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ひとそれぞれ

 「ひとそれぞれ」。この言葉の真の意味を理解するのは、意外に難しいと感じる。それを際限なく許せば、人を束ねることはできない。しかし、それを厳密に否定すれば、自由がなくなってしまう。

 この相反する方向性を超えるには、時間軸を導入する必要がある。臨機応変さである。恒久的に一定の価値の下で生きることはできないと諦めたほうがいいのか。

 「何事もバランスである。中庸が良い。」と、別のところで書いたが、これもまた難しい。これはひとそれぞれの逆になる。とはいえ、これは統計的意味であり個人のユニークさを否定するものではない。臨機応変に対応してなにかを成した後、その極端な精神状態をもともとの意識に引き戻すことが大事だということを言っているつもりである。

 ところで、「ひとそれぞれ」という言葉を吐きたくなる場面として、経験豊かな老獪な人間の多弁さに若者が辟易するというのがあるだろう。今更、そのありようを認めるまでもないが…。これはどうしたものか。わたしもそんな経験をしている。押し黙って聞くだけだった人間が、いつしか多弁になる。


 これは、年長者にしてみれば、自分の考えを押し付ける、いわゆる自我肥大であるが、ユングはこの概念の形成を次のように説明している。以下は、あるサイトからの引用である。

 『無意識の現われを「自分に属さないものとして否定する」のと反対の態度は,「自分に属するものとして肯定する」ではないんですよね.このことを初めて知ったときは,かなり意外に思いました.さて,こうした態度をとった場合,自我肥大が起こるとされていますが,かといって「自分に属さないものとして肯定」した場合には,外化されて現実の神々が登場することになってしまいます.結局「自分に属しているけれども自分に属していないものとして肯定する」という矛盾した態度が必要になってくるわけですが,もはや普通の言葉では表現不可能ですね (^^) 』

 このことは実感としてよくわかる。無意識を単に肯定してしまうと、自分が神になってしまうということだ。さらにそこには無意識の意識化プロセスについて、こう書かれている。

 1.意識的な構えの偏り(?)によって、抑圧された心的なエネルギーが無意識に流入する。
 2.無意識に流入したエネルギーは、そのときの心的布置に応じた特定の元型を賦活化する。
 3.賦活化された元型は、自律的な性質を帯び始める。
 4.自律的な元型は自我意識にネガティブな影響を与え始める。このとき、自我意識が元型と一体化することは致命的である。
 5.元型を他者として扱い、理解することで、元型からの否定的な影響を除くことができる。
 6.意識化された元型は、自律的な性質を減じ、自我意識が自由に使える一つの機能になる。

 表現が難しいが、自分のケースについて敢えて極端に翻案すると、以下のようになるのではないだろうか。社会に生きて行くわれわれが、忌避したいことを如何にして受け入れていくかを段階的に書いた。もともとの意味からは違ってしまっているかもしれない。

 1.われわれは社会に生きなければならず、ためにしなければならないことがある。しかし、全てではないにせよそれを回避したいという思いが湧き上がる。
 2.したくはないけれども、それをしなければならないという思いが抑圧であり、それが強く意識される。
 3.その公民として社会に生きるという意識が自律的になる。それまでは、仕方がないという思いから発せられたものであった。
 4.しかし、したくないという思いと、しなければならないという思いの葛藤が起きる。自己欺瞞や自己嫌悪、自己否定などのさまざまな感情が湧き上がる。
 5.しかし、この義務感を達成するための自己を他者として扱うことで、現実的な対処を肯定的に受け止められるようになる。これは自分が社会に生きるために必要な表現形であると。
 6.そのような表現形にはもはや強い意識はない。あくまで、自分が生きていくために自分を利用するということなのだ。


 話を戻すと、教育において、人をある形に仕向けようと考え、そうすることがこの人にとっていいのだという思いが裏打ちされているとき、受け手はどのように反応するのだろうかという問題がある。そのことを判断できないからこそ、それを感性に照らし合わせ、いい感じなら受け入れようということになるのかもしれないし、嫌なら受け入れず「ひとぞれぞれ」とか言ってみたりする。単に便利に言葉を使っているだけかもしれない。

 しかし、そんなものなのだろうか。自由が全くないとはいわないが、それは受け手側の自由ではなくて、そのような集団生活の中にあって、それに協調していくという過程なのではないだろうか。それはここでいう元型が成長するということであろう。なにも、押し付けたからといって、その人間の本質が変わったりはしない。あくまでも、仮面(ペルソナ)の成長が起こって、内面と分離した形で表現形の変容が起こるのだ。それが社会へ適合する人間の成長であろうと思う。

 その意味で、「人が自分にないものを持っているからあなたを好きになった。そしてそれと係りあいたい。」という意識は、仮面の外在化であろう。あくまで、仮面との葛藤を回避するための戦略である。自分の中に構築された仮面があれば、本来そういう愛は発生し得ない。これは未発達な愛ではないかと思う。ある意味で甘えか。

 だからなのか、そういう方便って、わたしは好きになれない。それはただ、感性に運命に身を委ねた生き方じゃないか。もう、わたしは若くない。この年になると、そんなことくらいでは納得できない。とはいえ、もちろんその裏側をとってみると、やはり相手にも葛藤があり、そしてそれを受け止めて格闘しようという覚悟にも繋がる。それは成長であろう。
 やはり、その意味でも違うということは、離れて眺めるには面白く興味深いものなのだ。しかし、その違いと直面できるなら…。まあ、これは関係性の中にさえ入って行かない私のことを言っているのだ。離れてあるということで、安心した自分を感じられている自分のことを。

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