« なんのために日々汲々としているのか | Main | 変転する時代の価値と個人の一貫性 »

「研究=勉強」というイメージ

 法事なんかで親戚に会うと、勉強忙しいんだねって言われる。
 そう言われるたび、違和感を感じる。仕事として、講義や実習をしたり、研究やその指導をしたりしているのだけど、実際の内容を知らない人には研究も講義も勉強も全部一緒くたなんだろう。
 勉強ってなにか。何のためにするのか。ということを、彼らはどう理解しているのだろう。

 勉強ってそのままでは金にならない。寧ろ金がかかる。
 ということはそれだけでは人の役に立たないってことで、あくまで自分の向上だけなんですよね。そんな個人的なことをしていても、それが弁解になりえるし、よくやっていると評価されることさえあるってのはなぜだろう。

 勉強することが、将来社会の役に立つことだと思わなければ、そんな勝手なことをしていていいはずがない。貧しかった時代、勉強なんて金にならないんだから止めろって言われ、進学を断念した人も多かったろう。そういう人たちの無念さが、勉強の価値を必要以上に高くし、それに甘えた人間を生み出すことになったんじゃないか。

 勉強したい人はしたらいい。ただ、それに没頭することは、ほかに学ぶべきことごとを確実に遠ざけている。その結果、何が起こるのかを想像して欲しいが…。

|

« なんのために日々汲々としているのか | Main | 変転する時代の価値と個人の一貫性 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29245/843607

Listed below are links to weblogs that reference 「研究=勉強」というイメージ:

« なんのために日々汲々としているのか | Main | 変転する時代の価値と個人の一貫性 »