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思考の源泉I―不安と安全

 故あって、「講座 自閉症療育ハンドブック」を読んでいる。この症状が、脳の生理学的なダメージに基づくであろうことについての傍証が次々と並べられ、読む者を辛くする。自閉症児の異常行動の多さは、他の精神医学的な症例と比べても多いらしい。しかし、それが現実であり、避けて通ることは出来ない。それに対処するとして、その異常さが何に由来するのかを理解したい。
 彼らや周囲にとっての大きな困難は、突発的で日常生活に織り込まれていない事件にぶつかったとき、それに対処できずパニックを引き起こすということであるらしい。逆に言えば、彼らは日常反復される事々に安心して取り組めるということである。これらを考慮して、自閉症児を養育しようとするTEACCHというプログラムがある。これは、周囲の理解の下、彼らに不安を起こさせる事件を回避し、ルーチン的な作業に彼らが安定して付けることを目指して、共存を図っていこうとするものらしい。
 会話はルーチン的な作業ではない。であるから、そのような不安を呼び起こす事態をなるべく回避する、それこそが自閉であるのだろう。その意味で、彼らは慣れ親しんだ記号や文字のなかには埋没できても、そんな臨機応変さを身につけることは容易ではないのだろう。

 それを踏まえて自分の内面を探ってみれば、その種の性質も自分の中にもちろんある。それを個人の問題に帰着して終わるのは簡単だ。しかし、そうではなくて、生物本来のありようとはそもそもルーチン的なものだと考えたらどうか。つまり、何かを成そうという意思はなく、ただ生き、遺そうとする存在だということだ。そうすると、ヒトとは、脳の肥大に伴って、そのような思考ができるようになった存在だと考えることもできよう。そうなれば、他の生命との間には大きな溝があることになるが、それは本当だろうか。連続的な進化を念頭に置くなら、それは安易には受け入れがたい。

 そうではなく、思考とは、突発的な事象を日常化するための、生命の本能的な働きが源泉にあると考えられないだろうか。多分、中井久夫先生が言う「安全保障感」と関わるのだろう。安全の危機、不安を回避する能力が高いほうが環境に適応しやすいだろうことは想像できる。現代ではそれを学習という形で取り出して人を訓練し、集団としての安全保障感をも高める営みを続けている。
 このあたりは以前にも書いたが、いま一度しばらく考えてみようと思う。

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世界とは・時空とはII

 前回こう書いた。「もっと言えば、望んだものを得るとは、得られるものを満足して得るということであって、得られるものに自らを向かわせた、つまり、流れ(これは時間軸を必ず含むが)に素直に従ったからだともいえる。望んでいるものがそもそもの運命に合っていないのに、それを望んでいる時点で、夢は叶わないのだ。それは妥協的な側面もあるが、手に入らないかもしれないものをいつまでも追い求めることはどうだろうか。」
 しかし、この考え方が気に食わない自分に気付く。
 いつまでも追い求める少年であることを止めよ。それは不毛だと言いたかったのだが、果たして自分はその不毛さを受け入れているか。諦めず途方もない何かを追い求めていないだろうか。この矛盾は正直に言って辛いのである。
 「おとなの小論文教室。Lesson225 テーマと世界観」にはまさにそのことが書かれている。実は自分が具現したい何かを明確化することが容易ではない。漠として、ただ研究者になりたいとか、成果を挙げたいとか、そういうことなのである。科学研究をして思うことは、ちょっとやそっと考えただけでは、ほとんど他の人の考えに行き当たる。行き当たったとて、追い越せば良いのだろうが、先んじられれば負けではないかという恐怖感の中での選択である。明確化したつもりでも、また引き戻されるのである。
 だからこそ、その具現化を幾ら試みても何度も引き戻されるこの仕事の辛さの中に、皆生きていけるんだろうかと、お節介ながら思う。自分でさえ容易ではないこの環境を、勧めたくない自分に気付く。老いて農業をしている人々が、「こんな天候にも左右される不安定な仕事に、子供らを就けたくない」というのと、似たような思いか。つまらん教員だ。しかし、もちろん共闘しようという想いも弱々しいがある。
 私のパターンは、問い詰めて、問い詰めることだ。その結果、出てしまう先は、平凡な不可能性であることが多いように思う。だからこそ却って、根本的な問いに、絶対的とも思える不可能性の中に、自分を投げ出したい。そこで踏ん張らせてもらうことをどこかに与けたいが、それこそは自分で得なければならない。
 そうこうしているうちに、時は流れ、自らは取り残されていくのか。

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世界とは・時空とは

 仕事をしていて、ふと空間のひずみについて想いが至った。多分、微分幾何でも勉強しないといけないんだが、それを考えて「幾何学と宇宙」を読んでいると、われわれの住んでいる世界とはどんなものなのかという疑問が湧く。五感や作り出した測定装置を使ったとて、その一部分しか知る由もないわれわれにとって、そこは想像するほかない。
 時間と空間を別のものとしか捉えられないわれわれにとって、世界とは変化と可能性に満ちた予測不可能なものである。しかし、原理に基づく静的な世界像を提供する科学は、その解釈を許さず、運命論的な生き方をも示唆する。

 それはこんな感じだろうか。変化の余地はなく、全てが既に存在している。その意味では全てが運命だと言えるのだろう。我々は時間軸上には未来にしか移動できないし、それらの存在を時系列で見ることしか出来ない。ただそういう存在だということに過ぎない。しかし全てが運命付けられているからといって、望んだものが全く得られないというわけではないだろう。
 もっと言えば、望んだものを得るとは、得られるものを満足して得るということであって、得られるものに自らを向かわせた、つまり、流れ(これは時間軸を必ず含むが)に素直に従ったからだともいえる。望んでいるものがそもそもの運命に合っていないのに、それを望んでいる時点で、夢は叶わないのだ。それは妥協的な側面もあるが、手に入らないかもしれないものをいつまでも追い求めることはどうだろうか。
 その意味で、全て運命だから、好きに生きれば良いというわけでもない。もし、それを選んだとするなら、それが運命付けられていたということである。それを我々は自由と呼ぶ。我々は俳優ではあっても演出はできない。自らや世界を思うが侭に操る側にはいないということである。
 そして、操れるという錯覚である意思とは、要するに無知であって無謀であるが故に機能しているということである。全てが現出している以上、その意味ですべきことは何もない。そこに現れているものが真実であるということに過ぎず、それを受け入れ、それを知り手に入れたことを喜びとすべきなのではないか。
 
 この考え方に無理があるのは、承知しているし、もっとエレガントな思想もあるのかもしれない。特に、人生において良いとは何であるかについての考察が一方的であるように思う。強い力で持ってなにがしかを引きつける人々には弱い他力本願的な発想と映るだろうか。しかし、それとの間に真実が横たわっているように思う。

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変態って…

 オブラートに包んだ文章は、口当たりが良くて、人を傷つけないが、真実を伝えないのかもしれない。今回は(も?)、直截的に書いてみたい。

 先日学会に出たら、他所の大学の人から、うちの大学には「変態が多い」って言われた。
 酒の席での話で、冗談めかした言い方なのだろうが、あまりにもストレートな表現で参ってしまった。が、よくよく考えてみれば、普通じゃない人が多いように思えてくる。自閉症気味の奴。統合失調症気味の奴。公私の区別が出来ない奴。自分はそうじゃないと思い込みたい輩。などなど。

 うちの大学はいわゆる偏差値が高い。それは、ある種の才能に溢れた人材だといえば聞こえがいいが、実情はそう単純なものじゃない。その分、ある種の才能に劣った人たちの集いでもあるのだ。もともとの才気で合格しているのならともかく、一生懸命勉強してようやく受かったような人間は、経験すべき多くのことをしてきていない。その傾向は、少子化が進みつつある現状で、受験教育が増長した結果、却って顕著になったと思う。成熟していない子供が量産される。

 「お勉強だけしてればいいから。」
 社会経験を積んでいけば、いやそんな大げさなものではなくて、親との関係が自立に向けた厳しいものであれば、本当の才気とはさまざまな能力のバランスを維持する力であるということが見えてくる。それは、不足しているからといって逃げず諦めないということであり、それこそが他者の価値観の受容ということになる。
 変なプライドは、できることだけを自分の逃げ場にする。逃げている自覚が、それをしている他者への敬意に表れればいいのだが、プライドがそれを許さない。いや、それを許したとて、その関係は甘く安易な生き方になりはしないか。

 本当に世はそのように流れているのだろうか。それが本当の喜びに繋がるのだろうか。先に書いた精神病理学的な症状をただ受け入れて生きることが本当に望むべきところなのか…。

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美学と謙虚さと

 尊大さと謙虚さの表れとは、他者との関わり方の未熟さであろう。若さとはそういったものかもしれない。

 浅はかに美を追求すると、それは多くの場合、他とは共有しがたく、孤独なる尊大さに入っていく。自分の経験を省みない、もっと言えば美などの発想の根底に流れる自意識を捉えていない議論は、型どおりで、上滑りで、傍観者はなんとも対処に苦労する。その、最初から対話する気もなく、こうするのがいいのだという短絡的で一方的な発話のあまりのエゴは、価値観の交換という楽しさを奪う。
 そもそもその価値観は誰から貰ったものなのか。多くの場合、ネットや書物やそういう他者なんじゃないのか。そして、それを呉れた人にあこがれるが、そういう域に達していないと思う人には尊大に振舞う。
 彼らがそう振舞う原因は、立派だと感じる人たちのまさに立派さを生み出している部分を見ずして、ただ、金だの、研究成果だのという結果に対する羨望にあることが多い。
 結果の欲しい理由を、(楽しくなくても)生きるためだから仕方ないなんていう大人びた物言いは、はっきり言ってつまらない。それって本当なの?そんなこと誰が言っているの?誰との共感って感じだ。そんな便利な物言いに安心しているんだとしたら、そしてその強弁に胡坐をかいているんだとしたら、それって自己欺瞞じゃないのかなと思ってしまう。
 また、そういう尊大さでそのありようを人に押し付けるって言ったって、世間様に向かって語るわけでもなく、身近にいる人を便利に使って自己満足する。それが正義なのか?そういうエゴをやるなら世間も未来も含めて徹底的にやって欲しいとも思うが、そこまでは出来なくて、環境に甘えているだけともいえる。こんなの美学でもなんでもないじゃないか。

 しかし、謙虚一方では美には到達できない。「皆が言っているからそうなのだろう」では、前に進めない。それを謙虚とは言わない。どうせ無理さ。これも尊大と同じく真の対話とは言わない。ただ大人びた単なる諦念は、周囲に波風を立てず、始末がよく映るだけのことである。
 そして、安易に他者の言を信頼するというのもどうだろうか。自分の想いがきちんと相手に伝わっているか。そして本当に相手の言葉が聴けているだろうか。それには、言外の行間を読み、自問しなければわからない。

 エゴと謙虚は個人に同居していて、いずれも極端な様相を呈しながら、最終的には折り合うところで生きることになるのだろう。
 いずれにせよ、美を追求したいという意気込みは大事なことだと思う。とはいえ、やはり何度も言うようにバランスであって、それがうまく取れてきたときにその美は個から公に花開く。それは、どちら側からのアプローチでも可能かもしれない。

 だから、真の対話を望まない尊大な人たちへ、もう説教臭いのは止めようかな。それを押し付ける権利を私はもう諦めるべきなのかもしれん。というより、それは生物学的に生きるということと、人間的に生きるということの狭間にある。押し付けられて幸せになる?それもいいが、そんな責任を負いたくないし、負わなくたっていいんじゃないか。こうすべきじゃないですかって思うなら、自分がしたらいい。
 ただ、違和感とそこからの苦悩を救いたい。なんとも逆説的な言い方かもしれないが、このBlogだってそんなものさ。

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