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本音と建前

 市民レベルでこんなことができる日本人は確かに、理性的だなと思う。と思うのは、陰謀論のサイトを最近になって眺めるからだ。

 そこにはさまざまな国家や団体が顔を出す。俄かには信じがたくとも、現実に起きている悲惨な出来事をも説明できる話なのだ。

 もし、それが事実だとすれば、世の中には深く浸透している人と人の関わりがあるということである。それは、簡単には清算できず、他には選びようがないものである。恨みであったり、血の結束であったりする。

 そのことは、安穏と日々を生きることを良しとするものからは、滅多に見えない。そのようなことを意識せずとも生きられるのは、ある意味では幸福なことである。

 しかし、意識を廻らして、何かを行おうとすると、かなりの確率で人の成した事にぶつかる。それは、人との関わりを結ばねばならないということだ。その意味でも、世界の試みは膨大でかつ深い。

 このことは科学研究においても似ているような気がする。新しいと思っても、ほとんど必ず何か先人の記述がある。

 しかし、科学研究ではルール上、潔く自分の成果を他者に解放することになっている。その透明性が、科学研究が他の人間の営みと違うことである。それが科学の発展を支えてきているのだと思う。とはいえ、この仕事も人間の営みである。そこにある恨みや結束は、多くの場合見えないだけなのだ。

 ところで、最近思うのは、研究に限らず、自分が実現したいと思っていた新しいことは、やはり容易ではないということである。これまでは若さゆえの無頓着さと無知さと前進への意思だけでやってこれた。

 しかし、そろそろ人生の半分を過ぎてきたところで、果たして自分なりに計画的かつ合理的に進めてきたこれまでのやり方が、本当に良かったのかという不安が増してきている。今はまだその成果を回収する時期にないということを示しているのかもしれないが、そうとは割り切れない。

 それを受けてか、自分が実現したいことも少しずつ変化してきて、現実的になり、帳尻を合わせようとしている節もある。ある意味、建前論に持っていこうということか。

 が、そんなのではつまらないと思っている本音の自分がいる。

 このように妥協を受け入れて、より現実的な選択に自分を変えていけるというのは、良さだと言っていいのか。多分、良いのだろう。ただし、焦らずに機会を窺うということであって、楽になってはダメなのだ。その場しのぎで横車を押したり、諦めたりして、将来のチャンスをみすみす逃すわけにはいかないのだ。それは安易な関わりを生むだけである。

 話が飛ぶが、このことはイチローが初球打ちからシフトしているという事実と無関係ではないだろう。さらには、打率を上げるためには、一打席で完結する話ではないということにもなろう。素人考えかもしれないが。

 冒頭に話題を戻すが、こんなことを書いたのは、昨今の日中韓朝米の駆け引きがとても気になるからだ。そこで陰謀論を信じるなら、明らかに高度(?)な政治的判断が、今の為政者達の思惑と言葉に表れている。イザヤペンダサンが日本人を政治天才と言ったのは、市民のレベルで、その駆け引きが出来るということだったのだ。

 そこに日本のオリジナリティがあったはずだが、いまの日本はどうだろうか。アメリカナイズして、心まで変えてしまったのでは亡国の危機ではないか。多分そうではないのだろうと信じたい。

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