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幸せになりたい

 外界は必ずしも自分の思い通りにはならない。

 自由にならない他者なんて目も呉れず、自然を解釈し、うまく操ろうとしてきた。

 仕事がうまく行けば幸せ。それは外界を思うがままにした結果だから。

 人を操ろうとはあまり思わなかっただけましなのかもしれないが、本当だろうか。


 ああしなさい。こうしてはだめ。そういう教育を受け、育ってきた私にとって、その言葉は常に私の心の中に響いていた。そんな要求を斟酌してやってきた。これは、母親の子への愛だということは分かっていた。そういう戦略をとれば、幸せになれるんだという母の人生観だった。それを信じるほか無かった。まず、それがきっかけである。しかし、この人生観が意味するところはなにか問い直す時期に来ている。予め、述べておきたいが、それはきっかけに過ぎない。されど、きっかけである。

 幼い日、感覚的に思うがままに生きることは許されないと感じていた。その代わりに、外界との係わりにおいて、自分を規制していく振る舞いを見せ付けることによって、外界を自分の思うがままに制御したいという欲求が生まれたのかもしれない。これだけやっているんだからお前もしろよという押し付け、あるいは甘えが多少は許されてもいいだろうという感覚が芽生えていた。それは、もともと思い通りにならない外界を、少しでも思うがままにしたいという達成感の乏しい戦いであり、わたしを追い込むことになった。

 この息苦しさに周囲は辟易とするのは当然だ。確かに自らを規正してこだわっていくことは、ある意味においては立派なのだが、それを受け入れられる人は必ずしも多くないし、受け入れる必要も無い。だから、周囲は手放しで褒めるばかりで、わたしとの深い係わり合いを避けていたのかもしれない。しかし、浅はかで、成長したい、よりよく生きたいという欲求の強い子供には魅力的な戦略だと映ったりするかもしれない。危険なことではある。

 そうして、他者に受け入れられないと知ったわたしが次に取った戦略は、対峙している外界に息苦しさを撒き散らさず、わたしの内面に留めておくことであった。そうすれば、嫌がられることは無い。そのためにも、対人関係で出てしまう息苦しさをちらつかせて達成感を得るのではなく、対物関係で達成感を得るほうが、迷惑もかからなくて好都合に思えたのかもしれない。それ以来、私は自然科学者を目指して歩き始めた。しかし、そういう孤独な戦いに援軍は必要ない。却って、意思を挫く存在でしかなかったかもしれない。そうやって、孤独をありがたがっていた。その結果が今の私である。

 自己規制した人間にとって、世界を思うがままにするには、妄想の世界に逃げ出すか、自分の考えを変え、思うがままになりそうな事柄だけを自らの欲求であるかのように自らを錯覚させる必要がある。自然科学者を目指していたわたしは、そうして対人関係を深く理解する機会を失うことにした。そこに家族の問題が加わって拍車をかけた。研究者になりたいという自己完結度の高い欲求はとても好都合である。これは達成感が得られる一方で、到達する可能性も決して低くない目標であった。

 しかし、このことは世界を思うがままにしたのではなくて、自分を思うがままにしただけだった。あくまで、そんな社会に適合できる自分を生み出しただけであった。これは本末転倒である。結局、孤独に逃避したのと変わりなかった。

 ただし、このことと引き換えになにがしかを得たのは間違いない事実である。達成感とともにある喪失感に気づく。何かを手に入れると、今度は無いものが欲しくなるということなのかもしれない。あとは程度の問題になっていく。


 ところで、世界を思うがままにしたいという感覚が強すぎると、倒錯していない限りにおいて、多くの場合理想から来ている。このことは、達成可能性が低いほど幻惑されやすい命題になる。これはなにを意味するのか。例えば、これまで解かれていない数学の問題を解きたいという課題には確かにニーズがある。となれば、価値はある。それを分析し達成すれば、名誉が得られ達成感や多幸感も大きい。

 しかし、これは自分が幸せだと感じることの意味を、かなり限定的に捉えた考えかたになっているように思う。分析し、解釈し、自分を変化させることによって得られるなにか。それをありがたがる考え方に没頭して、それを絶対的な幸福だと考えるのはなぜか。

 そもそも幸福だと感じるときはどんなときだったか。うまいものを食ったとき。欲しいものが手に入ったとき。人を好きになったとき。このなかでも恋愛は、わたしにとっては大きな問題を抱えている。若い頃、愛は容易に手に入れられると錯覚していた面もある。しかし、私の恋愛は惨憺たるものだった。望めば手に入るのではないかと思っていたわたしは、容易に手に入らなさそうなものを常に望んだ。そして、叶わないことに悔しさを覚えつつも、孤独でいられることに安堵した。幼いときに、女の子との関係でいじめられたこともあって、人を好きになることがトラウマになっていた面もある。もっとも一般的な幸福感につながるこの可能性を、自ら絶っていた。他者との対比で得られる幸福感にのみ依存していた。人より何かが優れている。そんな優越感で幸福感の代償にしていた。

 さあ、ここから組み替えていかねば。で、どうやって?

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