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仮面と本音の使い分け

 ここで言うのは建前と本音の使い分けではない。仮面とは社会生活を営むために必要なスタイルのことであるが、必ずしも建前とは一致しない。それを一部包含したもっと大きな意味を持つ。

 楽しくないけれどしなければならないこと。これを無視して世の中に生きるわけにはいかない。しかし、人は幾分かはそれを無視してしまわないと息苦しい。それがどんな場合なのかに着目すると、その人の性質が少し見えてくる。
 
 静かで本音を語らないが、なかなかこちらの言うことを聞いてくれない者がいる。言うことを聞かないというのは、まさに本音であるが、あくまで個人的な関係においてそれが出てくるのだ。いくら偉い(?)教員のいうことであっても、それは公的な意味を持たず、一対一の問題だと理解している。それなのに、数名の人を介した日常の会話では、建前論に終始する。そして、集団の秩序を乱すことは決してしない。彼らは、建前とは自分を抑圧するが、秩序を作る装置だと考えているのか。彼らは一対一の関係が危うくなっても、社会に生きることはできると考えている。どちらかといえば民主主義的だが、社会主義的ともいえる。

 他方、元気でわがままに映るが、個人的な関係においてはとても義理深い者もいる。一対一ならとても素直で聞き分けがいいのだが、集団のルールや雰囲気を大事に出来ない。あるいは、自分の本音を通してしまえるのではないかと感じているように見える。彼らからすると、建前とは社会の共通価値であって、自分を社会に売り込む道具かもしれない。だから、人を見て対応する。社会に生きるとは、引き立ててくれる一部の人間との関係を保つことだという気持ちが強いのかもしれない。このことは、個人主義的ともいえるが、ここにもあるとおり、ある意味主従関係に基づく封建的な関係性だともいえる。

 仮面とは公的な意味で表出している自分であって、研究室の中のような狭い空間だけでは測れない。表に出る機会の少ない彼らは、仮面を育てることが充分に出来ないだろう。わたしもそうだったし。
 上の二類型のうち、どちらがいいかなどという問題ではなく、それをAufhebenしたところに到達点があるように思う。本当の社会性は、やっぱり学校では育み得ないのだろうか。

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