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きっかけとしての文章による表現

 文章は非対称性表現の最たるものである。

 と言い放った後で、勝手に私が作ったこの未定義なコミュニケーション、生命間の情報伝達の用語を整理する。

 反対称性表現:互いに情報が交換される。それは結果的に等価交換を目指すものである。
 非対称性表現:一方的な情報が流される。これは押し付けであって、一般に権威が存在せねば受け入れられない。権威が存在しない、つまり対等な関係にちかければ、受け入れられないこともあるが、それは受け手の選択性が許されるということである。

 つまり、非対称性表現は一側面として権威によって押し付けられる情報と定義したが、それだけでは終わらないのが、この方法論である。

 書籍などの文章表現では、書き手と読み手が直接対面することがない。そのために、出版されているという権威だけを受了すれば、あとは自在に解釈が可能なのである。対面しなくていいがゆえに、おおよそ相手を慮る必要がない。ということは、勝手な解釈が出来るということで、これが以前どこかに書いた誤読であり、誤読から新しい可能性が生まれるということになっていく。

 ということは、この意味では文章とはきっかけに過ぎないのであって、信奉したりする何かではないはずだ。

 これは、書籍のような一対多の関係性ではなくて、一対一の関係、つまり、手紙-メール-携帯メール-電話-会話の手段としての意味的相違にもつながっているように思う。

 手紙は、相手のことを計りつつも、届くタイミングは相手の状況を踏まえない。しかし、文章表現であるがゆえに、誤読が可能で、有無を言わせないことはない。基本的に純粋な非対称性表現に近い。

 会話の即興性は反対称性からきていて、対等な関係性を志向すれば、相互に自発的に等価に交換できるような情報を選択してしまう。つまり、一方的に押し付けるようなコミュニケーションにならないという問題がある。このため、必要な情報が流れない危険性をはらむ。しかし、共有した時間というまた別の意味合いが含まれうる。
 一方、必要な情報を流そうという意思が強くなれば、即興性は失われ、明らかに暴力になる。非対称性表現にある誤読可能性が奪われたこの形式は、個人の尊厳への挑戦となる。

 電話はその間にあるコミュニケーション手段である。顔色をうかがうことができず、声色という操作可能性もある伝達方法を使えば、さまざまなニュアンスが伝えやすい。そして、即興性が使えるものメリットになることがある。

 同じように考えれば、メールは、手紙よりは気楽で、しかし電話ほどの即興性はない。しかし、記録性があって、手紙のようにも読めてしまう。つまり、誤読が可能なのだ。しかし、手紙と違って即時性が高い分、当事者間での誤読可能性は低くなっている。

 このことは、秘話性にもつながる。録音可能性、印刷可能性などなど。想像するだけで恐ろしい。

 これらはテクニカルな問題だが、人間関係を重視するなら、今一度考えておくべきだと思うのだが、どうだろう。

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背負ったものを諦める力

 2年前の在庫です。

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 望まずとも背負わされていることが多いなあと感じる。でもなぜか、その負わされたものでも、ある種の誠意でもって臨みたいと思っていた。

 しかし、そこで言う誠実さとは一体なんだったのか。3年前にここに舞い戻ってきて、背負わされたもの。そのまえからいつのまにか、私が背負うことになったもの。長男の長男だからといって、継承したなにがしか。
 今の私は、それに縛られているのは明らかだ。

 責任とはそうしたもので、それを負うものに、自然に集まってくる。周囲にしてみれば、彼は頼れるなと。便利だからねえ。
 しかし、物事には順番も優先順位もある。ある種の責任を回避したものに、人を責める力はない。それは、馴れ合いだ。そんな輩に関わっている余裕なぞない。といいつつ、彼らのニーズによって、自分が立っているのは明らかだった。

 しかし、たぶんニーズだけではない。責任を負わされるのは、ある程度は慣れっこになっていたし、そうやって貢献することを喜ばしく思っていたのは事実だ。ただ、まだまだ人の求めるものに応えることばかりで、自分が求めることを創ることには思いが至っていない。

 そして、安易に自分が売られていることを、未だにどこかで潔く認められない自分がいる。売っている自分を、親の愛であるかのように、あたりまえに受容する若者ら。彼らを相手にして、一日一日が過ぎていく。しかし、それが私の仕事なのだ。そういう愚痴を半端にしかこぼせないのは、わたしの不徳の問題なのか。どこかでこれを堪えねばならないのだと思っている自分がいるが…。

 ただ思うのは、応えることを超えたときに、わたしは創造に移れるのかもしれないって、自分にほのかな期待を持っている。

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先天と後天

 在庫一層セール。

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 体の病と同じように、心の病にも先天性な側面や後天的なものがあったりする。

 何回も引用しているように、Marxの19th century...では、どうにもならない歴史を背負いつつ人は歴史を作っていくということを説く。

 それは、社会のレベルだけでなく、個人レベルでも十分に問題になる。遺伝的な体質は親からの頂き物であるし、他方、教育によっても生活習慣を始めとするさまざまな病が起こりうる。ここで言う生活習慣による病とは、生理的なもののみを意味しない、精神的なものをもである。

 いずれにしても、幸か不幸か背負ったなにがしかを携えて、前に進むほかはない。最近、人格障害(Personal disorder)についての本を読んだ。研究室に顔を出す学生諸子の抱えている問題の中には、精神的なものも少なくない。彼らが背負った問題のいくつかは根深く、とても研究どころではないこともある。彼らを無視して進めていいのなら、わたしも楽なのだが、果たして何が求められているというのかがわからないと前に進めない気質のわたしには、とても看過できない。

 そういう人に向かって、前向きに生きろというのはたやすい。しかし、そう直接言うことが、効果をもつとは思えない。そんな言葉でどうにかなるのなら、疾うにどうにかなっている。それが分からないくらいダメージを受けているのだ。だからこそ、かける言葉には、人を導くという責任ある態度について伝わるなにかが欲しい。

 ところで、わたしにはMarxの謂いが未だに信じられない。ここに書かれていることは、理知によって社会を望むように理想的に作る作業からは程遠いことだと思われる。その壮大な試みを、一体どれだけの時間を掛けて行おうとしたのだろうか。それとも、パンドラの匣を開けてしまった以上、我々の進む道はいずれそこに到達するということだったのかもしれない。だったら、実行した者たちの性急な革命ってなんなのだ。所詮、人は一世紀に満たない時間を生きるしかなく、そこで結論を出すことに躍起になるということなのか。

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合意と妥協の産物の美しさ

 ちょっと古い文章ですが…。
#なんとなく、在庫一掃処分してしまいたい感じ。

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 100%合意なんてできないとしても、合意と妥協でさまざまな問題が解決することは多いと思います。

 以前、内田樹先生のサイトを好感をもって紹介しました。全面的に支持するわけでもないけれども、同意できる点はとても多い。そんなことを思いつつ、このセンセイの論説を眺めていると、なんとかと称する人が批判的な論陣を張っているのを見つけました。

 資本だの、搾取だの言っていることからしても、古いマルキストみたいなんですが、その一方で「出来ない奴の気持ちもわからないこの教授先生の優等生的な意見に賛同する奴らは、所詮資本家気取りだ」ってな感じの言い方もしています。確かに、それは合っているかなとは思います。教授センセイともなれば、大学運営も含めて、人に上からものを言わなければならないのは、私にもそんな側面があるから、わかります。

 でも、今の時代になって、資本家による搾取というのは、果たしてなんなのか。彼らだって人間です。身分の流動性が乏しかった昔の議論とは違って、今や先進資本主義国の多くでは、努力すればエリートだって不可能じゃないわけです。とはいえ、内田先生は苅谷剛彦先生の著作を引いて、大衆化の危機を説いている。

 それはまさに刹那的な人生観の台頭があるということです。

 生きることがそれなりに大変で、自由が少なかった時代、みんなのために生きるということは難しいことでもなんでもなかったし、今でも一部の田舎に行けばそれが残っている。しかし、今やそんなうっとうしいことは出来ないという。

 ところで、NEET達は社会や周囲への不満を理由に表に出てこないわけですが、結局それは上からの命令に対して、それを遂行する自信、いや動機がないということです。つまりは、自分の感性に理由がないということの裏返しではないのでしょうか。正直な気分の発露なんだとは思います。そこで、こんなブルジョア的で強権的な意見を言われたら、まともに受けたらへこむだろうなあ。

 若いうちは、自由も少ないですが、その分負わされる責任が少ない。年を経れば、責任を負わされるけど、その範囲内での自由は手に入る。

 内田センセイだって、今の地位を得るためには、それ相当の努力なり運なりがあったのだと思います。その結果として、少なからぬ社会への影響力を手に入れている。他方、わたしより若干年上の批判氏は、若いうちから自由を手に入れたふうなプロフィール。もちろん、それだけで推測するのは危険なことだけど、それと引き換えにこれからの人生でも好き勝手なことをネットでただ吼えるだけのものでしかない。

 どっちが人間として偉いかといえば、前者じゃないでしょうか。愉しくもないことをもがいて受け入れながら、自分の自由を手に入れてきた。そこまで行かなくても、自分勝手に生きてきた人を自分の上に頂くことは、想像しただけでもぞっとします。

 人生の充実感って、どうやって手に入るのか。この問いはNEET達も続けていますが、そんなふうに人生を刹那的に生きるんじゃなくて、長い目で見ていくということが、大事じゃないのでしょうか。

 懐かしい話ですが、ゴルバチョフ氏はかつて共産党政権を担い、その政権を崩壊させることに成功したわけですが、彼にしてもその下積み時代の違和感を押し殺した苦悩があったろうと想像します。

 じゃあどうしたらいいのか。効率的な利潤の追求においては、ゲーム理論ではないですが、パレート非効率さを避けねばならないというのが、経済学の教えること。パレート非効率とは競争主義が安易に作り出してしまうものです。競争主義とはエゴイズムの極地。

 感性というのは極めて個人的な問題です。わたしはメロンがあまり好きではありませんが、多くの人はそれを聞くと、うまいメロンを食ったことがないのだろうという。うまいメロンならうまいと思います。しかし、奴らはいつもそんなにいいメロンを喰っているのだろうか。
 それはさておき、自分の感性は普遍的ではないし、そんな主張をしたとて、受け入れられるとも思えない。メロンの話なら、利害が絡まないからたいしたことはなくても。

 「ひとそれぞれですよね」ってな議論が意外にまかり通っている。いや、正直言えば、世代間の隙を突かれたのかもしれません。それほど、世代交代ってのは難しい。支持から不支持へ180度変わることなんてざらですからね。ただ、これまでとは違う、新しい時代の生き方はあるんだと思う。今、辛いことがあっても、先を見て、静かに頑張ってみたいな。

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腑に落ちない不安との戦い

 腑に落ちる気持ちよさを知ってしまったがゆえに、腑に落ちないことに対する不安に耐え切れない。その不安を自ら解決するために、自分のスキルを高めた。それが昂じて、容易にわかった気になれることでは飽き足らず、理解困難そうなことに近づいていった結果、今の職業を最終的に選んだのだろう。いや、もっと言えば、苦労して働きかけた結果としてその困難さを乗り越えたというプロセスによってのみ、喜びを手に入れられるように思っている自分がいた。

 以前、ある偶然から大きな仕事に加わることができ、その結果は一流誌に掲載された。そのような幸運に浴することができたのは、腐らずに、従順に仕事をしするとともに、そういう仕事を受け入れるだけの自分の手入れができていたからだと思う。今、管理する立場になって思うのは、不遜な態度の人間に、そいつができるからという理由だけで、いい仕事をまわしたりすることはしないから。

 その意味では、それに加わって成果を挙げることができたのは、単なる偶然とも違うのだ。そして、毎週のように一流誌に掲載される仕事が数多ある。そのくらいの受け入れ態勢を作っておくということも、そんな運を引き込むのに必要なことなのだと思う。

 であるのであれば、わたしもその仕事の栄誉にもっと浴してもよかった。しかし、人のやっかみの前に、その栄誉を自ら捨てた(とはいえ、半端には利用させてもらっているが)。そして、今度は自分で一から作り上げるのだという不遜な態度に自らを貶めた。その戦いはますます困難さを極める。自分を自分で苦悩の淵に呼び込んだのだ。

 人がどんな生き方をすべきなのか。そんなことを誰かが決められるわけではない。自分でさえ思い通りにならないのに。
 自分で引きつける運命もあれば、偶発的な運命もある。しかし、どうあっても、人との関わりを絶つことはできない。そのなかで模索し続けるだけだ。

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心を踏みにじる

 自分の心が踏みにじられた経験があって、そんなことをするまいと思っているとしても、うっかりと生きていると人の心を踏みにじることだってあるのだと思う。

 それは罪深いことなのかもしれないけれど、軽重の差はあれ、現によくおきていることなのだと思う。しかし、少しずつでも癒されていれば、人は耐えられる。本当は踏みにじった人からの直接的な癒しが効果的なのだろうが、気質の問題などで対話が出来ない関係性では、それは難しい。
 その結果、人は係わり合いを遠ざけて一人で生きることに向かうか、理解し会えるもの同士が徒党を組むということになるのだろう。

 その意味で、孤独な研究者は、辛い道を歩むこともある。真理の探究はそもそも孤独な作業である。探求する対象に思いを馳せると、常に裏切られ続けるから。

 また、踏みにじっていることに気づいていても、踏みにじらねばならないこともある。
 それは、その人の生命力を信じ、よりよい生き方のバランスの模索をしてほしいという思いでもあるのだろう。

 しかし、性急に解を求めようとするのは無理がある。刹那的な美の探究は、タナトスへの欲求である。
 それはそれで一人生なのかもしれない。しかし、それが悲しみを振りまくことをわかってほしい。

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いまさら責任論

 しばらく前に、イラクでゲリラにつかまった人たちを国が助けるといったとき、そんなのは好きで行っているんだから自己責任じゃないかという議論がマスコミも含めまかり通ったことがあった。そのときには「責任」という言葉がなんだかよくわからなくなって、気分が悪かった。

 どうも責任という言葉を聞くと、「義務」とか「償い」なんていう言葉が真っ先に浮かんでくる。何か押し付けがましい「否定」的な印象を受ける。義務なんてしゃらくさい。だからか一部の若い人たちは、それを避けて無鉄砲になっているようで、目に余る。でも、それとは逆に、その言葉を真に受けたようなとても慎重になっている人も見受けられる。個人的には控えめな彼らに好感をもつが、まどろっこしいと感じることもある。彼らは、他者に対する「やさしさ」に溢れた結果、責任をとても重大なものとして捉えすぎている感がある。

 実際、Web検索できる多くの国語辞典が義務とか償いという語を何らかの形で定義に使っている。その点、はてなダイアリーの定義は、否定的な印象を感じさせない表現で、あっさりめに書かれている。

 よく「自由」と「責任」は表裏一体だというが、ここでいう自由とは「真の」自由である。否定的な雰囲気をもった責任とお気楽な自由を別のものとして捉える以上、真の自由は手に入らないような気がする。自由とは自ら選択できるということであって、お気楽極楽に好き勝手にできるということではない。そのことが分かっていない者が多すぎるように思う。もとより好き勝手にできないことなど、われわれがこの世界で被投的な存在である以上、とっくに折り込み済みなのだ。このことがわからなければ世間に当たって苦労するだろうが、予め知っておきたいならハイデガーでも読んでおくしかない。

 さて、自由と責任が表裏一体である以上、少ない自由に甘んじるなら少ない責任を負うだけで済む。つまり、人の言いなりであれば、責任を負わずに済む。決まったことを決まったとおりにする仕事も、そういうことだろう。ある意味で、気楽な生き方である。しかし、そこで本当に気楽に生きていると新しい価値は生まれず、経済的にもそれなりのものに過ぎない。自分を有能と信じ、それを甘んじて受けられないなら、反発して生きることも必要ではある。しかし、極端に過ぎれば、孤立して茨の道に入る。
 多分、この極端な解の間に求める道があるが、身体を動かさず頭で考えているだけだと意外に気がつかないものだ。大体、言いなりは嫌で、褒めても欲しいだなんて、無償の愛を呉れる親でもあるまいしそんな安易なことはたぶん滅多にないだろう。人の心を掴むには、その人の心を想像できなければならないことは分かるだろうか。その人の心を想像できずして、一体何の理解があるだろうか。

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後だしジャンケン

 このくらいしてあげたんだから、このくらいのこと我慢しなさい。

 こういう話を聞くと、目の前が真っ暗になる。

 してあげたこと。そして、我慢させていること。それがバランスするかどうか。それはそう言っている人の価値観を根拠としているに過ぎない。

 しかし、押し付けは常に起こる。親の権威。上司の権威。

 それに耐えなければ、新しい展開は起こらない。

 でも、ゴルビーのように権威を得た後で、それをうまく使いたいものだ。刹那的だったとしても。

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