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科学の使徒たること

 研究者たるもの、あるいはそれを目指すものは、科学的価値観に一度は埋没してみる必要があるのではないか。

 それは日常生活、特に日本のそれとはかけ離れたものである。ましてやその価値観が全能であるはずもない。しかし、それを理由に平穏に生きていては、殊に日本では研究者から遠くなる。わたしは日々あれこれ言うが、経験や知識が足りないことを責めているわけではない。それは仕方がない。若いのだから。そうではなくて、あくまで、研究への姿勢を問題にしているのだ。(まあ、それも若さで片付けられなくもないとは言え…。)


 研究とは、知識や技能を駆使して行うことであるとしても、それだけのことではない。スキルを強調する嫌いがあるが、それは誤解である。それは時間が解決することもあろう。
 そうではなくて、放っておけば無意識的に流れていく事々に、意識を一々さしはさんで、具象化し、解体し、再構築する過程こそ重要である。

 楽しいことも、楽しくないことも、問題化していく。これは自我と無意識との戦いといってもいい。全ての事々に付される「なぜ?」。つまり、疑念と同居するということである。落ち着いた気持ちになぞなれない人も居るかもしれない。


 なんでそんなことしなきゃいけないのか。何かおかしいんじゃないかって思う人も居るだろうか。
 では、あなたは何に惹かれて研究者を志すのか。

 何かを見出したいとか、創出したいとかそういうことではないのか。
 人の到達していない場所で生き、もがくものが、流されていてどうする。少なくとも、研究をするという意味において、それをせずに何をするつもりなのか。

 研究をするということは、めまぐるしく変容する現代社会において、前線に立つということである。そこで悠長なことをしていていいはずがない。ましてや、教育もするというのなら、フロントラインに立たずして、自分よりも将来を担う若者を率いられるか。

 それが嫌なら、代わりは幾らでもいる。研究をすることを諦めてしまえば、別にこんなしんどいことはしなくたっていい。そのほうが楽しい人生かもしれない。

 若気の至りで、勢いのまま、あまり考えもせず、なにか勘違いして。それでもいいのだけれど、そのことに少しは疑いを持ちつつ、しかしそこに囚われてしまっている自分に気付き、半分自由ではないとしても、没頭せざるを得ない。そんな生き方をしていることに気付いている私には、あんまりにも無意識に無前提に何かを信じきっているようなあり方をどうも肯定できない。無意識に自分のしていることを客観的に眺められなければ、この仕事は成り立たないのではないのだろうか…。

 だから、進むと決めたなら、その覚悟と気概は見せて欲しい。さもなくば、私も支援をためらいたくなるから。若いからやり直しが利くとはしても…。

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