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ついにこの日が…

 雅子さまの「適応障害」がついに公表された。この背景に関してはいろいろの憶測が流れているが、要するに新憲法の下、天皇制および宮内庁が弱体化させられ、半世紀を越えた今になってその影響が現れたということらしい。「開かれた皇室」、「一夫一婦制の下での世襲」などの問題が噴出した結果という。

 もういいではないか。皇太子の常識が国民と繋がったとき、われわれはアングロサクソン的自由を獲得するのかもしれない。憲法改正論議も例外視せず、新たな日本を目指す徹底した議論が必要だと思う。

 といいながら、「小さな国家」、「国際貢献」。それだけでこの国が成り立つのだろうか。えもいわれぬ不安がいや増してくる。グローバルスタンダードしか道はないのか。今更、国粋主義もないが。最近なぜか気になる日航機123便墜落事故やオウム事件などと意識がリンクする。それを受け入れることは屈服を意味するかもしれないが、アングロサクソン的自由を手に入れることは…。私は社会学や政治学のことはよくは分からない。でも自分の自由も含めて考えている積りだが、どっちでもいいという社会に対する諦めも強くある。口角泡飛ばさないといけないんじゃないかっていう変な気負いが自分から抜けちゃったら、人間的にまずいのかね。

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だんだんくたびれてきた

 学生たちへの不満を書き連ねてきた(本当は不満じゃなくて期待なんだけど)が、だんだんそれに飽きてきた。

 こんなことを書いても、彼らはすぐに変わるわけじゃないし、ましてや私の言葉を背景も含めて理解してくれている人は少ないだろう。これは意味があるんだろうか。そんな仕事になじめない。諦めを自分に押し付けねばならない現実はとても辛いものだ。だからこそ、自分を鼓舞するためにも、このはけ口としても、ここに期待を込めて書いていた。でも、そんなことばかり書いているから、人気がないんだとある人に言われた。それはわかる。これは苦言だから、彼らにとってうれしくないのは当然だろう。でも、それでいいのか。それを取り除いて、仲良しグループにすればいいのだろうか。

 今一度、前任地での仕事の楽しさはどこにあったかを考え直してみた。締め切りに追われたり、ノルマがあったり。これらは辛いとは思いながらも、生活にメリハリをつける大切なものだったと思う。「おとなの小論文教室。Lesson208 人を生かす――勉強?それとも仕事?(6)」を読んでいて、まさにそう思った。日々の仕事の緊張感は、確かに肉体的にも精神的にもきついが、充実感を与えてくれる。

 それが今ではどうだろう。成果を挙げて、人に喜んでもらう。そういう関係を互いに構築したいわけだが、それはできていない。エゴが蔓延する。さらに、約束が反故にされたりするのが平気な日常。これが当たり前になってくると、さすがにやる気も失せる。そのことに当初は違和感があった。しかし気がつけば着実にそれに慣らされてしまう。着任当時は、一生懸命厳しく生きることの楽しさを教えられたらと思ったのだが、今は昔。まだ3年も経っていないのにね。これから頑張ったらどうにかできるだろうか。

 「おとなの小論文教室。」の山田ズーニーさんは、最近の若者たちに期待を込めて語っている。しかし、この言葉が通じない人たちにどうやって伝えるのか。教員は一体何のために居るんだろうか。益々わからなくなってくる。そんな現実を前にしても、へこたれず、ぼちぼちとやっていくことが大切なんだろうけど。結局、教員、延いては社会に甘えているんだよね。楽しければいいだろうって?なんだか虚しい。それが教員の意味だとしたら、社会の期待もわかろうものだ…。

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無自覚から自覚へ

 三年連続で研究室所属した4年生が、そのままうちのラボに残ってくれなかった。かなりの高率で修士課程には進学するところである。なんでだろう。かなり凹む。わたしは人気がないようだ。進学云々以前に、4年生で所属しようという学生がそもそも少ないんだから。
 まあ、なめられているんだろうなと思う。ここを読んでいたら、同じような苛立ちを感じる人がいるのを知る。これは大学教員が直面する現実なんだろう。ああ、あほらしい。(でも、ここに大学教員にしがみつくしかない現実が語られていて、だったら人の事ばっかり言えないじゃんって思う。)

 だから、わたしもそれに対抗していろいろの策を弄しているわけだが、その成果として学生からはとても窮屈に見えるらしい。でも、教員で居る以上、このやり方を辞めるつもりはないです。だけど、これをやっているとジリ貧なんだよな。所詮、学生からすれば、学校なんて通過点に過ぎないから、安易に教員を批判して、学位なりを頂いちゃえばあとは用済み。私の真意を汲もうという奴は滅多に居ない(こう書くと、単なるエゴの押し付けに聞こえるだろうか?)。こんな割の悪い商売もないなって思う。短気だしね。

 ある先生に、大学教員なんて入れ物なんだから、それを演じつつ、やっていくしかないんじゃないかって言われたことがある。多分、わたしの一杯一杯さに、哀れみを感じてなんだろう。それはそれでうれしい言葉だった。でも、わたしには譲れないところはある。だから不器用にこんなやり方をしているんだ。
 もちろん、それを実現するためには、いろいろのやり方があるだろう。手を変え品を変えやってみても、最終的には自立してもらうことを目指している。でも、学生たちから知識でもなんでも呉れ呉れって言われている感じがする。甘えたい、頼りたい能ある若者からすれば、わたしは不適格なんだろう。
 これをいいことに、学生を使い倒している先生方もいらっしゃる。魅力的な仕事であることを強調し、手取り足取りすべきことを噛み砕いて説明して。組織としての生産性は上がるだろうね。でも、彼らの自立はいつの日だろうか。
 会話においても、「モー」っとしたはっきりしない感じはどこから来るんだろうか。わたしがどういう想いで話をしているかを、想像している感じが全くない。あくまで表面的な言葉の意味だけを捉えることに終始し、その言葉がどんな背景から出ているのかを想像しようという意識がないのだ。人と人との係わりにおいて、相手の考えを推察するっていう訓練を受けていないんだろうか。まあ、人が自分と違う考え方をしていることに愕然とし、それを理由に人を信頼できなくなる人もいるくらいだから、そういうことなんだろう。頷いたり黙って神妙な顔をしたりしていれば流せるって思っている人も多いし。問われているのに、答えがない。当事者じゃない。どれもこれも彼らが望んだ結果ではないんだろうが。

 高い教育を施されるっていうのは、自分の内面を掘り下げて、今まで気付かなかった自分に気付き、そうやって最終的には知の公共性から至る「公」の意義に想いを致すことだろうと思う。しかし、日本人にとって知とはとても私的である。処世術としてのキャリアである。であるから、研究にしてもなんにしても、みんなのためになにかをするという意識が乏しいように思う。このことは、結局税金の無駄遣いにも繋がるだろうし、エリート養成なんてのは勘違いの生産に過ぎないと思われている。なんだか、自分に都合のいい環境を求めることに終始し、キャリアを利用して他力本願的にやっていくことが強く意識される。
 そんなだから、教育の大衆化によって「読み書き算盤」以上の知を実感できる人が増えてきた結果が、今ある現実なんだろうな。自分と直面したこともなかった人々が向き合う葛藤。その過程でいやらしいエゴだけが拡大する。自己弁護・逃避・ジコチューの蔓延。これが解消され、公への意識がより成熟した形で回復されるには、一体あと何世代かかるだろうか。

 ここからはエゴかもしれない。どこへ行ったって一緒だとは思うけど、自覚のない人たちと仕事はしたくないな。無自覚で無責任であることを責めても平然としていたり、かといって目の前の課題に集中できない。それであるのに進学したいだなんて寝呆けた無自覚な人が蔓延している環境で、じっと我慢しているうちに自分まで阿呆になってしまいそうな気がする。でも、こういうところで訓練をつんだら、行く行くは宗教家や政治家くらいにはなれないだろうか…。

 まあ、でもわたしも手取り足取り教えられ、それで学んできたようにも思う。それ以前に、自立的に行動していたけれど。ああ、そうか、この今の学生諸氏の状態はわたしの若かりし頃と同じじゃないか。
 といってもなあ。それに人生を捧げろって?

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生き甲斐としての仕事・研究・教育

 生きていく動機が消えてしまいそうなとき、われわれはそれを補償するために何か代わりのものを用意しなければならない。とはいえ若いうちは物事が見えていないから、厳密なものは要らなくて、多少のごまかしは利く。それは自分をごまかしていることに気付かない、あるいは重大に感じないという点で、あっけらかんとしたものだ。でも、歳を少しは重ねると、それでは自分を許せなくなってくるんだろうか。


 先日、某公立大のごたごたで他所に移った同期の友人と、本当に久しぶりに酒を飲んだ。

 彼は理系から大学院で文系に移って教員をやっているのだが、私なんかとは違って、早々に学生結婚し、もう子供も二人居る御仁である。一時期は余りに太って、なんだか切れのない発言が多かったが、久しぶりに会ってみると、ひげなんぞ生やして、まあ多少は精悍さが戻ってきた。

 そんな彼と研究や教育について話をした。言わせれば、彼の現状は画期的な展開も望み薄で、ノーベル賞を取れる(これは思い上がった言い方なんじゃなくて、そういう可能性がゼロではないということでさえ、やっていく支えになるものだ)ようなこともないだろうと。でも、子供もいるし金もかかる。大学教員にしがみつかなければ、喰ってはいけない。そんな夢のない自分が満たされるのは、学生を前に偉そうなことを言うときくらいだ。そう言うのだ。

 彼と私の会話はいつもこんな調子。そう素直に言われてしまうと、わたしは返す言葉がない。人のネタを剽窃しても平気で、それだってみんなのためにやっているんだなんて言えるほど私たちは逞しくない。だから彼の言いたいことはよく分かる。結局われわれ学者は、衒学的な生き方を取らざるを得ないのか。塩野七生女史が最も嫌いなタイプなんだろうが、紙と鉛筆で生き、意気地がなくて、安全なところから人を責めるだけの。

 彼にしてみれば、理系から文系に参入して、数学の知識というアドバンテージを保った状態で、その学問を切ってみようと思っていたのだろう。それ自体が、安全なところからの攻めだったんじゃないのか。もちろん、専門を変えるっていう冒険なのには違いないが。しかし、それだけでは心の内側を全て語ったことにならない。我が大学の気風からの逃避だったんだと、彼は言う。工学部の体育会系のノリが肌に合わなかったんだと。

 彼の謂いでは、私は人嫌いとか何の彼の言いながら、結局人とうまくやって行っていると。その上、私は挫折を知らないんだろうという。言い方に嫌味がないから良いのだが、そんなもんだろうかと少々考える。多分ちょっと違うだろう。私は彼ほど理想主義的じゃなくて、悲観的じゃない。そして彼の想像以上に私は現実的だ。確かに、行動は慎重だから、理想と現実の折り合いをつけるのに時間がかかっているように見えるのかもしれない。そうではなくて、現実をよりよく知った上で行動したいだけだ。そして、それでも遅くないと思うし、解決していないなら執拗にやるだけだ。問題を解決するってのはそんなに容易じゃない。時間もたっぷりかかる。一時出し抜かれたって、挽回は可能だ。だから挫折なんてないし、したって次があると思う。

 とはいえ、もう人生の半分来てしまったんだとふと思ったとき、寂しさと恐ろしさが、ほんの一瞬ではあったがかなりの強さで私に迫ってきた。そこで思うのは、やはり研究しか今はないということ。偉そうに言っているが、結局私が一番刹那的なのかもしれない。今頑張ってさえいれば、将来はそのときどきでどうにかなるという無根拠な自信に基づいてここまで来たのだ。蓄積を重視しつつ無視するこの矛盾の中。
 自分は全能で何でもできるってのも嘘だが、みんなが問題にしているそれを、それは出来ませんっていうのも嘘だ。その場で出来なくたって、ある適度なタイムスケールの中で可能にしていくんじゃないか。それを目指すのが生き甲斐になるわけだし、それって身勝手な問題じゃないはず。これをこうしたいって想いが強すぎるのがやっぱり問題じゃないのか。

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科学することの意味って

 自然科学の研究者が血眼になっていること。ここにも書かれていたが、「モデル化+数量化=対象操作可能」の実証であり、その試みである。以前、操作、つまり何かを自分の思い通りにすることについて、ここだけでなく、そこここに書いたが、要するにそういうことだ。

 これまでそんな操作可能性の拡大を目指す研究に没頭してきたが、なんだか虚しさに包まれつつある。没頭しつつも、このことを疑わしくは思っていた。私の中では、モデル化・数量化に関心はあっても、それは操作したいからだということに一直線には行かない。とはいえ、社会での生きやすさに憧れ、そんな研究に盲信できるかのように振舞える人を羨ましくも思ったこともある。
 でも、これって本当に楽しいことなのか。逆に言えば、操作不可能な対象を周囲から遠ざけ、思い通りになるものばかりに囲まれたいという思いじゃないのか。人や自然を避け、人工物で自らを包むこの操作が。もちろん、遠ざけることに不安と後ろめたさがあるからこそ、新たに操れる対象を獲得したいという欲求の下で、ほかに選択肢もなくモデル化と数値化に還ってくる。

 そうやって頑張ったとしても、最終的に残る避けがたい人との係わりにおいて、この路線で進める限りにおいては、他者を操るか、自らを操るか。前者なら政治だし、後者なら悟りだとでもいうのだろうか。政治もモデル化だし数値化でもあろう。それでは悟りは…。

 そこまで往っちゃうと、後は死だって?
 そんなのに騙されるか。まだまだ愉しみはあるはずだ。わたしが試みていない愉しみが。

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大学と研究所I−大学の意味って

 大学教員と研究員という二つの職業の違いについて、これまでの経験を踏まえて総括したいと思い、いろいろ考えている。こんなことを考え始めたのには3つほどのきっかけがある。一つは未熟さをさらけ出すようで恥ずかしいが、研究室所属した4年生が三年連続で大学院に残ってくれなかったこと。二つ目は最近のある公立大学の運営に関して。もう一つは内緒の理由。それらを踏まえながら、数回に分けて書いてみたい。


 研究員だった頃、当然のごとく(?)研究に没頭していた。できることを先駆けて進めることに懸命だった。狭い分野の中とはいえ、世界の研究者が注目している目の前の問題を問い、突き詰めるところに、自分の存在価値があるんだと思っていた。それを解くための勉強は仕事である。こういう論理はわかりやすいし、やっつけ的なやりかただが。

 大学教員は同じことも出来るが、そうではないやりかたにもなりえると思う。利益に直結しやすい研究なら、寧ろ企業の方が進んでいるから、大学の研究なんておままごとみたいなもの、という認識も一部にはあるらしい。ということは、大学教官の存在意義って言うのは、ややもするといい加減になりがちな基礎的知識の継承と啓蒙。それと、すぐには利益にならない知的探求であろう。だとすると、いわゆる最先端じゃない。それは、同期のある助教授先生も言っていた。
 となれば、昨今の大学などへの研究に対する尋常じゃない肩入れって何だろうと思う。企業が見向きもしないような内容のことを黙々とやるってだけでなくて、それがいつぞや(といっても近い将来に)金になるような、そんな仕事をしろってことなんだろうが。あるいは、金になる可能性がある今まで溜め込んでいた蓄積を、ここで一気に吐き出して、景気の悪い世に貢献しろってことなんだろうか。じゃあ、持ち直しつつある今、また方針転換があるだろうか。

 他方、教育という観点で言えば、学生は若くてやる気はあるが、世の中の現実についてはたいして知ったものじゃない。また、安易に生き甲斐を見つけたがって、今流行の仕事を選びたがる傾向がある。もちろん、彼らの意気込みはそれでいい。最先端で頑張りたいなら、それもいいことだ。そんな彼らをうまくガイドして、将来役に立つ人材を養成するところにも高等教育の意義があるんだろう。
 これを実行するには、ナイーブで誠実な人間性だとか、そんなことだけではできない別の戦略が必要だろう。あくまで、世の中に役に立つ人間が要るからこそ、税金まで投入して教育するのだから。手練手管。理想と現実。これこそ現実なのだ。
 それが総体というわけじゃない。それは分かっちゃいるが、わたしらしい地味で着実(?)な御仁が集まってこないんだ。そういう人材は居ないってことではないんだよね。

 さて、当の学生たちは研究をどう思っているのか。多くは、あくまで出世に便利だから、勉強しときなさいって言われるだけ。もう少し考えている者も、自分の成長が中心にある。それは、当然「お仕事」じゃない。お仕事とはみんなの役に立つことだから。そして、さまざまな利益が授業料位のペイで手に入ると思っている。

 じゃあ、そんな人材を抱えて、大学は一体何をするというのか。せいぜい知の訓練所であり、倉庫であり、裁判所なのかもしれない。学生にとっては訓練所という通過点に過ぎず、社会にとって見れば役に立たないガラクタも含まれた倉庫だし、互いには監視しあう裁判所みたいなものか。もちろん、研究という知の実践なくして知の修得は困難になるから、それが出来なければ倉庫としての役割だって担えないから、研究をさせるわけだが。

 しかし、大学には、金という分かりやすい人間相互の価値のやり取りの単位とは無縁に生きることが出来るシステムがあったはずだった。大学のプライドは、知が公に無償で開かれているところから出ていたんじゃないのか。
 とはいえ、知は、それだけでは金にならないが、生活の知恵である以上、労働と結合して金になる。だからこそ、大学を出た若者たちが、その経験を踏まえつつ、経済活動に没入できるのだろう。それでも、大学は金にするところを放棄しているところに、プライドがあったんじゃないのか。しかし、今は自ら進んで金にしろというのである。アメリカがそうだから、できるだろうと。極端に言えば、今理系の研究室に求められているのは、民間の中小企業みたいなことをしろということだ。わたしはナイーブ過ぎてこれに戸惑う。

 他方、そんな私の勝手な思いは、今の大学教員としての生活を物足りなく思う。私は人に教えることと、研究することを比べろといわれたら、研究を取る。ただ、研究に限ってでさえ、段々全てを一人で出来なくなってきていることはわかる。しかし、自分で出来る今だからこそ、没頭したいとも思っている。一人で少し研究費をもらえたら出来そうに思うが、それは甘えた考えなんだろうか。若手教員の存在意義を、大学はどう考えているのか。委員会などの仕事に駆り出すのはいい。大学運営は大切なことだから。しかし、未熟で、言いなりになる便利な存在として利用しているんじゃないよね。昨今、民間から教授を採用する策を見ると、結局教育に葛藤し模索することが安易に考えられていると思う。社会経験があるからOK?。もちろん、教育は学校の専売特許ではないだろう。また、著名な人なら容易に学生を屈服させられる打ち出しがある。そうではない枯れた学問を専攻する人においては、ほかに秀でたものがないと、頼みは交渉術か。
 そんな本質と違うことと、昨今の他者を省みない学生気質がマッチしているというなら、身勝手に生きろということなんだろうか。

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仕事と勉強は対立するのか

 大学院生でさえ、お勉強とお仕事の感覚がずれてしまっているように思う。学生だから勉強するのは大事なのは否定しない。でも、もう小学生じゃない。社会とのつながりを考えなければならない時期に来ている。だから、勉強だけじゃなくて、お仕事としての研究という視点を想像しつつ打ち込んで欲しいと日々考えている。一旦、勉強を忘れてみようよと。
 一旦突き放して考えてみようよという視点は、勉強漬けだった学生上がりの諸子には違和感があるだろう。しかし、勉強ばっかりしていて、それが現実とは離れた理想的な何かを志向していても、それに気付かずどんどん現実から離れていく。それは既に勉強の意味から外れてしまっている。

 われわれは生きるために必要だから仕事をするとしても、生きる知恵を身につける勉強だって大事だ。でなければ学校でする必要なんてない。学生にしてみれば(といってもみんな経験があるはずだ)、面白くない、これがなぜ大事なのかあまり明確には分からないことを、熱心にしなければならない現実に適応するために、日々努力しているわけで。そんなスタンスで勉強するのに慣れているし、それで生かされている感じがするから、知恵を現実に結びつけるところに思い至らなかったり、うまく行かなかったりするんだろう。

 頭の柔らかい若いうちに勉強をしておいた方がいい、だから若いうちは仕事(手伝いとか生きるために必要なこと)なんてしなくていいなんて、本当か嘘か分からない話が実しやかに語られているのは気味が悪い。長い目で見ているとはいえ、生きるための知恵を学ぶのに、臨機応変でなくてどうするっていうのか。

 親も長生きで、若いうちはぬるま湯のように生きられる現代で、なんで仕事するのかがきちんと伝わっていないんじゃないか。勉強だって突き詰めて行けば研究になり仕事になりうるわけだが、普通は与えられたことがなんとなく分かったというところでお終い。まあ、物事には限度があるので、なにもみんな哲学者になれとは誰も言わないが、生きるために何かをするなら、人や現実とのかかわりの中でなにかを選んで突き詰めなければ。その感覚を掴まえていたら、仕事だって勉強だってそれなりに楽しく出来るんじゃないかなと個人的には思う。

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トラックバックって

 トラックバックっていう機能がうまく使えない。まだBlogを始めて数ヶ月。まあ慣れるまでほうっておこうと思っているものの、やっぱり気になる。この仕組みに違和感がぬぐえないのだ。

 話が連続して恐縮だが、学術論文を書くときは、関連文献を引用してこれまでの蓄積とのつながりを明確に書く。そういうと簡単だが、どこまでを引用するかの判断は意外に難しい。全部なんてフォローできないし(これは弁解かもしれないが)、人口に膾炙した事実は引用する意味はあまりないと思うから。しかし、どこまでがそういう事実に当たるのかの基準があるわけではない。とはいえ学術誌なら、査読者が出版される前に内容をチェックするから、あまり変なことは出来ない。だから、どうせ分からないだろうと思って人のアイディアを剽窃しても、ばれたら信用を失うだろう。というか、良心的に教えてあげるということで、互いにチェックしあいましょうということだ。

 Blogなんていうのは、そんなチェックはほとんどなくて、まあ勝手に書ける。公序良俗に反したって、自分でサーバーを立てたらどうにかなるんだろう(それが楽だとはもちろん言わない)。また、匿名であるということは、信用を勝ち得ない代わりに、失うこともない。全くないというわけではないが、慎重にやれば行方をくらますことも可能だろう(?)し、社会に出て行かないと実利は少ないから、そのままでは信用自体にほとんど意味がない。

 そんな玉石混交、ルール無視の場で、引用もへったくれもあるかっていう気もする。まあ、下にあわせる必要はないんだが、見る側が判断するしかないということなんだろう。性善説をとるか、自己満足で行くか、怯えつつやるかどうかということだ。fjの頃から似たようなことが繰り返されているから、あんまり入り込まないでいようと思っていたが、はけ口としての効果は大きくて今ここに居る:-)

 人のことばかり言っているが、私も仕事じゃないから、分かりやすく書こうとは思いつつ、眠くなったらそれまでだ。だから、一瞥しかしない人に私の書いているものなんてわからんだろう。分かったら気持ち悪い。

 そう考えたら、自分のネットに対する態度も含め、トラックバックってわたしが思っている引用という代物とはぜんぜん意味が違うんだと、勘の悪い私らしく、いつもながら時間が経ってようやく気付く(いや、分かってたって理想を押し付けたい自分を切り捨てられない)。じゃあ、何のために。カウンターが増えるのを見て悦に入るためか。と、素直に言えない自分に気付く。

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