冷房の設定温度

 冷房というと、暑くてどうしようもないときに一気に室内を冷やすために利用していた。だから、利用頻度も少なくて、恩恵にはそれほど与っていなかった。

 でも、ここのところの暑さに負けて、一晩27℃でつけてみた。

 よく眠れるなあ、と軽い感動。

 27℃で気持ちいいわけがないと思っていたけど、湿度が低いからか不快感が少ない。

 ドライ運転の違和感より、このほうが自然でよい気がする。


 とはいいながら、玄関ドアとベランダのサッシを開けたら、風邪が抜けて、きっと気分がいいのだろうなと思う。

 ここは東京のような場所じゃないから、夜になれば気温はそれなりに下がってはくる。

 それなのに開けないのは…。


 一。虫が入ってくる…。

 一。花粉症ゆえの習い性。


 そのうえ、高気密な住宅だから、冷房の恩恵に与れる。

 とはいえ、今年の夏は異常だ…。


ブログネタ: 冷房の設定温度、何度にしてる?参加数拍手

| | Comments (0) | TrackBack (0)

あるがままの自分を知る

 チームの行き詰まりはなぜ起こるのか。

 年金も水害も有害米も、役人の所為。
 本当だろうか。

 この某ニュース番組を見ていて、あまりにも気持ち悪くなる。
 そのくせ、スポンサーなのか、コンタクトレンズの架橋剤を減らして製造した業者については、あっさりとした報道で終わる。

 日本のマスコミの限界はここなんだろうか。
 でも、この程度のマスコミを許しているのだから、仕方ないのだろうな。

 なんでも人の所為っていうのは楽でいい。
 自分の不幸せもどこからかやってくる。

 わたしたちは、相互依存をうまく利用して発達した社会を作ったのだと思う。

 それはいい。

 でも、それを使いすぎた。

 甘えという言葉を精神医学者が語り始めたのは1971年。もう、それから40年近くになろうとしている。

 そろそろ、自分を振り返って、背伸びしないで、あるがままの自分を見る必要があるのではないか。
 立派でもない、さりとて、劣悪でもない。そんな自分を。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

行き詰まりと自省

 いきづまりを感じると書いたけれど、考えてみれば、いきづまりを感じないという戦略があるのかもしれないと思った。

 自分の行き詰まりではない。他者の所為にするやりかた。
 それは、行き詰まりが、個人の責任だとする言い方である。

 そのことにどのくらいの根拠があるというのだろう。

 徹底的に突き詰めるのであれば、分かりえない他者にだって、向かい合わねばならない。

 そのことなくして、無理強いなどできるはずもない。

 であるのなら、それぞれが自由に生きるべきだ。

 それは、理屈で分かるということだけでなく、感じるということをも大切にせよということかもしれないが、それに気づくことだって、修行であるのかもしれない。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

Aufheben

 いきづまりを感じて、こころを見つめなおしたとき、自分の中にわだかまっている矛盾に気づく。

 その気づいた矛盾を処理することは、生半可なことでは出来なくて、悩み苦しむ。

 それが消去されるのではなくて、Aufhebenされる新たな視点を掴むとき、人にやさしくなれるのだろうなと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

今を生きる

 逃れられないと思う過去がある。それを知らず知らずに大事にしてしまう。
 理不尽であれ、そんな過去を生きた自分を正当化したい気分が、どうしても抜けない。

 自分は正しいのだと思えば思うほど、その罠につかまってしまう。
 それはまるでそんな過去を自分がひきつけたかのような責任感だ。

 しかし現実には、状況は容赦なく、わけもなく、自分を取り囲む。

 それでも、人として自分を持って生きていくということ。
 そのこと自体が矛盾を孕んでいるのだとは…。


 いや、たぶん違うのだろう。
 自分を持つことと、自分を正しいと信じることは関係がないのだ。

 他者からは過ちとも言われる過去を、潔く眺め、自分の一部でありながら、一体化せず、矛盾を孕みながらも、前を向いていく。

 それが自分であると…

| | Comments (0) | TrackBack (0)

C-PTSD

 研究者として十数年の時間を費やしてきた。
 しかし、何かに執着しきるわけでもなく、ただ、そのときの状況に身をゆだねて、続けてきた。
 それでも、いろいろなかかわりがあり、自分が依存的人間であることを強く理解した昨今、C-PTSD(Complex Post-Traumatic Stress Disorder)という言葉を知るに至った。

 ああ。自分の通ってきた道のりは、確かにこれであったかと今にして思う。いや過去形は正しくなく、今でも依存関係を欲している自分に気づく。
 ただ、私は長年、依存できる他者を手に入れることができなかったのが幸いだった。いや、現実には適度に依存した上で、自分の時間を作って、問題を自覚化し、そのことに直面化し、内省・省察を経て、今がある。そうやって、回復しつつある私がいる。研究に従事できたことは幸いだった。自分の考えを批判的に捉えられる訓練ができたのだから。

 そして、思う。
 こうした文章が自分から出てくるのは、一人になったときだ。
 本当に孤独を感じるとき、冷めた目で、自分の為してきたことを批判的にも捉えられるのだと。

 ああ、久しぶりにここに書いた文章は、かなり自虐的なものになったようだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

安心と信頼(1) 結婚・家庭のなかの信頼

 友人が貸してくれた「魂萌え!」(桐野夏生)を読んだ。60歳を前に旦那が急逝して、孤独と老いの問題に直面する女性、敏子。そこに愛人や相続の問題が追い討ちをかけるリアルなストーリー。以前NHKでドラマ化されたようだ。Webサイトを見て、1話だけは見たかなと思い出すが、結末を知らないので印象に残っていなかった。

 このサイトに、「いい加減な気持ち」と題した原作者のコメントが寄せられている。孤独と老い。どちらも人間にとって怖れるテーマだ。それにどう立ち向かうのか。敏子が家出して泊まったカプセルホテルで出会ったフロ婆さんに言わせる。「ま、人間なるようになるわよ」。ああ。そうだろうなって思う。

 そんな気分になるには、一体何が要るんだろう。それはもちろん勇気であるのだろう。フロ婆さんほど苛烈な人生を歩めば自然に身につくかもしれないが、安穏な人生には勇気を支えるものがいる。それは、全面的な服従でも甘えでもない。最終的には、自立とそれを支える人への信頼だろうか。

 敏子が言う「信頼のオーラ」。これは夫婦がいろいろなイベントを越えていく中で、自然と構築されていくものであるだろう。しかし、敏子たちはそれを手に入れられなかった。なんとなくした結婚。それを補うように努力によってあわせようとした。旦那も合わせようとしていたことを知って虚しくなるのだが。

 そう考えると、熟年離婚も未婚者の多さも、このあたりに起因するように思う。互いに信頼するということの難しさに破れた人たちと、諦めて関わりを躊躇する人たち。信頼関係を構築できる可能性、いや構築しようという相互の意欲を探し出すことが、求められているのだろう。

 甘えから信頼へ。社会構造が変化する中、信頼は、一人ひとりが死にゆく孤独な存在として、個を確立していくために必要な原則なのだろうと感じる。

| | Comments (0) | TrackBack (1)

権威のいらない教育

 大学教員が主務ではなくなって、教えるということをやや客観的に見ることができるようになったなと思う。

 昨日は女子学生の発表練習だった。よく追い込みを掛けてくれて、初回にしてはまあまあの発表だった。性別で区別する必要はないけれど、平均的にみて女子学生のほうが丁寧な仕事をしようとするように思う。男は絶対に仕事をしなければならないという圧力が、率直な行動や選択を妨げている気はする。
 それはさておき、発表と検討に助教の先生に加わってもらった。おかげでとても楽だった。いつもは一人ですべてをまかなわねばならない。厳しい指導と褒める指導の両面を一人で行うことの難しさ。そして、何よりも質疑ポイントの気づきが広がる。そして副次的ではあるが、より高度かつ専門的な議論を学生の前で見せることで、彼らにとっても目の前の問題にだけ現を抜かすだけではなくて、もう少し客観的な視点で今を眺めることができるのだと思う。普段の学生とのセミナーでは、わたし一人が専門的な質問を投げかける。大多数は知らないし気づけない。議論も深まらない。彼らは先生は良く知ってるよねという気持ちにしかならない。どこまで奥深いのか分からないから、自分が学んでいこうという気分が薄い。こんなもんなんですよね、という感じ。
 今年は4人しかいないけれど、昨年は14人の学生を一人で見た。よく分からない人は、「博士課程の学生がいるんでしょ。彼らの手伝いがあるんでしょ。」という。それはもちろんそうだけれど、だからといって彼らに教員の肩代わりは期待できない。すでに教育なぞ期待されていないのではないかとさえ感じる。

 テレビで相撲部屋の様子を映していた。若い親方は、大関まで昇進した元関取だが、若い力士たちの成長に心を砕いている。しかし、力士の気のなさを厳しく問う様を見て、相撲部屋でさえ権威を維持することが難しいのだという現実を垣間見た。先生や親の権威が崩壊した現代、学生や子供が自分の成長を本当に促す技法が問われるようになったのかもしれない。それまでは、そんな方法論を問われることなどなかった。そうしたことに無頓着だったのだ。「親はなくとも子は育つ」。しかし、昨今、大学でも教育法について教員向けの講習が催されるようになった。
 方法を問わなければ、各人の経験にゆだねるしかない。今、心理的虐待の本を読んでいるが、人は自分の経験に基づいた方法でもって人間関係を構築しようとすることがわかる。それは経験であって、技法ではない。個人の経験は特殊であって、他者にそのまま当てはめるのには無理がある。そこに齟齬が生じる原因がある。その仕事はなぜするのか。積極的な関心ではなくて、むしろ不安の解消が上回るとき、その自分の不安を押し付ける。同じ状況にあっても、不安のレベルは人によって違うだろう。感じ方が違うのだ。そこに動機の薄さが伝わらないことがあるように思う。なぜその仕事をするのかの幅広い理由付けこそ、他者を動かすのかもしれない。
 その意味で、豊かな人間関係とは何か。自分の狭い価値観で関われなければ、それだけ狭い関係性しか生まれない。動機も狭い見方だけしか出来ないから、他の人にとっての動機になりうる要素を提示できない。自分で動ける人は、与えられた仕事をする動機を自分なりに見つけようとする。そういう人は仕事の出来る人だと思う。ただ、そうではない人にも仕事をしてもらわねばならないとしたとき、自分の望む関係性だけを求めたくなる幼稚さからは脱却しなければならない。安易に期待するのでは駄目なのだろう。

 いまや、自分らしく生きることが求められている。これまで、従属的に生きることばかりが美化されてきたこの世界の中で、そのような新しい生き方に適合した本当の豊かな心を育むということを考えねばならないのだなと思う。それを出来る人のところに、人が集ってくる。そして、その哲学が伝わる。そういうことなのだと思う。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

幸せとは何か

 幸せとは何か。
 池田晶子さんの言葉が、頭の中で反響する。

 そんな安易なものはない。砂上の楼閣ではないのか。

 現実を見つめた生。
 それだけが、生甲斐だ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

ずるさ・覚悟のなさ

 自分のずるさと、覚悟のなさを思い知る。
 ここから変わって行けるのだろうか。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧