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小論文の問題から教育が見える?

 小論文の試験問題を作ることが数回あった。実際にやってみればわかってくるのだが、作る側の立場からはこれは、何を受験者に解答してもらうかが問題を決めるのだということである。あたりまえのことを書いているように思うが、しかしこれが意外に難しいのである。期待した解答が間違いなく導かれてくるような過不足ない問題文を作るのはとても厄介な話である。何回かの経験からは、多分2つの方向しかないように思えた。

 一つは、ヒントを提示し、あと一歩進めばゴールだよという誘導の仕方である。これからは、曖昧さがない非常に限定された解答を引き出させる。
 他方、非常に素朴な問いを提示して、自由に書かせる方法もある。これは採点が難しくなるし、問い方によってはなにを答えたらいいのか分からないということもある。たくさん書いたら点数が高いということでもあるまい。

 こうかけば、前者のほうがやりやすそうだ。実際、問題を検討する会議でも、この種の問い立て以外はありえないような論調が大勢を占めた。理系のこの大学では致し方ないことかもしれない。しかし、模範解答を一旦作ってしまうと、それを捨てない限り、前者の方式の呪縛に囚われることになる。その結果、ある解答を期待して、問題を作ることになり、その限定されたことがわかっている学生を好成績だとする考え方からは逃れられない。
 選抜の目的が明確ならこれでも構わないだろう。多くの定期テストはこれに該当するようにも思う。しかし入試となればどうか。優秀な人物を採りたいという漠然とした気持ちは当然あろう。その優秀な人物とはなにか。知識の量を問うのであれば、前者で構わないだろう。しかし、自省し、問題をたて、自らそれに答えていくという人材をとりたいとなれば、あるテーマに対して、自由かつ深い議論を展開することを受験者に期待したくなる。それを試験で測るのなら小論文くらいしか出題方法はない。しかし、小論文の課題を作るのは本当に難しい。そして、客観的な評価基準が提示しにくいから、公平な判断も難しい。

 教育機関であれば、優秀でなくても、教育によって優秀にすればいいんだという、非常に素朴な意見がある。しかし、教育する側が提供できるものは限られている。マンツーマンで出来るなら、それはさまざまなことが可能だろう。限られた時間や多人数への対処の中で、ある特定の方法を用いてしか、アプローチできない。もちろん、それだけでいいとは思わないものの。
 他方、受ける側にしても、試験に受かりたいというビジョンのみで、教えを請うためのスタイルが出来ていない。しかし、それは試験をする側にも問題があって、そういう問題を提示するからであろう。
 それを補完する目的で面接があるが、これも小論文と似て、基準をどうするかを明確にしないと難しい。わたしは、一度これで学生を取るべきか落とすべきか悩んだことがある。

 目的を持った主体的な学生が欲しいというなら、試験や面接によってそういう学生を採ることも出来るはずだ。しかし、受験をベースにした教育がもたらしたものは、そういう人材を見つけることが必ずしも容易ではないということである。となれば、そういう教育をしなければならない。そして、それが出来つつあるなという段階で、彼らは社会に巣立っていく。ある種の虚しさがそこにはある。とはいうものの、目的意識がある者は、放っておいても、勝手に伸びる。そうでないものを変えていくのが、教育者の仕事であるのだろう。

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