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経験・理屈・感性

 かつては、儒教の教えのように、目上の人に何かを命ぜられれば、それを納得できなくても受け入れなくてはならなかった。言葉にならない知恵の蓄積を信奉するという経験至上主義である。

 しかし、野球評論家としての野村克也氏は、1985年阪神優勝の年、時代の変化に合わせて、こんな評論をしている。

 野村氏の言う納得しなければ動かない(あえて「働」くから「にんべん」を外した)時代に、わたしは生まれ育った。理不尽とも思える経験の押し付けを排除するためには、この理知至上主義は当然だと思っている。一方、理屈では解明できない本質としての経験・無意識の軽視が、この方法の欠点としてついて回ることは実感する。であるからこそ、理知に客観的で謙虚でありたいと常に思っている。しかし、それが出来ているかどうかは、私自身の判断では不十分だろう。

 しかし、私のそんな思いとは無関係に時は進んで、今や納得させるための理屈さえ鬱陶しく、理屈抜きに感性に訴えなければ動かない時代になったのだと痛感する。いつの間にか、理屈は感性を説明するための副次的な役割に貶められた。これは、経験を理屈で解明すれば良いのだという、まるで漢方薬の効果を最新科学で解明する前の時代のやり口と変わりがない。

 現実に日々学生という名の若者と対峙すると、こんなことを感じる。(屁)理屈を弄するオールドタイプは早々に退散すべし。もっとわかりやすく感性で受け入れられるようなものをよこせ。若者はわたしにその不満を突きつけ、日々むしりとられる感じがしたものだった。(最近はそうでもないが。オールドタイプがラボに増えたのかも知らん。既得権益をもつオールドタイプに擦り寄るほうが、若いうちは豊かに生きられる。)

 そんなニュータイプのお好みの手段は、理屈抜きに自分の優しさを他者に振舞い、それを他者にも求める「やさしさの精神病理」である。これを病理と呼ぶのは、理屈が昂じて精神の不調に名前をつけた、まさに、精神病乱立時代のオールドタイプの精神科医だけなのかもしれない。以心伝心という高等手段を求めている高級な人たちかもしれないのだから。それが予定調和でないのなら、わたしは受け入れたいが、アムロにはなれないのだろうなとも思う。

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