« 小論文の問題から教育が見える? | Main | 久しぶりの歯医者 »

明治の文豪と速読の意義

 大学1年生の頃、直面していた家庭の問題を掘り下げていく中で、私は哲学や心理学に救いを見出そうとしていた。先人達の知恵や考え方によって、これらの問題を解決できないかと思い、読書に耽っていた。
 その結果、自分に都合のよさそうなデータを集めたものの、未整理で錯綜していた私の脳ミソは、それを吐き出すことを望んでいた。日記のようなものを書き始めたのも、この頃だ。
 ある日、それらが募り、その環境から逃れることを綴った手紙を、高校時代の旧友に送りつけた。つまり、現役で入った理工系学部を辞め、哲学なり心理学なり精神医学なりに宗旨替えしようというのである。一度には一つのことしかできない、わたしらしい幼稚な対処法である。
 もう15年以上前に出したその手紙では、当時抱えていた問題の核心である肝心の家庭の事情を出さずに、切々と転学の合理性を説いていたように思う。

 かくして彼からの返事は優しいものだったが、その中に印象深い一言があった。「君の文章は明治の文豪が書いたようで一度読んだだけではなんだかわからなかった」と。


 多分、今でもその文体は大して進歩していないように思う。せっかちで、一つの想いからたくさんの意味を直観してしまい、それを網羅したく、しかし、大した説明なくそれを述べ立てる。こんな錯綜した文章は一読しただけでは分からないだろう。
 しかし、人との対話においては、わたしの言葉はわかりやすいという評価を受けることが、しばしばある。この矛盾はなんであろうか。

 対話では、常に相手の顔色を伺っている。相手が分かっていないなと感じれば、言葉を追加することが出来る。しかし、文章ではその機微がわからず、出来ない。
 いや、そのサービス精神がないわけではない。ただ、一方で、それを合理的に済ませたい気分が強い。であるからこそ、「含意」を大切にしている。例えば、助詞の「は」には、その直前の語を限定する意味が含まれている。ここで、単に「が」やましてや「も」を使わないのは、限定的な意味合いが含まれているからだと、説明することもある。まるで、法律家の文章のよう(?)だが、残念ながら、それを理解してくれる人は少ない。

 そんなことを考えているときに、ある科学雑誌に掲載されたネットワークの解析に関する論文を眺めた。この研究では、言語(語を接点とした意味的つながり)や生命の分子機構、計算機ネットワークなどに見られる相互作用を3ないし4つの要素間のパターンの統計値として表わしている。
 その結果は、意外さもなくありきたりだったのであるが、言語のネットワーク構造の単純さを今一度強く認識させられた。文章においては輻輳的なネットワークはほとんど見られないということである。
 言語は一次元情報列であるから当然な結果なのだが、書き手はそのことを強く意識しなければならない。輻輳させるには、時間を置く。つまり、意味を同じくするまとまりをある大きさにしたあとで、繋ぐ必要があるだろうということである。
 最近、「科学者が見つけた「人を惹きつける」文章方程式」(講談社α新書)を読んだ。そのなかでこれに対応するのは、<論理の階段をゆっくりと>であった。

 ましてや、上に書いた「合理性」を文章に反映させたのでは、読者にその合理性を強要することになる。言語の双方向性を絶ったやり方。これははっきりいって、エゴなわけだ。


 ところで、こんなエゴイストが書いた文章を読む価値があるかといえば、私はあると思う。以前にも「読書という愉しみ」なる文章を書いたが、分かりにくいからといって、その価値が失せるということではあるまい。
 ただ、理解できないのでは仕方がない。読む側としては、どうにかして意を汲みたいわけである。だからこそ読むわけである。その作戦の一つとして、速読があるのではないか。

 これまでは、味読こそ読書の醍醐味だと信じてきた。しかし、前述の本ではないが、味読に堪える惹きつけられる文章とは、その人が共感できる文章のことであろう。では、如何にして共感を得ることができるか。それには、書き手の感覚を掴むことが必要である。

 そのためにはじっくり対話することも大事だろう。しかしそれ一辺倒で良いとは言えないように思う。書き手がそれを望んでいない恐れもある。早口でまくし立てているような文体もあるだろうから。
 そんな彼らとは、何度も話をするほかないのかもしれない。そのためには速読が要る。とにかく全てを読まねば全貌がつかめてこないのではないか。前にも書いたように、読書はエゴイステックに他者とかかわれる手段とはいえ、そこから都合よい結論だけを引き出さないためにも、臨機応変さが要るのだろう。

|

« 小論文の問題から教育が見える? | Main | 久しぶりの歯医者 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29245/2917517

Listed below are links to weblogs that reference 明治の文豪と速読の意義:

» 神経質だからといって [想像力に屁を放て!!]
繊細なわけじゃなく、 逆に自分の神経に注意を払うあまり、 他人への配慮を欠いた言動に出ることはよくあるし、 それが必ずしも我の強い人というイメージを抱かせないた... [Read More]

Tracked on February 14, 2005 at 12:30 PM

« 小論文の問題から教育が見える? | Main | 久しぶりの歯医者 »