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久しぶりの歯医者

 歯医者なんて20年ぶりだ。毎年、花粉の時期になると、親不知が疼きだす。疲労したりすると、なおさらだ。神経のバランスを実感する。
 その右上の親不知が虫歯で欠けたのは10年くらい前だろうか。明らかに歯髄腔が露出して、神経に障るのだ。とはいっても、それほどひどいものじゃなく、眠れないとか、鎮痛剤を飲むとか、そんな大層なレベルじゃあない。

 ところが今年は痛みがひどい。昨晩は痛くて眠れなかった。以前から分かっていただけあって、今回は私も素直になる。そろそろ年貢の納めどきか。
 覚悟を決めて、ネットで親不知抜歯の話を見ると、あるわあるわ。見ているだけで辛くなる。
 その昔20数年前、小学生だった頃。近所の歯科に行ったところ、そこで虫歯だった数本の乳歯をごっそり抜かれた。抜くのは良いけど、そこはキズになるから後がしんどいのだ。あのときの印象が蘇ってくる。

 さて、うちの近所と最寄り駅周辺には、あわせて10軒以上の歯科医院がある。仕事を少し早めに終え、自宅の目の前にある歯科医院をチェック。ほとんど人の出入りがない。ネットでもなんの評判もない。最近新装開店したというのに…。ここは見送ろう。
 他にも、数件が目の届く場所にある。なんで歯医者ばっかり。それも、似たような雰囲気。小児科が少ないと言われているのに、この供給過剰ぶりに改めてやりきれない気分になる。もちろん、医者と歯科医は違うのだが。そんなことを思いつつ、駅のそばを探すことにし、最寄り駅のほうに歩き出す。
 その駅の周りには小奇麗だったり、休日診療や夜間診療などの魅力的な文言が目に付く医院が目白押しだ。ちょっと歩いただけで5-6軒。駅の反対に出ると、そこにも数軒。ネットで評判をチェックしていたとはいえ、正直言って悩む。

 ネットで見ていた1軒に覚悟を決め、階段を上ると、診療待ちの患者が数名。ここなら実績もあるかなと思い、思い切って保険証を出しながら、初診である旨を告げる。アンケートに答えつつ、歯医者を怖がる子供のような心境に。
 暫く待って呼ばれてみれば、すぐにレントゲンを撮りましょうと。昔は歯にフイルムか何かを差し込んで撮っていたはずなのだが、妙な機械に案内され、変な格好をさせられる。その結果を見て唖然。どうせ抜くだろう痛んでいる欠けた歯はともかく、それ以外の親不知が曲がって生えている。ああ、これはそのうちまた抜歯かと暗澹とした気分になる。
 抜歯はあっという間に済む。拍子抜けするくらい。今日はそれで終わり。しかし、家に着くころには、麻酔が切れて堪え難い。鎮痛剤を飲んで一時間。ようやく落ち着く。その後快癒して、医者にも順調だと言われ、一安心。

 わざわざ傷をつけるというのは、堪え難い。しかし、それによって良い方向に向かうのなら、超えねばならないのではないか。面倒だとか、その場がしんどいとか。そういう一時的な感情に流されていたのでは、真の快さは得られない。とはいえ、それなりの覚悟で望まなければ。うまく行かなかったときのフォローも念頭に置かねば、望むものは得られないだろう。

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明治の文豪と速読の意義

 大学1年生の頃、直面していた家庭の問題を掘り下げていく中で、私は哲学や心理学に救いを見出そうとしていた。先人達の知恵や考え方によって、これらの問題を解決できないかと思い、読書に耽っていた。
 その結果、自分に都合のよさそうなデータを集めたものの、未整理で錯綜していた私の脳ミソは、それを吐き出すことを望んでいた。日記のようなものを書き始めたのも、この頃だ。
 ある日、それらが募り、その環境から逃れることを綴った手紙を、高校時代の旧友に送りつけた。つまり、現役で入った理工系学部を辞め、哲学なり心理学なり精神医学なりに宗旨替えしようというのである。一度には一つのことしかできない、わたしらしい幼稚な対処法である。
 もう15年以上前に出したその手紙では、当時抱えていた問題の核心である肝心の家庭の事情を出さずに、切々と転学の合理性を説いていたように思う。

 かくして彼からの返事は優しいものだったが、その中に印象深い一言があった。「君の文章は明治の文豪が書いたようで一度読んだだけではなんだかわからなかった」と。


 多分、今でもその文体は大して進歩していないように思う。せっかちで、一つの想いからたくさんの意味を直観してしまい、それを網羅したく、しかし、大した説明なくそれを述べ立てる。こんな錯綜した文章は一読しただけでは分からないだろう。
 しかし、人との対話においては、わたしの言葉はわかりやすいという評価を受けることが、しばしばある。この矛盾はなんであろうか。

 対話では、常に相手の顔色を伺っている。相手が分かっていないなと感じれば、言葉を追加することが出来る。しかし、文章ではその機微がわからず、出来ない。
 いや、そのサービス精神がないわけではない。ただ、一方で、それを合理的に済ませたい気分が強い。であるからこそ、「含意」を大切にしている。例えば、助詞の「は」には、その直前の語を限定する意味が含まれている。ここで、単に「が」やましてや「も」を使わないのは、限定的な意味合いが含まれているからだと、説明することもある。まるで、法律家の文章のよう(?)だが、残念ながら、それを理解してくれる人は少ない。

 そんなことを考えているときに、ある科学雑誌に掲載されたネットワークの解析に関する論文を眺めた。この研究では、言語(語を接点とした意味的つながり)や生命の分子機構、計算機ネットワークなどに見られる相互作用を3ないし4つの要素間のパターンの統計値として表わしている。
 その結果は、意外さもなくありきたりだったのであるが、言語のネットワーク構造の単純さを今一度強く認識させられた。文章においては輻輳的なネットワークはほとんど見られないということである。
 言語は一次元情報列であるから当然な結果なのだが、書き手はそのことを強く意識しなければならない。輻輳させるには、時間を置く。つまり、意味を同じくするまとまりをある大きさにしたあとで、繋ぐ必要があるだろうということである。
 最近、「科学者が見つけた「人を惹きつける」文章方程式」(講談社α新書)を読んだ。そのなかでこれに対応するのは、<論理の階段をゆっくりと>であった。

 ましてや、上に書いた「合理性」を文章に反映させたのでは、読者にその合理性を強要することになる。言語の双方向性を絶ったやり方。これははっきりいって、エゴなわけだ。


 ところで、こんなエゴイストが書いた文章を読む価値があるかといえば、私はあると思う。以前にも「読書という愉しみ」なる文章を書いたが、分かりにくいからといって、その価値が失せるということではあるまい。
 ただ、理解できないのでは仕方がない。読む側としては、どうにかして意を汲みたいわけである。だからこそ読むわけである。その作戦の一つとして、速読があるのではないか。

 これまでは、味読こそ読書の醍醐味だと信じてきた。しかし、前述の本ではないが、味読に堪える惹きつけられる文章とは、その人が共感できる文章のことであろう。では、如何にして共感を得ることができるか。それには、書き手の感覚を掴むことが必要である。

 そのためにはじっくり対話することも大事だろう。しかしそれ一辺倒で良いとは言えないように思う。書き手がそれを望んでいない恐れもある。早口でまくし立てているような文体もあるだろうから。
 そんな彼らとは、何度も話をするほかないのかもしれない。そのためには速読が要る。とにかく全てを読まねば全貌がつかめてこないのではないか。前にも書いたように、読書はエゴイステックに他者とかかわれる手段とはいえ、そこから都合よい結論だけを引き出さないためにも、臨機応変さが要るのだろう。

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小論文の問題から教育が見える?

 小論文の試験問題を作ることが数回あった。実際にやってみればわかってくるのだが、作る側の立場からはこれは、何を受験者に解答してもらうかが問題を決めるのだということである。あたりまえのことを書いているように思うが、しかしこれが意外に難しいのである。期待した解答が間違いなく導かれてくるような過不足ない問題文を作るのはとても厄介な話である。何回かの経験からは、多分2つの方向しかないように思えた。

 一つは、ヒントを提示し、あと一歩進めばゴールだよという誘導の仕方である。これからは、曖昧さがない非常に限定された解答を引き出させる。
 他方、非常に素朴な問いを提示して、自由に書かせる方法もある。これは採点が難しくなるし、問い方によってはなにを答えたらいいのか分からないということもある。たくさん書いたら点数が高いということでもあるまい。

 こうかけば、前者のほうがやりやすそうだ。実際、問題を検討する会議でも、この種の問い立て以外はありえないような論調が大勢を占めた。理系のこの大学では致し方ないことかもしれない。しかし、模範解答を一旦作ってしまうと、それを捨てない限り、前者の方式の呪縛に囚われることになる。その結果、ある解答を期待して、問題を作ることになり、その限定されたことがわかっている学生を好成績だとする考え方からは逃れられない。
 選抜の目的が明確ならこれでも構わないだろう。多くの定期テストはこれに該当するようにも思う。しかし入試となればどうか。優秀な人物を採りたいという漠然とした気持ちは当然あろう。その優秀な人物とはなにか。知識の量を問うのであれば、前者で構わないだろう。しかし、自省し、問題をたて、自らそれに答えていくという人材をとりたいとなれば、あるテーマに対して、自由かつ深い議論を展開することを受験者に期待したくなる。それを試験で測るのなら小論文くらいしか出題方法はない。しかし、小論文の課題を作るのは本当に難しい。そして、客観的な評価基準が提示しにくいから、公平な判断も難しい。

 教育機関であれば、優秀でなくても、教育によって優秀にすればいいんだという、非常に素朴な意見がある。しかし、教育する側が提供できるものは限られている。マンツーマンで出来るなら、それはさまざまなことが可能だろう。限られた時間や多人数への対処の中で、ある特定の方法を用いてしか、アプローチできない。もちろん、それだけでいいとは思わないものの。
 他方、受ける側にしても、試験に受かりたいというビジョンのみで、教えを請うためのスタイルが出来ていない。しかし、それは試験をする側にも問題があって、そういう問題を提示するからであろう。
 それを補完する目的で面接があるが、これも小論文と似て、基準をどうするかを明確にしないと難しい。わたしは、一度これで学生を取るべきか落とすべきか悩んだことがある。

 目的を持った主体的な学生が欲しいというなら、試験や面接によってそういう学生を採ることも出来るはずだ。しかし、受験をベースにした教育がもたらしたものは、そういう人材を見つけることが必ずしも容易ではないということである。となれば、そういう教育をしなければならない。そして、それが出来つつあるなという段階で、彼らは社会に巣立っていく。ある種の虚しさがそこにはある。とはいうものの、目的意識がある者は、放っておいても、勝手に伸びる。そうでないものを変えていくのが、教育者の仕事であるのだろう。

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生命といううんざりするほど安易で貪欲で巧妙で豊かなシステム

 自然が長い時間をかけて構築した生命というシステムの探求に携わっていると、自分の発想の狭さを嫌というほど思い知らされ、途方に暮れる。とにかく遺伝というのは大したものだ。何でも捨てたりしないで取っておく。ある目的のためには矛盾するようなものも、寝かせておけばいいのだ。我々は知識の継承すら覚束ず、効率化と称してそのとき要らないものを排除したり、可能性を排斥したりする。

 われわれが考えるより遥かに凝ったことを、この試行錯誤と選択の歴史が実現している。使える部品はたった4種の核酸と20種のアミノ酸。もちろん特殊な用途には他の部品を作る道具も用意できる。

 その多様性の豊かさから学ぶものは、単に生活を利することだけではないのではないかとふと思う。それは何か。それぞれが考えれば良いことだろう。

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教育ってなんじゃ?

 優秀な人たちほど、自分が出来る人間であることを、自分の努力の賜物だと考えるらしい。人的資源しかないこの国で、大学教育がこれほど悲惨なものだとは思いもしなかった。文部科学省の力が弱いのだから仕方がないのかもしれないが、日々のやっつけ仕事に満足しているようなこの国で、高等教育が日の目を見るのは遠い日のことかもしれない。大学って学ぶ場所じゃないって思っているのか。

 それはさておき、教育には教える側と教えられる側の態度の問題がある。よりよく育ちたいと自覚している者は、それがどのようにしてできるのかを意識している。これは自立しているということで、自分の目指すものにどんなことが必要なのかを自ら考え、それをどのような手立てで、またどのような手順でもって進めていくのかをわかっている。
 人間はある程度の歳になれば、自分を構ってくれる人間はそれほど多くないということを理解し、自分で考えて生きなければ、人に相手にされなくなるのではないかということに気付くだろう。そうなれば、自分がどういう面で社会と関わっていくのかを鮮明にしなければ、生きていけないのだということがわかるはずだ。

 さて、目標がはっきりすれば、どうしていくべきかは見えてくる。これだけはおさえておかねばならないということが、決まってくる。それを一つ一つ丁寧に考え、実行していくということであろう。その場合に、どのようにそれらをこなすか考えねばならない。
 その意味において厳しい教育とは、その達成されるべきすべてを逐一その場その場で理解させるということでしかない。これはマンツーマンでしかできないことだ。彼らはできないことに一々向き合わされることになる。ストレスが溜まり、嫌な事ばかりで逃げたくなるのはわかる。現にそれらから逃避しているものもいる。彼らはそこで逃げても平気だだと思っている節が少し感じられる。
 集団を教育するためにはプログラムをつくり、その達成度を測っていくしかないのだと思うが、それを個人に対してきめ細かく行っていくだけの時間と余裕がわれわれに与えられているとはとても思えない。
 例外としては、優秀な一部の学生は、自分のすべきことを決意して、事に臨んでいる。彼らは自分の不足を正しく理解し、限られたリソースをうまく使っている。
 教育とは浮世離れしたことをするものだというが、当然のことである。浮世で学べることを学ばせることがどうして第一義なのか。それは家庭がすればいいではないか。そこでは足りないことを教えるのが教育であると思う。



 ただ、わたしは高い理想を彼らに押し付けているのかもしれない。今日は研究発表の練習だった。発表に臨んだ彼らは、わたしがここに赴任した後に入ってきた。だから、ここでの成果がはっきりとわかる。
 彼らが着実に進歩していることを、今日改めて実感した。一日一日で積みあがる何かを日々感じることは難しい。しかし、このような機会でそれを捉えることは出来る。ああ、私の仕事は無駄ではないのかと思う一方、こんな不出来な教員でもこのくらいの進歩が見えるなら、私なんぞ要らないのではないかと自虐的に思ってみたりもする。

 そしてこの練習でもうひとつ思ったのは、思っていることを伝えることの困難さである。自分の想いを、言葉なり、文章なりできちんと伝えるというのはそんなに易しくはないのだ。私はそのことを強く思い知る機会を得ている。両親の離別のきっかけは、想いが相互に伝わらないことに起因していたから。両親のように黙っていては分からないが、それだけではなく、表現力の問題もあるのだと思った。論文が今ひとつな者。発表が今ひとつな者。そうであっても、さまざまな質問に的確な対応をしてみたりする。
 相手の望むものを的確に捉え、それに応えていく。それをお互いに愉しみあいたいと思う。

 村上龍「13歳のハローワーク」に、教師のあり方が書かれている。人生の愉しみを学生諸子に伝えるのがその仕事だと言う。
 はたしてどうだろう。彼らに伝わっているだろうか。今の私には、申し訳ないが、その自信はない。

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就職活動と自信

 専攻の長と博士の入学者の審査について話をした。その機会を使って、学生の処し方を尋ねてみた。つい安易に学生を責めてしまう自分を反省しつつ、先達の手管を知りたかった。
 大学院を出てからそのままずっと同じ大学で教鞭を執っているだけあって、ここの学生の気質の機微に詳しい。思い切って、先日述べたような最近の大学院進学者の一部に見られる性質について聞いてみた。
 現実からの逃避の手段として大学院を選択する学生は多い。先生は修士までは認めても、博士までは認めないと言う。しかしながら、そんな彼らでも、社会と結局向き合って、きちんと仕事をしているのだそうだ。彼らには人より優れた能力があることは疑いのない事実である。このことは、これまでの私には実感できなかったことであり、少し自分を安心させてくれた。
 そんな彼らが現実を恐れる理由は私には分からないわけではない。首尾よく行かないことが多すぎる時間を長く過ごせば、人は世を恐れ、活動する動機を失ってしまう。そんな彼らが達成感と充実感を感じられるような仕事を提供すること。それが大事だという。

 雇用する側からしてみれば、手のかかりそうな御仁よりは、便利な即戦力を選ぶだろう。就職活動をするならそんな嘘をつけ、というのではないが元気にそういう人間達と関わっていくことが大事ではないのか。雇用する側だって鬼ではない。出来そうもないことを人に命じることは滅多にない。自分に出来そうにないなら、早く言うべきである。出来ないことを恥ずべきことと考えすぎるのは、プライドの高さに起因しているのじゃないか。わたしはなんでもできる。そういう思いこそが自分を苦しめていることを気付くほうがいい。そして、もっとあなたが貢献できることがあるのではないか。このことを首尾よくするためには何が大事か。いましなければならないことと、追々必要になることをきちんと理解すること。時間をかけて良いなら、それに向かってじっくり準備して良い。でも、すぐにしなければならないことを待っていたのでは、意味を失ってしまう。そういう臨機応変さが求められる。

 自分のできる能力だけを提示して、それを使ってもらって、あとは知らない。そういう貢献だけで良いでしょ。ってな発想は、学校では許されても(?)、はっきり言って駄目です。できることを自分からもっと人にアピールして、自分が使える場所を探して、それで仕事をしないと。難しいと思うかもしれないが、そのこと自体は大したことじゃない。みんながしていることだ。

 自信を持とう。幾ら頑張っても無理なら、プライドもろともそこから降りてしまえ。それをしなければ、みんなが不幸になる。そして、時間をかけてじっくり構えれば良いではないか。あなたの良さはもっと他にあるはずだ。

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