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不信と孤独

 自分の期待やすべきことが大きくなって、その実現が一人では叶わないとき、人に協力を頼むことになる。
 受ける側に動機があるときには、それを協力といっていいのかもしれない。

 しかし、受け手の思いがわからないとき、それが押し付けである場合もありえる。
 押し付けを潔しとしない思いがあるときに、それは諦めと孤独に向かう。

 他方、意に沿わないことを押し付けられた人は、どうするか。
 怒りによって当座の押し付けを排除するか、その者への不信によって関係を絶ち、孤独に還るのか。

 なぜだかすでに怒りを封印したわたしは、些細な協調の成否でさえも、全面的な信頼か不信かという人格的な問いに変化させてしまっているのかもしれない。そこまで行ってしまうと、人は孤独になってしまうのだと思う。でも、一人では生きられないことも知っている。その狭間にバランスを取ることになるはずだ。と、こんなことを書くわたしは、今、自分が傷ついていることを認めたくないようだ。


 先日、市川にある東山魁夷記念館を訪れた。こじんまりとした美術館であるが、みな静かに作品を鑑賞している。その1Fの画伯の経歴を紹介する展示室に、静かにビデオが流れていた。そのなかで、「人は生かされているのだと思います。」と、画伯は言っておられた。

 以前にも引用したが、画伯はご両親のことをこう綴っている。

 「楽天的で、殆んど感情だけで生活している父と、悲しみを理性で抑えているような母、この極端に異質の2人の間には、相当に深刻な問題があって、まだ小学校に入ったばかりの頃から、私は人間の間にある愛憎と、またその業とも言うべきものの姿を見て来たのです」

 その結果、幼いときから深い孤独に安息を得ていたということである。

 終生穏やかな人格者だったという画伯は、怒りを使わないで係わり合いを構築し維持するのにどうしていたのだろう。しかし、創作活動は、人々の協力も必要とするとしても、基本的に孤独な所業だと思う。わたしが学者を目指した理由のひとつは、そうした孤独を許してくれる環境にあったように思う。

 孤独は、今改めて手に入りそうだが、冷静にも涙が零れるのは何故だろうか。

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