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優しく育まれる

 ここに並べている小難しくて無意味そうな議論が、科学研究に勤しもうとする若者たちに混乱をもたらし、やる気と覚悟を阻害することになっていたら、大変申し訳ない。研究や教育をわたしにさせる内的な考えは、ここに書くしかないから書いているのであって、皆が受け入れてくれるかどうかは別問題であることは理解している。今になって、ずるい言い方かもしれないが、そんなことは自分で考えていただきたい。(ただし、このことには少しばかりの注釈がいるので後述したい。)

 今一度、このページの意義について触れたほうがよさそうだ。もともとこれは、学生に公開するためのものではなかった。わたしが教員生活を始めるに当たっての覚悟と、父の死によって問い直さざるを得なかった問題をあからさまにすることだった。それを独り善がりではなく、他者に理解してもらえるように意識して書くことを第一義とした。独善的な日記は以前から書いていたが、それは人との対話を求めたものではなかった。自己満足に過ぎなかったから、それを乗り越えたかった。つまり、それに対する共感が人と得られたら、という甘い考えを持った。しかし、未だ成功していないようだ。

 ここの一連の文章を読むと、あれこれ詮索し、執拗に思考している人間でなければ研究者になれないなんて言っているように聞こえるだろうか。そんな意図は無いとしても、しかし、もう少し考えてみて欲しい。研究はその本質において、決して人間関係でできるわけではない。孤独に時間を費やすことに躊躇のない人たちがすることなのだと思う。思索と実行が相俟って、初めていい仕事ができる。このことに気付かなければ、この業界ではあまり浮かばれないだろう。そんな人を沢山知っている。学業の成績がいいからといって、この世界で成功しているわけではないことくらいは、皆承知のことだろうが。

 そして、わたしは思い込みが激しすぎるのかもしれないけれど、研究者として生きていくということについて率直に問わずに、この仕事を続けることは難しいと思っている。だから、その思いをここに綴っている。だから、こちらも合わせて見て欲しいという気持があった。しかし、それとは無関係に皆さんがわたしに期待しているのは、いい研究をさせて欲しくて、いい結果を得たいということ、そしてそれをするための指針(なにを具体的にするかの決断まで含めて)とスキルを教授して欲しいということなのでしょうか。でもそれだと、人が呉れたテーマで格好をつけて、試薬を混ぜて何かの結果を得るということだけではないですか。

 大学生の頃、実家のそばの自動車学校に通ったことがある。そこはやかましくて、入校したてから最終的にしなければならないことを要求されていた。そんなこといきなり言われても、できっこないじゃないかと不満もあったが、結果的にはよかったと思えた。
 研究指導についても、いきなり性急に高いレベルを求めても仕方ないが、目指すのは自主的に考えて行動できる研究者だと思っている。わたしはかなり自立的に生きてきた自負がある。だから、頑固だと周りに言われようと自分の考えを貫いてきた。そんなわたしは、皆さんと比べても研究に関して格段の経験の差がある。その事実はかえられない。しかし、皆さんは、そのことを無視しても構わない。ただ、そうするなら、自分で結果を引っ張ってこないと駄目だ。そのときには、わたしは責任は負えない。わたしが学生の頃は、結果がでそうにないときには先生に言われたことは実行して駄目だしをし、他の方法で結果が出せそうなら無視して思うが侭にやった。そうしてくれるとうれしいんだけど。


 ある人から、「君は、生活の問題と、仕事の問題と、人間の問題を、すべて一元的に考えすぎている。」といわれた。なんでもかんでも統一的に考えすぎているというのである。

 これは仰るとおりだ。無自覚ではあったが、それがわたしのスタイルだ。わたしにとってみれば、全ての問題の根源は、ただ幸せに生きたいということだけになる。だから全部そこに還元できると思っている。

 そういうと、「みんなはそうではないよ」と返すのだろう。確かにいつぞや、事務の方と話をしたとき、「先生方は、生活と仕事が不可分になっている。」と言われた。仰るとおり、寝ても覚めても研究。そんな競争の中に置かれている。そんな生活の中で、楽しいことと楽しくなくてもいい事を分けたりしていると、それぞれに割ける時間が限られてしまう。だから、それらを一体として考えたとしても、それがそのまま楽しさとか幸福感につながるようにしてみたいと思っていた。アフター5は研究ではない生活。そんなものが可能なのだろうか。それでいて一流の仕事が出来る?一人身のわたしには想像が出来ない。まあ、今は教育とは何かについてを寝ても覚めても考えていて、研究はろくにできていないのだが…。

 もちろん、一流の仕事なんてしなくていいのだと割り切ってしまうのなら、それも一人生。ただ、それなら、なぜ研究なんてするのか。若いうちからそんな低いモチベーションで研究者になる意図がわからない。生活を大切にするなら、もっと他の仕事だってありえるじゃないか。この仕事での経験を重ねて生活の大切さに気付くならわかるのだけれど。その意味では、もう研究も大衆化した仕事なのかもしれないなと思う。普通の生活の上にのっかるなにかに過ぎず、高い知性を要求するという優等生にうってつけの自尊心を与えてくれ、せいぜい運がいいと大当たりするかもしれない仕事ということか。でも、僕には相変わらず、生活を大切にする上に、研究にこだわる理由がよくわからない。それってなんだか欲張りだなって思う。まあ、一流でなければとか、なんでもわかろうとすることとかの方が、極端すぎる考え方なのだろうけれども。それでは、あなたはなんのために生きているのか。なにかのためではないっていう言い方はかっこいいけど、だったら反語的には、こだわりなく一生懸命何かを求めてみる事だって、なにかのためではないんじゃないのか。だから、それは理由にはならない。

 でも、これだけ「わかる」ということを大切にしている仕事において、それって無頓着すぎないだろうか、って思いますが、どうでしょうか。もちろん急かすつもりはないけれど。


 大学に移って2年。学生さんたちとの対話は、思いのほか進んでいない。学生さんにこころを開いてきているとは思うのだが、それだけでは足りないらしい。彼らからするとわたしは屈折しているらしいのだが、それってどのあたりを指して言うのだろう。素直じゃないってこと?

 屈折した視点というのは、多分、普通にただ感じること以外の事を提示するわたしの性質を現しているのだろう。この意外さは物事をいろいろの側面から見ようというわたしの意思である。物事のさまざまな側面に思いを致し、いつも頭を働かせている。そんなことしても意味ないんじゃない。そう言われることは多いし、実際に意味がないことのほうが多い。でも、時々面白いことが起こる。意外なところから、問題が解決することが実際にあるのだ。

 「だからみんなもしたら」なんて言わない。良い悪いなんていう価値観で、わたしのことを評していないのだろうと思う。

 心の内面を語ることに意義があるのかどうか。なんにしても極端はよろしくない。ここに書いていることは、わたしが特殊である事を示しているだけなのか。

 長期的に構えていけば良い問題というのがある。今すぐ対処する必要がないかもしれないと、余裕を持って考えられるような問題である。しかし、着実に積み上げていかねばならない。片時も忘れてはならない。

 そのことが辛いと感じられるとしたら、それは覚悟がない。


 科学研究と大学教育の問題を今一度考え直してみたい。今や、西洋的思想と東洋的思想の渾然体としての日本社会の特殊性があるように思う。わたしは、科学研究によって西洋的思想を多分学ぶことができた。一方、東北の田舎出身の両親に育てられたし、東洋的価値観も深く私の心に染み付いている。その二つの価値観の狭間に立って、現実の複雑さと面白さをわたしは感じている。

 シンプルに生きていると称する人たちからは、わたしの考え方の一部は、窮屈で平穏でなく楽しくないものとして映るらしい。しかし、それは偏見である。わたしの心の内の楽しくない部分をのみ抽出し、お前はもっと楽に生きられると言ってくれる。こういうことを言う代表は母である。母はシンプルに生きているなんて言っていないが、そのくせ、子にはそれを望んでいるようだ。

 しかし、わたしも母の生き方には、わたしなりの意見を持っている。それを言うと、厳しいといって涙を流す。しかし、母自身の私への指摘の中に、私にとって厳しい意味は含まれていないとでも言うのか。自分が出来ないことなんて、山ほどあるということくらいわたしにだって分かっている。思いやりと称して直截的に言うこと。それは厳しさではないのか。そして、思いやりのなさではないのか。

 それでは直截的なことはいけないのだろうか。切磋琢磨という言葉を信じて使うなら、それは構わないことである。わたしは、どちらでも構わない。しかし、便利に思いやりを使っていて、自分が言われると悔しかったりする人には、一言申し上げたくなる。その「思いやりのある」発言は誰のためなのかと。

 人を圧倒せず、しかし着実に成長しようと思える環境作り。それは不可能ではないと信じる。しかし、それを創ることが自分の求めるものだったのかどうか。立場上求められるなら創りましょう。そうすることがその場において楽しいことだと思えるから。ただ…。

 わたしは実はとても欲深い人間なのだ。このくらいの面白さでは、まだまだ満足できない。だからこそ、不満も言う。この全知全能に向けた深い欲があるからこそ、わたしは、今ここに立っている。

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