉強はきっかけであって、それが人生を楽にするものではないことに気付かなければ、大学院なんて行く価値はない。そんなものに騙されるほど、世間は甘くない。

| | Comments (2) | TrackBack (0)

優しく育まれる

 ここに並べている小難しくて無意味そうな議論が、科学研究に勤しもうとする若者たちに混乱をもたらし、やる気と覚悟を阻害することになっていたら、大変申し訳ない。研究や教育をわたしにさせる内的な考えは、ここに書くしかないから書いているのであって、皆が受け入れてくれるかどうかは別問題であることは理解している。今になって、ずるい言い方かもしれないが、そんなことは自分で考えていただきたい。(ただし、このことには少しばかりの注釈がいるので後述したい。)

 今一度、このページの意義について触れたほうがよさそうだ。もともとこれは、学生に公開するためのものではなかった。わたしが教員生活を始めるに当たっての覚悟と、父の死によって問い直さざるを得なかった問題をあからさまにすることだった。それを独り善がりではなく、他者に理解してもらえるように意識して書くことを第一義とした。独善的な日記は以前から書いていたが、それは人との対話を求めたものではなかった。自己満足に過ぎなかったから、それを乗り越えたかった。つまり、それに対する共感が人と得られたら、という甘い考えを持った。しかし、未だ成功していないようだ。

 ここの一連の文章を読むと、あれこれ詮索し、執拗に思考している人間でなければ研究者になれないなんて言っているように聞こえるだろうか。そんな意図は無いとしても、しかし、もう少し考えてみて欲しい。研究はその本質において、決して人間関係でできるわけではない。孤独に時間を費やすことに躊躇のない人たちがすることなのだと思う。思索と実行が相俟って、初めていい仕事ができる。このことに気付かなければ、この業界ではあまり浮かばれないだろう。そんな人を沢山知っている。学業の成績がいいからといって、この世界で成功しているわけではないことくらいは、皆承知のことだろうが。

 そして、わたしは思い込みが激しすぎるのかもしれないけれど、研究者として生きていくということについて率直に問わずに、この仕事を続けることは難しいと思っている。だから、その思いをここに綴っている。だから、こちらも合わせて見て欲しいという気持があった。しかし、それとは無関係に皆さんがわたしに期待しているのは、いい研究をさせて欲しくて、いい結果を得たいということ、そしてそれをするための指針(なにを具体的にするかの決断まで含めて)とスキルを教授して欲しいということなのでしょうか。でもそれだと、人が呉れたテーマで格好をつけて、試薬を混ぜて何かの結果を得るということだけではないですか。

 大学生の頃、実家のそばの自動車学校に通ったことがある。そこはやかましくて、入校したてから最終的にしなければならないことを要求されていた。そんなこといきなり言われても、できっこないじゃないかと不満もあったが、結果的にはよかったと思えた。
 研究指導についても、いきなり性急に高いレベルを求めても仕方ないが、目指すのは自主的に考えて行動できる研究者だと思っている。わたしはかなり自立的に生きてきた自負がある。だから、頑固だと周りに言われようと自分の考えを貫いてきた。そんなわたしは、皆さんと比べても研究に関して格段の経験の差がある。その事実はかえられない。しかし、皆さんは、そのことを無視しても構わない。ただ、そうするなら、自分で結果を引っ張ってこないと駄目だ。そのときには、わたしは責任は負えない。わたしが学生の頃は、結果がでそうにないときには先生に言われたことは実行して駄目だしをし、他の方法で結果が出せそうなら無視して思うが侭にやった。そうしてくれるとうれしいんだけど。


 ある人から、「君は、生活の問題と、仕事の問題と、人間の問題を、すべて一元的に考えすぎている。」といわれた。なんでもかんでも統一的に考えすぎているというのである。

 これは仰るとおりだ。無自覚ではあったが、それがわたしのスタイルだ。わたしにとってみれば、全ての問題の根源は、ただ幸せに生きたいということだけになる。だから全部そこに還元できると思っている。

 そういうと、「みんなはそうではないよ」と返すのだろう。確かにいつぞや、事務の方と話をしたとき、「先生方は、生活と仕事が不可分になっている。」と言われた。仰るとおり、寝ても覚めても研究。そんな競争の中に置かれている。そんな生活の中で、楽しいことと楽しくなくてもいい事を分けたりしていると、それぞれに割ける時間が限られてしまう。だから、それらを一体として考えたとしても、それがそのまま楽しさとか幸福感につながるようにしてみたいと思っていた。アフター5は研究ではない生活。そんなものが可能なのだろうか。それでいて一流の仕事が出来る?一人身のわたしには想像が出来ない。まあ、今は教育とは何かについてを寝ても覚めても考えていて、研究はろくにできていないのだが…。

 もちろん、一流の仕事なんてしなくていいのだと割り切ってしまうのなら、それも一人生。ただ、それなら、なぜ研究なんてするのか。若いうちからそんな低いモチベーションで研究者になる意図がわからない。生活を大切にするなら、もっと他の仕事だってありえるじゃないか。この仕事での経験を重ねて生活の大切さに気付くならわかるのだけれど。その意味では、もう研究も大衆化した仕事なのかもしれないなと思う。普通の生活の上にのっかるなにかに過ぎず、高い知性を要求するという優等生にうってつけの自尊心を与えてくれ、せいぜい運がいいと大当たりするかもしれない仕事ということか。でも、僕には相変わらず、生活を大切にする上に、研究にこだわる理由がよくわからない。それってなんだか欲張りだなって思う。まあ、一流でなければとか、なんでもわかろうとすることとかの方が、極端すぎる考え方なのだろうけれども。それでは、あなたはなんのために生きているのか。なにかのためではないっていう言い方はかっこいいけど、だったら反語的には、こだわりなく一生懸命何かを求めてみる事だって、なにかのためではないんじゃないのか。だから、それは理由にはならない。

 でも、これだけ「わかる」ということを大切にしている仕事において、それって無頓着すぎないだろうか、って思いますが、どうでしょうか。もちろん急かすつもりはないけれど。


 大学に移って2年。学生さんたちとの対話は、思いのほか進んでいない。学生さんにこころを開いてきているとは思うのだが、それだけでは足りないらしい。彼らからするとわたしは屈折しているらしいのだが、それってどのあたりを指して言うのだろう。素直じゃないってこと?

 屈折した視点というのは、多分、普通にただ感じること以外の事を提示するわたしの性質を現しているのだろう。この意外さは物事をいろいろの側面から見ようというわたしの意思である。物事のさまざまな側面に思いを致し、いつも頭を働かせている。そんなことしても意味ないんじゃない。そう言われることは多いし、実際に意味がないことのほうが多い。でも、時々面白いことが起こる。意外なところから、問題が解決することが実際にあるのだ。

 「だからみんなもしたら」なんて言わない。良い悪いなんていう価値観で、わたしのことを評していないのだろうと思う。

 心の内面を語ることに意義があるのかどうか。なんにしても極端はよろしくない。ここに書いていることは、わたしが特殊である事を示しているだけなのか。

 長期的に構えていけば良い問題というのがある。今すぐ対処する必要がないかもしれないと、余裕を持って考えられるような問題である。しかし、着実に積み上げていかねばならない。片時も忘れてはならない。

 そのことが辛いと感じられるとしたら、それは覚悟がない。


 科学研究と大学教育の問題を今一度考え直してみたい。今や、西洋的思想と東洋的思想の渾然体としての日本社会の特殊性があるように思う。わたしは、科学研究によって西洋的思想を多分学ぶことができた。一方、東北の田舎出身の両親に育てられたし、東洋的価値観も深く私の心に染み付いている。その二つの価値観の狭間に立って、現実の複雑さと面白さをわたしは感じている。

 シンプルに生きていると称する人たちからは、わたしの考え方の一部は、窮屈で平穏でなく楽しくないものとして映るらしい。しかし、それは偏見である。わたしの心の内の楽しくない部分をのみ抽出し、お前はもっと楽に生きられると言ってくれる。こういうことを言う代表は母である。母はシンプルに生きているなんて言っていないが、そのくせ、子にはそれを望んでいるようだ。

 しかし、わたしも母の生き方には、わたしなりの意見を持っている。それを言うと、厳しいといって涙を流す。しかし、母自身の私への指摘の中に、私にとって厳しい意味は含まれていないとでも言うのか。自分が出来ないことなんて、山ほどあるということくらいわたしにだって分かっている。思いやりと称して直截的に言うこと。それは厳しさではないのか。そして、思いやりのなさではないのか。

 それでは直截的なことはいけないのだろうか。切磋琢磨という言葉を信じて使うなら、それは構わないことである。わたしは、どちらでも構わない。しかし、便利に思いやりを使っていて、自分が言われると悔しかったりする人には、一言申し上げたくなる。その「思いやりのある」発言は誰のためなのかと。

 人を圧倒せず、しかし着実に成長しようと思える環境作り。それは不可能ではないと信じる。しかし、それを創ることが自分の求めるものだったのかどうか。立場上求められるなら創りましょう。そうすることがその場において楽しいことだと思えるから。ただ…。

 わたしは実はとても欲深い人間なのだ。このくらいの面白さでは、まだまだ満足できない。だからこそ、不満も言う。この全知全能に向けた深い欲があるからこそ、わたしは、今ここに立っている。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

偶然に翻弄される研究というお仕事

 ある学生と話をしていたとき、最近になって、うちのラボの成果が徐々に上がってきている理由についての話題になった。彼は、それはたまたまで、偶然なのだという。でも、一方で自分の培ってきた才能は疑うこともなく、実力で得たものだと考えているのだろう。

 われわれの研究は、ゴールがとても明確である。対象の試料をある物理化学的状態(以下、C状態という)に持っていき、物性を調べる。しかし、C状態を実現するのが全ての試料で可能かというと、そういうわけではない。だから、多くの試料でC状態を実現しているのは、単なる偶然の産物と結論しているらしい。

 それを聞いて、とても寂しくなった。わたしは成果を得るために、それなりにいろいろ考えてきたつもりだった。しかし、彼はそれをあっさりと否定してくれた。

 われわれの当面のゴールは、確かにある特定の対象のC状態の物性を調べることにある。しかし、それは究極の目標ではない。その物性を知り、対象に迫っていくことが大切なのだ。その意味では、物性を知ることは通過点に過ぎないのである。また、もっと言えば、C状態を実現する間に見えてくるさまざまな性質を見出していくことも、とても重要なことなのだ。

 研究者は成就しがたい研究をするという如何ともしがたい運命の下にいて、成果を得たものは幸運なのだという考えは、成果が上がらない者にとって、不安から遠ざかるとても便利な考え方だ。自分の甘えを研究の困難さにあてがって平然とする。

 なにかが出来ないということを証明するのは難しいが、出来ないのではないかという不安の中に自らを置くのは辛いことである。そのことはわかる。研究テーマの選定は難しい。今出来なくても、5年後にはできることもあるだろう。そのとき、すぐさま対応できるためには、5年間を辛抱する必要がある事だってある。

 このことこそ、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の意味である。これは、人生のある時間をそのことに限ってみる。つまり覚悟である。

 ただ不安におののくばかりで、前進する強い意志がない。やっても仕方がないのではないか。どうせ無理なんじゃないか。そんなことの繰り返し。

 そこで、C状態を実現するために研究をしているのではなくて、C状態が実現できないことを証明するために、研究をしているとしたらどうだろうか。とふと思う。とはいえ、そんな研究をしたい人はいないだろう。ただ、そういう視点の逆転も必要だということだ。

 また、人への感謝の視点が欠けていると感じる。偶然の産物であると言い切れる背景には、ただ自分と対象物の関係だけがあるという気がする。つまり、それがもたらすことには目も呉れない。だから、失敗しても、それは偶然の所為。僕が無能なんじゃない。そう言いたいのだ。あくまで、失敗は天に委ねる。成功は僕の能力。そんな甘い想念が背景に見え隠れする。

 最後に。これでもわたしは、人を見てテーマを与えているつもりですよ。偶然を否定しないけれど、ちょっとは考えてね。それに、これだけ結果が出ているのに、それを偶然だけだと考えるのはちょっと甘えているんじゃない?現実を正しく見ないとね。


 研究が進まないのは、自分の未熟さか現在の技術では不可能なことに挑戦しているかのどちらかであるが、後者であるのだと思い込めるうえ、その不可能を可能にする研究をしようとはしない能力に、敬意を表したい。わたしもそんな人間に生まれたかった…。まあ、そのエネルギーは自己顕示だけなのかもしれないが。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

理系の気質

 身の回りの理系人間というと、大半がスペシャリストとしての位置づけになっているように思える。スペシャリストとしての立場に安住しジェネラリスト的な生き方を否定的に捉えているのではないかと思える節がある。正直言って、研究に適性がないと思えるのに(もちろん、他のことに適性があるという意味だが)、なぜか研究に固執する。そんな人が数名思い浮かぶ。彼らは優秀だし、理系の知識と考え方を学習したのだから、それを利用して他のことをしたらいいのにと思えてならない。でも、なぜかほかの事に関心が持てないようなのだ。

 わたしが学生の頃と比べて、最近の学生は垢抜けていて、文系の学生たちと見かけの上ではそれほど変化なくなってきた(ちょっと褒めすぎか?)。しかし、上のような考え方は決して変化していないように思う。むしろ、バブル期に学部を卒業した僕らの頃のほうが、金融に行ったりするなど、必ずしも専門に縛られなかった。まあ、これは企業側の意識の問題もあるが…。

 その一方で、世間が持つ理系の人に対する意識もあながちおかしくはない。そもそも、科学技術立国などと言っておきながら、世間は科学の成果などに関心は低いし、理系の人間を偏った者たちと考えている。企業が学位取得組の採用に二の足を踏む理由として、専門を超えて幅広い関心を持つことができない点が指摘されている。これは、いつまで経っても、スペシャリスト止まりだということだ。実際は、そうでもない人が増えつつあるのは幸いなことだが。


 理系の人間はある程度知識やスキルがあって優秀なのに、限られたこと以外に関心が低いのはなぜだろうか。これは、日本人の仕事観にもあるのかもしれない。なぜ大学に進むのかというとき、多くの人は仕事との関連になる。もちろん多くの教育機関は、そのような人材を輩出するに当たり、職業人としての意味を考えている。

 こんな職業意識の上で、技術とかスキルとかに関心が高く、哲学とか心とかの問題に関心が低い(ように見える;あるいは忌避している)理系の人間の気質をどのように解釈したらいいだろうか。

 自然科学的な事象というのは、人間の内面や人間関係とは無関係にある。だからこそ、それが意に沿わなくても、不思議に思わず、受け入れるしかないという客観的な姿勢を維持することができる。物に意図は無いと理解しているからかもしれない。

 しかし、いざ対人関係となるとどうだろう。自分が受け入れられないとか、分かってもらえないとか、人に認められたい、気を引きたい、操りたいなどという感情が不思議と湧き上がってくる。これは、やはり他者からなにがしかを受け取りたいという感覚との現実との乖離を嘆く、つまり甘えであって、対物関係にはありえないものである。ここで、「甘え」という言葉を否定的に捉えないで欲しい。あくまで、現実の解釈のために導入した語である。

 自分の意図どおりにならないという点では、対人関係も、対物関係も、なにも変わるところは無い。それなのに、なぜ、一方を志向してしまうのだろうか。一般的な理系人間に関して言えば、なぜ彼らは物に向かうことになるのか。どうして、対人関係をもっと客観的に捉えることができないのか。

 また、自然科学の事象は人によって解釈され、それが言語化され、伝達される。そうであるのに、事象の解釈さえも、無矛盾な体系であると信じ込まされている。確かに、多くの人に批判され検討されるので、無批判な事象とは比べようも無く強固な体系であるが…。いずれにしても、無矛盾な科学観を当てにしているとすれば、それは誤解である(トーマス・クーン『科学革命の構造』)。研究者として自分が問うべき対象や問い方というものについての自覚が不足していると思わざるを得ない。一時的に信じている約束事であるという事実は、科学論の成果であるが、そのことを理解している理系学徒は少ない。意外に気まぐれなのが科学なのである。

 そんなわけで彼らの一部が頑固なのは、こんな対物志向性とはあまり関係が無いはずだ。であるなら理系人間の頑固さはどこからくるか。それは、自分に自信があるからではない。寧ろ他者に攪乱されるのを恐れているのだ。だから多分、他者の意見や見解に対して素直に聞いてみたり、自分と対比させてみたりするような余裕が無いのではないか。しかし、そんな彼らも無矛盾な体系である自然科学的アプローチには疑義をさしはさんでいる様子は無い。これは有無を言わさず受け入れなければならないことだと思っている節がある。このアプローチを絶対無二のものだと思い込むと、情緒的な意見などは無価値なものだと一蹴されてしまうかもしれない。

 だから、想像力を働かせるということが当たり前にできない。物事を柔軟に考えてみる、思ってみるということを限定的にしかできないということに慣らされている。例えば現象はこの式によるのだから、これしかなくて、ほかはありえないのだとか。しかし、展開が見えると、一気に能力を発揮する。推論・演繹のセンスは高くて、その点はすばらしい。

 数学や物理が怖い生物屋が沢山ラボに入ってくるが、理系ならそのくらい出来るだろうこと(でも、今日明日に出来るなんて誰も言っていない)なのに、簡単に辟易して、諦めてしまう。そうやって、狭い専門の中に埋没してしまう。確かに、究極的に何かを成すというのはどんな分野でも難しいことだ。だけど、自分にとって必要なことは頑張ればなんとかなるんじゃないか。頭が良すぎて却って、リスクを回避する。それは、総合的な力を失わせ、最終的には企画力の欠如をもたらす。なんでもかんでも考えてみようとか、やってみようという貪欲さがあると、もっと楽しいのだが…。もう一歩踏み込んでくれたらいいのに。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

プレゼン考

 最近発表練習を見ていて、いろいろ思うことがある。それぞれの思いは伝わってくるが、そもそもプレゼンの意味は何か。思いを伝える場ではない。その意味において、プレゼンテーションのうまさと研究の価値は全く関係がない。価値があまりなくても、そこそこのプレゼンは作れる。それについて考えてみる。

 まず、人の結果をうまく使う。聴衆の大半は知らないのだから、そこを利用するのは簡単だ。ただ、それは場面を理解していないと使えない手立てである。極端な話、結論さえも持って来たって、大学の修士の発表くらいならこなせてしまうかもしれない。でも、そんなのは詐欺です。ただ、類似の結論になってしまうことはたびたびなので、そんなときは楽かもしれない。楽が良いかどうかはともかく。

 予め人の意見をよく聞く。プレゼンの受けは、自分では分からない。だから、事前に多くの人に聞いてもらって、問題を明らかにしてもらった方が得である。だから、発表練習であまり中途半端にしてやっておくと、いい結果にならない。本番前にどれだけ準備しておくか。それが、うまくやるポイントの一つであるのは間違いない。とはいえ、これも歳を増すごとに、だんだん使えなくなってくる手立てである。

 しかしながら、もっとも大事なことは、論理的裏づけをきちんととって、流れを組み立てるということである。結論から逆算して、起点を設定する。起点は必ず皆が同意できる問題から。そして、結論に至るまでに前後のつながりを重視して、混乱を招く余計なことは差し挟まない。情報を加えすぎると却ってわかりにくくなる場合がある。ただし、加えなければ疑義を生じるような情報や論理を補強するような情報は付け加えなければならない。そして、その研究分野で当然示すべき情報は加えなければならない。何か当然なのかは、自分で判断する問題ではない。日頃から他の人のプレゼンを意識して見ておいて、自分のプレゼンに反映させよう。そして、万が一迷いや疑いがあったら、それは排除する。それは推察とは意味が違う。推察は推察で構わない。結論を支援しうるなら加えて構わない。

 図は見やすく。センスよく作るのは効果はあるが、わかりにくいのでは意味がない。きれいな絵を描いても、ラベルも含め、必要な情報をきれいに配置しよう。それをサボるとわからない。聴衆はあなたの絵画作品をみたいわけではないのだ。

 これらの心は何か。とにかくわかりやすく人に伝えるということである。これはコミュニケーション能力なのだ。と書きつつ、普段からコミュニケーション下手なわたしには、どれもこれも難しいことだった。でも、最近はすこしずつ慣れてきたけど…。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

拙い英語

 意外にみんなわかっているんだな。先日の英国の某大学とのワークショップで講演したのを、学生さんたちが見ていて、ポジティブな評価をくれたというのだ。

 わたしは英語が苦手である。中学校で初めてそれに触れたとき、全く意味が理解できなかった。意味の同じ別の発音の何かがあって、そして文法も異なる、英語という言語があるなんて。いや、そんな風に捉えることはできなくて、いきなり赤ん坊に逆戻りさせられた感じだった。あまりに分からなくて、最初の中間試験のとき、とんちんかんな質問をしてしまった。そのとき対応した英語の先生の冷ややかな表情と言葉は忘れない。

 試験は覚えれば対処できるから、そこそこの点をとることはできて、及第ではあった。しかし、ぜんぜん判った気にならないのである。そうこうしているうちに、高校に進むが、全く改善しない。それでも試験は及第で、危機感なく受験を迎える。

 そんなわたしであったが、発音については、中学校以来「よろしい」という評価をもらっていたので、わたしが英語が得意だと他所様は勘違いするらしい。そういう評価を呉れる人については、単なる人伝か、その人自身も英語を得意でなくてわたしのまずさがわかっていないかのどちらかなのだろう。

 わからないのいうのは、解読すればわかるにしても、即興的にわかるということとはどういうことなのかという問いだった。わたしにとって意味の体系というものは、秩序だって構成されていて、言葉の理解によってサポートされたものである。理系だったが、国語の特に現代文の読解力や思考力は褒められていたし、社会科も得意だった。それらはとても興味があったし、理解を積み上げていけばいいと思っていたから、着実な手合いであるわたしには、無理がなかった。

 でも、英語はなぜかわからなかった。よく、英語で会話するには英語で考えなければならないという。わたしの考えはすでに日本語の意味と構造に囚われていた。だから、それを離れて考えるということができない。

 ところで、最近速読に興味を持ち始めたのだが、それは大村はま先生の言葉が引っかかってからのことである。子供に黙読を教えないと、早く読めるようにならないというのである。本を読んでいて、ついつい声に出してしまう。声に出さなくても、声帯が動いてしまう。そうしていると、絶対に早く読めないというのだ。そういわれてみれば、英語の文章を読むときには、声帯が動いているようだと気がついた。日本語の本を読むときはあまりそんなことはないのだが。これが、英語を早く理解していくのを阻害していたのではないかと。本を読むという行為と、何かを理解するということは、間接的につながっている。理解するときには読むだけではなく、聞くということも含まれている。言語の理解は、「聞く、言う、読む、書く」が相まって進んでいくのだろうから、どれかの進度が遅れてしまうとバランスを欠くのではないか。まあ、私の場合、どれも停滞していたのだが…。

 まあ、そんなわたしに英語を使わねばならない状況を与えたのは、そもそもはやはり研究である。海外での発表、あるいは国内での英語の発表などがあるたびに、戦々恐々としたものである。英語であれなんであれ、講演というのは、内容に関する理解と自信が表れてしまう。研究にかかわっていて、実績としては自信があるものの、そのことを理解してないような仕事があった。それについて2度も英語での講演を求められたのである。案の定、どうしようもない講演だった。内容の論理的な流れについても、必然としての展開として捉えられていなかったのだ。

 言語学習は技法取得ではあるのだが、対人関係の技術が含まれている。こうやって、文章を書いたりしてみることも、そういう技術が含まれうる。なぜ意見を表明しなければいけないのか。また、意見を表明することの意義は何なのか。その観点に立って、なにかを伝えていこうという意思。それこそが、このことの本質なのである。

 いいかたちで終わらせたい。そんな風に講演を捉えてしまうと、聞いている側も苦痛である。別に人のいい格好を見たいわけではないのだから。心から表れていない言葉は伝わらない。

 だから、原稿を読んでしまうと、言葉に力がなくなってしまう。そのことは聞いているとよく分かる。まあ、初めのうちは仕方ないのだけど、時間に余裕があるなら、全部覚えて臨みたいものだ。

 留学生のお嬢さんのお陰もあって、コミュニケーションしなければならないことの必然もあって、なおのこと、語学学習がコミュニケーションであるということの本質に気づかされる。初めから首尾よくやろうなんて思わないことだ。

 今回の講演も、緊張がほぐれない初めの数枚のスライドについては原稿を用意した。しかし、調子が乗ってきたところで、自分を追い込んでみることにした。拙いけれど、自分の言葉で話そうとしたのだ。それが功を奏したかどうかはわからない。しかしまあ、自分の実力くらいの講演になったと思うし、そのことはもっと勉強しなければと思うきっかけとして使うしかない。まあ、実力がないんだから、後悔もできないというのが正直なところだけど…。質問にもう少しきちんと答えられたらと思いながら、それはいつの日だろうか。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

研究と論理

 研究を行うにあたって欠くことのできないもののひとつに論理性がある。日々の研究結果の解釈や論文を書くのに必要だ。これは研究に限られず、お仕事一般、もっと言えばよりよい生き方に繋がるとても大事なものだと思っている。

 なぜ大事なのか。論理とは、社会・言語を超えた推論の共通ルールである。三段論法や命題の逆・裏・対偶などの基本的な事項は、みな知識として知っているだろう。論理を使うことで、既知の公理・定理を基に、新しい事実から結論を導き出す。こうやって、新しい事実を分析・解題して、受け入れていき、対処していく。この推論のルールは共有されていて、疑いないものである。だから、この方法のもつ意味は研究に限られない。このことを受け入れない人はいないと思う。受け入れない人がいたとしたら…。そんな環境を放置してはいけない。頑張って説得するか、さっさと退散しよう:-)

 とはいうものの、現実はそんなに甘くない。新しい事実が目の前に現れたとき、それを分析して、論理推論の連鎖に乗るように翻案していかなくてはいけない。例えば、うまくいかない実験結果が目の前に現れたとき、要するに実験がうまくいかないとき、どう考えたらいいだろうか。

 まったく情報がないときには、すべての工程が怪しいということになる。それは等確率で疑わしいわけである。試薬の配合を間違えた。試薬が古かった。手順を間違えた。いろいろあるだろう。それを一つ一つつぶしていかなければならない。各工程で確認するというのも重要である。それによって、それ以前の工程に問題がないことが保証される。対照実験によって、保証するのも賢いやり方である。

 また、推論に使われる既知の公理・定理としての既成事実の確度は問われるべきである。Aさんがこう言っていたとか、ある本に書いてあったとか、そういうことにこだわりすぎると、正しい推論ができないこともある。

 そのほか、背理法などの論理構築のテクニックも、とても大事だ。

 あんまり論理を操るのが得意じゃない人は、野崎昭弘著「詭弁論理学」・「逆説論理学」(中公新書)あたりからトレーニングするといいかもしれない。とても楽しくて読みやすい本です。また、論理は数学的思考の基礎です。数学初心者はこの際、井関清志著「集合と論理」(新曜社)を一回読んでおくと数学の基本概念が抑えられます。ほとんどの大学の教養課程で教わるのが解析の基礎と線形代数でおしまいなので、数学的な考え方の基本が学べないようにも思えます。わたしは数学屋じゃないから偉そうには言えないけど…。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

研究と心と

 皆さんは、自分の心を大切にしているだろうか。わたしは、あまり大切に扱ってこなかったように思える。何かを成すために、ある部分を犠牲にすることは、多かれ少なかれ皆行っていることだろう。しかし、それが行過ぎると、どうなるだろうか。

 大きな仕事を成した人物の実生活が荒廃していることは、しばしば耳にするところである。果たして、それが彼の望みだったのか。われわれが望んでいるところのものは何なのか。

 皆、多くのものを望む中で、さまざまな問題を放置したまま生きている。放置なのではなく、諦めてしまっていることも多々ある。諦めると、滅多なことではその気持ちは戻ってこない。

 そして、それを諦めたことがもたらす影響の大きさに気がつかないことが多々ある。


 知識を得るためには魂も売るというファウストの例を引くまでもなく、研究に没頭するには、なにかを引き換えにしなければならないと私は考えていた。自分には先天的な能力があるとも思えず、その代わりに、後天的な環境を自ら構築して進むのだと。不要なものはそぎ落とす。そして、その覚悟を周囲に見せ付けて脅かし、競争者を減らす。なにかを喜んで選ぶということではなくて、覚悟し制限するということだけが、わたしにとっての自由になっていたように思える。

 満たされていない心の部分を持ち合わせたままでも、成果が挙がることで、日々充実しているように思えた。虚しさはないような気がした。

 しかし、父を亡くしてみると、父が私に残した印象と、父の勤めた会社の同僚たちの印象との食い違いを見せ付けられた。家庭や妻を顧みることが少なかったにも関わらず、会社での高い評価を聞くにつけ、一体そんな仕事上の成果とかなにかというのは、絶対的なのだろうかと思えてくる。これは父の気持ちを汲めなかった私の後悔から来るのかもしれないが、両親の離婚によって生じた家庭内のさまざまの問題とは大きく違って、それはそれで充実しているように思えた。

 現実を生きるのには、回避できない多くの問題があることは間違いなく、それに忙殺され日々が進んでいく。そうやって生きていきながら、ある人からは評価され、他方からは評価されない。そんな、他者からの評価ほど当てにならないものはなく、そしてそれに惑わされる自分を見るにつけ、自分を見失っているようにも思えてくる。

 しかし一方で、われわれは他者との関わりぬきに生きることなど叶わない。そんな狭間の中に置かれて、それでも生きていくために、人のためになることを夢見ている。


 多分、そのさまざまに思う時々で、自分が望んでいるものも変わっている。過去や周囲に影響を受ける。金が入れば、名誉が欲しくなる。ある立場を手に入れたら、他が欲しくなる。そんなことの繰り返し。

 わたしも今となってみれば、そのあたりの機微がわかってきて、人のことを褒めたり、貶めたりすることほどつまらぬものはないと思えてきている。しかし、こんな風に哲学めいたことを考えることだけは譲れない。思考停止に陥ってしまっている輩たちをなんとか救済したい。このことを無視して生きると、つまらないし、苦しいのに、それでも諦め他の可能性を探っている者も居る。

 回避している人間が居ることは承知している。そんな輩は研究者でさえ五万と居る。そのなかからも、それなりの仕事をする輩は出ている。だから、そのことの問題に尚のこと気がつかない。研究者とはそういうものなのだとも。

 そのことは寂しいが、一方で、そんな覚悟から無縁の輩が発生しているのに驚いた。今年の学生たちの多くはどうもそうらしい。

 彼らに覚悟なんてないように見える。これから進む道の不安をおくびにも出さない。あまりに意外だった。これが豊かな時代の申し子なのだろうか。そんな風に思えた。


 思考停止や対人関係停止。そんな諦めを持たないで欲しい。大学院なんて、臆病な人間たちが集っている場なのだから、遠慮なくそれをさらけだして構わない。そのことで君たちを責めたりしない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧