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「我思う故に我在り」の先に「他者が居る」

 科学的理性を自分の中に作り上げていく過程で、このデカルトの言葉は大いに参考になった。感性を信じすぎることなく、自分の存在さえも一度考え直す。そこから、一つ一つを見つめなおしていこうという考えだろう。

 しかし、この言葉を知る前から、わたしはそれを徹底的にやりすぎていた。本を読んで「分かった」ことさえも、疑わしかった。その知見を疑っているのではない。字面を追い、記憶にとどめることが「分かる」ということではないだろうと思っている。そして、今分かった気になっている私とは一体何者なのかということだった。それを納得するということそのものが本当に正しいのか…。

 自分さえ疑わしいのに、物言う他者への煩わしさなんてなおさらだ。そういう他者が(物質的に?)存在することをどのように認めるのか。そして、その存在を肯定的に受け入れつつ、この他者が溢れる社会の中で生きるにはどうしたらいいのか。
 そして、そのように理性を追求した結果、感性を押し殺している自分がいる。しかし、理性だけで生きられるくらいなら、もっと成功しているだろう。家に帰って一人になれば、沸々と感性が湧き出すが、他者の前ではそれに身を委ね切れない。かといって排除もしきれない。もし、生きている時間の全てを理性で生きるべき状況に置くなら、自分にとってはもう少し幸せになれるかもしれない。しかし、そのときは、周囲ばかりか、ヒトとしての自分にさえ別の何かを強いるのだろう。それは気付きつつも、一人でいることの気楽さの根拠をなんとか理性に求めたかったといえばそうだろう。

 しかし他方、わたしが飢え死にすることもなく、今ここに生きていられるのには、他者の係わりがなければありえない。自ら食餌を採集・栽培した経験すらろくにない。そして、自分の成立のルーツを自分自身では知りえないということ。つまり、物心がつく前の自らを肯定することなく、私の存在自体は肯定し得ない。このことは、偶然で片付けられるだろうか。この時点で、自分の存在は、(神と呼ぶよりは)他者の存在を前提としているということを意味するというのは無理があるだろうか。このことは、ヒトとの係わり合いこそが一義であるということになりはしないか。それを認めれば倫理学の意義に気付く。

 話が飛ぶが、最近、量子化学を教えている。しかし、私にとってこの分野は専門でもなく、良く分かっていますなどと自信を持っては言えない。もちろん、一通りの知識はある積りであるが、そんな安易なことじゃなく、人前で話すということはとても重いものである。(もちろん、一部に言わせれば、自分ひとりで重くしているということに過ぎないのかもしれないが…。)
 そのため、それなりの時間を割いて勉強することになるわけであるが、その調査の中で、いわゆるトンデモ系の情報がつぎつぎと引っかかる。彼らは相対論を否定してみたりして、自説を振りかざすが、彼ら自身も、自説へのご批判にまともに答えていない。そして、自説が受け入れられないことを、他者の責任に転化してみたりする。
 そういう部分を、他者の中に見ることはとても辛いし、それを見た時点で、その人への関心を失う。私は、そこで強弁できない。いや、そのような対話を回避すべく、理性でもって答えを用意するよう努めて来た。(が、実際はどうだったか。)

 ここまで生きてきてみれば、それぞれの人間が、それぞれのご都合で、それぞれの目指すものに向かって生きていることはよくわかる。そこに、てめえのスンバらしい理念だけをご持参いただいたとして、一体何なのか。

 ああ。何を書いているのだろうか。いつもいつも、一人に籠りたく、暗澹たる理性の世界に浸りたく、しかし、感性の呼び戻しが、自分を辛くする。
 ってなことを書きながら、今日も夜が更ける。

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成長するということ

 自分を含めた人間の成長する様を見るにつけ、人の可能性を思い知る。

 未だに一人身でいる私であるが、ここにまで至った理由の一つは、老境を共にする伴侶に期待するある人格があるからであった。いや、それはこれからも変化していくものであろうが、それをイメージできなかった。

 どんな人ならやっていけるだろうか。両親の離別で家庭の崩壊を経験した私には、温かい家庭の像がすっぱり消えてしまった。それを経験していないわけではない。しかし、今の私にそれを求めるほどの強い想いがない。

 ということは、そういうなにかを追求しあえる人間との出会いをどこかで期待してる自分に気付く。

 では、どんな人とならそういうものを追及できるのだろうか…。


 高校時代の英語の先生が、「結婚とは交通事故のようなものだ」と言ったことを思い出す。東大の独文を出たとかいう独身の、しかしもう結婚を諦めたような風体のその先生にも、想いが行きかうことはあったという。
 それはそうだろう。しかしそこに至らなかったのはなぜか。

 たった一度の人生を、大事にしすぎたあまり、覚悟と決断を鈍らせてしまったのかもしれない。

 でも、だからといって、不幸だとは言えるわけもない。

 伴侶とともに成長しようという覚悟。ああ、また難しいところに入る。

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