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出会いの因果と信頼関係

 人は何かをきっかけにして出会ってしまう。
 その出会いそのものは、偶然であるかもしれない。しかし、その後に構築される関係性においては、個別の性質を出発物質として、なんらかの反応が起き、新しい物質が作られる。
 そのことがうまく行っているときはあまり意識されないプロセスである。人はよりよい生き方を模索して貪欲に生きている。世界は変化する。ゆえに、常に、新しいものを求めている。

 ところで、われわれはふだん冷静なときには、理性で自分を制御している。

 しかし、個人の尊厳が傷つけられ、理性の力が奪われてしまっているとき、自分を制御できなくなるのかもしれない。そうなると、さまざまな欲求が噴出する。当然、それは周囲を傷つける。

 そうやって傷つけられた者の生命力は一時的に弱くなる。
 傷ついたものは、それを癒さねばならない。そんなときに援軍もなく孤立すれば、耐え切れない恐れもある。そのまま潰えてしまうのであれば、それはそういう宿命を負っていたという言い方しか出来ない。生命力は周囲に学びつつ自ら手に入れていくものである。

 そうやって潰えた者の記憶が、後悔の念とともに、また他の生命の力を奪っていく。それが悪循環なのだろう。変化を恐れる強い循環の力は、容易に人を巻き込んでいく。

 さて、人は理性で自分を制御しているがゆえに、自分が責められたとき、自分の信頼してきた理性を否定されているような錯覚を覚えてしまう。

 しかし、実際に責められているのは、これまで背負い込むことになった運命とそれへの対処の結果であり、理性、ましてや全人格の否定ではないことを思い出したい。誠実に生きてきたものであれば、その点を責められることはないはずだ。しかし、だからといって人を責めるのは誤りだ。そうしたとして一体何が解決するのか。気持ちを無視して、理屈に生きたとして、それがなんなのだろうか。それが因果というものである。難しいことではあるが、危機のときこそ冷静に理性に従うべきである。

 ところで、女は妊娠・出産によって、因果で結び付けられたかけがえのない関係性を手に入れる。男には、それを意識することができる必然は残念ながらない。それが、ここに書いたオノ・ヨーコの言葉の意味なのだと思う。しかし、男だってかけがえのない関係性が手に入らないわけではないはずだ。

 そのことを互いに了解したとき、信頼関係が生まれるのだと思う。

 あと…。少なくてもいいから、いい友人が居れば、いいのだけれど。

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人情・理屈・感性

 ちょっと以前に書いたものなのだが、いまさらながら考えさせられる。原文をいじらない。

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 以前、「経験・理屈・感性」と書いたが、それをちょっと変えてみた。

 脳みそをベースに考えてみると、感性というのは脳の入力に対する反射の構造であり、理屈とは脳構造の対話可能なエッセンスであり、経験とはやはり脳構造のエッセンスであるが、対話不能かつ無意識的なものであるように思う。というより、まずはそう定義したい。

 多分、理屈と経験の間には、さまざまな段階がある。各人のエッセンスのうち、人類共通たりえるものは、科学として成立しうる。それは対話可能な言語化された智慧であって、研ぎ澄まされた経験である。理屈の最たるものといえる。それは、その時点において、批判しがたいものである。であるのなら、個々人の経験のうち、共通の認識足りえないものが残り、そこで齟齬も生じうる。

 経験がそのようなものであれば、あとは感性による好悪の感情が働きかける。つまりは、義理とか、人情とかいうものにつながっているような気がする。

 とはいえ、今日はいつもより酔っているから、めちゃくちゃな論理かもしれん。

 今日、1年間いっしょに仕事をした卒業生の結婚式に呼ばれた。そこで、新郎の同級生の挨拶を聞きながら、人情というものの効を思った。人情は上の理屈からすれば、理屈と経験の間にあるもので、言葉にならない何がしかなのであろう。そんなものでも、彼の言葉から推察され、涙腺が熱くなった。とはいっても、それは男性から見た女性の好きな現実の問題とはまた別の作用に過ぎないのかも知れぬ。女性は子供を孕むがゆえに、そうした情を子供に使うことで、旦那には現実の問題を突きつけるような気がする。

 その意味では、男は人情という経験が昇華するプロセスを感じて涙するのかもしれない。このことと、人類普遍の智慧をまさぐる感じが同じだとするなら、研究は男に適した仕事だ。「古代朝鮮」(井上秀雄著)を読んだあとだから感じるのかもしれないが、対話可能なエッセンスだけで生きているわけではない我々にとって、対話とはそれだけの難しさをはらんでいると思う。それを科学に昇華したアングロサクソンの所業は立派なものだとは思うが、科学の可能性を小さくしないように望む。

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アニマル・ヒーリング

 現代人のストレスは尋常ならざるものになってきているという。
 わたしもしんどいなと感じることが多い。
 それを癒す方法の開発が急務である。

 そんなストレス解消法の一つに、アニマル・ヒーリングがある。
 これは、字のごとくペットを飼うことで、癒されようというものである。

 わたしはペットを飼うことに魅力を感じていない。多くの生き物は、人間の寿命よりも短く、その死を送ってやることが忍びないと思うからである。

 死による別離は本当に切ない。その切なさをいずれ迎えるなら、ペットの側に人間と生活するメリットが感じられないこの種のやり方はよく理解できない。

 それとともに、ペットを飼うことで癒されることの原因と意味を考えると、あまり美しくない人間のエゴが見えてくる。

 先日、NHKの番組で発達障害児の家庭を取材していた。その子は、知能の発達に遅れがみられるという。しかし、自閉症ではなく情緒も豊かであるように見えた。

 母親が散歩の途中でしきりに近隣の人に声をかける。どうも、その様がペットを連れた散歩とだぶって見えた。

 もちろん、その子がペットだというのではない。しかし、その母親は、手の掛かる庇護されるべき存在と、常に優位な立場で関わっているように見えた。普通の親子関係にもその一端はあるが。

 ところで、ペットが可愛いのはどうしてか。

 わたしはその母親を非難するつもりは毛頭ない。彼女は、子に対する責任を放棄することはないだろうから。

 しかし、ペットが癒しの道具であるのなら、わたしにはそれは薄気味悪い。
 ただ、きれい事をいっても始まらない。われわれは、日々、生命を頂いて生きている。
 ペットをありがたく利用させていただくことだって、それと大差はない。弱者はそうやって生き延びるしかないのだ。

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幼いときの勘違い

 小学生のときだったか、深夜に目が覚めたとき、隣に寝ているはずの両親が見当たらず、隣の部屋で声がした。

 わたしは、聞き耳を立てたが、どうも父が問題を起こしたらしく、母がそれを責めていた。

 わたしは臆病な人間だった。それを聞いたときに、家族が崩壊するのではないかという不安を覚えた。

 それ以来、わたしのなかで、家庭をどうにかして維持していかねばならないという決意が芽生えた。

 そのときの話を母にすると、そんなに仲が悪かったわけではないよという。

 それを聞いたとき、それは私の勘違いだったのかもしれないと、ようやく思う。

 もちろん、生きていくためにはさまざまな妥協も必要だろう。そして、神以外は人を全面的に責めることなど絶対に出来ないのだから、それだけのことで、直ちに崩壊の危機に至ったわけではなかった。


 ただ、その後も続くそうした積み重ねと、すれ違いのなかで、母の決断に至ったのは事実である。それを察知したのは、一度は死に掛けた子供の直感だったのかもしれない。

 両親がその流れをどうして止められなかったのか。
 それを今まで問うてきたが、どれだけ理性を使っても、そんな個別事例から一般原理をひきだすことなどできないのだと今回の経験で思い知った。
 少ない経験から大層な原理を引き出そうとすること、そんなことをしてしまうのは世界への恐れに原因があるのだろうし、神になろうという不遜な態度なのだと思う。研究者はそれをしようとしてしまうが。
 ただ、率直な感性はまちがいのない解を出してしまっているのかもしれない。

 いずれにしても、人間関係や家庭を正面から眺められるようになった今、自分の中でそうしたことごとへのこだわりが解けていくのがわかる。そう感じられるのは経済的に豊かだからなのだろう。人が居なくても生きていけるんだと。その不遜さに嫌気がさす。若さ(?)ゆえの過ちなのだろう。老境に至っても同じことが言えるのだろうか。

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わたしの結婚観の変化

 ようやく恋愛とか結婚というものを真正面から捉えられるようになってきた自分に、ご苦労さんといいたい。
#恋愛というか、それを包括した人間関係なのだが、とりあえずここではそういう言葉を使う。

 そして関係各位にも。

 とはいいながら、現実には同世代には未婚の人も若干居るし、あるいは時間がかかった人も多い。

 この現象はどうしてなのかと振り返ってみれば、いくつか思い当たることがある。


 われわれは、戦後経済成長の時代の中に生まれ、価値観が大きく変遷するときに育った。
 わたしの親はその意味で古い価値観の中にあったが、世の中はそれから大きく舵を切りつつあった。

 それまでの結婚は、必ずしも恋愛中心ではなかった。特に東北の田舎出身の両親の周囲については、そうではなかったろう。

 その価値観の違いは、嫁姑問題を含む家族のあり方そのものにすべて影を落としていた。

 新しい価値観を生む。その生みの苦しみの中で、われわれは生まれて育った。


 新しい時代は、家の時代から変わった個人の時代であり、結婚したとしても、女性は家に縛り付けられる必然性がなくなった。しかしながら、古い価値観は当然、年長者とともに残っていて、若者たちを苦しめる。

 若者たちは、経験もなく、社会の荒波に投げ出されて、彼らなりに模索して生きているのだが、年長者はその経験に物を言わせ、意図せずとも彼らを制御してしまう。

 社会の進歩によって、生活そのものが軽くできるようになってきている。家事一般もそうだし、仕事の質も一変した。われわれの業界でも、たとえばパソコンの存在によって、表現にかかる労力が減りと自由度が高まった。その結果、より高品質なものが、短時間で効率的にできるようになっている。

 しかし、心を変えていくのはそう容易なことではない。幼いころに親からたっぷり振りかけられた古い価値観を、時代に合わせるには経験が足りず、時代に翻弄された。

 旧来の考え方と決別し、自分の考えで生きていく。自立のためには、生活力も必要だろう。


 しかし、現実と理想の間を彷徨い、わたしは問い詰めてしまった。

 その結果、そういう専門職として一定の経済力を手に入れることには成功した。このことは生活を送る上で大切なことではある。

 そうではあるが、変化を踏まえつつ駆け足で進んできたがゆえに、いくつかの見落としをしてしまっているのである。

 以前、北京でカラオケバーに行ったときに、ホステスの女性に中学生のような恋愛観だといわれたと書いた。

 しかし、それは現実だから仕方なかった。浅い経験は隠せなかった。


 ただ、それは已むに已まれぬ事情というか、運命というか、そういうものである。

 いずれにしてもわたしは、中学生といわれても、その意味での育ちなおしをしなければならないのである。

 そういう決意なのである。

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同種の傷

 同じような経験をした人間たちは心から集うことが出来る。
 それによって、互いを慰めあい、癒されるからだ。

 癒しは、人に自信を与えてくれる。そして向き合わねばならない問題に直面することを勇気付けてくれる。

 しかし、その関係が常態化すれば、甘えを引き出すのかもしれない。

 とはいえ、癒されつつ、思うが侭に生きることは矛盾するのだろうか。

 確かに、共通する過去を引きずりつつ、それぞれの未来を志向することだから、矛盾する側面はある。
 しかし、それを統合したいのだ。

 無茶って言わないで。それが出会いなのではないのかな。

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困難な状況の下で

 困難さに酔っているのかもしれない。そうも思う。
 でも、それを乗り越えたときに与えてくれる清々しさを求めているだけではないことは確かだ。

 ただ、親子の情は重い。わたしがさし挟まる余地なぞないのか…。
 その思いは覚悟してみたところで、わたしごときでは超えられないのかもしれない。

 人の想いが伝わらないのは、あまりに寂しいことだ。
 みな、自分の人生をよりよいものにしたいと思っている。
 その形が違うかもしれないとはいえ。

 その気持ちを汲みすぎて、自分の人生においてある側面を投げ捨ててしまってきたことは、一体何なのだろう。望んで進んでいるわけではないのだが…。

 このいつ尽きるかも知れない係わり合い。
 懸命に生きているなと思う不思議な実感。

 この経験を踏まえた係わり合いを望みながらも、わたしは生命科学を探求していたりするのだから…。

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冷静さと着実さ

その瞬間に、ぷっつりと切れてしまったのかと思った。

しかし、性急でない流れは簡単に途絶えることはないのだった。

改めて、冷静さと着実さが大切だと思い知る。

現実は思い通りの夢を許さない。でも、思いは時間をかけて、大きな力になると信じている。

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懸命さ

静かにしかし着実に成長してきた流れが、大きくうねった後、ぷっつりと途切れてしまった。
現実の力はとてつもなく大きくて、ちっぽけな理想を容易に打ち砕くことを思い知る。

この一連の経験から、わたしは何を学んだのだろうか。
しばらく、心を鎮めて考えてみたい。ただ、懸命だった時間だけは虚しさに変えるつもりはない。

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