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売れない本の現状に思う

 オンラインジャーナルは学術機関が一括で購入して、所属員がネットでアクセスする学術誌の出版システムである。学術誌は一部の一流誌を除いて、それほどたびたび閲覧するものではない。だから、ネットでざっと眺められるのはとてもありがたい。抄録だけなら、それ専門のデータベースもあるが、さすがに論文を書こうとなると、必要なものは手許において目を通したい。従来なら、図書館にない雑誌は、数週間かけて取り寄せてもらっていたから、大きな進歩である。

 しかし、その購入費が図書館運営を圧迫している。それは最近の寡占が原因である。
 出版コストは確実に出版社を圧迫している。部数が少ない雑誌ほど、上がりが少ない。これは、専門書の出版も同じだろう。
 そこに目をつけた数社が、それらの弱小誌を買い取って、ごっそりオンライン化している。これは確かに便利なのだが、一方で寡占をいいことに価格のつりあげを図ってきたのだ。

 ところで、学術誌の編集において、論文内容の審査いわゆる査読は、雑誌の価値を決める重要なプロセスであるが、多くの学者・研究者の無償ボランティアが大きな部分を占めている。価格高騰を嫌って、学術機関は自前で出版しようと動き始めている。それもこれもネットの普及が電子出版のコストを下げていることも一因である。

 そう考えると、出版社の企ては失敗に終わったように見えるが、ちょっと違うかもしれない。
 彼らは、電子出版の学術分野における展開の速さを見越して、それを先取りして一気にこれまでの蓄積をお金に変えたのではないだろうか。

 多くの科学論文は数ページから十数ページであり、プリンターで印刷しても大したことのない分量である。もともと、紙の雑誌からコピーして利用することが多かったから、電子出版に適していた。これがもし多ページの成書なら、大部になると印刷や綴じるのも手間だし、電子ファイルで貰ってもいいリーダーがないから、まだ紙の媒体のものを買おうという気になる。


 ではページ数の多い本はどうなるんだろう。良書でも重版されなくて、出た瞬間に買わないと市場からなくなってしまう。だから古本屋は欠かせない存在である。希少な本を探すのは大変な思いをするが、最近はネットで検索できてとてもありがたい。
 その一方で、電子出版が注目されているが、専門書もそうなっていくんだろうか。そうではなくても、ネットで多くの情報が検索できる。本を買わなくたって、かなりの学術情報は手に入るとはいえ、それは結構細切れの情報である。

 となると、大部で網羅的な専門書も欠かせない。しかし、読み捨てるような勢いのベストセラーや学術論文とは違って、こいつらは電子出版になじまないように思うのはわたしだけだろうか。幾つかのページを行き来しながら、うんうん考える。幾つかのページをウィンドウ上に同時に開いておいて、クリックして考えるんだろうか。まあ、それでもいいんだけど、数部の受注出版が低コストで出来たらいいのにと思う。パチ本屋さんがこっちの仕事に回ってくれないだろうか。

 とはいえ、家の中が本で埋まっていくのは、始めは気持ちいいんだけど、段々スペースが手狭になって負担になってくる。書類も電子化しているとはいえ、全部スキャナーでPDF化っていうわけにもなっていない。未だに書類のコピーが学内便なんかでたくさん送られてくるからねえ。ファイルで送ってくれればいいのに…。

 話が逸れてしまった。しかし、売ることばかりが主眼に置かれているベストセラーの本が、売れないながらも価値のある書物を駆逐しているように思うのは気のせいなんだろうな。このあたりは流通の事情も絡んできそうで難しそうだな。

 ただ、学術専門誌に関して言えば、それで儲けようっていう先生方はあんまり多くないんじゃないだろうか。それなら、なんとか電子出版とそれをうまく使える手段が開発されれば、あまり問題はないんじゃないか。ただ他方、締め切りを作ってくれたり、さまざまなコメントをくれたり、校閲してくれたりする編集者の人たちの存在の大きさも、良書の出版にはかかわっているだろう。それを失うことで、ますます孤独な戦いになっていくということなんだろう。企業内ベンチャーとか分社化とか、単位を細かくしてそれぞれが少人数で頑張るしかない方向性って、本当のところどうなんだろうかね。そのあたりを受け持ってくれるような人が出てきても、彼らが生活できるようなシステムを考案しないといけないだろう…。

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変転する時代の価値と個人の一貫性

 世の中は動いている。さまざまな価値が消えては浮かぶ。かつてはタブーだったことが、いつしか違和感なく社会に受け入れられていることもある。
 それに対し、個人の変化は遅々として進まない。受け入れるんじゃなくて、「自分がこうしたいから、こうしてください」という周囲を思い通りにしたい願望が根にあるから、自分が変わるんじゃなくて世の中が変わって欲しいと思っている。ただ時の流れをふわふわと受け入れるのは容易ならざることだ。
 それに、ころころ変わると、あの人は付き合いにくいということになる側面もあるだろう。ただ、ここで言っているのは、主体性のない人のことではない。

 自分の信じるところに邁進する強さと、周囲や世の中の考え方を受け入れていくしなやかさは、共存不可能ではないのじゃないか。信じることを修正することや、周囲を受け入れないということも、それぞれの自由であろう。想いを通したいならそれなりの作戦が必要だということだ。

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「研究=勉強」というイメージ

 法事なんかで親戚に会うと、勉強忙しいんだねって言われる。
 そう言われるたび、違和感を感じる。仕事として、講義や実習をしたり、研究やその指導をしたりしているのだけど、実際の内容を知らない人には研究も講義も勉強も全部一緒くたなんだろう。
 勉強ってなにか。何のためにするのか。ということを、彼らはどう理解しているのだろう。

 勉強ってそのままでは金にならない。寧ろ金がかかる。
 ということはそれだけでは人の役に立たないってことで、あくまで自分の向上だけなんですよね。そんな個人的なことをしていても、それが弁解になりえるし、よくやっていると評価されることさえあるってのはなぜだろう。

 勉強することが、将来社会の役に立つことだと思わなければ、そんな勝手なことをしていていいはずがない。貧しかった時代、勉強なんて金にならないんだから止めろって言われ、進学を断念した人も多かったろう。そういう人たちの無念さが、勉強の価値を必要以上に高くし、それに甘えた人間を生み出すことになったんじゃないか。

 勉強したい人はしたらいい。ただ、それに没頭することは、ほかに学ぶべきことごとを確実に遠ざけている。その結果、何が起こるのかを想像して欲しいが…。

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なんのために日々汲々としているのか

 今のわたしは教員向きじゃないなと日々思う。
 人を凹ますことばっかり。自分も凹むから、おあいこだと思って苦言ばかり。

 もともとはこんな子じゃなかった。親に生かされている頃、給料を貰わない頃。自分が生かされていることを自覚していたから、勝手なことは出来ないと思っていた。人にも優しかったように思う。

 給料を貰い始めた頃。とても辛かった。自分にその価値があると思えなかった。何かを成せるわけじゃないことは自覚していた。今後の私に投資してくれているんだと思ったから、まだ謙虚だったと思う。

 それが人から評価され始めたら、安易に自分の価値に安心できるようになった。つまり、傲岸になった。

 教員になったら、学生諸子は自分の下に入る。あたりまえだ。経験がないんだから。そこに自分の経験を振りかざして、不遜になる。


 研究を進めたい。成果を挙げたい。そういう気持ちは強くある。
 大学なのに研究を進めたいなんていうのは、ちょっと違うんじゃないかと思わないでもないが、どうなのだろう。

 研究なんて、社会から見たら、おまけみたいなものかもしれない。癌の克服に役立つかもしれない研究。それって、おまけの人生を与えてくれるかもしれないなあという意味において関心があるだけだ。


 一体なんのためにわれわれは生きているんだろう。いい仕事をすれば、確かに周囲は喜ぶ。いや、周囲が喜びそうな仕事ばかりしようとする。それって、確かに大事なんだろうけど。
 経済活動が肥大して、人生における付加的な価値がとても大きなものになってきてしまっているのはなぜ?

 この疑問を掴まえない限り、教員なんてやっていたらばちあたりのように思う。すっと答えが出せないまま、降りるのが怖くて頑張るしかないってところが原因なんだろうが…。

 いずれにしても、出来る人は頑張っちゃってください。そのことは間違いなく素晴らしいことです。それによって人を傷つけるとしても、それが本望じゃないとしても、それも世の中なんでしょう。そこの狭間で、私はいつもいつも悩まされるけど、多分いつか取り戻せるんだと思う。そうじゃなかったら人間として意味はない。何がしかの影響を与え合える存在であり続ける。それって、価値が多様化したからこそ享受できるんだろう…。

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十年やって一人前

 この言葉ってどんな場面で使われているんだろうと思ってググってみたら、こんな文章に行き当たった。あんまりにも暖かい文章で、最近のわたしが忘れていた気持ちかもしれない。
 いやいや本当は忘れているんじゃなくて、結果ばかり急いている現状を批判的に捉えたい気持もあります。でも、一方で十年経つとこのひとはどうなるんだろうという見守っている側の不安もある。

 十年やって一人前だけど、それは時間だけの意味じゃない。とはいえ、いろいろ上司に文句だのなんだの言われても、厳しい環境の中に自分をそれだけの期間置くことって、結構しんどいことだから、それは無価値じゃない。
 難しいんですよね。研究に限らず、十年しっかり打ち込めれば、それなりの人物になるんだろうけど、研究は大変だからやめときますって、そういう問題じゃない。十年打ち込む覚悟がその時点で出来るかってことだろうし、別に研究なんてそれだけで取り立ててすごいはずもない。

 そして時間だけの意味じゃないっていうのは、技術の修得に十年掛かるばかりではなくて、就業年齢になって仕事上の責任を負いながら十年生きるということにも意味があるんです。フリーターで責任を負うことを避けて十年やったって(もちろん全てのフリーターって言っていません)、その技術的側面はともかくも、人間としての成長を逃げたツケは回ってくるのだと思う。普通の世の中では、これはできませ〜んって逃げちゃうと、その時点で降りたんだとみなされるから。だって、みんないろんなことを考えてやっているから、自分の好き嫌いだけで押し通せないのがお約束なわけです。だから、自分勝手を通したいなら、それに見合った何かをみんなに返さないといけないわけで。そのあたりの機微が見えてくると、自分の専門性も高めておいて、自分のしたいことを作ってそれで返せるようにして、ある程度楽をしつつみんなに貢献したい(だから、いやな法則になるんだろう)。だけど、それは責任を負わなければ、自分の専門性を構築しようっていう強い思いに至らない。学生のうちの勉強って、関心だけで進めていて、厳密さを欠いていたり、論理の飛躍を放置しておいたり、そういうところが目に付く。要するに実務的じゃない知識になっている。でも、その関心は大事にして欲しいと思う。それが目の前にある問題の片付け方、要するに仕事に仕方に反映されるから。それこそがユニークさだと思う。
 まあ、そんなこんながあっての十年なんだと思う。

 このあたりを分かって欲しいけれど、そういう立場にないんだから、無理なんですよね。わたしも分かっていなかったように思うし…。

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嗚呼

 どんなことも心の奥底に押し込めておけば、それで済むのだと考えていた。
 それでも時は過ぎ、問題を解決してくれる。
 いやだと思っていたこともいやでなくなり、それがために懐が深くならざるを得ないのが分かった。

 ただ、満たされていないことだけは確実だった。だから、人との付き合いは、適当に深くしたいとも思った。

 しかし、その相反する問題の中で、結局、ある一線を越えたくない気持ちが勝った。
 越えてさえ楽しくなくなる部分を知っていたから。所詮透けて見える自分の身勝手さと、相手の心と。

 係わりに責任を負わなくていいうちは、それで済んでいた。
 気持ちのいいところだけ共有しようという暗黙の合意のなかで。

 最近Bill Evansなぞを今更ながらもミーハーに車中で聞いている。
 こういう音楽が生まれる背景ってなんだろう。彼のように、成功した男がこんな曲を生み出すなんて。
 往復40分のドライブでは足りないみたいだ。うちにいても気が滅入ってくる。

 やはり責任を負うところからこそ、逃れられない立場からこそ、真の愛が生まれるのかも知れないと、日々感じる。

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居心地の良さを作る

 居心地は悪いより良い方がいいのは当たり前なんだけど、そのいい感じが努力なく得られるって言うのはちょっと違うと思う。

 では、適度な居心地の良さってどういうことなのか。どうもそれは、相互に改善し続け合おうよという合意の気持ちなのではないかと思う。わたしはこれを持ち寄っているから、こっちの至らない点は今やっているから大目に見てよっていう。
 自分が持ち合わせているものだけを使って、それで楽だとか、それで気持ちいいとか、そういう関係が欲しいってのは、なんだか進歩がなくて嫌だな。だって、少しは進歩したいから新しい環境を選んだんでしょ?
 要するにそれって、固定化した個が寄り集まって、それでバランスが取れているってことか?身動きをするとバランスが崩れるから止めろっていうことだよね。平衡で安定な時間が流れるならいいけど、それって人間の生じゃないよね。理想気体のように、離れていて自由気ままに運動していて、相互の干渉を考える必要がない便利で分かりやすいってことだけのように思うんだけど。そんな環境ってこの世にあるの?
 それぞれ「よりよい人生を」って思っているんだよね。それをあからさまにした環境ってなにか悪いことがあるんだろうか…。

 だから、こうした方が良いって言っているわたしがいるんだけど、そうじゃなくて温かく見守ってくれって言われると、そういう部分もあるだろうなとは思う。でも、自分としてはこれまでの半生で、落ち着かない環境に毎度毎度放り込まれて、その場でどうにかそのニュアンスを掴んできたつもり。それが当たり前ってのは、あんまり新参者には気持ちよくないから、止めてって言われても、なんだかそれは違うんじゃないかって思う。これってエゴかね。うるさく言っても暖かく見ているつもりだけど駄目ですか。


 違うからこそ、そのよさに惚れるんであって、同じなら大して関心はないんだ。
 だから、その違いを磨きあうってことが、互いの存在価値を認め合うってことに繋がるんじゃないか。
 それ一辺倒では駄目だけど、そこが居心地の良さに繋がるんだと、相互に頑張れるんじゃないかね。

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酒I

 ほとんど毎日飲むものだから、とてもわたしにとっては大事なんだけど、そんなにこだわりがあるわけじゃない。とはいえ、得手不得手というものはあるもので、おいしくても翌日に残るのは勘弁願いたい。それだけならまだしも、残らなければなんでもいいってのじゃなくて、吟醸酒系は苦手で純米系で残らないやつが欲しいときた。自分に合った酒ってそれほど多くないんですね。前の職場にいたときは、好きな銘柄がスーパーで売られていたので、それを常備酒としていたのだけれど、こっちに越してきたら、それが近所に売ってないんですよね。で、欲しい日本酒が手に入りにくいから、すっかり時代に流され芋焼酎になっちゃったんだけど、ときどき寂しくなるわけです…。
 そんな感じだから、品揃えがよくて管理が行き届いている小売店なら満足なんだけど、意外にそういうところってないんですね。自宅の近所にあった酒屋は、管理がひどくて泡盛以外欲しいものはない。となると、結構探さないといけないんです。
 鶴川にある有名店は、ネットや本なんかで調べて見つけ、職場より近いから何度か行っていた。でも、他の店でどうにかして欲しい酒を手に入れる手立てはないかと考えていた。というのも、品揃えのよさは確かにすばらしいんだけど、わたしには店の雰囲気が今ひとつ…。なんかわたしには買いにくいんです。というより、買いたくないというか…。
 そうしたら近所にまだあったんですね。成瀬駅の近くにある酒屋さん。流れで最近の常備酒の焼酎買っちゃったけど、地下に冷蔵室があるみたいなんで、こんどはそこを見せてもらおうと思います。また日本酒に戻るかな。その前に一升瓶が入る冷蔵庫に買い換えないと…。

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またまたパーソナリティタイプ II

 ここを読んでいたら、INTJの2番目の性質であるNとそれに対置するSの比較について、興味深い文言を見つけた。関心のある方は是非読んで欲しい。

 要するにN型は事実の背後にある法則を抽出することへの関心がある。このことは、科学研究においてとても大切なことである。というより、本質だといっていいのではないか。
 そしてこれは、梅原猛先生が「空海の思想について」の中で語っておられる真理の開示体験についての記述と無関係ではない。事実とは、伝えれば自然に相互に理解できるものではなくて、解釈を必要とするものだからこそ、『自らの心を、清浄、無垢』にしなければならないのである。(わたしはしばしば事実の背後に回りこみ過ぎて、裏の意味まで読んでしまおうとする。そのことは、清浄・無垢さと矛盾する場合もままある。その点は反省すべきだろうが、極端さのもたらす問題とはそのようなものだろう。これを「自然に」出来るようになるということとは意味が違うように少し思う。)

 こういったことを自然に理解できない者も、それを「教わる」ことが可能なのだろうか。多分それは出来ないのではないかと思う。最も基本的な心の動きだからである。だから教員たるわれわれが出来るのは、そういったことが研究において大切だということ、そしてそれがわからないなら、それなりの生き方をしなければ、研究屋としてはつまらない人生を送ることに成りかねないことを伝えるということではないだろうか。また、各人が人生において自分が大切に思うことはなんなのか、なにに努力をするのかを今一度考えていただくということではないか。そしてそれを健全に目指すことが出来たら、幸せなのだろうなと一人思っている。それは単なる憧れじゃなくて、自分を見つめた(これはINTJのIなのかもしれない)ありようなわけである。ここまで見てもらえば、言語に依存して生きているわたしのキャラが鮮明になっているだろう。

 こんなことを書くのは、学生諸子の将来を考えている積りだからなのだけど、あんまり理解してくれないかもしれない。だけど、INTJだからこんなかたちになってしまうのだ。なんだか、私にとって研究は天職でも、教育はどうなのかなと、頓に思う毎日である。要するに、自信喪失のフェーズに入っているのだ…。

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研究に没頭する覚悟

 前任地で研究員として仕事をしていた頃、海外のポスドクになっていた研究者の方(以下、Aさんと言おう)が、われわれが建設・整備していた実験装置を使いたいと話を持ちかけてきたことがある。

 Aさんは以前われわれの同僚だったこともあるのだが、その後、ある大学の助手となっておられた。大学院生の頃から、すぐには成就しないと思われる仕事を熱心に行っていた。しかし、その頃はなかなかうまく行っていなかった。そして、助手をされていたころの評判はあまりよくなかった。というのは、自分の研究に没頭し、ろくに学生の面倒を見なかったというのである。

 覚悟して没頭していたとはいえ居心地もよくなかっただろう。Aさんは満足できず、よりよく研究のできる環境を求めて常勤の職を擲って、海外のポスドクになられた。それは大学を責める問題でもない。
 その後、仕事がうまく行きかけていたが、共同研究者の仕事振りを見て進まないのを危惧し、こちらに話を持ちかけてこられたのである。

 われわれが扱っていた装置は、世界にそれほど沢山あるわけではないし、その使用時間も一般の利用者には限られていた。だから、多分Aさんは、われわれの装置を目当てにして声を掛けてきたのだと思う。競争相手も多い10年越しの仕事を無駄にするわけには行かない。そんな覚悟で、海外から試料を沢山抱えてやってきたのだ。

 その後、仕事はうまくいって、数ヵ月後に一流誌の表紙を飾ることになった。しかし、その一方でその成果を巡って一悶着あったことも事実である。


 この仕事の一部始終を知った上で、うまく行ったのは運がいいと片付けられる人は、多分居ないと思う。確かに一生懸命やったって出来ないことは世の中にたくさんある。でも、Aさんの覚悟の程を知っているから、そんな安易な言い方なんて私には出来ない。できることをやっている積もりだけど、それでできないのだから運が悪いんだとか。Aさんはいろいろのことに覚悟を決めて、選択して、研究してきた。もちろん、それだけのものを掛けるに値するテーマだったことは間違いないが、他の人がそれを成就したら、それまで費やしてきた自分の時間や価値さえ怪しくなる。そういうぎりぎりの覚悟である。

 いつだったか、知り合いの研究者から、Aさんは変わっているねと言われたことがある。確かにそう映るのは分かる。ただ、一つのことにここまで没頭できているAさんをあまり否定的に捉えたくはない。


 世の中にはいろいろなタイプの人がいて、得手不得手がある。だから無理難題を押し付けられても困るけれど、しかしそれだけでは済まない現実もある。ほかに手がなければ、責任を負わなければならないことも多い。でも、本当はそんなことなんて滅多になくて、上司の安易な決定だったりすることも多いのだけれど、よい対案を出せなければ、それはその場にいるみんなの問題だというしかない。成果が得られないとか、楽しくない仕事ばかりだとか、そんなふうに誰かに責任を押し付けて、後は知らん顔というのでは、寂しすぎないか。

 そんな社会に出てしまったら、何かに没頭するというのも結構な覚悟がいる。現実にはいろいろのものを、Aさんにとってはある種の人間関係だろうが、犠牲にする必要がある。そのことを生かすなら、なにか将来の糧になるようなことを学生諸子にはして欲しいと思うのだが、どうだろうか。

 そう言うと、こんな技術を身につけたいとか、そういう分かりやすくて結果が見えやすい方向に行ってしまうのは、仕方がないことなのか。しかし、時の流れに従って、技術はすぐに陳腐化する。水準を越えた研究者にとって大事なことは、何かの技術を修得しているかどうかではない。これは研究者に限らない。今抱えている問題にどう対処するかという問題意識を持ち続ける中に、初めて発想が出てくるのである。ことを始めないうちに考えたようなアイディアは、誰でも思いつくものだ。実現することの困難さに出会って、本当にすべきこと(それこそ発想と言うものだが)が見えてくるのだ。

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平易さの追求

 「分かる」ということはどういうことだろうか。これまでの自分が理解している体系の中に、その新しい事物を結びつけることだとすると、演繹と帰納のどちらの向きに繋ぐかという違いがあるだろう。

 公理・原理 >(演繹)> 分かられるべき事実 >(帰納)> 事実・現実・経験・解釈の大海

 >は推論ではなくて論理の流れである。こう見ると、単に必要条件・十分条件の関係でしかないとも思えるが、ことはそう簡単じゃない(って言ったら論理屋さんにおこられるだろうか)。ここで言っているのはあくまで現実の「分かる」ということである。もっと言えば「分かった気になる」という心理的な問題にある。

 演繹においては、納得しうる起点がどこなのかという問題がある。天下って納得できる人の性格がうらやましい。さりとて時間がかかるし、どこまで本当なのか悩ましい。いつまでも数学や物理の本を未練たらしく手放せないわたしがいる。

 帰納はあくまで各個人の経験から来ているというところに問題があるだろう。共感できる個人が数名集まったってそれは普遍的事実にはならない。ただ、事実を引ける点は強くて、そんな強弁は便利に人を屈服させる材料だったりする。ただし屈服ではあっても納得ではないが。

 そんなこんなで敢えて極論すれば、経験からの帰納は避けがたい現実の抽象化・普遍化であるし、想念からの演繹は理想の具体化である。その折衷したところに、現実に希求可能な理想があるし、理想を他者に分かってもらえる現実がある。その配合をどのくらいにして生きるか。ここの勘所が結構大事な気がする。

 では、その起点をどこに設定するのか、帰納をどのくらい配合するのか。この二つは人を説得する場合に注意すべき点である。それが時代感覚でもあるのだろう。今の人たちがひとしなみ経験することごと。もしかしたら同じことを伝えたいのかもしれないが、それがその時代時代で異なった説明のされ方をし、平易だったり難解だったりする。そのなかで、配合を重視するなら、表現して理解してもらうことを丁寧に行っていく経験が必要だと思う。そうやって修正しながら、捉えきれない現実を経験的に捕まえるのだ。

 私自身はどうしてもベーシックなところに一旦帰ってから、議論を積み上げたいのだが、なかなかそうも行かないのだなと、ここに書き付けて気がつく。結局このBlogに書いていることは、かなりが経験からの帰納であり、演繹を適当に配合しているとはいえ、原則と厳正な推論に基づいていないと思われる方も多かろう。これは時代感覚のない私が責められてしかるべきだが、そんなわたしも今に生きているわけで、それが変だとしても、これも運命である。無意識に論拠にしていることが、ぞろぞろと出てくることが恐ろしく、そして面白い。
 じゃあどうしたらいいのか。拙速に理想を求めるんじゃ芸がないし。まあ、文句もあるでしょうが、これを続けさせてもらいますので、今後ともよろしくお願いします。

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いやな法則考

 いやな法則を読んでいて思った。

 学部長の先生も言っていたが、学生が自分で思いつくように彼らの考えを間接的に誘導すること、それができたら、彼らは生き生きと仕事をする。

 正直言って、わたしはそんな境地にはまだまだ達していない。だから、アドバイスとして、思いつくことを彼らに自慢げにしゃべってしまう。そうやって先生に言われた瞬間に、楽しい研究が「やらなければいけないこと」になってしまう。この法則によれば、「楽しくない」ことである。

 日本人にはどうも、開眼するための修行とか体育会系の修練とかそういうノリで、物事に当たろうとする傾向があるのではないか。わたしは多分人間的に古くて、いろんなサイトで精神年齢を測ると、5-10歳は年長になる。それは何を意味するか。封建的で「斯くあらねばならぬ、働かざるもの喰うべからず」の世界にどっぷりつかっていることを示しているんじゃないか。
 それから逃れて自由にものを考えたいと思って研究者になったはずなのに、もともとの私の根にある考えが成果をもたらすと、そこに引き戻されるのだ。
 それに対して、今の学生たちは、就職なんて出来なくても喰えると思っているのかもしれない。博士の就職率6割。それを覚悟しているのだろう。それならそれで、わたしも気が楽だ。一生懸命やってくれなくても、こちらがなにも手を下すことはない。まあ、自立こそが教育の目的であると大村はま先生も書いていたが、自立以前の問題だし、これまでの意味で自立しなくても喰えるんだったらそれは新しい自立なのかもしれない。まあ、これはちょっと言いすぎか。ただ、封建的な感覚がかなり薄らいでいるようには思う。あるいは、体裁だけ体育会系になっているのではないか。

 楽しいからといって懸命にやる仕事は、確かに効率的で、良い出来だったりする。でも、それだけが仕事じゃない。昨日も書いたが、しなければいけない仕事にこそ、生きるために本質的な内容が含まれていることが多い。
 だから、あんまりにも楽しいのも、その分誰が楽しくない想いをしている可能性がある。それって、ずるいなって思う。まあ、社会や世代の感覚としてどちら側に振れているかっていう側面はあると思うし、やはり「恒産なくして恒心なし」なのでもある。

 この法則は考えるべき問題をいろいろ含んでいそうだ。また、これについて書くこともあるだろう。

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父の一周忌

 父の一周忌の法事は、3月末に祖父母の七回忌と合わせて済ませたが、実際に亡くなってから丁度一年になるのは、これから数時間後のことである。父の入院は一月あまりの出来事だったが、意識も回復せぬまま逝ってしまった。父が倒れたのは、運悪く私が関西に出張していたおりのことで、暫く会っていないときに起きた出来事だった。わたしも仕事が忙しかったが、上司の言葉に甘えて、たびたび帰省し(といっても車で2時間以内ではある)、看護士さんに簡易ベッドを借りて、意識もない父の傍らで夜を明かした。ただ見守るしかないことが悔しかった。その無念な思いは今も残っている。

 残務整理や仕事が忙しかったわりに、この一年は長く感じられた。父の死をきっかけに、一年間自分を見つめなおすと決めたことは「内なる旅」にも書いたとおりである。そんな自省のお陰だろうか。その分、仕事が進まなかったようにも思えるが…。

 たぶん、この一年の長さは、わたしがこれまで感じることを避けてきたことをしっかりと意識するために、さまざまな模索をこだわりなく出来るようになってきたことが原因ではないかと思う。一年前のわたしと、今のわたしは、大きく違っていると思う。それは、人生は一度きりしかないし、いつ死が訪れるかは誰も予測できないということを、父の死に直面して深く心に刻み付けたということである。だからといって、直ちに今がよければいいじゃないかという刹那的な価値観になったわけではない。人生において運命が確実に意味を持つし、長生きする可能性だって全くないわけではない。今と将来を見据えて、したいことやできることはしていこう。したくないことはしないようにしてもいいじゃないか。ただ、そのためには他者の存在を忘れてはいけない。そういうことに気を払いながら、とはいえわたしのペースで進んでいくほかないじゃないかと、思えるようになった。いままで避けてきたことも、ゆっくりとではあっても、目を向けて、取り組んでいこうという気になれた。

 今はなぜか、たくさんの雑務が覆いかぶさっている。逃れたくて仕方がない。しかし、ネットで「いやな法則」というのを見て、ああそれも仕方ないなと思えた。いやな法則かもしれないけど、まあこれが現実で、所詮その程度のものなのだ。でも、日頃感じていることを、ここまですっきり短い文言で書かれると、却って清々しい。まあ、気分を入れ替えて、頑張ってみますかね!

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犯罪の若年齢化とバーチャル世界

 小学生が殺害される事件がおきた。犯罪の若年齢化が社会問題となっている昨今、加害者のインターネットとの関連が指摘される中で、ネットやテレビがいけないんだとはよく言われることである。でも、便利なこれらの道具をうまく使えないのはどうしてなのか。

 情報の組み合わせで新しいものを創出することが、今やわれわれの仕事の大きな部分を占めてきている。それは研究でも一緒で、だからこそ、膨大な情報を扱うこれらのシステムを構築してきたわけである。情報を氾濫させるのは、我々の本望であった。他方、雑用と称するルーチンワークは、つまらないものだと考えられている。しかし、生きるために必要な大半のことは、この種の仕事であるはずなのに。

 ともかくも、そうして情報へ対処や価値判断に追われ、その結果創出される価値の引き換えとして、どんな個人がいかなる心的背景のもとにそれらの情報や言葉を吐いたのか、推察する余裕がなくなっている。いや、余裕がないばかりではない、バーチャル世界が問題なのは、その背景を知る機会を奪っていることにあるのではないか。対話できない一方的な情報の発信・流入になってしまうのだ。ネットによる情報収集は能動的であるが、双方向の情報交通手段としては限定されている。

 人は機会を奪われると、人や情報になんらかの背景があることを徐々に意識しなくなる。本当なら、そんな根無し草のような情報は不安を煽るのだが、そのことにさえ麻痺してしまうのだろうか。また、現実の人間関係に生きていれば、その背景を推察する訓練が自然と出来ていくわけであるが、新参者たる子供にはそういう経験は不足しているのは当たり前のことである。

 子供たちは、既に構築されている情報網の中にある整合性や論理性に気付く前に、その膨大な情報にまず投げ込まれる。その情報に根拠があってもなくても、たいした差異はない。従って、その判断基準は自分の中にはなく、世間的な評価になるだろう。

 だから、テレビに出てくる成功者を眺め、それを羨望する。その華やかな空間と自分の空間が乖離しているときには、まだ羨望だけでよかったのかもしれない。しかし、今や一方的に垂れ流される情報に埋没し、日常は彼らとの距離を縮める。されど、容易には届かないその理想郷との間の葛藤に苛まれる。そんな彼らが、その葛藤を処理する経験を伝授してもらう機会を奪われれば、どうなるか。葛藤が人に理解されないだろうという不安。それを表現し共感がえられなければ、それから逃れるために葛藤自体を封印する。それが天然キャラになるのだろうか。いやもっといえば、無感動で無反応な人間を作り出すのか。

 若者が切れやすいのは当たり前だと思う。背景や根拠なくして一方的な批判を受ければ、先に進めない。八方が塞がっている。前進したいとは皆思っているだろう。しかし、その時間も与えられず、指針もないまま、人格を否定される。そんな拙速な現代社会の中に、どうやって生きたらいいのか。

 選別された情報を提供してもらい、背景に気付き、その仕組みを意識すること。その後で、膨大な情報を選別する術を学ぶということ。そんな風にするのかなと、自分の育て方として思う。そのことは要するに身近な事に潜んでいる感動に気付き、生きる意味を手に入れるということだろうと思う。それでは学ぶべき選別された情報とは何か。その意味では世間的な評価はそれほど間違っていないと思う。数年の時期を経ても評価を受けているものの多くは、時代にマッチした様式で構築された情報であることが多いと思うが、どうだろうか。単にミーハーなのかもしれないが。

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人を売り、自分を売るIII

 Niftyの@homepageからcocologに引っ越してきて2ヶ月ほどが経った。
 ひっそりと自分のページを作ったのが二年前。公開したのが昨夏。心の問題を限られた人にしか教えなかったから、その知り合いだけが見ていたのだろうし、Googleの検索にもかかったり落ちたりしていたから、ネットだけで見出すことは困難だった。だからこそ、かなりローカルな問題について、周囲を意識せず読む人をイメージしながら、誤解を恐れず、挑発的な言葉も織り交ぜて書き連ねていた。内容は主として心。そもそも父を亡くしたことに端を発している。この一年は心に専念しようと思っていた。だから、仕事のことを書くと、面が割れるし、話がややこしくなるからやめようと思った。それは職場のサイトでやっているし。

 そんなときBlogが普及してきた。一から作っているページだと、文章を足すとindexを書き換えないといけなくて、それが面倒くさいとcocologに引っ越し。そこで驚いたのは、アクセスが急に増えたこと。これで?と言う人もいるかもしれないが、以前は半年かけてようやく1000カウントくらいだったからねえ。

 実際の私を知らない人にも、そんな文章を面白いと思っていただければそれは幸いなことで、とてもありがたい。一方で、説教くさい文章や練られていない言い切りも多いからか、幾らかのご批判めいた文言も頂いている。
 人を批判するような文章を並べておいてなんだという人もあろうが、その種の事に敏感に反応してしまうわたしが居る。先日アクセス解析をつけたが、覗き見趣味はお互い様とは言え、いろいろのものを見てしまう自分の好奇心と、その先で感じる伝わっていないんだろうなという落胆は、致し方のない引き換えなのだろう。もちろん、違和感の原因は、伝えるべき内容だけでなくて、それを表現できない自分の文章力のなさもあるだろうが。
 ただ、一行で文章に対するコメントをされているのを見ると、その人が自分のためにつけたメモなのだろうとは思え、そんなもんかと思えるが、軽くあしらわれているようでちょっと悔しい。私の認識の甘さを指摘していただけるなら、それは誠実に反応したいのだが、誤解されているのかも知れず、すっきりしない感じだけが残る。要するにそういうことに気付いたというそれだけのことなのだが、そんな一イベントさえもここまで重くしてしまえる自分の時間の使い方の勿体無さに、われながら呆れてしまう。未練たらしくここに書く私はどうかしているのかも知らん。

 ネット上でさえ一々気にしている自分に気付く。そんなんじゃやっていけないんじゃないって言われるけど、わたしは現にやっていっている。ただ、何を自分が望んでいるか、本当にわからなくなってくるなあ。

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またまたパーソナリティタイプ

 論文書きに熱中しないといけないのに、文献を辿ってある研究者のページに行ったら、ユングに基礎を置くパーソナリティー分類のリンクに引っかかる。

 別のところにも自分のタイプを晒しているが、今度のテストでは、私は"Introverted iNtuitive Thinking Judging (INTJ)"タイプに分類されるらしい。"INTJ"でググってみると、山ほど引っかかってくる。キーワードはMastermind、Brainstormなどで、どうも今就いている仕事は天職のようだ。

 まあ、それはそうでなくては困る。幼いころから自省を繰り返して、自分の適している方向に進んできたからだ。決して、格好がいい仕事を選んだわけではない。はっきり言って地味だし…。ましてや、自分に適さないものを無理に宛がうつもりもなかった。

 そう思うと、自分の適性を知ることは大切だと思う。どんな仕事でも、その世界でエキスパートになれれば格好いいし、適した仕事で評価を受けて、のどやかに生活を送れたら、それが本望ではないか。自分を生かす道をあまり限定的に捉えないほうがいいように思う。

 自分を見つめなおしていない人は、損をするだろうな。それも一人生だけど…。


 何度もここに来てしまうが、タイプがあるからそれに適した形に沿えばいいんだと言っているんじゃない。

 自分の内面を見つめることと、現実を見つめること。そして、現実は変化し、自分も成長する。そんな今と変化を捉え続けていくことこそが生なのだ。


 そして、自分の運命を感じずにはいられない。相手の想いにどんなことでも共鳴できた友人は極少なかった。INTJは人口比1%くらいだという。それを受け入れなければならないことだと思わなかった。自分がいけないんだと思っていた…。皆、相互になじんでいるように思えたから。

 このことを憐憫として見る人には、どうも同意できない。腹立たしくさえ思う。自分の運命を受け入れていないくせに、相手の運命を受け入れている傲慢さを感じる。自分の人生に運命を感じているなら、そんなことを取り立てて述べる必要なんてないはずなのに。

 ああ。いつもこうやって孤立する。しかし、それも運命なのだ。それと戦っていくしか、道はない。

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意識から無意識への差し戻し

 自分の無意識を意識の俎板に載せろと書いてきた。しかし、ありとあらゆるものを意識に上せ続けるのは、あまり現実的ではない。意識し続けるということはしんどいから、完璧には出来ず、限定的になってしまう。

 さて、どうするのか。どうもしなくていい。完璧でなくていい。必要を感じたそのときに頑張って、一旦意識に載せてしまえばいい。確かに、意識に載せるための手続きは言語化であり、それほど容易ではない。しかし、一度載ってしまうと、言葉を頼りにいつでも無意識から引き出すことが出来るから。

 そして、意外なことに、意識されず言語化されていなかった未分化な頃とは違って、一度意識化された無意識は、放っておいても時間が分析を進めてくれていることがある。バートランド・ラッセル卿が、無意識の大切さをある本で説いていた。それは、まさにこの話であり、自分の確信を強めたところである。

 言葉になりにくいことを言葉にするということは、分析の端緒である。これができると、その後の経験がもたらす言語的な意味の深化に伴って、他の事々への波及効果が表れてくる。つまり、それまで自分の経験の少なさから限定的にしか捉えられなかった「A」という語なり事象なりの意味が、他の事々との関連性が強化され、広がっていくのだ。
 これは連鎖的に起こるだろうことは容易に想像がつく。新しい意味が入ってくると、次々と関連事項に意味の拡張を求める。そうやって、ある事に対する理解がある時期に一気に深まるという経験に繋がっていく。そのことは、多分クーンはそんなことは言っていなかったと思うが、大橋力先生の言う「パラダイム」の意味とはちょっと違ってくる。つまり、あるところで理解の深まりが停滞するのではなくて、あるところからまた一気に相互関連が進み、新しい認識へ踏み込めるようになるのだろうということである。

 最近行っている講義と、とある先生の講演に触発され、量子力学を理解しなおしてみようと思い立った。学部当時に作ったノートを読み返すと、そこには不完全ながら、古典力学から量子力学への橋渡しの理論が丁寧に書かれていた。ある程度はそのときに理解したつもりであったが、完全に腑に落ちたわけではない。それに比べれば、なにもしてなかったとはいえ、今のわたしは当時よりはもっと深く理解できていると、読み返して感じた。

 他にも、熱統計力学から非平衡の理論への展開や数学基礎論など、ずっと気になっていることがある。それらは学部の頃、よく自習していたものだが、必ずしも身になっているわけではない。ただ、この手入れを時々繰り返していれば、着実に理解が深まるだろうと想像できる。

 諦めず、丁寧に繰り返していく。そのことによって、そんな生き様の反映として、自分の理解が深まっていくということ、まさにそのことである。何事も横着せず、着実に進めたいものだ。

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