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平易さの追求

 「分かる」ということはどういうことだろうか。これまでの自分が理解している体系の中に、その新しい事物を結びつけることだとすると、演繹と帰納のどちらの向きに繋ぐかという違いがあるだろう。

 公理・原理 >(演繹)> 分かられるべき事実 >(帰納)> 事実・現実・経験・解釈の大海

 >は推論ではなくて論理の流れである。こう見ると、単に必要条件・十分条件の関係でしかないとも思えるが、ことはそう簡単じゃない(って言ったら論理屋さんにおこられるだろうか)。ここで言っているのはあくまで現実の「分かる」ということである。もっと言えば「分かった気になる」という心理的な問題にある。

 演繹においては、納得しうる起点がどこなのかという問題がある。天下って納得できる人の性格がうらやましい。さりとて時間がかかるし、どこまで本当なのか悩ましい。いつまでも数学や物理の本を未練たらしく手放せないわたしがいる。

 帰納はあくまで各個人の経験から来ているというところに問題があるだろう。共感できる個人が数名集まったってそれは普遍的事実にはならない。ただ、事実を引ける点は強くて、そんな強弁は便利に人を屈服させる材料だったりする。ただし屈服ではあっても納得ではないが。

 そんなこんなで敢えて極論すれば、経験からの帰納は避けがたい現実の抽象化・普遍化であるし、想念からの演繹は理想の具体化である。その折衷したところに、現実に希求可能な理想があるし、理想を他者に分かってもらえる現実がある。その配合をどのくらいにして生きるか。ここの勘所が結構大事な気がする。

 では、その起点をどこに設定するのか、帰納をどのくらい配合するのか。この二つは人を説得する場合に注意すべき点である。それが時代感覚でもあるのだろう。今の人たちがひとしなみ経験することごと。もしかしたら同じことを伝えたいのかもしれないが、それがその時代時代で異なった説明のされ方をし、平易だったり難解だったりする。そのなかで、配合を重視するなら、表現して理解してもらうことを丁寧に行っていく経験が必要だと思う。そうやって修正しながら、捉えきれない現実を経験的に捕まえるのだ。

 私自身はどうしてもベーシックなところに一旦帰ってから、議論を積み上げたいのだが、なかなかそうも行かないのだなと、ここに書き付けて気がつく。結局このBlogに書いていることは、かなりが経験からの帰納であり、演繹を適当に配合しているとはいえ、原則と厳正な推論に基づいていないと思われる方も多かろう。これは時代感覚のない私が責められてしかるべきだが、そんなわたしも今に生きているわけで、それが変だとしても、これも運命である。無意識に論拠にしていることが、ぞろぞろと出てくることが恐ろしく、そして面白い。
 じゃあどうしたらいいのか。拙速に理想を求めるんじゃ芸がないし。まあ、文句もあるでしょうが、これを続けさせてもらいますので、今後ともよろしくお願いします。

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