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分からないことへの畏れ

 本に書かれていることや人の話していることが分からない納得できない。そのこと自体はよくあることだし、不自然ではない。その原因は簡単で、自分が分かろうとしていないのに、分かるわけがないということだ。
 では、分かるということはどういうことだろうか。分かりたい対象をあちらにおいて、離れた位置からそれを眺める。お勉強とは大体それにあたる。それは、対象に膚接しない客観的なアプローチである。でも、一体化せずには分からないことも世の中たくさんある。表面的に見えることだけで全てを捉えることはできない。客観的分析とは、自分の想念や感性に基づいているのに、そこから構築した論理の正しさだけで、それを分かったと言っていいだろうか。
 といっても、理解するために膚接する覚悟なんて、簡単にはできない。そんなふうに深く係るということは、自分の時間を犠牲にするということだ。限られた時間を割く覚悟。自分の人生の一部をそれのために費やす。それが出来なければ、分からない部分は必ず残る。
 分かったほうが楽だから分かりたい。そんな安易な気持ちで理解しようなんていうこと自体、リスクを回避した汚いやり方だ。自分は有能だから、わかる。それでいいって?思い上がりも甚だしい。

 だから、時間を共有していない分からないことに対して敬意や畏れを抱くのは当たり前のことだ。そのことをどうして素直に受け止められないのか。
 素直な感情を表現したら負けになる。そう思い込んでいる人を見かける。彼らは急かされて、結果を求めることになぜか躍起にならされている。時間が足りない感じ。それは、現実認識と本当の現実とのずれだろう。求められているものに誠実であろうとすれば、ひねくれてもみたくなる現実に直面する。でも、それでいいのか。それを解いてくれるのは、やはり素直になれる人との出会いだろうし、それによって見えてくる本当の世間ではないのか…。

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