« 幸せとは何か | Main | 安心と信頼(1) 結婚・家庭のなかの信頼 »

権威のいらない教育

 大学教員が主務ではなくなって、教えるということをやや客観的に見ることができるようになったなと思う。

 昨日は女子学生の発表練習だった。よく追い込みを掛けてくれて、初回にしてはまあまあの発表だった。性別で区別する必要はないけれど、平均的にみて女子学生のほうが丁寧な仕事をしようとするように思う。男は絶対に仕事をしなければならないという圧力が、率直な行動や選択を妨げている気はする。
 それはさておき、発表と検討に助教の先生に加わってもらった。おかげでとても楽だった。いつもは一人ですべてをまかなわねばならない。厳しい指導と褒める指導の両面を一人で行うことの難しさ。そして、何よりも質疑ポイントの気づきが広がる。そして副次的ではあるが、より高度かつ専門的な議論を学生の前で見せることで、彼らにとっても目の前の問題にだけ現を抜かすだけではなくて、もう少し客観的な視点で今を眺めることができるのだと思う。普段の学生とのセミナーでは、わたし一人が専門的な質問を投げかける。大多数は知らないし気づけない。議論も深まらない。彼らは先生は良く知ってるよねという気持ちにしかならない。どこまで奥深いのか分からないから、自分が学んでいこうという気分が薄い。こんなもんなんですよね、という感じ。
 今年は4人しかいないけれど、昨年は14人の学生を一人で見た。よく分からない人は、「博士課程の学生がいるんでしょ。彼らの手伝いがあるんでしょ。」という。それはもちろんそうだけれど、だからといって彼らに教員の肩代わりは期待できない。すでに教育なぞ期待されていないのではないかとさえ感じる。

 テレビで相撲部屋の様子を映していた。若い親方は、大関まで昇進した元関取だが、若い力士たちの成長に心を砕いている。しかし、力士の気のなさを厳しく問う様を見て、相撲部屋でさえ権威を維持することが難しいのだという現実を垣間見た。先生や親の権威が崩壊した現代、学生や子供が自分の成長を本当に促す技法が問われるようになったのかもしれない。それまでは、そんな方法論を問われることなどなかった。そうしたことに無頓着だったのだ。「親はなくとも子は育つ」。しかし、昨今、大学でも教育法について教員向けの講習が催されるようになった。
 方法を問わなければ、各人の経験にゆだねるしかない。今、心理的虐待の本を読んでいるが、人は自分の経験に基づいた方法でもって人間関係を構築しようとすることがわかる。それは経験であって、技法ではない。個人の経験は特殊であって、他者にそのまま当てはめるのには無理がある。そこに齟齬が生じる原因がある。その仕事はなぜするのか。積極的な関心ではなくて、むしろ不安の解消が上回るとき、その自分の不安を押し付ける。同じ状況にあっても、不安のレベルは人によって違うだろう。感じ方が違うのだ。そこに動機の薄さが伝わらないことがあるように思う。なぜその仕事をするのかの幅広い理由付けこそ、他者を動かすのかもしれない。
 その意味で、豊かな人間関係とは何か。自分の狭い価値観で関われなければ、それだけ狭い関係性しか生まれない。動機も狭い見方だけしか出来ないから、他の人にとっての動機になりうる要素を提示できない。自分で動ける人は、与えられた仕事をする動機を自分なりに見つけようとする。そういう人は仕事の出来る人だと思う。ただ、そうではない人にも仕事をしてもらわねばならないとしたとき、自分の望む関係性だけを求めたくなる幼稚さからは脱却しなければならない。安易に期待するのでは駄目なのだろう。

 いまや、自分らしく生きることが求められている。これまで、従属的に生きることばかりが美化されてきたこの世界の中で、そのような新しい生き方に適合した本当の豊かな心を育むということを考えねばならないのだなと思う。それを出来る人のところに、人が集ってくる。そして、その哲学が伝わる。そういうことなのだと思う。

|

« 幸せとは何か | Main | 安心と信頼(1) 結婚・家庭のなかの信頼 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29245/17513957

Listed below are links to weblogs that reference 権威のいらない教育:

« 幸せとは何か | Main | 安心と信頼(1) 結婚・家庭のなかの信頼 »