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美学と謙虚さと

 尊大さと謙虚さの表れとは、他者との関わり方の未熟さであろう。若さとはそういったものかもしれない。

 浅はかに美を追求すると、それは多くの場合、他とは共有しがたく、孤独なる尊大さに入っていく。自分の経験を省みない、もっと言えば美などの発想の根底に流れる自意識を捉えていない議論は、型どおりで、上滑りで、傍観者はなんとも対処に苦労する。その、最初から対話する気もなく、こうするのがいいのだという短絡的で一方的な発話のあまりのエゴは、価値観の交換という楽しさを奪う。
 そもそもその価値観は誰から貰ったものなのか。多くの場合、ネットや書物やそういう他者なんじゃないのか。そして、それを呉れた人にあこがれるが、そういう域に達していないと思う人には尊大に振舞う。
 彼らがそう振舞う原因は、立派だと感じる人たちのまさに立派さを生み出している部分を見ずして、ただ、金だの、研究成果だのという結果に対する羨望にあることが多い。
 結果の欲しい理由を、(楽しくなくても)生きるためだから仕方ないなんていう大人びた物言いは、はっきり言ってつまらない。それって本当なの?そんなこと誰が言っているの?誰との共感って感じだ。そんな便利な物言いに安心しているんだとしたら、そしてその強弁に胡坐をかいているんだとしたら、それって自己欺瞞じゃないのかなと思ってしまう。
 また、そういう尊大さでそのありようを人に押し付けるって言ったって、世間様に向かって語るわけでもなく、身近にいる人を便利に使って自己満足する。それが正義なのか?そういうエゴをやるなら世間も未来も含めて徹底的にやって欲しいとも思うが、そこまでは出来なくて、環境に甘えているだけともいえる。こんなの美学でもなんでもないじゃないか。

 しかし、謙虚一方では美には到達できない。「皆が言っているからそうなのだろう」では、前に進めない。それを謙虚とは言わない。どうせ無理さ。これも尊大と同じく真の対話とは言わない。ただ大人びた単なる諦念は、周囲に波風を立てず、始末がよく映るだけのことである。
 そして、安易に他者の言を信頼するというのもどうだろうか。自分の想いがきちんと相手に伝わっているか。そして本当に相手の言葉が聴けているだろうか。それには、言外の行間を読み、自問しなければわからない。

 エゴと謙虚は個人に同居していて、いずれも極端な様相を呈しながら、最終的には折り合うところで生きることになるのだろう。
 いずれにせよ、美を追求したいという意気込みは大事なことだと思う。とはいえ、やはり何度も言うようにバランスであって、それがうまく取れてきたときにその美は個から公に花開く。それは、どちら側からのアプローチでも可能かもしれない。

 だから、真の対話を望まない尊大な人たちへ、もう説教臭いのは止めようかな。それを押し付ける権利を私はもう諦めるべきなのかもしれん。というより、それは生物学的に生きるということと、人間的に生きるということの狭間にある。押し付けられて幸せになる?それもいいが、そんな責任を負いたくないし、負わなくたっていいんじゃないか。こうすべきじゃないですかって思うなら、自分がしたらいい。
 ただ、違和感とそこからの苦悩を救いたい。なんとも逆説的な言い方かもしれないが、このBlogだってそんなものさ。

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