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人情・理屈・感性

 ちょっと以前に書いたものなのだが、いまさらながら考えさせられる。原文をいじらない。

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 以前、「経験・理屈・感性」と書いたが、それをちょっと変えてみた。

 脳みそをベースに考えてみると、感性というのは脳の入力に対する反射の構造であり、理屈とは脳構造の対話可能なエッセンスであり、経験とはやはり脳構造のエッセンスであるが、対話不能かつ無意識的なものであるように思う。というより、まずはそう定義したい。

 多分、理屈と経験の間には、さまざまな段階がある。各人のエッセンスのうち、人類共通たりえるものは、科学として成立しうる。それは対話可能な言語化された智慧であって、研ぎ澄まされた経験である。理屈の最たるものといえる。それは、その時点において、批判しがたいものである。であるのなら、個々人の経験のうち、共通の認識足りえないものが残り、そこで齟齬も生じうる。

 経験がそのようなものであれば、あとは感性による好悪の感情が働きかける。つまりは、義理とか、人情とかいうものにつながっているような気がする。

 とはいえ、今日はいつもより酔っているから、めちゃくちゃな論理かもしれん。

 今日、1年間いっしょに仕事をした卒業生の結婚式に呼ばれた。そこで、新郎の同級生の挨拶を聞きながら、人情というものの効を思った。人情は上の理屈からすれば、理屈と経験の間にあるもので、言葉にならない何がしかなのであろう。そんなものでも、彼の言葉から推察され、涙腺が熱くなった。とはいっても、それは男性から見た女性の好きな現実の問題とはまた別の作用に過ぎないのかも知れぬ。女性は子供を孕むがゆえに、そうした情を子供に使うことで、旦那には現実の問題を突きつけるような気がする。

 その意味では、男は人情という経験が昇華するプロセスを感じて涙するのかもしれない。このことと、人類普遍の智慧をまさぐる感じが同じだとするなら、研究は男に適した仕事だ。「古代朝鮮」(井上秀雄著)を読んだあとだから感じるのかもしれないが、対話可能なエッセンスだけで生きているわけではない我々にとって、対話とはそれだけの難しさをはらんでいると思う。それを科学に昇華したアングロサクソンの所業は立派なものだとは思うが、科学の可能性を小さくしないように望む。

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