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聞くに優れ、語るに劣る

 「自分の伝えたいことが伝わらない」

 この疑問が生じる以前は、伝えたいことがあるから素朴に語る。それを繰り返していた。しかし、そんな「誠実さ」で十分伝わっているだろうという錯覚と、それで伝わらないなら仕方ないやという諦めが混ざっていたのだと今になって思う。今まさに書きながら耳を傾けている深夜ラジオが「真剣さの美しさ」を語っている。それで許されて興味を惹かれればいい。あるいは惹かれなくたって生きていけるんじゃないかという甘えがあったのだ。

 冷静に考えれば、伝えるためにはそれなりの作戦が要るはずだった。しかし、読み解くということを当たり前のことだと思っていた私には、それがいくら厄介な難解な文章でも、読めないのは読み手たる自身の所為であり、伝えたい側の責任だとはあまり考えなかった。行間だって読んだるわい!そう思いながら読んだ。そんなわたしだから、なおのこと修辞にはあまり関心がなかった。

 今から思えば、なんでそんな風に全てを自分だけで引き受けたのか。なぜ、表現する側の気持ちには入っていけるのに、その逆の聞く側の気持ちに入り込んでいくことの意義を感じ取れなかったのか。まさに「説き伏せる」ということだし、馬耳東風なら仕方ないというスタンスであったのだ。それは、はっきり言えば、自分の才はそのままで生くるに足るのだという自惚れに過ぎないのだろう。ただ、才を磨くためには聞かねばならぬ、という謙虚さもあったゆえに、なんとかコミュニケーションが成立している。私にとってコミュニケーションは、ある一方通行なベクトルがパーツとなっている。予期しえぬ反論に臨機応変に向かっていく。そういう現場での戦術が取れない弱さが常につきまとった。以前よりはましになってきているとはいえ、その場での双方向の戦いに滅法弱かった。

 それは、十分に世に尽くしているかという恐れから来ているのだと思う。一応は謙虚で、世間から場所を借りて息をしている存在であるとは自覚している。だからこそ、十分な存在の根拠で持って、世に臨みたい。だからこそ、一方的な論理は用意している。
 しかし、その一方で、合理的に進めたいという怠慢さが、コミュニケーションを阻む。中途半端な対話では、分かり合うことなぞできない。そのためには、没入するくらいの時間が必要だ。いちどきに一つしかできないわたしは、そこに没入して他を失うことが怖いのだ。ああ、結局毎回ここに出る。

 しかしながら今や、伝える側に回らねばならない。発信しなければ、わたしのあるのかないのか分からない才も、意味を成さない。ようやくもって、自分を使ってもらえるかどうかの瀬戸際にある。

 そして、それは自分にとっての生きやすさとはなんだろうかという問いに繋がるのだと思う。働かざるもの喰うべからず、と親に繰り返された。しかし、その点においては今は苦しいものの、私はどこか楽観している。まあ、問いを立てていれば、いつぞや解に辿り着くだろうと。

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