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偶然に翻弄される研究というお仕事

 ある学生と話をしていたとき、最近になって、うちのラボの成果が徐々に上がってきている理由についての話題になった。彼は、それはたまたまで、偶然なのだという。でも、一方で自分の培ってきた才能は疑うこともなく、実力で得たものだと考えているのだろう。

 われわれの研究は、ゴールがとても明確である。対象の試料をある物理化学的状態(以下、C状態という)に持っていき、物性を調べる。しかし、C状態を実現するのが全ての試料で可能かというと、そういうわけではない。だから、多くの試料でC状態を実現しているのは、単なる偶然の産物と結論しているらしい。

 それを聞いて、とても寂しくなった。わたしは成果を得るために、それなりにいろいろ考えてきたつもりだった。しかし、彼はそれをあっさりと否定してくれた。

 われわれの当面のゴールは、確かにある特定の対象のC状態の物性を調べることにある。しかし、それは究極の目標ではない。その物性を知り、対象に迫っていくことが大切なのだ。その意味では、物性を知ることは通過点に過ぎないのである。また、もっと言えば、C状態を実現する間に見えてくるさまざまな性質を見出していくことも、とても重要なことなのだ。

 研究者は成就しがたい研究をするという如何ともしがたい運命の下にいて、成果を得たものは幸運なのだという考えは、成果が上がらない者にとって、不安から遠ざかるとても便利な考え方だ。自分の甘えを研究の困難さにあてがって平然とする。

 なにかが出来ないということを証明するのは難しいが、出来ないのではないかという不安の中に自らを置くのは辛いことである。そのことはわかる。研究テーマの選定は難しい。今出来なくても、5年後にはできることもあるだろう。そのとき、すぐさま対応できるためには、5年間を辛抱する必要がある事だってある。

 このことこそ、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の意味である。これは、人生のある時間をそのことに限ってみる。つまり覚悟である。

 ただ不安におののくばかりで、前進する強い意志がない。やっても仕方がないのではないか。どうせ無理なんじゃないか。そんなことの繰り返し。

 そこで、C状態を実現するために研究をしているのではなくて、C状態が実現できないことを証明するために、研究をしているとしたらどうだろうか。とふと思う。とはいえ、そんな研究をしたい人はいないだろう。ただ、そういう視点の逆転も必要だということだ。

 また、人への感謝の視点が欠けていると感じる。偶然の産物であると言い切れる背景には、ただ自分と対象物の関係だけがあるという気がする。つまり、それがもたらすことには目も呉れない。だから、失敗しても、それは偶然の所為。僕が無能なんじゃない。そう言いたいのだ。あくまで、失敗は天に委ねる。成功は僕の能力。そんな甘い想念が背景に見え隠れする。

 最後に。これでもわたしは、人を見てテーマを与えているつもりですよ。偶然を否定しないけれど、ちょっとは考えてね。それに、これだけ結果が出ているのに、それを偶然だけだと考えるのはちょっと甘えているんじゃない?現実を正しく見ないとね。


 研究が進まないのは、自分の未熟さか現在の技術では不可能なことに挑戦しているかのどちらかであるが、後者であるのだと思い込めるうえ、その不可能を可能にする研究をしようとはしない能力に、敬意を表したい。わたしもそんな人間に生まれたかった…。まあ、そのエネルギーは自己顕示だけなのかもしれないが。

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