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個の確立と宗教

 大学生の頃から、勧誘されることで生じた新興宗教への違和感がぬぐえなかった。それはその後ついぞおきたカルトの事件で頂点に達した。なかでも特に、ある宗教の研究所での取材番組の、「これが尊師のDNAです。」と言った信徒を映した一シーンが強く印象に残っている。わたしも人並み以上に、人生とか生き甲斐とか心の問題に関心はあるが、宗門をたたこうと思ったことは一度もなかった。だからこそ、科学的思考を修めた筈の者が、この種のものに囚われてしまうことが分からなかった。この疑問は学生達との日々の生活の中で大きくなっていき、これを清算したくて禅・整体・ヨガ・臨死体験などに関する本をここ暫く斜め読んでみていた。

 そしてようやくわかったのは、この種の新興宗教の集人力の基盤には自力本願的な神秘体験を介した自己実現への憧憬があること。そして、実際にはかなりの確度でそれを体験できる。しかし、その体験の使われ方によっては、個々人の考え方を解放せず、却って拘束するのだろうということだった。

 私自身はいわゆる神秘体験をしたことはないが、普通に金縛りだの、数年にわたって繰り返されるひどく抽象的な悪夢を見ているので、現実とかけ離れたその種の体験は起こりうるのだということは理解できる。そして、ある本を読む限り、身体や精神を日常と違う特殊な状態にする、つまりは座禅やヨガによって、それを体験することは可能だということだ。

 この体験が、たぶんに特殊で神秘的で意識を変えるに足るものであることは想像がつく。その一方で、この体験を科学的かつ論理的に矛盾なく説明するものは今のところない。だからこそ、その体験を正しく解釈するには、自分そして取り巻く世界への省察が不可欠なのだ。つまり、自省を続ける中で、体験が手助けとなって真の「悟り」に至るのだ。人は誰しも日々の不安に苛まれ、自分を省みる。しかし、新興宗教に囚われる人々にとって、それは不徹底で、他律的なのではないだろうか。だから、体験だけが深い自省なしに得られたとき、教団によっては「体験=悟り」としてステージが上がったのだというようだが、それを安易に説明するために傍らにある教義で納得させられる。つまり却って他律的な思考に囚われてしまうことになるのではないか。

 とはいえ、カルトの考えに囚われていても、その中で自由な発想をして、勢力の拡大に寄与する人も居る。それが意味するのは何か。個の確立とは、社会の中で自分なりの考えを持って自由に生きることであると安易に考えていたが、どうやらそれだけではないようだ。囚われも価値の創造には必要になるだろう。ここで問題になるのは、それが結局は自らの利益を中心として成立しているかどうかだ。そう思うと、強いエゴと強い執着が価値を作るが、それが限られた人のためのもので、周囲に不利益をもたらせば、身内からは褒められても、周囲からは疎まれる。

 ただ、この考え方はあまりに静的なのだと思う。価値や利益の伝播というダイナミクスを無視している。カオスをようやく議論するに至った現代科学で説明できないことはまだまだ山のようにある。考えても分からない?そのようなどうなるかわからない将来に怯え、将来に恃み、われわれは生きていくほかないのだ。それを越えていくには、無根拠な確信では無理であろう。

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