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押し付けの美と醜

 それぞれが刹那主義的に考えている、つまり短期的に満足すればそれでいいのなら、わたしが大学に居て何かする必要などないだろう。これはわたしの勝手な思い込みなひとそれぞれの問題だと映るかもしれないが、そうではなくて普遍的だと思っている。これについては別のところで述べたように思う。

 ともかく、短期的だったり長期的だったりするビジョンを、それぞれの人が持ち寄って、グループが出来る。しかし、そんな思いをただ自分の思いのまま都合よく並べて、それでお仕舞いでいいなら、それはグループではない。

 そんな環境で教育として何が出来るというのだろうか。

 彼ら自身が学びたいと思うことを選んで出来る環境がいいのか。押し付けたテーマでもそこから吸収できるものがあるという考え方を身につけてもらうべきなのか。

 しかし、どちらにしても相互を説得する材料があり、納得して進めない限り、不満が昂進するだろう。それは建設的でもないし、教育的でもない。とはいえ、自由選択に任せたからといって、それを充足できるかどうかは分からない。わたしが提供できる技術にも題材にも限界がある。また、学生がわたしを説得できないのに、そのテーマを進めることがありえるだろうか。

 それとは別に、わたしが本当にしたいことだってある。しかし、今抱えている研究テーマが、全てそうかというと、それに即答できない。もちろん、そう思って進めたいと思っているが、そんな悠長な考え方で選定なぞしていない。自分の力を信じて、自分の思うがままに進めたいのならそれもいい。

 自らが自らの力で進めたんだ、と思えるならそれは幸いなことだ。しかし、いきなりそんな環境が与えられると、環境や社会とは無関係にはできないのだという意識が芽生えることもあるまい。そして、自分の思い通りにことが進むと思って、事に当たり、結果を得られなければ、落ち込む。放任的で自由を強調するとそんな落とし穴が待っているような気がする。


 まあ、そんなさまざまのひとぞれぞれにわたしも鍛えられ続ける。ということなのかもしれない。人のためになっているんだという思い上がりと、人のために何かをするために投下し続けなければならないエネルギーの負荷がバランスさえしていれば、わたしもなんとかやっていけるだろう。これはわたしのエゴかもしれない。でも、最近あまり褒めてくれる人がいないから、癒されないなあ。

 あれはいやだ。これはいい。そんな感情も、時には剥き出しにしていいのだろうな。あまりサービスがよくなりすぎるのも、却ってよくないかもしれない。そのことの意味を理解しないものには、単なる甘い環境に過ぎない。とはいえ、わたしも自己実現のため、彼らを利用しているともいえなくないから、それは折り合いのいいところで線引きする。


 放任主義的な環境下だから人が成長するということもないだろうし、封建的だからチームがうまく行くということもないだろう。要するに、そのような環境において、そのことの意味を正しく捉え、その環境に感謝し、それをうまく利用できるように考えていく技を身につける。すなわち臨機応変さの獲得である。

 束の間の自由、思うが侭の生を味わったとして、そのことが人生にとってなんだろう。バブル期の就職組は使えないというもっぱらの謂いであるが、それも運命だから仕方ないのか?

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