人のため―思い上がり?

 1日24時間しかなくても、頑張ったところで一人生あたり100年くらいしかなくても、我々は生きている。
 人の上に立つ前は、焦ることなく着実に使えていた時間だったのに、ここ暫くの急いた気持ちは何だ。柄にもなく、人のために生きようとしている自分に気付く。

 独りなら覚悟して選んできたはずなのに、人のことを考えたときから、これもそれもあれもどれも気になって仕方ない。そんなの分不相応なのに。しかし周りが期待しているかのような錯覚に落ち、自分のために時間を使う術を持たない自分の未熟さに、われながら呆れてしまう。

 世に生けるさまざまの人を見、こうしなければならないなんてことはないと得心する。ひとそれぞれが、それぞれの場面で努力している。それぞれの思いで。

 ただ、自分の思いだけがあり、それだけの人生だったかもしれないのに、ここまで人を意識することになるとは。人を掻き分けて進んでいき、人を巻き込んでいき、感謝されたような気になり、感謝されなかったり。

 そんなことに翻弄されて、折角与えられた時間を、うまく使えない自分を悔しく思う。これなら、長い時間を生きたとしても、つまらないことしかできないだろう。幸運を恃むしかないという無能さをさらけ出した生き方。それだけは避けたかったのだが。結局、使われるのがオチなのだろうか。

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人を売り、自分を売る

 このページの所在をついに母に告げた。書き始めた当初は、とてもこんなものを書いているなんて言えなかった。内容を読んでみると分かると思うが、自分や家族を晒すむごい文言が展開している。こういう所業を精神医学者の中井久夫先生は「人を売る」と表現した。他人としてこれを読むなら、大したこともない他所の家を覗くような好奇心くらいで、軽くしか見ないだろう。しかし、ここで晒される人のうち、これを受け入れられない人も大勢いると思う。実際、この内実をWeb上に晒すのには勇気がいったし、それを身内に告げることなんて猶のこと恐ろしかった。

 そうではあったが、こんな行為を黙って続けることが私には不誠実に思われた。そして、書き連ねるうち、これも全て運命であるとともに、わたしが自らの意思で引っ張ってきた結果なのだと思い知った。許してもらえなくとも、これ以外に私の所業はないのだから、この現実を母に知ってもらいたいと思った。今私がここにあるのには、さまざまな人との係わりあいで気付かされ、それに基づいた私の決意があるのだと。それは決して単に自由な係わりや選択ではない。

 しかし、そんな私の勝手な行為を母は許してくれた。これも運命なのだと諦め、そしてこれが次の展開になるならと認めてくれた。そして、私の考え方は母のそれと似ていると。損なところは似なくていいのにと言った。


 自由に思い通りの人生を歩み続けている人はほとんどいないだろう。幼いころからそれに気がついてはいたが、思い上がりもあった。自分は、静かに封建的なルールに則って、ゆっくりと自己実現していけばいいと思っていた。しかし、着実すぎたようだ。もう気がつくと30代も後半に。やりのこしていることが山ほどある。

 わたしってなんなのだろうか。都合よく自分の目指すものを取捨し、挫折感を軽減してやってきた。しかし、他者との係わりだけはやはり困難な課題だった。

 知を振りかざして、そこにすがって他から逃げ遂せた。たった一つのことだけ目指して生きてきたが、それを覚悟といえばそうである。そのさまを他者と自分を題材にして書き、覚悟、覚悟と学生諸子へ押し付けている。しかし、その根拠はわたしのこれまでの生き方であり、今ここにあるわたし以外にはない。

 とはいえ、押し付けは詩であり、それが小説の基本になければ一流にはならない。という意味の言葉を辻邦生先生の本(「言葉の箱―小説を書くということ」)に見出した。だから、こんな風に自分の葛藤をさらけ出すことも、他者との係わりの一つのやりかただと知って、安堵させられる。こだわりなくなんでもしてみることと、それと格闘し生きることの意味を見出すこと、それを手に他者と係っていく。そんな方法でいいだろうか…。

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分からないことへの畏れ

 本に書かれていることや人の話していることが分からない納得できない。そのこと自体はよくあることだし、不自然ではない。その原因は簡単で、自分が分かろうとしていないのに、分かるわけがないということだ。
 では、分かるということはどういうことだろうか。分かりたい対象をあちらにおいて、離れた位置からそれを眺める。お勉強とは大体それにあたる。それは、対象に膚接しない客観的なアプローチである。でも、一体化せずには分からないことも世の中たくさんある。表面的に見えることだけで全てを捉えることはできない。客観的分析とは、自分の想念や感性に基づいているのに、そこから構築した論理の正しさだけで、それを分かったと言っていいだろうか。
 といっても、理解するために膚接する覚悟なんて、簡単にはできない。そんなふうに深く係るということは、自分の時間を犠牲にするということだ。限られた時間を割く覚悟。自分の人生の一部をそれのために費やす。それが出来なければ、分からない部分は必ず残る。
 分かったほうが楽だから分かりたい。そんな安易な気持ちで理解しようなんていうこと自体、リスクを回避した汚いやり方だ。自分は有能だから、わかる。それでいいって?思い上がりも甚だしい。

 だから、時間を共有していない分からないことに対して敬意や畏れを抱くのは当たり前のことだ。そのことをどうして素直に受け止められないのか。
 素直な感情を表現したら負けになる。そう思い込んでいる人を見かける。彼らは急かされて、結果を求めることになぜか躍起にならされている。時間が足りない感じ。それは、現実認識と本当の現実とのずれだろう。求められているものに誠実であろうとすれば、ひねくれてもみたくなる現実に直面する。でも、それでいいのか。それを解いてくれるのは、やはり素直になれる人との出会いだろうし、それによって見えてくる本当の世間ではないのか…。

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体の時代

 科学研究の時代だと思って研究者になろうと思ったのが中学生の頃。
 心の問題に時間を割き、心こそこれから問われるべきだと思ったのが大学生の頃。
 そうやって、その二面に現を抜かしてこれまでやってきたが、これこそ心技体のうちの始めの二つである。

 しかし、最近、疲れやすくなっている自分に気付く。中学生の頃(!)にやった運動部の筋トレの蓄積がしばらく効いていたが、やはり30を過ぎてからの体力の落ち込みは甚だしい。これまでどうにかごまかしてきたが、なかなか厳しくなってきた。最近いろいろ研究上のアイディアは浮かんできたが、実行に移そうとして、集中力が続かないのだ。

 ある雑誌で、村田兆治氏がこう述べている。

 「心、心っていうけど、体が健康なら気力は充実するんですよ。これからは心ではなく体の時代ですから」

 まったくもって、体の重要性を痛感する。そして、

 「筋肉痛になった後、気持ちいいでしょう。あの爽快感を思い出して欲しい」

とある。確かに。なんで気持ちいいんだろう。

 やっぱり、運動することを考えよう。

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ひとそれぞれ

 「ひとそれぞれ」。この言葉の真の意味を理解するのは、意外に難しいと感じる。それを際限なく許せば、人を束ねることはできない。しかし、それを厳密に否定すれば、自由がなくなってしまう。

 この相反する方向性を超えるには、時間軸を導入する必要がある。臨機応変さである。恒久的に一定の価値の下で生きることはできないと諦めたほうがいいのか。

 「何事もバランスである。中庸が良い。」と、別のところで書いたが、これもまた難しい。これはひとそれぞれの逆になる。とはいえ、これは統計的意味であり個人のユニークさを否定するものではない。臨機応変に対応してなにかを成した後、その極端な精神状態をもともとの意識に引き戻すことが大事だということを言っているつもりである。

 ところで、「ひとそれぞれ」という言葉を吐きたくなる場面として、経験豊かな老獪な人間の多弁さに若者が辟易するというのがあるだろう。今更、そのありようを認めるまでもないが…。これはどうしたものか。わたしもそんな経験をしている。押し黙って聞くだけだった人間が、いつしか多弁になる。


 これは、年長者にしてみれば、自分の考えを押し付ける、いわゆる自我肥大であるが、ユングはこの概念の形成を次のように説明している。以下は、あるサイトからの引用である。

 『無意識の現われを「自分に属さないものとして否定する」のと反対の態度は,「自分に属するものとして肯定する」ではないんですよね.このことを初めて知ったときは,かなり意外に思いました.さて,こうした態度をとった場合,自我肥大が起こるとされていますが,かといって「自分に属さないものとして肯定」した場合には,外化されて現実の神々が登場することになってしまいます.結局「自分に属しているけれども自分に属していないものとして肯定する」という矛盾した態度が必要になってくるわけですが,もはや普通の言葉では表現不可能ですね (^^) 』

 このことは実感としてよくわかる。無意識を単に肯定してしまうと、自分が神になってしまうということだ。さらにそこには無意識の意識化プロセスについて、こう書かれている。

 1.意識的な構えの偏り(?)によって、抑圧された心的なエネルギーが無意識に流入する。
 2.無意識に流入したエネルギーは、そのときの心的布置に応じた特定の元型を賦活化する。
 3.賦活化された元型は、自律的な性質を帯び始める。
 4.自律的な元型は自我意識にネガティブな影響を与え始める。このとき、自我意識が元型と一体化することは致命的である。
 5.元型を他者として扱い、理解することで、元型からの否定的な影響を除くことができる。
 6.意識化された元型は、自律的な性質を減じ、自我意識が自由に使える一つの機能になる。

 表現が難しいが、自分のケースについて敢えて極端に翻案すると、以下のようになるのではないだろうか。社会に生きて行くわれわれが、忌避したいことを如何にして受け入れていくかを段階的に書いた。もともとの意味からは違ってしまっているかもしれない。

 1.われわれは社会に生きなければならず、ためにしなければならないことがある。しかし、全てではないにせよそれを回避したいという思いが湧き上がる。
 2.したくはないけれども、それをしなければならないという思いが抑圧であり、それが強く意識される。
 3.その公民として社会に生きるという意識が自律的になる。それまでは、仕方がないという思いから発せられたものであった。
 4.しかし、したくないという思いと、しなければならないという思いの葛藤が起きる。自己欺瞞や自己嫌悪、自己否定などのさまざまな感情が湧き上がる。
 5.しかし、この義務感を達成するための自己を他者として扱うことで、現実的な対処を肯定的に受け止められるようになる。これは自分が社会に生きるために必要な表現形であると。
 6.そのような表現形にはもはや強い意識はない。あくまで、自分が生きていくために自分を利用するということなのだ。


 話を戻すと、教育において、人をある形に仕向けようと考え、そうすることがこの人にとっていいのだという思いが裏打ちされているとき、受け手はどのように反応するのだろうかという問題がある。そのことを判断できないからこそ、それを感性に照らし合わせ、いい感じなら受け入れようということになるのかもしれないし、嫌なら受け入れず「ひとぞれぞれ」とか言ってみたりする。単に便利に言葉を使っているだけかもしれない。

 しかし、そんなものなのだろうか。自由が全くないとはいわないが、それは受け手側の自由ではなくて、そのような集団生活の中にあって、それに協調していくという過程なのではないだろうか。それはここでいう元型が成長するということであろう。なにも、押し付けたからといって、その人間の本質が変わったりはしない。あくまでも、仮面(ペルソナ)の成長が起こって、内面と分離した形で表現形の変容が起こるのだ。それが社会へ適合する人間の成長であろうと思う。

 その意味で、「人が自分にないものを持っているからあなたを好きになった。そしてそれと係りあいたい。」という意識は、仮面の外在化であろう。あくまで、仮面との葛藤を回避するための戦略である。自分の中に構築された仮面があれば、本来そういう愛は発生し得ない。これは未発達な愛ではないかと思う。ある意味で甘えか。

 だからなのか、そういう方便って、わたしは好きになれない。それはただ、感性に運命に身を委ねた生き方じゃないか。もう、わたしは若くない。この年になると、そんなことくらいでは納得できない。とはいえ、もちろんその裏側をとってみると、やはり相手にも葛藤があり、そしてそれを受け止めて格闘しようという覚悟にも繋がる。それは成長であろう。
 やはり、その意味でも違うということは、離れて眺めるには面白く興味深いものなのだ。しかし、その違いと直面できるなら…。まあ、これは関係性の中にさえ入って行かない私のことを言っているのだ。離れてあるということで、安心した自分を感じられている自分のことを。

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読書という愉しみIV

 目の前で起きていることやそこから感じたことを文字にするということはどんなことだろうか。


 我々の内面にある無意識。こいつは、私たちの感覚やそれに基づく行動を左右してくれるのに、自覚されることはない。つまらぬ事をしてしまったりして後悔しても、無意識だから如何ともしがたい。ではどうしたらいいのか。

 無意識を理解してみたらどうだろうか。それは容易ならざることだったり、目を背けたくなることだったりするが、それ以外に手立てがあるだろうか。

 無意識を意識の俎板に上げて来るためにはどうしたらいいか。まず、言語で分析するということである。そして、これを行うには、やはり他者の言葉を参考にしつつ、自分の言葉を紡いでいくほかは無い。

 だから、本を読む。確かに、人と話したり、テレビを見たり、漫画を読むのも悪くは無いんだけれど、それでは決定的に不足している点がある。これらの画像に頼るメディアは、これらの間接体験を日常の直接体験となんら変わりないものにしてしまい、流れていってしまう恐れがあるということだ。作り手の意図を汲まなければ、読書もそれ以外も変わりは無いのだが、この画像に引き摺られない本というメディアは、確実に脳を鍛えてくれている。それがつまらなくてもなんでも、日常と同じように流してしまうことはないだろう。少なくとも読んだというのならば。読んだのか読まないのかの判断がまだ分かりやすい。

 もっと言えば、ある感情を持つ人について伝えたいとき、言語で説明するのか、映像で説明することの差を考えてみたらいい。まあ、何かに気づくということ自体は、そういう人の気持との出会いだから、どちらが高級とかそういうことだけではないのだけれど。でも、紙と鉛筆は一番低級かもしれない。

 とはいっても、分かるということの次の段階には、人の言葉だけで分かった気になって、さらに、まるで自分で考えたかのような気になるというのが控えているから気をつけねば。でも、人の言葉を剽窃していたって、それが腹から出ている言葉なら、独自じゃないなんて言いません。ただ、人の言葉を参考にはしても、自分で言葉を探すことの苦悩を知っている人のほうが、わたしは好きだな。

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読書という愉しみII

 仕事に没頭することはとてもいいことだ。それは、得意不得意に関わらず、自分にさまざまの問題を降りかけてくれる。それに対面することで、自分が見えてくる。ああ、これが不得手で、これが嫌いなんだと。でも、そんなことを言って逃げていたら、仕事は進まない。

 一方、世の中にはさまざまの人が生き、さまざまの活動をしている。そんななか、その環境に応じた問題があり、それらの人々は日々それを解決しようとしている。わたしが解決できない問題に、彼らは日々向き合っている。その意味において、私は彼らに敬意を払うことが出来る。彼らなくして、われわれはないのだから。もちろんお互い様なのであるが。

 そんな普段出会えない彼らに会う愉しみ。それが本を読むということである。さまざまな分野で人が日々頑張っている。そのことを本音でさまざまに思いを巡らしているそんな本が嬉しい。それを教えてくれることが嬉しい。ジャンルは問わない。

 彼らが日々悩まされている問題は、自分の抱えているそれと表面上は違っても、本質的には何も変わっていないことを本は教えてくれる。私の才能がどうだとか、能力がどうだとか、環境が自分に合っているかどうかとか、そんなことではないのだと、教えてくれる。今居る場で頑張れない輩が、他所で出来るのだろうか。環境が自分を必要としてくれて、そのことに甘えられるような体験をしてしまうと、それが忘れられなくなって、自力で環境を開拓することを回避しようとしてしまうことがあるかもしれない。しかし、そこで逃げてしまったら、折角の機会を逃してしまうことになる。

 とにかく、もうちょっと頑張って楽しくなるようにしてみよう。失敗したって仕方ない。でも、とにかく手を尽くしてみよう。結果ばかり求められる社会に居すぎて、受験に成功してきた皆さんにとって、失敗はつらいことかもしれない。しかし、周りの年長者たちは、それを暖かく受け入れてあげなければならない。でも、年長者たちも結果を求められている。そのことを理解してあげて欲しい。みんな持ちつ持たれつ。自分だけ逃げようとしないで欲しい。みんなで一緒に戦っていればいい。そうすればそんなに大変なことではないから。

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読書という愉しみ

 幼い頃から本を読むのが好きだ。どうやら母親が読書好きにしたかったらしく、良く絵本を読んで聞かせてくれたらしい。本はわたしには特別なものではなく、常に傍らにあった。

 本は、わたしにとっては、言いなりになる他者のようなものだ。こんな付き合い方は、実際の人間関係ではありえない。書店でめぐり合って、家につれて帰る。興味が沸けば、溺愛するように。そして、別れを惜しむように、ゆっくりと読んでみたりもする。でも、少し会話してみて、つまらなければページを繰ることもなく、放っておくことの方が多いように思う。

 わたしの書棚には、そんな本が並んでいる。かなり付き合って、ページがくたびれている本より、きれいなまま出番を待っている本の方が多いかもしれない。しかし、彼らにはそれなりの思い入れでここに居てもらっている。本との出会いは、わたしの潜在的な問題意識に対応しているのだと思っている。いまはのめり込めない問題でも、いつしか考えたいというわたしの想いとの出会いである。その問題意識はいつも無意識の中にあるが、書棚の背表紙を見るたび意識に昇ってくる。そして、もう少し待っていて欲しいという気持ちになる。

 人間関係において、第一印象が薄く、気持ちが入れ込めないと、そのまま特に働きかけることもしない性向は、こんなところから来ているのかもしれない。というより、やはり、一人静かにお気に入りの本と向かい合っているのが好きなのだろうか。自分でもわからない。しかし、自分の趣味嗜好や理由のないこだわりを押し付けるような手合いは苦手である。対話によって自分の問題意識を見つめなおす機会を与えてくれる関係が好きだ。著者の主張にはそれほど期待していない。しかし、徹底的に問題を検討するような本に出会うととても嬉しくなる。そこには勝手な思い込みがなく、自分にも他者にも厳しく、そしてその意味で公平で、とてつもなく人に優しい。

 教育に必要なことの一つに、いろいろな人との出会いがあると思っている。この仕事では、気持ちの押し付けも多少は必要だ。しかし、わたしは気持ちを人に押し付けたくはない。その意味では、わたしに向いていないかもしれないのだが、なるべく誠実にやって行きたいために、やはり本を読む。

 わたしにとって本と出合うというのはこんなことだ。人の想いが凝集されている文章に、圧倒されることもなく、しかし耳を傾ける。そんな出会いがある限り、たくさんの本を手許に置くことだろう。

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気質・性格と向かい合う

 別のところに少し書いたが、精神医学者の土居健郎先生は、人間の気質の分類を精神病理の言葉を使って試みた。

 精神病理では「一方的なコミュニケーション」が生じる。『「わかられている」分裂病圏。「わかられっこない」躁うつ病圏。「わかってほしい」神経症圏。「わかられたくない」精神病質圏。「わかったつもり」パラノイア圏。「わかっていない」器質的脳障害圏。』(土居健郎「土居健郎選集 (5):診断と分類についての若干の考察」)

 気質とは対人関係で表れてくるものだ。独りでいても、悩みの原因は究極的には対人関係であるから、このコミュニケーションの不和こそ、苦悩の源泉である。

 そんな苦悩を生み出すのも脳の作用である。脳は非常に高度に構築された情報処理器官であるが、その複雑さゆえに生物学的にも必ずしも完璧な機能を持つ状態が実現できるわけではないのだろう。そして、その極端に失調した場合が精神病理に繋がるわけであろうが、それほど極端ではないときにどうなるのか。一般に正常だと思われている人々にも、その程度の軽重によって、それがさまざまな気質として現れる。しかし、これらの不完全な状態も実は不完全ではないかもしれない。新たな可能性として捉えることもできるのではないだろうか。つまり、ある機能が低下した結果、脳の可塑性によってそれを補完するように他の機能が昂進する。それが究極の場合には、異能と解釈される。

 話が逸れるが、自分の子供を異能児つまり「天才児」にしたいという親が存在する。厳しい言い方かもしれないが、そんな親は、人生において何が幸せなのかの一端さえも掴みきれていないと思う。われわれは、複雑な社会の中に生きている。そのなかで、極端な能力で生き延びようという安易な戦略である。誰しも思いつくが、それが成功するかどうか、きちんと検証できるのだろうか。それが幸せなのだろうか。人はそれが子供でも他者の人生を生きることは出来ない。人生が思い通りにならないことを知りつつ、それを子に、そのような形で託そうという思いの根拠が分からない。多くの場合、根拠なんてないだろう。また、その意識の裏側には、そういう手立てをしたのだから、親として充分だろうというエゴも見え隠れする。

 先天的に気質を決定する要因がある一方で、このように後天的な要因によって能力、いや気質を開拓しようという試みもあるだろう。意図的なら習慣であろうし、望まれなければトラウマがそれに当たるであろう。反復的な価値観の植え付けなどによって、ある考え方が強く形成される。あるいは、精神的なイベントによって、あることを回避しようという意思などが働くことがある。それは、感覚器で受容した刺激を、価値と称する脳内の情報処理メカニズムによって、なんらかの感情に繋げる。例えば、人と話すのが嫌だ、怖い。それは過去に人が自分を受け入れてくれなかったからかもしれない。そういった過去の反復は、ある刺激、例えば人と話さねばならないという思いがおきたとしても、途中の価値に関する処理をすっとばして、いややっぱり止めるという結論に結び付けてしまう癖になっているのかもしれない。

 さて、ではどんな指針で生きるべきなのか。ある脳の機能が低下することで、ある気質が形成されるとしたら、その機能が回復しない限り、その気質は消えないことになる。特に脳の先天的な病を治すのは、現時点でほとんど困難である。今問題にしている脳の機能の低下が、先天的な問題なのか、後天的なのか。それが中心課題なのかというとそういうわけではない。置かれた環境において、それを解決すべきなのかどうかを見極めることのほうが先かもしれない。自分の代わりは幾らでもいるのだ。嫌なら辞めたらいい。もっと他に自分にあった環境があるかもしれないのだ。多くの場合、その気質は先天的か後天的かはすぐには分からない。だから、こんなとき自分の気持ちに素直になってみるほかはない。努力して繕える部分かどうかを。とはいえ、これは運命なのかもしれない。運命は人に幸せを感じさせることもあろう。しかし一方でとても残酷なものでもある。あくまで両価的なものに過ぎない。

 諦めて他所に移るんではなくて、ここでまず頑張ってみたいと思ったら、さてどうしたらいいだろうか。別のところで、努力すれば何でも出来るというのは幻想だと書いた。だから、今の選択や決意が成果にどうかを判断することは非常に難しい。だから、若いうちは失敗するのである。自分を弁えない。評価する能力がないから仕方がない。だから、年長者の助言が意味を持つこともあるわけで、素直に聞けばいいのかもしれないのだが、それをまず聞けないのでは…。仕方がない。

 そんな不安をもって絶望的でも頑張ってみるというのは、果たしてどうだろうか。一縷の望みを繋いで、それで満足できるなら、それも悪くなかろう。あくまで、自分の決意である。そして、それは独りだけのことではない。他者もそれに多かれ少なかれ巻き込まれる。他者の人生との係わりを完全に除くことはできない。その覚悟をするということ。それが人への想いであり、喜びではないのだろうか。多分、その覚悟が人を輝かせて見せるんだと思う。

 それは覚悟の上で頑張ろうというのなら、わたしの方法はこれである。例えば、対人関係において、自分なんて他者には「わかりっこない」と思ったら、躁鬱病気味の脳の状態になっているのかもしれない。そんなときでさえ、その問題点を客観的に眺めるだけだ。

 気質と能力については別のところで述べるが、両者の深い係わりについてはほとんど理解されていない。人間が都合よく欲しいと思う能力を、自分を変化させることなく手に入れられると思っている。そして、もっと言えば、人の内面が変えられると思っているようである。それは勘違いも甚だしい。

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自立と依存―成長とは何か

 わたしは両親に愛された。そして、弟妹を押しのけてそれを獲得することにも執着してきたように思う。それには、家庭が安心できるような雰囲気ではなかったような気がしてならなかったことも関係しているかもしれない。突発的な両親の不仲や最終的には離婚の前後の諍いが、家庭の不安要因として強く心に残ってしまっている。だから、常に安定的な関係をつい身近に求めてしまっているのだが、その戦略はあくまで個別の関係構築によって、そこに到達しようというものである。それは子供ながらの自己中心的な構図であって、私を介してしかつながらない他者がつながることに、喜びを感じる自分に気づく。鎹(かすがい)としての子なのである。それは社会に出てからも変わらない。中間管理職にとっては、職場の人間関係を如何にして良好に保つかが、関心事のひとつになると思うが、結局、この方法論ではすべての関係を掌握しておこうと言う傲慢さにつながっていく。関係の場が以前からそこにあるのなら、われわれはそれに身を委ねるのだが、その場の感覚が薄らいでいるところに、関係性は自ら構築せねばならないという決意が必要になる。その結果、関係が必要以上にクローズアップされ、生きるうえで欠くことのできない、人生でもっとも重要な課題であるかのような印象を持ってしまっている。それへの反語として、他者を幸せにしたいことは傲慢であり、役割を任じさえすれば関係性を果たしたと考えたいという言葉が出てくるのではないだろうか。人を幸せにする?どうやって?と考えてしまうのは、多分、わたしだけの問題ではなく、この種の経験が作り出したものなのだと思える。結局苦悩の挙句に到達した幸福感は、役割を任じたから OKだと考える自立の結果生じたもので、もう共感ではなくなってしまっているのだ。共感を諦めることでようやく到達したのである。

 両親に愛されたという事実を否定できない自分がいるが、その「愛され方」については、あまり丁寧に考えていなかった。ウェブを眺めていると、あるページの書評に次のような引用があった(土居健郎『土居健郎選集〈3〉精神分析について』岩波書店, 2000年)。

 「それでも私は、『こころ(注:漱石の小説)』の「先生」が投げかける問題はわれわれすべてにとって意味があると思う。それは特にわれわれ日本人にとって重要であろう。われわれは「甘える」ことはしっているが「愛する」ことを知らない。いや「愛する」こととは「甘えさせる」ことだと思っている。ところで「甘える」ことは知っているが、真に「愛する」ことを知らない人物が、精神的自由と独立の問題にぶつかるとき、精神病と境する孤独に陥ることを『こころ』は教えているのである。もっともここで問題をさらに一歩つき進めることもできる。「先生」がつまずいたのは、ただ「愛する」ことを知らなかったというだけではなく、真に人格的に「愛される」という体験を持たなかったからではないのか。この体験が欠如しているからこそ、「先生」は「愛する」ことができなかったのではなかろうか。」

 「人格的に」愛される体験という言葉の意味が、わたしに突き刺さる。親が子を愛するというとき、それは一体何なのだろうか。どうやら母は、わたしに自立して欲しかったらしいが、自立できなければ愛せないということではなかったか。もちろん、感受性が高く頼りなく映るわたしが人生で立ち往生することを恐れ、一人で生きられるようにしてくれたのかもしれない。それは、幼い頃父を亡くした母の思いなのだろう。その結果、わたしはどんな生き方をするにしても、「自立」を避けて通れないことを意味する。理路整然とした母の叱り方に、甘えたかった幼いわたしは全人格を否定されたように思い、とても寂しい思いをしたものである。そのことは、今、わたしが過去について何かを言うとき、母は怯えたように思うことからも明らかだ。自分自身がそのことを恐れているのである。その結果、わたしは、わたしの人格を、母の気の向くようにしなければならなかった。そうしなければ受け入れられず、さりとて、受け入れないという選択肢を取れるほどの勇気もなければ、孤独な母を見放すこともできなかった。その意味で、わたしは、母を超えなければならないと思う。未だに、そんな母の価値観に引っ張りまわされているように感じる。

 小学校教員は、その意味ではしばしばとても深い体験に基づく言葉を述べる人がいる。ウェブサイトで見つけた小学校教諭の露木和男先生の言葉を引用する。

 『授業こそが、唯一、教師が成長できる場である。授業で勝負、というのは斎藤喜博先生の言葉であったが、授業で「勝負」などしなくてもいい、他人と比べることもない、教師は目の前の子どもに心から共感し、共に歩むことで教師は成長できるのである。』『子どもの「こころ」の声を聞く。今、何が必要なのかが見えてくる。子どもの「こころ」が集まれば、そこに無数の関係が生まれてくる。複雑になればなるほど、そこに新しい関係が生まれる。子どもの「こころ」は、あたかも生き物の生態系のように、競争関係も含めて、互いにつながり助け合い補い合う関係が生まれる。』『子どもが学校で学ぶ意味は、将来のために知識や能力を貯えることではない。仲間の中で互いにかかわりながら、価値ある活動に参加し、世界とつながり仲間とつながり、そして、自分らしさを見つけていくことに意味がある。』『そして、結果として、見出した自分の知識や能力が生かされることを無上の喜びとする生き方を見つけることである。』『人間の素晴らしさは、こまやかな美しさに感動したり想像力を駆使し、文化や芸術を育んできたことである。そして、心豊かに自然や文化を慈しんできたことである。教育が、文化の伝達とともに創造をめざす営みであるならば、その根本において、仲間を思いやり自然や文化への愛を大切にしなければならない。』

 これとは違い、別のところに書いたが、やはり国語教諭の大村はま先生の言葉は『自立』がキーワードであった。これは、彼女が苦学して教員になった頃の女性蔑視への反動として、自立への強い信念が作用したものと思われる。それは社会的意義があるし、立派だとは思うが、あくまで個人的な信念である。こういった何かに固執する生き方が、個性を生むのかもしれない。そして、そんな個性が融和しあって、社会を形成していく。

 さまざまな人が、それぞれの個性を発揮して、一見勝手に見える事をして生きている。わたし個人としては平和にやりたいと思うが、個性を公共性に変え、それを大義名分にして人に強要する人もいる。そして、それに反論したり、それがもとでけんかになったり、それもそれぞれ勝手なことなのだろう。優しさを価値にしたり、勝ち続けることが価値だったり、そんなそれぞれが、それぞれとして生かしてもらえる世界というもの。そんな世界を、自分の自由にならないものとして理解するだけでは寂しいかもしれない。

 人を愛し愛されるということの意味は、それではなんなのか。土居先生の『こころ』に関する記述を見、自分の体験と重ね合わせ、それではどうしたらいいのかと問いたい。すべてをフルに動員して生きて行きたい。そういう欲求が空回りしている。自立も依存も。愛し愛されることも。大事なところを抑えられていない感じ。自由な精神を持って生きていくこと。

 極端な自立と極端な依存。その両極にある価値観。その両者の考え方が融和していく。人間関係とはそのようなものだろう。甘えが得意な人は、豊かな人間関係を構築できる傾向があるが、それ一辺倒では人からの信頼を勝ち得ない。真の思いやりは、自立した人間がもつことができるものであるから。だとすると、この両面を兼ね備えなえることが、人の目指すところではないだろうか。これはバランスであるため、維持することは難しい。うっかりすると極に安住しようとする。しかし、これは避けがたいことなのだろう。

 その意味では、教育とは上に書かれているような一辺倒の何かを提供することではないと思う。常に中庸を維持する。生真面目な集中と、中庸を保つ鷹揚さ。それは安易な生き方ではなく、むしろとても困難なのだ。そのことに気付く必要がある。ただ、それを如何に実現するかとなると、その方法を構築せねばならない。今年度は、内省の仕方がテーマだったが、次はそれだろうか。


 数学者の岡潔先生の本を読んでいたら、次のような言葉を見つけた。

 『私の友人の秋月(康夫)君が、ある若い数学者に「君のクラスにはよく出来る人が多いが、なぜだろう」と聞くと、その男は「それは先生がいなかったからです」と答えたということです。』岡潔「創造性の教育」

 人が育つ過程において、あまり性急に解を与えると、彼らは解を自ら探す事をしなくなる。とはいえ、自分で自分の方向性を決められるからこそ、この若い男はよくできたのであろう。放っておいても勝手に育つ。そんな放任主義の自立を促すやり方が誰にでも通用するわけではない。岡先生は同じ文章でエリート教育について触れている。

 『誰でも教育さえすれば、必ずしも創造性を伸ばすことができるかといえば、そうはゆかないことです。これは天分がいるのでして、そういう天分を持った人の比率は、それほど大きくないと思います。…それ以外の人に創造性の教育を行っても、国としての収益はないから、経済的な観点からは、無駄です。』

 では、誰がそれに値し、誰が値しないのか。それは、今の私には分からない。

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