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いまさら責任論

 しばらく前に、イラクでゲリラにつかまった人たちを国が助けるといったとき、そんなのは好きで行っているんだから自己責任じゃないかという議論がマスコミも含めまかり通ったことがあった。そのときには「責任」という言葉がなんだかよくわからなくなって、気分が悪かった。

 どうも責任という言葉を聞くと、「義務」とか「償い」なんていう言葉が真っ先に浮かんでくる。何か押し付けがましい「否定」的な印象を受ける。義務なんてしゃらくさい。だからか一部の若い人たちは、それを避けて無鉄砲になっているようで、目に余る。でも、それとは逆に、その言葉を真に受けたようなとても慎重になっている人も見受けられる。個人的には控えめな彼らに好感をもつが、まどろっこしいと感じることもある。彼らは、他者に対する「やさしさ」に溢れた結果、責任をとても重大なものとして捉えすぎている感がある。

 実際、Web検索できる多くの国語辞典が義務とか償いという語を何らかの形で定義に使っている。その点、はてなダイアリーの定義は、否定的な印象を感じさせない表現で、あっさりめに書かれている。

 よく「自由」と「責任」は表裏一体だというが、ここでいう自由とは「真の」自由である。否定的な雰囲気をもった責任とお気楽な自由を別のものとして捉える以上、真の自由は手に入らないような気がする。自由とは自ら選択できるということであって、お気楽極楽に好き勝手にできるということではない。そのことが分かっていない者が多すぎるように思う。もとより好き勝手にできないことなど、われわれがこの世界で被投的な存在である以上、とっくに折り込み済みなのだ。このことがわからなければ世間に当たって苦労するだろうが、予め知っておきたいならハイデガーでも読んでおくしかない。

 さて、自由と責任が表裏一体である以上、少ない自由に甘んじるなら少ない責任を負うだけで済む。つまり、人の言いなりであれば、責任を負わずに済む。決まったことを決まったとおりにする仕事も、そういうことだろう。ある意味で、気楽な生き方である。しかし、そこで本当に気楽に生きていると新しい価値は生まれず、経済的にもそれなりのものに過ぎない。自分を有能と信じ、それを甘んじて受けられないなら、反発して生きることも必要ではある。しかし、極端に過ぎれば、孤立して茨の道に入る。
 多分、この極端な解の間に求める道があるが、身体を動かさず頭で考えているだけだと意外に気がつかないものだ。大体、言いなりは嫌で、褒めても欲しいだなんて、無償の愛を呉れる親でもあるまいしそんな安易なことはたぶん滅多にないだろう。人の心を掴むには、その人の心を想像できなければならないことは分かるだろうか。その人の心を想像できずして、一体何の理解があるだろうか。

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