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丸木美術館

 これは昨夏の話である。

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 一度は行ってみようと思っていた。それが広島原爆投下の日になろうとは。

 丸木美術館は埼玉県東松山市の郊外にあって、寺院に隣接した鬱蒼とする林の中にひっそりとたっている。車で乗り付けると、ボランティアと思しき青年が丁寧に駐車場を案内してくれた。

 今日は「ヒロシマ忌」のイベントを執り行っているらしく、無料で開館している。訪れる人も多い。

 館の正面の広場では、多くの人がたむろしている。日教組の幟も掲げられていた。わたしは嫌な予感がしていた。

 しかし、入ってみれば、その悲惨さを伝える筆致は確かで、芸術性にも満ちていた。悲惨さばかりを強調するのではなく、人の所業の虚しさが伝わってきた。

 さらに進んだ1階の奥まった広い部屋には、大きな4枚の絵が掲げられていた。他のものと比べてもとてつもなく大きい。その迫力に圧倒される。

 しかし、主題は既に変わっていた。三里塚・アウシュビッツ・南京大虐殺・水俣。なぜこの問いが、ここまで強調されるのか、私には分からなかった。疑問を感じつつも、多分、画家の手になる最も新しい作品であり、技術的にも他の絵とはことなって強く迫る力がある。

 2階に上がると、比較的初期の作品なのだろう、技術的には階下とは異なるが、その率直さという意味において、心を打つものがある。立ち止まって眺める人も多く、1階の奥の間の絵よりは反響も大きいように感じた。

 鑑賞し終えて表に出ると、やや複雑なものを感じて居たたまれなくなり、早々に立ち去ることにした。


 正直に言って、あの巨大な4つの作品は蛇足に思えた。この問題に丸木夫妻は直面してはいない。あくまで、調査と想像に基づくものである。そしてそれは、第三者としての係わりではなかったのか。

 それが、他を圧倒して大きな作品になっていることもとても寂しかった。なぜ、原爆をのみ主題とした作品が、その4点の中になかったのか。それはなにか遅れてきたプロレタリア文学であるかのように映った。実際彼らは、共産党員であったこともある。


 彼らが直面した原爆の被害の光景とその問題を問い続けるだけで、それは十二分に重い課題であると思う。その思想的昇華が芸術として結実する様を見たかった。しかし、それは彼らがすでに故人であるとしても、依然としてこれからの課題であるのかもしれない。未だ解決していない課題には違いなく、それは彼らに負わせるべきものではない。単に私の期待に過ぎないのだろう。

 現実には、こうした問いに直面したときに人のとる行動というものは、さまざまの色合いを見せる。

 ここを読んで、その計略のすさまじさに、ボランティアの青年の純粋無垢さを照らし合わせた。彼らは、彼らの裏側にある苛烈さを知ったとき、どう思うのだろうか。人の執念とその業を思うとき、わたしは恐ろしくなって、それらから目を背けてしまいたくなる。

 わたしが、高姿勢でたたかいえない人間であることを強く自覚せざるをえない。ただ、それは相対的なものであるのかも知れず、今後変化していくのかもしれない…。

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