« May 2005 | Main | July 2005 »

本音と建前

 市民レベルでこんなことができる日本人は確かに、理性的だなと思う。と思うのは、陰謀論のサイトを最近になって眺めるからだ。

 そこにはさまざまな国家や団体が顔を出す。俄かには信じがたくとも、現実に起きている悲惨な出来事をも説明できる話なのだ。

 もし、それが事実だとすれば、世の中には深く浸透している人と人の関わりがあるということである。それは、簡単には清算できず、他には選びようがないものである。恨みであったり、血の結束であったりする。

 そのことは、安穏と日々を生きることを良しとするものからは、滅多に見えない。そのようなことを意識せずとも生きられるのは、ある意味では幸福なことである。

 しかし、意識を廻らして、何かを行おうとすると、かなりの確率で人の成した事にぶつかる。それは、人との関わりを結ばねばならないということだ。その意味でも、世界の試みは膨大でかつ深い。

 このことは科学研究においても似ているような気がする。新しいと思っても、ほとんど必ず何か先人の記述がある。

 しかし、科学研究ではルール上、潔く自分の成果を他者に解放することになっている。その透明性が、科学研究が他の人間の営みと違うことである。それが科学の発展を支えてきているのだと思う。とはいえ、この仕事も人間の営みである。そこにある恨みや結束は、多くの場合見えないだけなのだ。

 ところで、最近思うのは、研究に限らず、自分が実現したいと思っていた新しいことは、やはり容易ではないということである。これまでは若さゆえの無頓着さと無知さと前進への意思だけでやってこれた。

 しかし、そろそろ人生の半分を過ぎてきたところで、果たして自分なりに計画的かつ合理的に進めてきたこれまでのやり方が、本当に良かったのかという不安が増してきている。今はまだその成果を回収する時期にないということを示しているのかもしれないが、そうとは割り切れない。

 それを受けてか、自分が実現したいことも少しずつ変化してきて、現実的になり、帳尻を合わせようとしている節もある。ある意味、建前論に持っていこうということか。

 が、そんなのではつまらないと思っている本音の自分がいる。

 このように妥協を受け入れて、より現実的な選択に自分を変えていけるというのは、良さだと言っていいのか。多分、良いのだろう。ただし、焦らずに機会を窺うということであって、楽になってはダメなのだ。その場しのぎで横車を押したり、諦めたりして、将来のチャンスをみすみす逃すわけにはいかないのだ。それは安易な関わりを生むだけである。

 話が飛ぶが、このことはイチローが初球打ちからシフトしているという事実と無関係ではないだろう。さらには、打率を上げるためには、一打席で完結する話ではないということにもなろう。素人考えかもしれないが。

 冒頭に話題を戻すが、こんなことを書いたのは、昨今の日中韓朝米の駆け引きがとても気になるからだ。そこで陰謀論を信じるなら、明らかに高度(?)な政治的判断が、今の為政者達の思惑と言葉に表れている。イザヤペンダサンが日本人を政治天才と言ったのは、市民のレベルで、その駆け引きが出来るということだったのだ。

 そこに日本のオリジナリティがあったはずだが、いまの日本はどうだろうか。アメリカナイズして、心まで変えてしまったのでは亡国の危機ではないか。多分そうではないのだろうと信じたい。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

久しぶりの折伏

 知人の知人と話をすることがあり、何のことかと思いつつ呼ばれてみれば、結局それは折伏であった。

 その方は、日本でも有力な宗教団体の会員である方である。折伏も年季が入っていて、こちらが何か言っても、簡単に折れたり納得したり引き下がったりしない。そのこと自体は別に構わない。私より年長ながら、大したものだと思う。というのも、そうじゃない人たちもいるから。しかし、いつもながら彼らとの会話には強い違和感を覚える。

 当たり前のことなのだろうが、この種の宗教の方々は、会話においてこちらにある種の屈服を迫る。ある種の観念を受け入れることが、真の幸福への道であると語る。そして、共闘すべきであるという。普通の会話でそのようなことはあまりないのではないかと思う。

 私は教義には期待する。多くの教義の中には立派な考え方が詰まっていると思う。だから、教義の根底に流れる思想に触れること自体には関心がある。だから、わたしはその宗教を否定する積もりなぞこれっぽっちもない。その意味で彼の団体と利益の対立はいまのところ「あまり」ないと信じている。
 でも、人には期待していない。教祖様が教義と矛盾しているようなことをしているかどうかなんていうことを云々する自由なんて要らない。そんなことが人に出来たらそれは神様だから。逆に言えば、そこに入ってしまえば、そんなことを言いたくなるのが関の山だから。
 だから、誰々は名誉博士号を沢山受けて立派だとかなんだとか言うのを理由にするのだけは勘弁して欲しい。そのお方は、会員の方々には恩恵を与えているのかもしれないが、今のわたしにとっては関係ないし、偉そうなことを言う人間自体にまず惚れねばならないなんて却ってつまらない。むしろ理想的なことなら、無償で提供しようとする、そして互いに厳しく見詰め合う科学の方が好きだ。わたしは思想を評価し、その人を評価することはあっても、人を「崇拝」する必要はないと思うし、立派な人が必ずしも私に益を与えてくれるわけではないから、祭り上げる必要なんてないはずだ。
 立派なことに向かっていく人間の姿勢を美しいとは思っても、そういうことは種々あるし、自分が出来ること、すべきことと違う形であることは多い。

 回りくどいことを書いたけど、彼らも私の精神的自由を奪う積りはないのだろうし、シンパを増やしたい一身に過ぎないのだろうし、そうすることが彼らの役目なのだろうし。彼らの営みは、生命がなぜ生きようとするのかということと大差ない理由なのだろう。そういう自己増殖的、自己維持的なシステムができてしまえば、あとは野となれ山となれということだろうし、野や山は何かに益を与え害をも与えるのは、それが続いている証しなのだから仕方がない。

 でも、野山を保護したり維持したりする団体に与しようと今のところ思わない。それが、彼らの望むものであるならそれもよい、そうでないなら自分で変えていかねばならない。私にはそんなに自由もないし、時間もないのだ。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

合理性の追求の果てに

 以前も引いたMarxの著作の冒頭の言葉。

Men make their own history, but they do not make it as they please; they do not make it under self-selected circumstances, but under circumstances existing already, given and transmitted from the past.
(Karl Marx, The Eighteenth Brumaire of Louis Napoleon)

 思い通りにならない現実の中に生きなければならない我々は、合理性を持ってそれに立ち向かう。
 そして、習慣的な日々の積み重ねの中には、非合理とも思えるものも含まれている。分かりにくいこと。結果が見えにくいこと。習慣化が必要で、長い時間が掛かること。合理性を追い求めた結果、ついそれを蔑ろにしてしまう。

 しかし、それはボディーブローのように後から効いてくる。合理性だけでは勝てない何かが付いて回る。

 確かに、「今求められるものがこれだから、これを追及するのだ」と合理的には考えることができる。もちろん、生きるためにはそれも必要だろう。
 しかし、それだけでは、いざ予測できない事態が起きたときに対処できないこともある。それが一過性のものならまだいいが、地殻変動・天変地異がおきて後、対処が間に合わず生き残れないかもしれない。

 合理性を追求するものからすれば、まどろっこしい、面倒で、瑣末なことごと。しかし、それが健全な人生に如何に深く関わっていることか。
 わたしも恥ずかしながらここ暫くその問題に直面した。英語学習の放置。人間関係における必ずしも適切でない対応。生活環境の整備・生活習慣の怠惰さ。まさに落とし穴の底に居たように思う。合理性を求めた結果、単なる怠慢な自堕落さに繋がっていたのかもしれない。理屈さえあれば、逃避さえも合理的にすらなる。
 真の合理性に必要なのも、いつも言うがバランスであるのだと思い知る。

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« May 2005 | Main | July 2005 »