« ドライブのスリル | Main | 科学の使徒たること »

本音なんてどこかにあるのか

 ここにいろいろ書き付けてみて、気がついたことがある。

 いろいろのことに出会い、いろいろのことを思い、いろいろのことを考える。

 自分は、一貫性を保ちつつ生きているのだと思いたかった。人に流されたり、刹那的な利益だけで生きているとは思いたくなかった。しかし、そうではなかったようだ。

 思い付きを書き付ける。それで発散することもある。全部が熟慮の上に書かれたものというわけでもない。


 というより、あまりに考え過ぎると、まとまるものもまとまらなくなる。全てに目を行き届かせたら、そのことごとの原因には到達するが、それが八方塞だったりすることは多い。

 その結果、放置しておくことが最善の策になったりする。それは無策でもなく、意識の上での放置でもないわけであるが、悔しく思える。時機を見て、考えていた策を繰り出すまで待つ。それは苦しいことではある。

 そのことが間欠泉のように、折々噴出する。それを直接人にぶつけたら、やけどしかねない。だからここに書くわけであるが、もう、それさえも影響を持ってしまうのかもしれない。


 そうなれば、放置することを正当化することの文言を用意する一方で、内面に滾っている想いも表れる。

 どちらも本音であるつもりだが、それは何を意味するか。


 別のところで、無意識を意識の俎板の上に載せろといった。そうすれば、無意識が一枚岩だというわけでもないことは、直ちに分かるだろう。実際、ユングもそう言っている。本音って言うのは無意識だけからなるものでもないが、無意識が一枚岩でない以上、それを含む本音もそうではないだろう。

 だから、これでいいのかもしれない。一貫性なんてもっと奥深いものなのだろう。
 そして、私の書いた何かや私の行動に反応するものが居て、それに誠実に応えようとする自分が居て。

 それなら、やはり間違っていないと思う。意識しつづける自我と格闘するほか、道はないと思う。そのことについては追々触れていきたい。

|

« ドライブのスリル | Main | 科学の使徒たること »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)




TrackBack

TrackBack URL for this entry:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/29245/683915

Listed below are links to weblogs that reference 本音なんてどこかにあるのか:

« ドライブのスリル | Main | 科学の使徒たること »