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共依存

 ふとしたきっかけで、共依存に関して書かれたものを改めて読んだ。以前にも読んで、気をつけねばいけないと思っていたものである。


 自立、自立と書いてはみたものの、果たして自分は自立できているのか。
 それは、ずっと若い頃からの自分の問いだった。
 今でもずっと昔の母の話ばかりするわたしは、母から流れてくる「自立していないという気持ち」の不満をずっと受け止めていた。以前にも書いたけれど、母の教育方針は子供の自立。その中には、母自身が自立したいという思いも含まれていたのではないだろうかと思う。
 そうやって、自立を強く促され、性格を制御され、共依存になっていった。

 人に依存することを恐れたから、一人で自立することを願った。仕事として研究を選んだのも、一人で取り組めるからだったのかもしれない。
 その目標が、他者への依存も入り混じりながら、そこそこ成就した頃。自分の中のそうした性質はかなり薄らいだ。

 そのタイミングで、今度は教育という形で、他者からの依存を引き受けることになった。
 家族以外からの依存を受けるのは初めての経験で、どうあつかっていいのかわからなかった。結局、家族のような気分で、彼らの依存をまるまる引き受ける教員になってしまった。それが、初期の辛い時期だったのだろう。そこには、上司との方針の違いもあった。

 わたしのなかには、やはりある程度の相互依存関係を求める心理が働いているのだろう。そのバランスを取るために、自分と共鳴できる人たちを自分の仲間とする。自分の求めるものなんて、善悪なんて崇高なものではなく、単にそういう関係性に過ぎないのだと知った。

 しかし、結局、わたしはそれを放棄してしまった。一番の理由は、そういう関係を維持するのには金も精神力も要るが満たせないという孤独な不安。そして、相互依存関係を構築する大人のコミュニティーに我を張れない弱さからだった。

 もちろん、誰のせいとか言うわけじゃなく、自分の決断だった。もう少し修行が必要だと思った。
 ただ、変なのは、そこでがんばれば良いのに、リセットしたくなる自分だった。一度、ご破算にしたいと思うのはなぜだろうか。
 その結果、部屋の存続を願う後輩などから、恨みも買っただろう。ただ、恨み自体が他者への依存であると思えるから、今や平気だけれど。


 そんなタイミングで、ある人の心と向き合ったとき、自分と同じものを持っていると思った。
 それには、互いの背負ったこの性質も含まれているのだと思う。


 ところで、共依存の人の判断基準は、「依存的な人」を見た時に、腹が立つかどうかだという。自立できていれば、人の所業に腹が立つはずもない。

 わたしはもともと腹が立たないほうの人間であるように思う。そこには諦めもかなり含まれているから、自立とは少し違うけれど。ただ、時折、無理難題を押し付けられるとき、依存的な人が回りに溢れているように感じ、苛立ってしまうこともある。彼らはなぜ、そういったことを自立的にできないのかと。
 とはいいながらも、仕事に没頭して自立的なひとの中にも、共依存的な人がいるのだとは思う。

 こんなことを書いていると、依存がすべて駄目なのかという気分になってくる。
 今や、相互依存を感じさせない自由な人間が、ただあちこちに独立して存在しているという印象がある。昔に比べて、個人主義が進んでいるように思う。古い世代は、無責任な若者が増えているというが、そういう不満のなかには、相互依存なくして人間はそもそも生きられるのかという習慣からの問いが発生してしまっているのだろう。

 もちろん人は一人では生きていけない。
 でも、経済活動を含めずとも、見えざる関係はあまた存在する。
 それに比べて、これまでの依存関係は、無自覚にも、あまりに自然な形で、具体的に見える形のものが求められていたのだろうか。

 しかし、それでは立ち行かなくなってきている。個々人の活動が、社会の活動がより活発になっている。以前と比べても、世の中は忙しいような気がする。周りが見えなくなっても仕方がないような気さえする。しかし、その分、一人で生きていける気分が蔓延する。
 そうなってくると、依存関係を「自覚的」に使えるかどうかということが問われているのだろうと思う。それは、共依存からの脱却にもつながってくる。存在そのものを自らの力で肯定し、そのあるがままで価値のある存在同士が、如何に関係性を構築するのか。それには無自覚ではいられないはずだ。


 遅々とはしているものの、適切な人間関係がだんだん分かってきている。とは言いながら、社会の価値観が変化する以上、いつまでたっても模索なんだろうなとも思っている。この問題は、自省しつつ考え直してみたい。

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封建的な価値観

 モラハラの本を読んだことがあったけれど、あれを読んで思ったのは、封建的な古い価値観が新しい価値観に置き換わるときの狭間の苦しみなのかということだった。

 そんななかで、絶対的な善悪を求めるのは、実は難しいことだなって思う。

 学生の頃、山内昌之「ラディカル・ヒストリー」を読んだ。そこにはロシアとイスラムが交わるときの歴史が書かれていたのだけれど、特に目を覆いたくなったのは、中央アジアのイスラム文化の女性蔑視・女性差別だった。ほとんど、女性には人権が与えられていなかった。結婚ももちろんそうで、自分の意思でなどできなかった。カーリムと呼ばれる一種の結納金は、ほとんど人身売買の様相を呈していたという。この辺のルールはソビエト連邦が改革に乗り出すまで、長い歴史の中で培われていったものだ。であるから、異文化の介入がなければ、ずっと続いていたかもしれない。それは、その社会の中では善でありつつけたわけだ。

 今日、ネット通販で買った本が届いた。それは「性のレシピ」という性愛に関するものだ。書くのが恥ずかしいけれど、テクニックだけでなく心についても、まじめに問題を取り上げて考えているように思う。

 そこで「男の保護欲」というのがある。男は自立した女性をあまり好まない。男は、自分を絶対的に保護してくれる強い男性を切望するような女が好きで、そういう自分より弱い者を見ると「自分にも力があるのだ」という『錯覚に陶酔する』のだとある。そして、この関係は完璧な共依存関係に陥り、独占欲によって最後は破局するとある。

 そして、それを踏まえて、自立した女性の幸せをも考える著者は、「完全なる男女関係」の三原則を提案する。

 1:両方が自分の世界を持っている。(自立)

 2:二股、三股などに免疫を持っており、ある程度は貞操観念を捨て去る。(独占欲の放下)

 3:そうした関係に口出しをする世間の言葉に耳を貸さない。(信念)

 これを読んでふーんという感じだけれど、封建的な価値観とは180度違った生き方だと思う。この価値観は、個人主義の最たるもので、社会性動物としての論理からは逸脱しているような気がするのは気のせいだろうか。というより、自立の範囲を考えないと、無理難題がやってきたときに、対処できるんだろうかって思う。更に言えば、自立したもの同士の協調の動機とは、一体なんだろうかって思う。もちろん、仕事の人間関係は、こういうものだったりするのだが。

 まあ、いずれにしても奇書であるが、考え方は興味深い。

 個人主義が進むということは、ひとそれぞれということだから、価値観にも幅広い分布があるということになる。そんな社会の中でさえ、自分が良いと思ったことを成すしかないけれど、その行為自体が他者には受け入れられないこともあるだろう。だから行動一つ一つが批判を受ける可能性がある。それは価値観のおしつけであり、暴力である。となれば、譲歩できるところはし、無理なところは信念を貫いて生きるしかないのだろうか。そんな価値観のすり合わせをしなければ、生きる道はないのかもしれない。そこには諦めも入る。何を諦めるかは、人それぞれだ。

 それって、八方美人的に生きてきたわたしには難題だけれど、地歩を固めていくほかはないと思う。いずれにしても、自分の言葉で語るということだ。

 ただ、暴力をかわす「技法」だけは身につけていかねばならないのかもしれない。

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丸木美術館

 これは昨夏の話である。

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 一度は行ってみようと思っていた。それが広島原爆投下の日になろうとは。

 丸木美術館は埼玉県東松山市の郊外にあって、寺院に隣接した鬱蒼とする林の中にひっそりとたっている。車で乗り付けると、ボランティアと思しき青年が丁寧に駐車場を案内してくれた。

 今日は「ヒロシマ忌」のイベントを執り行っているらしく、無料で開館している。訪れる人も多い。

 館の正面の広場では、多くの人がたむろしている。日教組の幟も掲げられていた。わたしは嫌な予感がしていた。

 しかし、入ってみれば、その悲惨さを伝える筆致は確かで、芸術性にも満ちていた。悲惨さばかりを強調するのではなく、人の所業の虚しさが伝わってきた。

 さらに進んだ1階の奥まった広い部屋には、大きな4枚の絵が掲げられていた。他のものと比べてもとてつもなく大きい。その迫力に圧倒される。

 しかし、主題は既に変わっていた。三里塚・アウシュビッツ・南京大虐殺・水俣。なぜこの問いが、ここまで強調されるのか、私には分からなかった。疑問を感じつつも、多分、画家の手になる最も新しい作品であり、技術的にも他の絵とはことなって強く迫る力がある。

 2階に上がると、比較的初期の作品なのだろう、技術的には階下とは異なるが、その率直さという意味において、心を打つものがある。立ち止まって眺める人も多く、1階の奥の間の絵よりは反響も大きいように感じた。

 鑑賞し終えて表に出ると、やや複雑なものを感じて居たたまれなくなり、早々に立ち去ることにした。


 正直に言って、あの巨大な4つの作品は蛇足に思えた。この問題に丸木夫妻は直面してはいない。あくまで、調査と想像に基づくものである。そしてそれは、第三者としての係わりではなかったのか。

 それが、他を圧倒して大きな作品になっていることもとても寂しかった。なぜ、原爆をのみ主題とした作品が、その4点の中になかったのか。それはなにか遅れてきたプロレタリア文学であるかのように映った。実際彼らは、共産党員であったこともある。


 彼らが直面した原爆の被害の光景とその問題を問い続けるだけで、それは十二分に重い課題であると思う。その思想的昇華が芸術として結実する様を見たかった。しかし、それは彼らがすでに故人であるとしても、依然としてこれからの課題であるのかもしれない。未だ解決していない課題には違いなく、それは彼らに負わせるべきものではない。単に私の期待に過ぎないのだろう。

 現実には、こうした問いに直面したときに人のとる行動というものは、さまざまの色合いを見せる。

 ここを読んで、その計略のすさまじさに、ボランティアの青年の純粋無垢さを照らし合わせた。彼らは、彼らの裏側にある苛烈さを知ったとき、どう思うのだろうか。人の執念とその業を思うとき、わたしは恐ろしくなって、それらから目を背けてしまいたくなる。

 わたしが、高姿勢でたたかいえない人間であることを強く自覚せざるをえない。ただ、それは相対的なものであるのかも知れず、今後変化していくのかもしれない…。

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「生きがいについて」

 神谷美恵子さんのこの本は、1980年に初版が出て以来、読み継がれてきた。人が直面する苦悩とどのように向き合って、再構築された生きがいを見出していくか。この人生における大きな問題を、丁寧に解き明かそうとする試みである。

 ここ数ヶ月の間、今も含めて、わたしの心の動きはとても大きなものである。喜びと苦しみと悲しみと寂しさと、ありとあらゆる感情と思惟がめまぐるしくわたしのなかを駆け巡っている。

 あまりにも自由にならないこの自分の心をどうしたらいいのか。出張の旅程の空いた時間を使って、一気に読み終えた。この本の感想を述べていきたいが、感想にはなりえないような気がする。結局、書き進めながら、引用に終始するのみだった。この名著とわたしの心が同化していると言ったら不遜な気もするが、何を足すものも引くものもない、そういう気分なのである。


 まず、ここでは「精神化」について述べられている箇所(195頁~)を引用する。

「人間の精神の力ほど不思議なものはない…自分をとりまく環境にどのような不快なことがあっても、ひとは精神の翼にのって自由にあまがけることができる」

「現実の世界と精神の世界と、いわば両棲動物のように二つの世界にふたまたかけて生きているそのありかたは、あらゆる人間に多少とも見られる現象で、人間存在の二様性などとよばれ、すべて精神生活を持つ人間の、基本的な生活様式であると考えられている。」

「ただ、大部分の心身健康なひとは、現実の世界にしっかりと足をふまえ、そこで忙しい、充実した毎日を送る。精神の世界はもちろん存在するけれども、それはふつう現実の生活に対して従属的な位置をとる。」

「ところが…性格自体からして悩み多くうまれついているひとや、苦しみのなかにあるひとにおいては、「精神化」の傾向が強くなり、ふつうのひとの場合とはさかさまに、現実の世界のほうが精神の世界に従属してしまうことさえある。」

「ところで、どういうひとが精神化にかたむきやすいのであろうか。…すなわち、思索を好むひと、精神がゆたかで複雑なひと、抑制力がある程度つよく、敏感で感動しやすいひと、うまれつき内気なため、または外的な事情のため、行動にすぐに出にくいひとである、…このようなひとであると、欲求がすぐに行動に移ってしまわず、精神内部での多くの思考、反省、情緒、恐れ、希望などをひきおこし、それらが互いに組みあわさったり、対立したり、匡正し合ったりする。」

次に、心の世界のくみかえについて述べられた部分(258頁~)を引用した。

「心の世界のくみかえは、…急激な経過をたどるとはかぎらない。しかし、どんな経路にせよ、ひとたびこの変革がおこると、一般の人びととは多少とも異なった価値体系を採用することになる。そのため、現世のなかに以前のように埋没してくらすことはできなくなっている。そういう意味で、こういうひとはいわゆるアウトサイダーであり、一種の亡霊のようなものである。」

「本来行動的で陽性なアウトサイダーは、精神の「荒野」のなかでひとたび新しい生存目標と新しいよりどころを発見すると、もはやためらうこともなく、世人とはべつな価値体系を武器として現世へたちもどり、確信にみちて現世を征服し、支配しようとする高姿勢でたたかって行く。いわゆる正攻法であり、伝道精神である。」

「行動性に乏しく、もっと陰性なたちのアウトサイダーはどうであろう。このひとたちはもっと神経がせんさいにできていて、簡単にものごとを黒白にわり切れない。現世では居心地わるくて外へ出たにもかかわらず、どこかでまだ現世への郷愁やうらみや皮肉や憎悪の念がくすぶりつづけていて、すねたような態度をつくり出す。このひとたちは心の構造が複雑にできているため、自分たちが一応否定した現世なるものも、自分自身の内部に充分生きつづけていることをみとめるから、前記のひとびとのように、そう簡単にはべつの価値体系を他人におしつける勇気や自信がない。しかしこの矛盾した姿こそ、人間性そのものを正直に反映したものであろうから、もしこのひとたちに充分に表現力があるならば、彼らのなかからひとの心に訴える文学や思想がうまれ、それが現世へ大きな影響を及ぼすこともありうる。」

以上。

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