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久しぶりの折伏

 知人の知人と話をすることがあり、何のことかと思いつつ呼ばれてみれば、結局それは折伏であった。

 その方は、日本でも有力な宗教団体の会員である方である。折伏も年季が入っていて、こちらが何か言っても、簡単に折れたり納得したり引き下がったりしない。そのこと自体は別に構わない。私より年長ながら、大したものだと思う。というのも、そうじゃない人たちもいるから。しかし、いつもながら彼らとの会話には強い違和感を覚える。

 当たり前のことなのだろうが、この種の宗教の方々は、会話においてこちらにある種の屈服を迫る。ある種の観念を受け入れることが、真の幸福への道であると語る。そして、共闘すべきであるという。普通の会話でそのようなことはあまりないのではないかと思う。

 私は教義には期待する。多くの教義の中には立派な考え方が詰まっていると思う。だから、教義の根底に流れる思想に触れること自体には関心がある。だから、わたしはその宗教を否定する積もりなぞこれっぽっちもない。その意味で彼の団体と利益の対立はいまのところ「あまり」ないと信じている。
 でも、人には期待していない。教祖様が教義と矛盾しているようなことをしているかどうかなんていうことを云々する自由なんて要らない。そんなことが人に出来たらそれは神様だから。逆に言えば、そこに入ってしまえば、そんなことを言いたくなるのが関の山だから。
 だから、誰々は名誉博士号を沢山受けて立派だとかなんだとか言うのを理由にするのだけは勘弁して欲しい。そのお方は、会員の方々には恩恵を与えているのかもしれないが、今のわたしにとっては関係ないし、偉そうなことを言う人間自体にまず惚れねばならないなんて却ってつまらない。むしろ理想的なことなら、無償で提供しようとする、そして互いに厳しく見詰め合う科学の方が好きだ。わたしは思想を評価し、その人を評価することはあっても、人を「崇拝」する必要はないと思うし、立派な人が必ずしも私に益を与えてくれるわけではないから、祭り上げる必要なんてないはずだ。
 立派なことに向かっていく人間の姿勢を美しいとは思っても、そういうことは種々あるし、自分が出来ること、すべきことと違う形であることは多い。

 回りくどいことを書いたけど、彼らも私の精神的自由を奪う積りはないのだろうし、シンパを増やしたい一身に過ぎないのだろうし、そうすることが彼らの役目なのだろうし。彼らの営みは、生命がなぜ生きようとするのかということと大差ない理由なのだろう。そういう自己増殖的、自己維持的なシステムができてしまえば、あとは野となれ山となれということだろうし、野や山は何かに益を与え害をも与えるのは、それが続いている証しなのだから仕方がない。

 でも、野山を保護したり維持したりする団体に与しようと今のところ思わない。それが、彼らの望むものであるならそれもよい、そうでないなら自分で変えていかねばならない。私にはそんなに自由もないし、時間もないのだ。

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