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こどもの教育がなってない!って

 池袋の某書店で、理工書を物色していた。
 傍ら英語の書籍コーナーで、椅子に座って親子が本を眺めていた。

 就学期前の子供は本屋なんて楽しくないだろう。特に絵本があるわけでもないところで、ぐずり始めていた。

 母親は本に没頭したいのだろう。ぐずった子供に冷たい言葉を投げかけ続ける。なんだか寂しいなと思って聞きながらいたのだが、子供の方も聞きわけがよくない。まあ、この親だから仕方ないよなと思っていた。そのうち、泣き喚く結果に…。

 ああ、鬱陶しいと思ってその場から立ち去ろうとすると、初老の女性が母親に近づいていって、次のように言う。

 「親の教育がなっていないから、子供が騒ぐ。」
 「あなたは何を考えているんだ」

 面白そうだと思いながらも、先を急いだ。


 お節介だとは思わないが、これじゃ親の対応と一緒じゃない。子供が素直に聞けない言葉を母親が吐いていたのと同じように、この女性もそんな言葉を吐く。まあ、大人と子供じゃ違うといえばそうなのだが。

 結局、それぞれの感情のぶつけ合い。ここから建設的な話が出来るんだろうか。

 まあ、できなくたっていいか。

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孤独を感じるとき

 高校の友人と久しぶりに都内某所で酒を飲んだ。彼は、半官半民の上場企業に勤めるサラリーマン。職場を訪れたことはないものの、彼の語るその言葉から、その仕事っぷりはたいしたものだと想像し、いつも敬意を表している。
 昨晩はふとした流れで街で夜を明かした。こんなことをするのは本当に久しぶりだ(彼は初めてらしい)が、われながら無駄な時間を過ごしたものだと思う。
 もう少し若い頃は、結構そんなこともしたものだが、当時はあまり後悔することはなかった。友人らと話をすることが沢山あった。私らしく哲学的な話ばかりなのだが…。
 しかし、昨日は、くたびれたのもあるが、後半は会話が薄くなってきた。そのため、どうもお互いにノリが今ひとつで、彼も私もあまり気分がよくない。それはそうだろう。
 そんななか、眠気が襲いつつも、わたしはなぜ、こんな雰囲気になったのかを考えていた。

 もうわれわれは覚悟して人生を生きているということ。それに尽きるように思える。
 それぞれ、10年くらいは今の職に没頭してきてみて、これを突き通すんだという想いがある。だから、言葉を重ねても、行き着くところは一緒。それだけの時間と思いを凝縮して今がある。それを覆すことなんてできないし、する必要もない。はじめのうちはそれを気持ちよく聞く。
 でも、だんだんとどうでもよくなってくる。それを突き詰めた場では共感なんて必要ない。孤独にそれぞれの思いを込めた言葉が、並行し、たまには共鳴しながら流れていく。ああ、結局いつもここに戻ってくるんだ。運命も、自分の働きかけもが交じり合った中に、たいした自由もなく、それぞれがそれぞれに生きている。

 またそれを確認できたことに安心し、彼に感謝すると共に、この仕事を続けていく覚悟を補強することができた。

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年金なにやってんの?

 年金ってなんなの。
 代議士も払ってないみたいだし。それで人に払えってなんなのだろう。

 とはいえ、かくいうわたしも、学生の頃は父に任せきりだった。父の、

 「はらってる」

という言葉を信じていたら、ある日、役所から呼び出しがあった。払ってないから、どうにかしろという。修士の頃は経済的にも苦しくて、小遣いから払う余裕なんてなかった。博士課程になってしばらくして、ようやく払えるようになったが、2年までしかさかのぼって払えず、未納期間が出来てしまった。父ながら、金に関してはこの人は信用ならないなと思ったものだ。

 だから、うっかりしていたのを含めると、年金が全部きちんと払えないっていうのは、現実には結構あることなんだと思う。
 しかし、思うのは、なんで国民年金は2年間しかさかのぼれないのだろう。いろいろズルをする余地があるのかもしれないけど、わたしからすると、この未納期間は自分にとっての汚点だと思っている。できたら払いたいのだけれど…。未納3兄弟の皆さんを始めとして、そういう人って結構いるんじゃないか。
 金がないとか言っておきながら、さかのぼって払わせないって言うのはなにか矛盾しているように思う。一方、厚生年金や共済年金になったら、天引きだから逃げようがない。

 まあ、あんまり年金については詳しくないからこれ以上コメントしないけれど、人様から金をとるってのはお上といえどもなかなか難しいんですね。全部税金にしちゃえば、北欧のようになるんだろうけど、申告制にすると現実にはいろいろあるんだろうな。株での利益も申告制から特別口座からの源泉徴収になってきたし。ああ、クロヨンの悲哀…。だからって消費税がいいとも思わないが…。

 金に関しては、人を信じちゃいけないってことだろうね。「人に金を貸そうなんて思うな。」っていうのは、投資が盛んな時代には逆行するようにも思うけど、社会性を持たない大人じゃない個人には常に真理なんだと思う。

 お家で奥さんに甘えたりするのは勝手だけど、それを社会的で公共的な場でするのは恥ずかしくないのかな。それと同じ意味なんだと思うんだけどね。そういう場の雰囲気を理解しない人が増えているのかもしれない。いやそうじゃなくて、昔からなんだろう。ただ、大人の意見がある程度通るようになってきたのかもしれない。でも、勝手に自分の中で意味を作ってしまっている人は依然として多数派だ。こんな感覚さえ崩れている日本人だから、めがねの官房長官がそれぞれの年金納付の状況は個人情報だってわけのわからないこといって平気な顔をできるんだろうな。未納っていう社会のルールに背いたことも個人情報だって。閣僚の資産公開と同じ次元で語っている。公人ってなんだろう。こんな人が官房長官在任期間最長だから、申告制がきちんと適用されないのだろう。どうしてこうも社会的な意識が低いんだろう、この国の人たちは。そういうと、息苦しいって言われるんだよねきっと…。

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最近…

 なんか最近、自分は便利に人に使われすぎているように思う。
 ふざけんなって感じ。

 言いたいこと言われても、仕方ないねなんて言っているからなんだろうか。

 多分、わたしが幾らいろいろ感じて、ここに書いていても、わたしの言葉を参考にする人はいないようにも思う。だって、このやり方では、便利に使われるのが落ちだと思うだろうから。もっと、ふてぶてしく振舞えるように、もっと結果を貯めないといけないのだろうか。って、まだ足りないの?

 そのうち不満が溜まって、勝手なことするかもしれないから注意しておいたほうがいいかも。

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(葬儀・相続)固定資産税の支払いに関する相続人代表者指定届出

 お役所はいろいろ大変ですね。父の死後、二ヶ月半くらいして、父の資産があった市役所の資産税課から「相続人代表者指定届出書」を提出するように連絡がありました。これは、固定資産税や都市計画税の納付を確実に行うための地方税法(第九条の二)の規定によるもののようです。

 相続登記の準備中だったので、無視しようかとも思ったのですが、法務局と市役所は隣り同士だし、念のため提出しました。

 相続の登記をすれば、その翌年度から新所有者が納税義務者になるそうですが、登記を現住所でした後に、その不動産に引っ越してしまうと、所有者の登記上の住所と現住所が一致しないことになります。住民票を移してから申請をするのが本当はよかったのですが、抵当権解除は早めにしないといけなかったので、現住所のまましてしまいました。税金の支払いができていれば、登記上の住所が変わっても問題なさそうなので、市役所にそのあたりの届出をしてもらうように、住む人(弟)にお願いしました。新たに登記申請をすると、一件当り2千円かかるし、書類作成などが手間ですからね。まあ、しばらく住むだろうから、ころあいを見てしてしまったほうがいいでしょうが。

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(葬儀・相続)相続税

 相続税は、基礎控除5千万円と相続人一人当たり1千万円の控除があります。われわれは3人の相続人でしたので、8千万円を超えた場合支払い義務が発生します。幸いにして(?)、これを超えませんでしたので、申告義務自体がなく、なにもしませんでした。

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(葬儀・相続)住宅ローンと抵当権抹消

 住宅ローンは多くの場合、未払いのまま債務者が死亡したときのことを考慮して、団体信用生命保険に加入しています。父の未払い分はこれで完済されました。

 生命保険の保険金申請には、所定の様式の死亡診断書を医師に作成してもらう必要があります。また、保険金の譲渡に関して、相続人による同意書を用意します。印鑑証明も必要です。

 しばらくして、抵当権抹消に必要な資料を送っていただきました。

 手続きは、まず所有権移転ののち、抵当権抹消手続きという手順になります。死亡により相続が開始された後に、抵当権が抹消されたという時間経過によるためです。

 抵当権解除に必要な書類として、登記済証として抵当権設定した申請書・担保差入証が送られてきました。(完済を確認した金員借用証書に○済の判を押したものがあったのですが、これは原因証書ではないみたいです。)またローン会社の屋号が変わっていたので、変更証明書として商号登記の証明書(現在事項一部証明書)もついていました。

 抵当権の設定に使われている申請書は、文言を変更して解除の申請の雛形になります。これは比較的簡単にできます。例文はこれです。

 委任状(代理権限証書)には該当する物件をリストアップします。先方の実印が押されていますので、間違えないように注意が必要です。しつこく確認しましょう。大概、捨印が押されているので問題ないとは思いますが…。

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(葬儀・相続)自動車の相続

 父の車を、妹の知り合いに譲渡する手続きを行いました。

 ローンで購入する場合、車には質権設定が設定されており、所有者が使用者と一致しません。父のローンは終わっていたはずなのですが、所有者を自分にする手続きをしていませんでした。必要な書類は、車検証、自動車税の納付領収書、名義変更申請書、遺産分割協議書(陸運局にあるそうです)と委任状、印鑑証明、譲渡証明書(相続者から譲渡者へ)がいります。また、会社に所有権を放棄してもらうために、会社の印鑑証明等を用意してもらいます。

 父が車を買ったフランス人社長の自動車会社のディーラーに頼もうとしたのですが、代行費用を求められました。最初はやってくれるって言ったのに…。これだけいろいろ自分でやっているのに、これだけ依頼するのも変だと思い、結局、自分たちですることにしました。せこいと思われただろうな。

 しかし、所有者がディーラーですから、そもそも遺産分割の書類は会社に出すだけでよくて、陸運は関係ありません。結局、ディーラーからの譲渡という形で、妹の知り合いに直接移転しました。これだと、ディーラーからの譲渡証明書と、ディーラーの印鑑証明(わたしの事例では、法人の名義が変わっていたので、幾つか書類が追加されていました)と、譲り受ける側の印鑑証明と車庫証明があれば終わりです。もちろん委任状は必要な分だけ用意します。

 移転手続きの書類は3枚組になり、陸運で30円で売っています。これを買い、移転に必要な手数料として、印紙を500円分購入します。用紙の書き方は、丁寧にもファイルに綴じて、筆記台の脇におかれていました(埼玉の某陸運)。

 書き間違えないように、丁寧に写せば、難しいことはありません。住所コードは間違えないように。ちなみにわたしは、申請に不要な住民票を横目に見ながら書いたため、間違えて本籍を現住所と勘違いしてしまい、叱られてしまいました。こんなもの持ってくるんじゃなかった…。(陸運の人は悪くありません。受付の締め切り時刻を越えて受け取っていただいたのにすみません…)

 と、いろいろありましたが、窓口を幾つか巡って書類を出せばOKです。締め切り後に急いでやってもらったからでしょうが、全部で30分で終わりました。ディーラーに頼んだら15,000円取られるところでした。あぶない。あぶない。(もう、ここのディーラーから車を買うことはないだろうし、人にも勧めないだろうな…)。

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(葬儀・相続)高額医療費申請

 申請は社会保険事務所等に行います。書類もここにあるようです。

 まず、保険証はコピーをとっておきましょう。勤務先等に返却すると返ってきませんが、この申請書に保険証の記号などを記載する場所があるからです。ちなみに、わたしは忘れてしまいました…。

 申請者は、相続人の中から選びます。受給代表者選任届を事務所でもらい書類を作成します。その代表者が申請者となります。申請書にはその人が記入していきます。

 既に、医療費を支払っているときには、領収書を忘れず添付します。基本的にはこれでOKです。また病名なども死亡診断書から書き写せばいいでしょう。自己負担額は領収書の合算額を括弧の中に書いておけば、計算してくれるんだと思います。わたしは括弧でないほうに書いてしまい、間違えてしまいましたが…。

 また、戸籍謄本を添付する必要があります。郵送で行うときは原本還付のための返信用封筒を同封しましょう。時間がかかりますが、返してもらえます。

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(葬儀・相続)埋葬費用申請

 埋葬費用は、健康保険から出る補助です。葬儀を行った人が申請者となって、死亡者の属していた保険の事務所に申請します。社会保険事務所の場合、会社に死亡を確認してもらうと、必要書類が激減しますので、お願いしましょう。

 葬儀の費用を示す明細書と領収書が要りますが、言っておくと原本還付してもらえますので、予めその旨伝えたほうがいいでしょう。

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(葬儀・相続)不動産登記申請

 相続に伴う所有権の変更には、登記申請書・遺産相続協議書・戸籍一式・相続関係説明図などを用意する必要があります。順を追って説明します。

 不動産は所轄の法務局に登記されています。この登記簿は誰でも閲覧し、その写しを取得することができます。しかし、その所有権を変更するには、手続きが必要です。普通は司法書士さんに頼むのだと思いますが、今回は勉強も兼ねて自分でやってみました。法務局のサイト( 登記・供託インフォメーション)を読めばかなりのことが書かれています。細かい質問は各法務局のウェブサイトにメールアドレスがあったりしますので、そこで質問してみてもいいかもしれません。実際、わたしも、そのあたりで調べて申請書を作ってみてから直接法務局に伺いました。また、司法書士さんのサイトにも良いところがたくさんありますし、質問や文書作成だけなら安価でおこなってくれるところもあります。とはいえ、ちょっと面倒なことが多いので、これを読んで気後れする人は頼んだほうがいいでしょう。権利関係で損をしないためにも。

固定資産課税台帳登録事項証明書の取得

 被相続人の不動産を特定するためには権利書(登記済証)が要りますが、所在がわかれば市役所で固定資産課税台帳登録事項証明書を取得してもわかります。この際には、被相続人との関係を示す書類(戸籍等)が必要です。大体、一通200円程度でしょうか。これで評価額(課税標準額)がわかります。評価額が0円のものがあるとき、参考額として近隣の地価を証明書に記入してあるかどうか確認します。私の場合は、地目が宅地のものについては、1平米あたりの参考額が記載されていましたが、雑種地に関しては書かれていませんでした。法務局で伺ったところ、市役所の資産税課でその額を記入してもらうように言われました。私道などの地目では計算方法が若干違ったりするので、このあたりに該当するときは確認しておいたほうがいいでしょう。

登記簿の写しの取得

 それに則って、法務局で登記簿の写しを取得します。現在、登記は電子化されつつありますが、その過程にあって、コンピュータ庁とそうでないところがあります。コンピュータ庁では登記簿事項証明書が、そうでない一般庁では登記簿謄本が取得できます。一件当り1,000円です。登記印紙で支払います。これは収入印紙とは異なりますので注意が必要です。合わせて、登記申請書の書き方やその他の見本をもらっておくといいでしょう。

登記申請書の作成

 不動産の所在と課税標準額がわかったら、その事項を登記申請書と遺産相続協議書に記入して作成します。

 いわゆる一戸建てとマンションでは扱いが変わってきます。一戸建てのときは、登記申請書の書き方は比較的容易です。ひとつずつ登記簿謄本の記載に則って書いていけばいいわけです。テンプレートはあちこちで入手できます(やはり、法務局のサイトなど)。
 一方、マンションは区分所有建物という分類になります。これは、土地の上に複数の居宅が建っているため少し扱いが厄介です。持分という概念が入ってきます。

 区分所有建物には、敷地権表示がなされているものとそうでないものがあります。敷地権表示がある新しめの建物の場合は、比較的書式が単純なようです。残念なことに、わたしの事例では敷地権表示はなく、このケースの書式はウェブページを検索しても見当たりませんでした。しかし、法務局で直接教えていただいたところ、持分の割合が同じものでグループ分けして申請書をそれぞれ一通ずつ起こせばよい、ということでした。例として、専有部分と1/125の共同設備(集会所・ポンプ室など)がある場合、専有部分についての書類と、持分1/125の部分についてそれぞれ申請書を作成するとのことです。例として 1/125の持分の所有権移転登記申請書(pdf)を示しました。
 注意点を2つ挙げます。登記の目的は普通は「所有権移転」ですが、持分があるときは、「誰々持分全部移転」となります。ここの誰々は被相続人です。また、原因は「何日相続」と書くわけですが、数次相続の場合は一代前の相続も記述しなければなりません。そのときは、「何誰々相続および何日相続」とします。誰々には、一代前の相続人を書きます。
 なお、このファイルは印刷用紙がA4になっていますが、提出書類はB4を折って右綴じにしたものになります。わたしはA4で打ち出して、拡大コピーしました。

 ほかに必要なのは、相続人全員の印鑑証明書と戸籍謄本と住民票です。また、提出時に「収入印紙」(こちらは登記印紙ではありません)で登録免許税を支払います。申請書に印紙を貼るスペースがないときは、それようの台紙をつけておきましょう。B5用紙を申請書の最後に付けて、契印を押しておけばOKです。

 全部書類が整ったら、法務局に登記の申請をします。大体一週間くらいで完了します。それよりも前に書類の不備を指摘されるかもしれませんが、そのときには速やかに対応してください。場合によっては、申請却下になりかねません。完了後、申請書に押した印鑑を持って法務局に行けば、登記済みの印を押した書類(申請書副本に該当します)をいただくことができます。これで完了です。お疲れ様。

 申請書は数字がたくさん出てきます。写し間違いをしてしまいがちなので、何度も確認しましょう。しかし、平屋建じゃなくて平家建だとは思わなかった…。MS IMEじゃ出てこないぞ。

愚痴…

 S地方法務局S出張所で区分建物の手続きをしたんですが、「初めて」と言ったら受付の人の態度が途端に厳しくなって、バカにしたような感じになり、ちょっとがっかりしました。F地方法務局W支局ではそんなことはなかったんだけど(確かに傍目にも忙しさが違っているように思えたが)。確かに、初心者だから多少迷惑かけるけどね…。だったら、法務省も素人の申請を促すような登記・供託インフォメーションなんてホームページやめれ!、と言う気がします…。丁寧に見てくださり、優しく教えてくれた人がもちろん多くいらっしゃるので、多分この人だけなのだと思うんですけどね。結局ほとんど誤りもなく、書類を束ねる順番がおかしいと言われたのには、ちょっと…。司法書士など外部のプロに支えられていることを当たり前だと思っているんですかね。スタッフの意思統一が難しいのは良くわかります。でも、この4月から政府の制度改革のお陰で公務員でなくなったわたしは、少し厳しく見てしまいます。この人、本当にプロ?名前を覚えているから苦情を出しておこうかな。

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(葬儀・相続)遺産相続協議

 父の死で、父の財産はもちろん、父の父(つまりは祖父)の不動産も相続することになりました。祖父の死後5年が過ぎていましたが、父が相続手続きをしていなかったのです。このため、手続きが煩雑になりました。

 遺産の相続については、民法第六編で述べられています。遺言によるもの、法定配分に従うもの以外に、相続の権利者(以下、相続人)の協議によるものがあります。協議に基づく場合、その内容を証明した文書である遺産相続協議書が必要です。これは、不動産だけでなく、預貯金・株券などの相続にも関連します。死亡者(以下、被相続人)の銀行の口座からお金を下ろすときなどにも必要になります。以下には、この協議に基づく相続についての私の経験について述べています。司法書士さんなどにお願いしなかったので、一応一通り分かっているつもりになっていますが…。

相続人の特定:戸籍謄本の取得

 さてまず、相続人が誰かは法的に決められていますが、これを確認するために、被相続人の出生から死亡までの全戸籍謄本が必要です。多くの場合、除籍謄本(全員が戸籍から外れている)や原戸籍謄本(戸籍改製前のもの)などを用意し、経緯を明らかにする必要があるでしょう。これらは多くの場合、申請後返却してもらえるので、通常は1通ずつとれば大丈夫です。(ただ後述するように所有者がディーラになっているときの自動車の相続では返してもらえませんでした。)

 わたしの祖父は、都合5つの戸籍にまたがっていました(父は都合4つ)。祖父の分の戸籍の取得は郵送でお願いして3通手に入れていたのですが、法務局に持って行ったところ、出生からの戸籍がないと言われました。結局、直接役場に赴いて確認したところ、さらに2つの戸籍が必要になりました。当て推量ではなかなか難しいので、きちんと確認するためにも、郵送でするより、電話等で直接確認したほうがよさそうです。また、戸籍の附票がいるとのことで、市役所で取ってきました。ただし、戸籍の附票や住民票の除票などは死後5年間しか保存義務がありません。亡くなった時点で早めに取っておいたほうがいいでしょう。

遺産相続協議書の作成

 相続人が確定したら、その全員で相続についての協議を行い配分を決定します。その結果を書面にすれば OKですが、物件に関する情報が必要です。「不動産登記申請」を参照してください。私の場合は、父が祖父の不動産の相続手続きをしていなかったので、数次相続にも該当しました。数次相続とは複数世代間の相続を一度に行うことです。今回の場合、2世代間の相続ですので、2通の書面を作成しました。まず、祖父の相続に関する協議書で、これには祖父の相続人と父の相続人で協議を行い、父に相続する旨の書面になります。続いて、もう一通では、その父の相続した物件を子等が協議して書類を作成すると言うことのようです。一般的な場合についてはあちこちに例があります(例えば、法務局のサイトなど)ので、あまり情報がない数次相続について、祖父から父への協議書(pdf)の書き方を別紙に示しました。これはB4の用紙に印刷して、半折にしてB5サイズにして綴じ込みます。

 これを作成したら、相続人は署名し、実印で捺印するとともに、印鑑証明書と現在の戸籍を取っておいてください。(これも一人に連絡がつかなくて間に合わず、後日追加しました。)また、念のためページとページの間には全員が契印を押しておきます。

 相続協議書は相続人各人が一通ずつ所持します。余分に作成することはないため、一般に役所等への提出後、返してもらいます(原本還付)。このためには、相続関係説明図(pdf; これは数次相続の場合)を用意すれば足ることが多いです。これは、相続人の関係を示したもので、家系図のように書きます。各人の住所と出生日等を書いておくことが大事なようです。別紙に示しました。出生や死亡の時期に関わらず、関係者全員の名前を書いておきましょう。わたしは、父の兄の名を書き落としていました。(幼くして亡くなったので、遺産分割協議書にも名前がないため省いたのですが、余計な推量をせず、戸籍に名のある権利が発生しそうな人は全員書いておきましょう。)

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(葬儀・相続)手続きあれこれ

 肉親の死後、さまざまな手続きが必要になります。死亡届はまず最初にするもので、「死に際してまず」に書きましたが、それからだいたい数ヶ月から1年以内くらいにすることが幾つかあります。それらを概観していきます。

遺産相続協議
不動産登記申請
埋葬費用申請
高額医療費申請
自動車の相続
住宅ローンと抵当権抹消
相続税
固定資産税の支払いに関する相続人代表者指定届出
 


 そして、書類を作成する際に気をつける点として、「押印」があります。これらの有印文書には、さまざまの意味を持つ印が押されます。以下に、簡単にその意味をまとめました。

契印:文書が複数枚にわたるとき、落丁や差し替えなどを防ぐため、綴じた文書の見開きに 2枚に渡るように押す印です。

訂正印:文書を訂正するときには、訂正印を押します。訂正印には2通りのやり方があり、修正箇所に押すものと、判読しにくくなることを避けて周囲に押す方法があります。訂正あるいは削除した文字数を併記します。

捨印:予め訂正を見越して、後からの訂正を認めるために押す印で、事前に押す訂正印の意味があります。捨印は修正箇所でなく周囲に押す方法をとるために予め押しておく印ですが、改ざんを認めることになるものであるので、注意を要します。しかし、捨印と予め印刷されているような書類は、改ざんの可能性を事前に示しているわけです。そのような書類に事前に捨印を押した場合には、不利な改ざんを認めなくてよいという判例があるそうなので、あまり気にしなくてよいでしょう。ただし、そのようなフォーマットのないものは要注意です。

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(葬儀・相続)法事の準備

通夜・告別式

 ともかく喪主には、最後までやりきる精神力・意地が試される場のような気がしました。また、自分がどのように人と関わろうとする質なのか、仕事をうまく分配できる質なのかなど、これまで抱えていた自分自身の問題について再認識させられました。

 まず、どのくらいの規模で葬儀を行うのかを考える必要があるでしょう。親族や会社関係、親しかった人たちに連絡していきます。連絡をした人たちのネットワークで広がって行き、人数も増えていきますので、最初にどのくらいの規模にするかを考えておかないと、想像以上の形になってしまうかもしれません。そのため、最初に連絡した人たちに概数を伺っておくことが大事です。わたしの父は現役だったので、会社関係の人たちだけで相当の会葬者数が見込まれました。大まかに200名と見込んで段取りを始めました(最終的には220名くらいでした)。これによって、会場の規模、食事の手配、会葬礼状の印刷数などが決まってきます。会場の手配や火葬場の時間、ご住職の都合によって日程が変動します。

 葬儀の規模・費用は、幾つかの要因で決まってきます。基本的にはi)会場とii)祭壇・iii)参加人数に依存した食事や返礼品などの費用です。選択肢は多いのですが、大きな枠を決めるのはこの 3点です。ここからは私見ですが、参加人数で会場と食事などの費用は決まり、戒名のランクなどでお布施が決まります。これだけでかなりの費用になります。祭壇の価格は確かに主要ですが、全体から見ると必ずしも大きくありません。祭壇などの葬祭の基本費用は、市営葬で行うのが一番安くなります。しかし、葬儀の規模とのバランス(つまりは香典収入との兼ね合い)がありますので、規模がある程度大きくなると、あまり安価な設定にするのはなにか会葬者に対して失礼にあたるような気がしました。

 この考え方と、父の人柄を考えて、適切と思われる選択を自分なりにしました。

 最近は皆仕事が忙しいので、特に都市部では告別式よりは通夜への参加者数が多くなる傾向があります。それを見越して食事(通夜振る舞い)の量を計算しておきます。ここで食事が足りなくなるより、余らせるように余分に手配しておくことは、お世話になったかたがたのためにも大事だという気がします。

 いずれにしても基本的な考え方は、お世話になった方への恩返しのつもりで行うということでした。これには、親類皆賛同してくれました。しかし、ご住職はそのことを理解しつつも、忙しいから通夜には出るが、告別式には出ないという風潮には、必ずしも賛成しておられない様子で、本来は故人のために行うものなのですよと仰いました。結局、このことは、魂が残るという宗教の感覚が薄らいでいることと直接関係しているように思いました。要するに、死者のことは措き、生きているものたちが明日からどうしていくかについての会合になっているのが現代の葬儀であるということなのでしょう。そのこと自体は確かにさびしい気もしますが…。

 ご住職とは後々の法事の予定も立てておくと、都合が良いでしょう。通夜振る舞いのときなどの時間を見計らってお尋ねするのが適当です。

 告別式では、事前に読み上げる弔電を選んでおく必要があります。また、難読名にはかなをつけておきます。時間との兼ね合いであまり多くは紹介できませんので、よく厳選しないといけません。


四十九日

 四十九日と納骨は、田舎に帰省して行いました。周囲に定年後には田舎に帰るんだと、父が洩らしていたのを聞いたためです。父の兄弟姉妹にも若干気兼ねしつつ、そうしようと決断しました。

 さて、必要な準備ですが、1)菩提寺への連絡、2)塗りの位牌の手配、3)食事会・返礼品の準備が主な事項になります。また、ご住職にはお布施も用意しておきます。

 1)菩提寺
 もちろん日程の確認のほかに、塔婆の手配、法事での花・果物・菓子について確認しておきます。

 2)塗りの位牌
 葬儀で使っていた白木の位牌はお寺にお返しし、漆塗りの位牌を用意しておいて、法事のときに入魂していただきます。出来上がるまで数週間かかるので、早めに手配しておきましょう。

 3)食事会・返礼品
 参加者数の確認が何よりも大事です。親類や知己をお呼びするわけですが、今回は葬儀を埼玉で行ったこともあり、都合でお出でいただけなかった方を数名お呼びしました。その中には父の友人お二方も含まれています。お返しの程度は地域によって違うので、周囲に確認しましょう。

 納骨は霊園事務所にその旨伝えておきます。墓地の権利者が死亡したときは、特に名義の変更について、確認しておきましょう。また、納骨や墓誌への記入のために、石屋さんにも手配が必要です。

 終わったら、食事会です。伯母の知り合いの店で行いました。ご住職とは、一周忌の日程なども詰めておく必要があるでしょう。

一周忌

 一周忌は、祖母の七回忌と祖父の取り越し七回忌とあわせて行いました。
 参加者の確認を行った結果、父の兄弟(6名)と私の兄弟(4名)が参加することに。今回は祖父祖母と父を一緒に行ったのでこの人数でしたが、三周忌は父だけになるため4名になりそうです。まあ、こんなものでしょうか。

 塔婆は早めに連絡すべきでしたが、手違いなどがあり、ぎりぎりになってからになってしまいました。そのため、ご住職に夜なべさせてしまう結果に…。失礼しました。三霊分ともなると、塔婆だけでも大変な数に。塔婆立に収まりませんでした。

 お供物はちょうど用事があった横浜そごうで購入し、返礼も中華菓子をまとめ買いしてもっていきました。お花はお寺にお任せ。果物とお線香は母から調達。今回は簡単に済ませちゃいました。

 食事は仕出しでお寺で頂こうかといっていたのですが、最終的にはやはり祖母の知り合いの寿司屋で。幾らかかったのか知りません:-)

 とりまとめ役が二人いるとよくないですね。祖父祖母担当・父担当ではなかったのですが、細かい点ながら不都合が生じました。今後は一括してとりまとめをしないと。

 それでも無事済みましたが。

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(車)Focus ワイパー替えゴム

 愛車Ford Focusのワイパーゴムが傷んできました。前のディーラー(岡山県)は気が利くところで、点検時に勝手に替えてくれていたみたいですが、やっぱり関東は違います(決して偏見ではない!)。カー用品の店を探すと、まともに外車対応表があって不安なく取り付けられるものはブレードで、替えゴムより若干高めなので、せこい私には耐えられません。ネットで調べて、自分でゴムだけ替えてみました。

 ワイパーゴムの断面にはさまざまなタイプがあるようですが、フォーカスのフロントのワイパーは台形幅6ミリの国産にもあるタイプで大丈夫のようです。実家の近所のイエローハットで、運転席側用として550ミリ長のもの(PLASH R65)と、助手席側用として475mmのもの(PLASH R31; 湾曲タイプってのが気になるが…)を買いました。一番安いやつです。税込みで締めて1,260円也。

 ちょっときつめだったので、だめかと一瞬思いましたが、結果的にはOKでした。自分で替えるのなんて、10年前に乗っていたアコード以来。メジャーで適当に計ったので、長さが合わなくて動作時にぶつかったりするのをおそれて、爪を差し込むストッパー穴が2本で向かい合うように、長い分には外向きに逃げられるように取り付けたところ、切らずに干渉なくクリアできました。

 ゴムが外れないように、レバー爪をストッパー穴に差し込まないといけないわけですが、意外に固くて難しいですね。ペンチなんかでやってもいいんですが、あんまり美しくない。金属レールをストッパー穴と反対方向(つまり差し込む側) にずらして、ストッパー穴のあたりでゴムをねじれるようにしておくと、簡単に爪が入ります。そのあとで、金属レールを扱いて、元に戻しておけばOKです。

 ちょうど台風が来ていて、早速使うことになりました。やっぱり、定期的に替えないとだめですね。今後は気持ち悪くなったらすぐにでも交換するつもりです。リア部のゴムも切れ掛かっているんですが、形状が違うので検討中です。


 リアゴムはNWB(日本ワイパーブレード)の55SW6/700mmを買いました。外目に多分はまるんじゃないかと思える断面のものを選び、長さは二本分取るつもりで、これにしました。今度はレバー爪を引っ掛ける穴がないので、ラジオペンチしかありません。古いワイパーのバーティブラ(金具)をそのまま流用し、長さをあわせるようにゴムを切って差し込みました。無理やりですが、とりあえず成功。思ったより事前処理が面倒で、思ったより事後処理が簡単でした。

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(葬儀・相続)死に際してまず

 父が昨年6月に亡くなりました。それについて考えるところは別に書きますが、さまざまの手続きに忙殺され、四十九日までは落ち着いて考えることができませんでした。ここでは、必要な手続きについてまとめてみました。参考になれば幸いです。ただ、わたしは理系で、この種の仕事が本業でもなんでもなく、ましてや法律について詳しいわけではありませんので、問い合わせに対して適切な答えができないかもしれません。とはいえ、間違いがあったら教えていただけるととてもありがたく思います。ちょっと虫が良すぎますかね。


 まず、病院で亡くなったときには、医師の死亡確認がなされます。わたしの父もそうでした。一方、自宅で死亡したときは、警察に届け、事件性がないことを確認する必要があります。それらの確認に基づいて死亡届の死亡診断書の部分に記入していただき、後ほど手渡されます。

 その後、葬儀社をどうするか尋ねられます。一部の病院では葬儀社と密に連絡が取られているようですが、母が葬儀社の事務員をしていたので、そこにお願いすることにしました。このように病院の推薦する業者でない場合、早めに自宅等に引き上げてベッドを空けたほうがよいでしょう。看護士さんたちによる遺体の洗浄がなされますので、その間に依頼する葬儀社に連絡し迎えに来てもらいます。夜中の3時ごろでしたが、ワゴン車で来ていただいて、自宅に帰ってくることができました。この際、身の回りの品を確認して回収して病院にものを残さないようにしたほうがいいでしょう。もちろん、後ほど入院費等の清算に再度来ることになりますが。

 死亡診断書は役所に提出する死亡届の右半分です。残りの部分を埋めて提出します。出す前に必ずコピーを取って置きましょう。

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分からないことへの畏れ

 本に書かれていることや人の話していることが分からない納得できない。そのこと自体はよくあることだし、不自然ではない。その原因は簡単で、自分が分かろうとしていないのに、分かるわけがないということだ。
 では、分かるということはどういうことだろうか。分かりたい対象をあちらにおいて、離れた位置からそれを眺める。お勉強とは大体それにあたる。それは、対象に膚接しない客観的なアプローチである。でも、一体化せずには分からないことも世の中たくさんある。表面的に見えることだけで全てを捉えることはできない。客観的分析とは、自分の想念や感性に基づいているのに、そこから構築した論理の正しさだけで、それを分かったと言っていいだろうか。
 といっても、理解するために膚接する覚悟なんて、簡単にはできない。そんなふうに深く係るということは、自分の時間を犠牲にするということだ。限られた時間を割く覚悟。自分の人生の一部をそれのために費やす。それが出来なければ、分からない部分は必ず残る。
 分かったほうが楽だから分かりたい。そんな安易な気持ちで理解しようなんていうこと自体、リスクを回避した汚いやり方だ。自分は有能だから、わかる。それでいいって?思い上がりも甚だしい。

 だから、時間を共有していない分からないことに対して敬意や畏れを抱くのは当たり前のことだ。そのことをどうして素直に受け止められないのか。
 素直な感情を表現したら負けになる。そう思い込んでいる人を見かける。彼らは急かされて、結果を求めることになぜか躍起にならされている。時間が足りない感じ。それは、現実認識と本当の現実とのずれだろう。求められているものに誠実であろうとすれば、ひねくれてもみたくなる現実に直面する。でも、それでいいのか。それを解いてくれるのは、やはり素直になれる人との出会いだろうし、それによって見えてくる本当の世間ではないのか…。

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「やっても意味ない」ってどういうこと?

 学生と研究の話をしていると、よくこの言葉に出くわす。

 「それはかくかくしかじかだと思われるので、やっても意味がないのでは?」

 研究ってそもそもなんだろう。「かくかくしかじかだからこうなる」ということを探すことであって、「思う」ことだけでなんかないはずだ。

 どうも皆さん首尾よくやりたいという想いが強すぎるのか、うまく行きそうなことだけを選んで実行する。そういう態度だと、行動すべきことはかなり限定されることになる。結果、じっと座っていて、調べものばかりして手を動かさない。大体、ろくな経験もないくせに、そんな判断なんてできないはずなのだが、なぜか自分の感性に自信があるようだ。自分の感性を説明して満足している。どうして、自分の感性に疑いを持つことがないのだろうか。そして、もっと問題なのは、こういう人が大学院に溢れている。それはなぜなのだろう。

 試みは、どんな結果であれ失敗ではない。それによって、思い込みを覆すきっかけになるのだ。感性という名の先入観によって限定されていた自分の視野の狭さに気付き、さまざまな可能性を考えていくことができる。どうしてそれを否定的に捉えるのか。結局、「勉強をしていい会社に入れば、残りの人生安泰」なんていう、持たざるものの愚かな発想としか思えない。面倒なことはしないほうがいい。そのために勉強してきたんだ、といわんばかりである。

 勉強はきっかけであって、それが人生を楽にするものではないことに気付かなければ、大学院なんて行く価値はない。そんなものに騙されるほど、世間は甘くない。

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思い通りにならないこと

 最近、しんどい。思い通りにならないことが多くて、辟易してしまう。委員会だの何だの研究以外の仕事が多い。だから、いろいろアイディアがあっても、それを自分ひとりでなにもかも実行することは出来ないことを痛感する。となれば、人に頼るほかない。しかし、学生それぞれにも人生がある。彼らが望むことを押さえ込んでまでも私の意図を通すことに信念を持てないことが、私の弱さなのかもしれない。

 こうしたほうがおまえのためだという押し付けが、本人のためになるかどうかは正直言って分からない。それは運命である。それとは逆に、彼らが望んだことが出来ることが本当にいいことなのかも同じく分からない。後者は、望んだことをした以上、本人はひくにひけない状態になるように思いがちだが、それとは無関係に、望まずとも現実は対応を迫る。その意味ではどちらも大差ない。やはり、本人次第だし、出会う人次第だと思う。

 斯く言う私も、修士課程を終わるタイミングで大学外の研究所(以下、外研)に行って研究することを勧められたとき、一回は拒否した。当時は研究が順調でなかったのだから、環境を変えてみるいい機会だった。先生はそれを見て、環境も良い外研に行きなさいといった。義理深い私は、面倒を見てもらっていた助手の先生を裏切るようで、嫌だった。しかし一方で、当初からの目標を達成するためにいろいろ考えた身勝手ではないアイディアを実行させてくれない環境に限界を感じていたのは事実だった。最終的には、勧めに従い移ることにしたのだ。

 それは、結果としては良かったと思う。しかし、別のところにも書いたが、大事なことは環境だけではない。与えられた場で、自分の発想で出来る限りのことをしてみることだと思う。外研では先輩面はできず、また未熟者からやりなおしになる。そして、確かにいろいろ分からないことを研究員の人たちに尋ねたりもしたが、そこはやっぱり周囲はプロ集団だから、いい加減なことを聞くことは恥ずかしいという感じもあった。ここがわかんないから教えてくださいなんて、素人感覚丸出しで聞くなんて、場違いな感じだった。彼らは教育するためにいるわけではないから。だから結局、自分を追い込んでよく勉強したと思う。そして、思いつく限りのことは、いろいろしてみた。学生の特権である。そのことを認めてもらえたんだろう。学位取得後に、放り出されず、運良く常勤スタッフとして採ってくれた。


 去って欲しくない人が去り、残って欲しくない人が残る。これはどこの場所でもそうらしい。学校というところは、時期が来れば必ず人が去る。それはいい面と悪い面がある。最近は多くの研究機関は任期制になって、こいつは使えないなとなれば、そのまま切ってしまうから、学校と変わらなくなってきたのかもしれない。とはいえ、学校は、人を囲っておける金もポストもそうそうない。また、教員からしてみれば、自分の意思でそうするのだから仕方がないと言ってしまえば、責任を回避できているという側面もある。

 まあ、仕方がないか。わたしも、才能のある人との係わりをうれしく思って、学生時代をすごしてきた。その反面、自分が成長できないような係わり合いをなるべく排除してきた。そうやって、自分の時間を大事にし、かつ、社会に生きるための係わりを維持してきたのである。その戦略は今となっては間違っていなかったと思うが、その分、自分の時間を制限してやってきた。だって、身の回りの才能のある人、できる人は、寸暇を惜しんで研究をしていたから、わたしもそれに倣った。

 だから、ひどい言い方かもしれないが、才能がないくせにやる気がなくて、そのくせプライドの高いやつは好きになれない。面倒くさいとか、難しいから仕方ないとか言う人。そんなひとはわたしに頼らないでね。まあ、こんなことを言ったら、自分の仕事を減らさないととても間に合わないのだけれど。でも、わたしがどうしたって、そんな人は社会で通用しません。便利に使われているだけなのに、出来ているんだなんて勘違いしているのだとしたら、かなりまずいかも。

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体の時代

 科学研究の時代だと思って研究者になろうと思ったのが中学生の頃。
 心の問題に時間を割き、心こそこれから問われるべきだと思ったのが大学生の頃。
 そうやって、その二面に現を抜かしてこれまでやってきたが、これこそ心技体のうちの始めの二つである。

 しかし、最近、疲れやすくなっている自分に気付く。中学生の頃(!)にやった運動部の筋トレの蓄積がしばらく効いていたが、やはり30を過ぎてからの体力の落ち込みは甚だしい。これまでどうにかごまかしてきたが、なかなか厳しくなってきた。最近いろいろ研究上のアイディアは浮かんできたが、実行に移そうとして、集中力が続かないのだ。

 ある雑誌で、村田兆治氏がこう述べている。

 「心、心っていうけど、体が健康なら気力は充実するんですよ。これからは心ではなく体の時代ですから」

 まったくもって、体の重要性を痛感する。そして、

 「筋肉痛になった後、気持ちいいでしょう。あの爽快感を思い出して欲しい」

とある。確かに。なんで気持ちいいんだろう。

 やっぱり、運動することを考えよう。

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優しく育まれる

 ここに並べている小難しくて無意味そうな議論が、科学研究に勤しもうとする若者たちに混乱をもたらし、やる気と覚悟を阻害することになっていたら、大変申し訳ない。研究や教育をわたしにさせる内的な考えは、ここに書くしかないから書いているのであって、皆が受け入れてくれるかどうかは別問題であることは理解している。今になって、ずるい言い方かもしれないが、そんなことは自分で考えていただきたい。(ただし、このことには少しばかりの注釈がいるので後述したい。)

 今一度、このページの意義について触れたほうがよさそうだ。もともとこれは、学生に公開するためのものではなかった。わたしが教員生活を始めるに当たっての覚悟と、父の死によって問い直さざるを得なかった問題をあからさまにすることだった。それを独り善がりではなく、他者に理解してもらえるように意識して書くことを第一義とした。独善的な日記は以前から書いていたが、それは人との対話を求めたものではなかった。自己満足に過ぎなかったから、それを乗り越えたかった。つまり、それに対する共感が人と得られたら、という甘い考えを持った。しかし、未だ成功していないようだ。

 ここの一連の文章を読むと、あれこれ詮索し、執拗に思考している人間でなければ研究者になれないなんて言っているように聞こえるだろうか。そんな意図は無いとしても、しかし、もう少し考えてみて欲しい。研究はその本質において、決して人間関係でできるわけではない。孤独に時間を費やすことに躊躇のない人たちがすることなのだと思う。思索と実行が相俟って、初めていい仕事ができる。このことに気付かなければ、この業界ではあまり浮かばれないだろう。そんな人を沢山知っている。学業の成績がいいからといって、この世界で成功しているわけではないことくらいは、皆承知のことだろうが。

 そして、わたしは思い込みが激しすぎるのかもしれないけれど、研究者として生きていくということについて率直に問わずに、この仕事を続けることは難しいと思っている。だから、その思いをここに綴っている。だから、こちらも合わせて見て欲しいという気持があった。しかし、それとは無関係に皆さんがわたしに期待しているのは、いい研究をさせて欲しくて、いい結果を得たいということ、そしてそれをするための指針(なにを具体的にするかの決断まで含めて)とスキルを教授して欲しいということなのでしょうか。でもそれだと、人が呉れたテーマで格好をつけて、試薬を混ぜて何かの結果を得るということだけではないですか。

 大学生の頃、実家のそばの自動車学校に通ったことがある。そこはやかましくて、入校したてから最終的にしなければならないことを要求されていた。そんなこといきなり言われても、できっこないじゃないかと不満もあったが、結果的にはよかったと思えた。
 研究指導についても、いきなり性急に高いレベルを求めても仕方ないが、目指すのは自主的に考えて行動できる研究者だと思っている。わたしはかなり自立的に生きてきた自負がある。だから、頑固だと周りに言われようと自分の考えを貫いてきた。そんなわたしは、皆さんと比べても研究に関して格段の経験の差がある。その事実はかえられない。しかし、皆さんは、そのことを無視しても構わない。ただ、そうするなら、自分で結果を引っ張ってこないと駄目だ。そのときには、わたしは責任は負えない。わたしが学生の頃は、結果がでそうにないときには先生に言われたことは実行して駄目だしをし、他の方法で結果が出せそうなら無視して思うが侭にやった。そうしてくれるとうれしいんだけど。


 ある人から、「君は、生活の問題と、仕事の問題と、人間の問題を、すべて一元的に考えすぎている。」といわれた。なんでもかんでも統一的に考えすぎているというのである。

 これは仰るとおりだ。無自覚ではあったが、それがわたしのスタイルだ。わたしにとってみれば、全ての問題の根源は、ただ幸せに生きたいということだけになる。だから全部そこに還元できると思っている。

 そういうと、「みんなはそうではないよ」と返すのだろう。確かにいつぞや、事務の方と話をしたとき、「先生方は、生活と仕事が不可分になっている。」と言われた。仰るとおり、寝ても覚めても研究。そんな競争の中に置かれている。そんな生活の中で、楽しいことと楽しくなくてもいい事を分けたりしていると、それぞれに割ける時間が限られてしまう。だから、それらを一体として考えたとしても、それがそのまま楽しさとか幸福感につながるようにしてみたいと思っていた。アフター5は研究ではない生活。そんなものが可能なのだろうか。それでいて一流の仕事が出来る?一人身のわたしには想像が出来ない。まあ、今は教育とは何かについてを寝ても覚めても考えていて、研究はろくにできていないのだが…。

 もちろん、一流の仕事なんてしなくていいのだと割り切ってしまうのなら、それも一人生。ただ、それなら、なぜ研究なんてするのか。若いうちからそんな低いモチベーションで研究者になる意図がわからない。生活を大切にするなら、もっと他の仕事だってありえるじゃないか。この仕事での経験を重ねて生活の大切さに気付くならわかるのだけれど。その意味では、もう研究も大衆化した仕事なのかもしれないなと思う。普通の生活の上にのっかるなにかに過ぎず、高い知性を要求するという優等生にうってつけの自尊心を与えてくれ、せいぜい運がいいと大当たりするかもしれない仕事ということか。でも、僕には相変わらず、生活を大切にする上に、研究にこだわる理由がよくわからない。それってなんだか欲張りだなって思う。まあ、一流でなければとか、なんでもわかろうとすることとかの方が、極端すぎる考え方なのだろうけれども。それでは、あなたはなんのために生きているのか。なにかのためではないっていう言い方はかっこいいけど、だったら反語的には、こだわりなく一生懸命何かを求めてみる事だって、なにかのためではないんじゃないのか。だから、それは理由にはならない。

 でも、これだけ「わかる」ということを大切にしている仕事において、それって無頓着すぎないだろうか、って思いますが、どうでしょうか。もちろん急かすつもりはないけれど。


 大学に移って2年。学生さんたちとの対話は、思いのほか進んでいない。学生さんにこころを開いてきているとは思うのだが、それだけでは足りないらしい。彼らからするとわたしは屈折しているらしいのだが、それってどのあたりを指して言うのだろう。素直じゃないってこと?

 屈折した視点というのは、多分、普通にただ感じること以外の事を提示するわたしの性質を現しているのだろう。この意外さは物事をいろいろの側面から見ようというわたしの意思である。物事のさまざまな側面に思いを致し、いつも頭を働かせている。そんなことしても意味ないんじゃない。そう言われることは多いし、実際に意味がないことのほうが多い。でも、時々面白いことが起こる。意外なところから、問題が解決することが実際にあるのだ。

 「だからみんなもしたら」なんて言わない。良い悪いなんていう価値観で、わたしのことを評していないのだろうと思う。

 心の内面を語ることに意義があるのかどうか。なんにしても極端はよろしくない。ここに書いていることは、わたしが特殊である事を示しているだけなのか。

 長期的に構えていけば良い問題というのがある。今すぐ対処する必要がないかもしれないと、余裕を持って考えられるような問題である。しかし、着実に積み上げていかねばならない。片時も忘れてはならない。

 そのことが辛いと感じられるとしたら、それは覚悟がない。


 科学研究と大学教育の問題を今一度考え直してみたい。今や、西洋的思想と東洋的思想の渾然体としての日本社会の特殊性があるように思う。わたしは、科学研究によって西洋的思想を多分学ぶことができた。一方、東北の田舎出身の両親に育てられたし、東洋的価値観も深く私の心に染み付いている。その二つの価値観の狭間に立って、現実の複雑さと面白さをわたしは感じている。

 シンプルに生きていると称する人たちからは、わたしの考え方の一部は、窮屈で平穏でなく楽しくないものとして映るらしい。しかし、それは偏見である。わたしの心の内の楽しくない部分をのみ抽出し、お前はもっと楽に生きられると言ってくれる。こういうことを言う代表は母である。母はシンプルに生きているなんて言っていないが、そのくせ、子にはそれを望んでいるようだ。

 しかし、わたしも母の生き方には、わたしなりの意見を持っている。それを言うと、厳しいといって涙を流す。しかし、母自身の私への指摘の中に、私にとって厳しい意味は含まれていないとでも言うのか。自分が出来ないことなんて、山ほどあるということくらいわたしにだって分かっている。思いやりと称して直截的に言うこと。それは厳しさではないのか。そして、思いやりのなさではないのか。

 それでは直截的なことはいけないのだろうか。切磋琢磨という言葉を信じて使うなら、それは構わないことである。わたしは、どちらでも構わない。しかし、便利に思いやりを使っていて、自分が言われると悔しかったりする人には、一言申し上げたくなる。その「思いやりのある」発言は誰のためなのかと。

 人を圧倒せず、しかし着実に成長しようと思える環境作り。それは不可能ではないと信じる。しかし、それを創ることが自分の求めるものだったのかどうか。立場上求められるなら創りましょう。そうすることがその場において楽しいことだと思えるから。ただ…。

 わたしは実はとても欲深い人間なのだ。このくらいの面白さでは、まだまだ満足できない。だからこそ、不満も言う。この全知全能に向けた深い欲があるからこそ、わたしは、今ここに立っている。

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仮面と本音の使い分け

 ここで言うのは建前と本音の使い分けではない。仮面とは社会生活を営むために必要なスタイルのことであるが、必ずしも建前とは一致しない。それを一部包含したもっと大きな意味を持つ。

 楽しくないけれどしなければならないこと。これを無視して世の中に生きるわけにはいかない。しかし、人は幾分かはそれを無視してしまわないと息苦しい。それがどんな場合なのかに着目すると、その人の性質が少し見えてくる。
 
 静かで本音を語らないが、なかなかこちらの言うことを聞いてくれない者がいる。言うことを聞かないというのは、まさに本音であるが、あくまで個人的な関係においてそれが出てくるのだ。いくら偉い(?)教員のいうことであっても、それは公的な意味を持たず、一対一の問題だと理解している。それなのに、数名の人を介した日常の会話では、建前論に終始する。そして、集団の秩序を乱すことは決してしない。彼らは、建前とは自分を抑圧するが、秩序を作る装置だと考えているのか。彼らは一対一の関係が危うくなっても、社会に生きることはできると考えている。どちらかといえば民主主義的だが、社会主義的ともいえる。

 他方、元気でわがままに映るが、個人的な関係においてはとても義理深い者もいる。一対一ならとても素直で聞き分けがいいのだが、集団のルールや雰囲気を大事に出来ない。あるいは、自分の本音を通してしまえるのではないかと感じているように見える。彼らからすると、建前とは社会の共通価値であって、自分を社会に売り込む道具かもしれない。だから、人を見て対応する。社会に生きるとは、引き立ててくれる一部の人間との関係を保つことだという気持ちが強いのかもしれない。このことは、個人主義的ともいえるが、ここにもあるとおり、ある意味主従関係に基づく封建的な関係性だともいえる。

 仮面とは公的な意味で表出している自分であって、研究室の中のような狭い空間だけでは測れない。表に出る機会の少ない彼らは、仮面を育てることが充分に出来ないだろう。わたしもそうだったし。
 上の二類型のうち、どちらがいいかなどという問題ではなく、それをAufhebenしたところに到達点があるように思う。本当の社会性は、やっぱり学校では育み得ないのだろうか。

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偶然に翻弄される研究というお仕事

 ある学生と話をしていたとき、最近になって、うちのラボの成果が徐々に上がってきている理由についての話題になった。彼は、それはたまたまで、偶然なのだという。でも、一方で自分の培ってきた才能は疑うこともなく、実力で得たものだと考えているのだろう。

 われわれの研究は、ゴールがとても明確である。対象の試料をある物理化学的状態(以下、C状態という)に持っていき、物性を調べる。しかし、C状態を実現するのが全ての試料で可能かというと、そういうわけではない。だから、多くの試料でC状態を実現しているのは、単なる偶然の産物と結論しているらしい。

 それを聞いて、とても寂しくなった。わたしは成果を得るために、それなりにいろいろ考えてきたつもりだった。しかし、彼はそれをあっさりと否定してくれた。

 われわれの当面のゴールは、確かにある特定の対象のC状態の物性を調べることにある。しかし、それは究極の目標ではない。その物性を知り、対象に迫っていくことが大切なのだ。その意味では、物性を知ることは通過点に過ぎないのである。また、もっと言えば、C状態を実現する間に見えてくるさまざまな性質を見出していくことも、とても重要なことなのだ。

 研究者は成就しがたい研究をするという如何ともしがたい運命の下にいて、成果を得たものは幸運なのだという考えは、成果が上がらない者にとって、不安から遠ざかるとても便利な考え方だ。自分の甘えを研究の困難さにあてがって平然とする。

 なにかが出来ないということを証明するのは難しいが、出来ないのではないかという不安の中に自らを置くのは辛いことである。そのことはわかる。研究テーマの選定は難しい。今出来なくても、5年後にはできることもあるだろう。そのとき、すぐさま対応できるためには、5年間を辛抱する必要がある事だってある。

 このことこそ、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の意味である。これは、人生のある時間をそのことに限ってみる。つまり覚悟である。

 ただ不安におののくばかりで、前進する強い意志がない。やっても仕方がないのではないか。どうせ無理なんじゃないか。そんなことの繰り返し。

 そこで、C状態を実現するために研究をしているのではなくて、C状態が実現できないことを証明するために、研究をしているとしたらどうだろうか。とふと思う。とはいえ、そんな研究をしたい人はいないだろう。ただ、そういう視点の逆転も必要だということだ。

 また、人への感謝の視点が欠けていると感じる。偶然の産物であると言い切れる背景には、ただ自分と対象物の関係だけがあるという気がする。つまり、それがもたらすことには目も呉れない。だから、失敗しても、それは偶然の所為。僕が無能なんじゃない。そう言いたいのだ。あくまで、失敗は天に委ねる。成功は僕の能力。そんな甘い想念が背景に見え隠れする。

 最後に。これでもわたしは、人を見てテーマを与えているつもりですよ。偶然を否定しないけれど、ちょっとは考えてね。それに、これだけ結果が出ているのに、それを偶然だけだと考えるのはちょっと甘えているんじゃない?現実を正しく見ないとね。


 研究が進まないのは、自分の未熟さか現在の技術では不可能なことに挑戦しているかのどちらかであるが、後者であるのだと思い込めるうえ、その不可能を可能にする研究をしようとはしない能力に、敬意を表したい。わたしもそんな人間に生まれたかった…。まあ、そのエネルギーは自己顕示だけなのかもしれないが。

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甘酸っぱい思い出?

 行定勲「ひまわり」を首都圏某地方民放で見る。映画については、みんなのシネマレビューなどを参照して欲しい。大まかに言えば、主人公の美しい女性が、自分を探すように何人かの男と交際するが、小学生の頃の初恋の思い出にこだわり続けていたという事実に、相手の男が気付く。といったような話である。

 わたしは、ませたガキだったようだ。幼稚園児・小学生くらいから、いろいろな女の子と仲良くしていた。おまえ、それはただ仲がいいだけだろうというツッコミはなし。だって、他の連中はそんなことを諦めていた節があるから。思春期になれば、今や当たり前のように恋愛したりするが、われわれの小学生の頃って、そんな気持ちがない。寧ろ、からかって遊ぶほうに熱心なのだ。わたしは、それに負けて、その種のことを封印してしまったように思う。そのうえ、2度の転校は諦めを促進した。
 高校は男子校に進み、大学も理工系の単科大学で女性はほとんどいない。気がつくと、その種のことに注意を払わずに、勉学に集中していた。その後、家庭の問題でふさぎ込み、対人恐怖症みたいになった。優しい女性に救ってもらいたかったが、めぐりあう機会を避けた。

 そんなことをしている間に、わたしは就職し、専門性を高め、社会的に自立してしまった。まるで、自分で全てやったかのような錯覚を覚えている自分に気付く。だからもう、女性に期待するものなんてひとつしかないよ、といわんばかりの私なのだろう…。

 そんなときにこの映画を見た。小学生・中学生の頃のいろいろな想いがよみがえってきた。子供の想いだからこそ、純粋だったように思わなくもない。しかし、よくよく振り返って見れば、人を比較したりする余分な気持ちがしばしば混ざっていたことに気付く。

 そういえば、わたしの初恋っていつだったのだろうか…。

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Blog作成

 Blogサービスを使って、従前のページを構成しなおしてみた。
 楽をしたいと思ったのが動機なのだが、思ったより使い勝手が悪い。私のページは日記というより、少しまとまった文章を置いているので、文書のリストがどうしても欲しい。頑張れば作れないことはなさそうだが…。
 できたら、カテゴリーを選んだとき、それに属する文書のリストがでてくるとうれしいんだけど。他の人からは余計な機能かな。でも、カテゴリーで見ていくときは、あまり日付は関係ないんじゃないかな。文書が膨大になれば、そのほうがありがたいと思うんだけど…。
 無料だから始めたのだが、ちょっと様子を見て戻すか続行するか考えよう。日記的なものだけこちらを使うという手もあるし。

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青森への旅

 青森の県立の研究所の招きで、講演をすることになり、青森を訪れることになる。東北生まれのわたしにとっても、青森はあまり縁がない土地である。弘前城を訪れた程度ではあったが、職場の先輩に数名青森出身の方がいらっしゃって、そこからの印象があった。

 講演が済み、見学が終わると夕刻近くになっていたが、所長さんの厚意で事務長さんの案内で、ねぶた祭りの山車を作っているテントを見学する。運転をしていただいた方が、やはり黒石市で山車を作っておられるかたで、とても丁寧に一軒ずつ見せていただいた。出来具合に巧拙の違いが見て取れるが、なによりその規模と熱意に圧倒される。そして、是非とも一度ねぶたに参加して「跳ねて」くださいと言われる。事務長さんには連絡してくれと言われながら、なにもしてない…。

 青森といえば地酒「田酒」が有名であるが、前日に所長さんに気分のいい居酒屋に連れて行っていただいて、堪能していた。しかし、ねぶたを見た印象も残っていて、もう少しこの青森を堪能したくなった。翌日が土曜ということもあり、もう一泊することにして、レンタカーを手配し、あちこち散策してみようと思い立つ。

 明日に備え、うまいものを食っておきたいと考え、書店で観光ガイドを買うが、気に入った店に行き当たらない。高そうだなと思ったホテルのそばの落ち着いた料理屋に、一時間以上市内を歩き回った後で舞い戻る。

 表から雰囲気があったのだが、店内の雰囲気はこぎれいで照明も暗くとても落ち着いていた。時間が遅くて客が少ないことも手伝って、気分が良くなってきた。メニューは青森近海物の小料理が中心で、日本酒のバリエーションも多い、好みの雰囲気だった。女将が間合いよく、勺をしてくれたり、静かな気の利いた言葉を掛けてくれたりしたため、とてもよい気分になった。勘定は決して安くなかったけど。

 翌日の計画は、三内丸山遺跡と棟方志功の版画とホタテであった。さらに、金山町の太宰治の生家のおまけつき。

 朝から雨で、今ひとつであったが、三内丸山の規模の大きさには圧倒される。静かに見たかったのに、案内のボランティアに気を使って、どうしても単独行動がしにくい。確かに、説明は欲しかったのだけど。

 棟方志功の美術館はとてもよかった。志功の油絵がまず印象的で、ピンク色の富士山は小品であったがその色彩に圧倒される。もちろん、有名な女人観世音や釈迦十大弟子にも感動するんだけど。

 昼は、青森湾沿いに東に車を走らせ、浅虫あたりの割烹旅館で海鮮丼を食う。時間が余って仕方なくなり、恐山に行きたいと思いながら、さすがに時間的に無理があるので、金山町の太宰の生家に行くことにする。

 太宰の作品は正直に言うとまったく読んでいない。訪れた旧家の立派さに、乏しい文学史の知識を照らし合わせる。奥野健男という大学の先輩もいるのに、もう少し勉強が必要かもしれないと思いつつ、青森空港へ向かった。

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対馬・長崎への旅

 前任地の同僚だったMさんが転職する九州の国立大学は、県内の共同実験施設の建設に関与するという。その施設とわたしが勤務していた研究所との関連から講演を依頼され、赴くことになった。それならばと、年休を余分に取って、Mさんの引越しに便乗させてもらい、他の土地もセットで観光してしまおうという欲張りなことを考えた。硯を目当てにした旅というテーマで、あちこち回っていたが、九州の硯産地といえば対馬はその筆頭である。それを目当てに訪ねることにした。

 Mさんと話しながら兵庫から福岡空港まで送ってもらう。短時間のフライトだが、もう夕刻が迫っている。最初の印象は、なにか植生に乏しい島だなあという感じ。予約していたレンタカーを借り、島の北端にある国民宿舎を目指して出発。

 中学生のころ楽しみで書いていた天気図で厳原という地名は知っていたが、対馬は6つの町からなっている。厳原は南端、空港のある美津島はそのすぐ北。宿のある上対馬は北端にあり、空港から直線距離で40キロ以上。確か案内板では100キロくらいあったと記憶している。これは急がないと日が暮れてしまう。そう思いながらも、安全運転で何度か往復するだろう道を愉しむことにした。

 いつもレンタカーは安いのを頼んでいる。今回はVitz。距離を考えてもちょっと力不足だったかもしれないとそのとき思ったが、狭い道を走ることが多くこれで正解だった。季節と天候のせいだろうが、植生に華やかさはない。しかし、なんとも言い表せぬ不思議な心地よさを感じつつ、上対馬町の比田勝港のそばにある国民宿舎にたどり着く。そのまえに、地酒とツマミ若干を買い揃えて。

 夕食は質素だが、地のものばかりでとてもおいしく、酔いも手伝って気分が良くなった。あと一泊するので、明日はなにか刺身でも頼むことにしようと思い立って、食事後フロントに。聞けば、アワビ、イカなどが用意できるという。そこで、いままで食べたことのなかったサザエの刺身を一皿明日の夕食に頼んだ。部屋に戻って地酒を煽ってみるが、糖類添加の三増酒でがっかりし、うっちゃってすぐに寝ることにする。今日は疲れたし、明日は一日予定がいっぱいだから。

 早朝に起きてみれば、イカ釣り漁船が操業しているのが部屋の窓から見える。疲れが若干残っているが、昨日の不思議な心地よさを味わいたく、わくわくしている自分に気づく。まずは比田勝港のそばの特殊な地形が見える網代漣痕(写真)へ。漣痕は「さざなみのあと」の意。2種の異なる地層のお陰で、さざなみのような文様が見えている。天気がよければもっといいのにと思いつつ、急ぎ次のポイントへ。

 今度は、韓国が見えるという鰐浦の展望台へ。朝鮮との交流が緊密だったこの地では、たびたび派遣隊が遭難することがあったという。それを偲んだ石碑が立ち、展望台も朝鮮風になっている(写真)。自衛隊のキャンプもあるここからは、冬の快晴の日には対岸の韓国が見えるという。しかし、春先はもやがかかって駄目なのだそうだ。あいにくその季節であり、また天候が今ひとつなのも相俟って、まったく見えない。展望台の中の展示で満足することにする。

 運悪く天候がいまいちで気分が乗らないが、硯の里を目指して南下する。その途中にある海神神社(わたつみじんじゃ)に立ち寄る。国幣中社のそれは、鬱蒼とした林の中にあって、中韓の影響を察することのできる雰囲気をしばし味わう。ここは本当に日本なのだろうかという錯覚を起こしてしまう。さすが国境の島。わたしは気がつくと、ここの魅力に捕らえられてしまったようだ。神社の傍らには、石積みの小屋が海岸に面して作られている(写真)。倉庫として使われていたというその小屋が、堂々と違和感なくそこに立っていること自体、この島の不可思議さを表わしている。海岸は韓国から流れ着いたと思しいゴミがあって、ちょっとがっかりするが。

 硯を産する若田に行くのに、椎根の石屋根を回って、厳原に出るルートを取ってみる。石を薄く割ったのを瓦の代わりに使った小屋が数件並んで建っている(写真)。それが石屋根なのだが、小学生と思しき女の子たち3人が、わたしを見て気に食わないようだ。「そんなにめずらしいかね」「いつまでみているんだろう」。まあ、いいんだけど。そういわれると、確かに大したことない。でも、これって変だよね。

 いよいよ目当ての硯なのだけど、なんの案内も見ぬままここに来てしまった。案内板を当てにして狭い道を走ってきたのだが、ついにわからなくなってしまう。仕方なく、近所の民家を見渡すが表に出ている人はいない。ふらふら走っていると、一軒の立派な屋敷の縁側に老婆が佇んでいるのに気づく。すぐさま、そこに車を停め、静かに歩いていった。

 硯工房の場所を聞くと道を挟んで向かい側だという。彼女は静かに、わたしがどこから来たのかを訪ねると、こういった一期一会のこと、家族のことを話し始めた。硯工房が気になりながらも、この穏やかに流れていく時間に、静かに従おうという気分になっていた。彼女はわたしのような怪しい輩に優しい言葉を掛けてくれた。そのうえ、家人には内緒だと、上着のポケットがいっぱいになるほど対馬椎茸を呉れた。なにか一緒に貴重な時間まで呉れたような気がした。こんな偶然が旅にはあるんだと、また旅することが好きになった。

 30分以上話しただろうか。その老婆に暇を告げ、工房に向かう。初老というには早い男性が硯を造っていた。若田硯は歴史も古く、いい石であることで有名である。石のこと、作硯のことなど1時間くらい話したろうか。前から欲しかった二面硯を頼んだ。しかし、予定の期日には出来て来ず、その後わたしは引っ越したので、どうなったことやら。そのあとで、新しい工房に行かないかと誘われる。

 県道に面したその新しい工房(写真)は、町のサポートもあってのことなのだろう、小奇麗で、対馬そばの食堂も隣接している。都合2時間くらいお話をして、わたしも大概満足し、次を目指すことにする。その前に遅い昼食としてそばを食した。

 本当は南端の岬なども訪れたかったのだが、もう時間がない。宿を目指しつつ立ち寄ることにした。まず通過する厳原は対馬一の町である。ここは差したる印象はない。そのまま通り過ぎて空港の傍らまで一本道である。明日、宿舎から空港までは早く起きればまだ見ることもあるだろう。そのまま国道を避け、東岸沿いの県道を進むことにした。

 道沿いに小さな漁村が点在する。人のテリトリーに土足で入っていくような気がして躊躇するくらいの、本当に小さな漁村である。夕刻にはもう一日の仕事を終えたのだろうか、人影もまばらである。その風情に、あの老婆の優しい心持ちを重ねながら、大銀杏の木や清水の湧水を訪ね、夕刻に宿にたどり着いた。

 風呂に入って疲れを癒し、夕食に望む。頼んでいたサザエの刺身があまりに大盛りなのに驚きつつ、ビールのツマミに頂く。わたしの好きな歯ごたえで食わせるそれに嬉しくなってくる。それ以外のやはり素朴だが、地のさつま揚げや地鶏のソテーなどがとてもおいしい。晩酌のツマミに鶏の焼いたのはこっそり部屋に持っていく(とはいえ、疾うにばれていたが…)。


 対馬に堪能したあとは、やはり飛行機で、今度は長崎空港に降りる。Mさんが長崎を案内してくれて、実家に泊めてくれるというのだ。彼は、この機会に結婚して、大学のそばに居を構えるという。その奥方とともに、大村湾にある空港まで迎えに来てくれた。そこから長崎までは少しくかかる。どこか行きたいところはないかと言われていたので、ボタ山は長崎にはないのかと聞いた。九州といえば青春の門ではないが、やっぱりボタ山が見たいと思っていた。何度か九州は訪れたものそれは成就していなかった。まあ、この回もだめだったんだけど。

 干拓事業で水門を閉められた諫早湾を眺める公園に寄り道し、長崎市内へ向かう。途中急斜面を縫うように走る道と、崖にへばりつくように点在する民家に驚いたりした。市内では、中華街の有名な店に案内してくれ、堪能する。多分、一番価格的には豪勢だったろう。味ももちろんよろしかった。

 その後、浦上天主堂やグラバー園などを訪れ、観光気分に浸る。残った時間はどうするか聞かれ、軍艦島を見たいと子供のような無理を言う。彼は、その要求も呑んでくれて、長崎半島の南端の野母崎町まで行ってくれた。正しくはには端島(写真)というその島を遠くに望む展望台で、十数分を過ごし、彼の実家にお邪魔することになる。

 実家に着くなり、夜景を見に行きましょうという話になる。稲佐山公園は谷あいの町である長崎を一望できる山にあって、名所なのかたくさんの観光客が来ていた。確かに、浦上川から長崎湾へ至る細長い低地に街は伸び、街の灯が列なっていた(写真)。夜景の美しい町は多少は訪れたが、このまとまりのある感じは初めてかもしれない。写真に収めるなどして堪能して、家に戻る。

 対馬空港で買った二枚貝の折り詰めを手土産に伺ったその家からは、なんとも言えぬ温かみを感じた。それは家族、特に彼が尊敬するお父さんの人柄によるもののような気がした。高校の数学の先生をしていたという彼の父は、定年を早めて退職し、近所に畑を買い農作業に勤しんでいるという。彼の兄も来ていて、その可愛い娘が恥らいながら、わたしの持ってきたパソコンに興味を持つ様に愛らしさを覚える。料理は盛りだくさんで、彼の父上が作ったモツの煮込みなどおいしいものばかり。わたしの故郷東北の田舎とは違って、九州の豊穣さに羨ましさを覚える。翌日は昼から講演なのに、ゆったりと堪能してしまった。

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土成・八幡浜・佐田岬・しまなみ海道への旅

 年末も押し迫った頃、Yさんが「徳島に帰省するのだけど、足がないんだよな」という。奥さんと子供は既に車で帰っていて、帰りは一緒なので、もう一台出すのはさすがにうれしくないという。わたしは、この年末は実家に帰らないつもりだったので、四国にでも遊びに行こうかと思い、送って行くことにした。宿はどこかに気兼ねなく取るから気にしないでくださいといったのだが、一晩泊めて、ご馳走するという。恐縮しながらも、途中の酒屋に寄って、埼玉の地酒を買い求め、土産としてお邪魔することにした。

 Yさんの奥さんの実家は徳島の鴨島町というところで農家をされている。徳島市から吉野川沿いに行ったところにあるのどかな田園風景と徳島市近郊の住宅地が混在したような地域である。お父上が酒の相手が居ないとのことで、晩酌にお付き合いしたが、こちらもへべれけになって、風呂場で横になる始末。豪勢なご馳走を振舞っていただいた上の不埒で申し訳なかった。

 ゆっくり寝てしまって、ほとんどお昼になるころに、いよいよメインイベントの土成の盥うどんを食いに出向く。土成町は徳島平野の北側に位置し、盥うどんの店は山に入った峠道に多く点在している。釜揚げうどんを盥にいれ、それを店の裏の沢にいるジンゾクとかいう川魚で取っただし汁につけて食するというものである。もちもちした食感は、田舎の手作りうどんを感じさせる。讃岐のようなつるつる感はないのだが、それはそれでまた違った趣でとてもうまい。また、これに合わせて、沢蟹の揚げたのや独特の味付けをした鳥から揚げなどがあり、満腹になった。ここでYさん家族と別れ、今回の目的であった佐田岬へ向かう。


 土成から徳島道に入り、そのまま松山道で大洲まで行ける。夕刻になっていたので、半島の付け根に当たる八幡浜市に宿を構える。八幡浜は四国西部屈指の港町で、水揚げも多く思った以上に大きな町であった。昼飯を食いすぎたので、あまり食欲はなかったのだが、駅前を散策しつつ、居酒屋で軽く済ませようと決めた。年末でやる気がなかったのか、隣の座敷の客が上客だったのか、サービスがことのほかひどかったが、じゃこ天を肴に酒を飲んだ。

 じゃことは小魚のことだが、ハランボという名の魚を使うらしい。これを骨ごとすりつぶし、練って揚げたものである。さつま揚げなのだが、骨のシャリシャリ感がすばらしい。食い物は歯ごたえが重要だと考えているわたしには、感動ものであった。翌朝食べそびれた朝ごはんの代わりに、三崎港の売店でも買い付けて食してみた。

 朝は早めに出て、佐田岬へ。地図を見て常々思っていたのだが、このように細長い地形が海に突き出しているところは、国内では他にないのではないだろうか。この地理の興味があって、訪れたいと思っていたのである。原発のある伊方、国道フェリーで九州に渡れる港である三崎を過ぎると、道は狭くなり、両側に海が見える地形に何度か遭遇する。これは砂州でも砂嘴でもないのだと思うと、とても奇異な印象がある。ますます、道が狭くなり、不安になるが、それが現実になる。そのまま岬の観光駐車場へ。

 周りに店がなにもない。ここで朝ごはんをと目論んでいたのだが、完全に当てがはずれた格好だ。車を停め、突端の小山を登って行くと展望台に出る。速吸瀬戸をはさんで対岸は九州佐賀関であるが、もう目の前にある。とても天気がよくさわやかな空の下、海には三崎港に向かう船が小さく見える。

 まあ、こんなものかと思いながら、駐車場に戻る途中、愛知から来たという中年男性に声をかけられる。やはりこの方も同じ印象だったようで、もう少しなにかあるのかと思っていた、とのことであった。確かに、四国の有名な足摺・室戸の岬は開けていて、観光地化しているのだが、ここはそれとは無関係にひっそりとしている。これはこれでいいじゃないかと思いながら、空腹は満たされない。

 ひとまず、三崎港まで戻り、船着場のそばのじゃこ天を売る店で3点ほど買い求め、腹ごなしした。ここからは、もうひとつの目的である、しまなみ海道を通るため、海沿いの道を進む。


 長浜・双海・伊予・松山と下で進み、北条から今治へと向かう。バイパスで抜けてしまった北条市は、なにかさびしい田舎町の印象を受けてしまった。ただ通り過ぎただけなので本当のところは不明だが。菊間町は瓦製造工場が並ぶ。ようやく今治には昼くらいに到着。ここで食事かとも思ったが、せっかくだから橋を渡ってからにしようと考え、いよいよしまなみ海道へ。正確には西瀬戸自動車道というらしいが、まだ全線開通しておらず、すべての橋が架かってはいるものの、陸の部分は一部が未開通である。

 今治からは来島海峡を渡って大島に。すぐに一般道に下ろされる。そのまま国道に沿ってまた乗りなおし、塩で有名な伯方島を経て大三島へ。国幣中社の大山祇神社がある瀬戸内海でも大きな島のひとつである。ここで昼飯にしようと思い立ち、インターを降りると、すぐに道の駅があった。多々羅大橋を望む食堂で、奮発してひらめの刺身定食を食べた。本当ならビールいっぱいくらい引っ掛けたいところだが、さすがにいけません。島を回ってみることにする。大三島はフェリーの港がある大三島町と高速が通る上浦町の二つの町からなっている。上浦町は有名な書家の村上三島の記念館がある。あいにく大晦日ということで、休館日。また来ずばなるまいと思いつつ、転職がほぼ決まっていたので無理だろうなと思っていた。島の真ん中の峠道を抜け、反対側の大三島町に。お目当ての神社の周りは、俗な観光客相手の店が並ぶ。ちょっとげんなりするが、神社の荘厳さには目を見張る。周りの喧騒もここまでは届かない。ひとしきり満喫して戻ることにする。

 隣の島は生口島。耕三寺や平山郁夫美術館など見所が多い。しかし、もうそろそろ日が西に傾き始めていた。関東に帰ってしまえば、もう多分じっくりと回ることはないだろう。だからこそ、この瀬戸内の美しい島並みをしっかりと見ておきたいという気持ちで出かけたこの旅で、日没をどこで迎えようか考え始めていた。ここ瀬戸田町のサンセットビーチでも良かったのだが、カップルが多そうなここで、それを待つのはわたしには辛い。まあ、名前に押されているだけかもしれないのだが、諦めて、他を当たることにした。

 さらに隣は因島。造船所があって人口も多く、瀬戸内海の島で唯一市制を布いている。ここで探そうかと、地図を片手に町を彷徨う。島の南に展望台がある公園があるらしい。年末の準備に忙しい市街地を抜け、造船所のそばにある因島公園にたどり着く。

 展望台は電波塔の傍らにあるらしい。幾人かとすれ違いながら、坂道を歩いていく。もう、日はかなり傾き始め、薄暮に包まれつつあった。周囲には生名島・弓削島を初めとして、特に日の沈む西側に島が連なっている。幸運にもイメージどおりの夕日 にありつけた(写真)。周囲には誰もおらず、寒々とした空気の中、今後のことなどを考える。気がつけば、もう日は完全に沈み、町の灯が目に付く。満足感と寂寥感のなか、尾道経由で自宅に帰った。

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道東への旅

 還暦を迎えた父と行きたいと云っていた道東に行くことにした。盆のシーズンだったためか航空券代も通常より高額であったが、大陸を思わせる雄大さと、食事のうまさに感動の連続であった。

 以前母と広島は宮島に泊まったことがあった。その折に、母という存在を見つめなおす機会を持てたことをうれしく思った。役割の明確な日常では気付くことのない側面というべきか。

 今回の旅行も同じ様な意義があった。考えてみれば、親子が同じ意思をもって行動をあわせていくということはそうは多くない様な気がする。親は親として、子は子としての役割を演じているのかもしれない。

 実家に前日に入り、翌日は朝羽田迄。父が既に西武線特急の予約を入れてくれていた。しかし、到着の時刻は出発より一時間半も前。もっとゆっくり寝ていたかったが、致し方ない。

 このあたりから、父のやり方になんとなく気付いていたように思う。母が、細かい事物に注意を払い、そして、自分の欲するものに対して行動しようとする姿勢であるのに対し、父にはそういった雰囲気が感じられない。

 釧路に着き、さてどうしたものか。どこに行って何を見ようか。自分が行きたいと言っていた割に何のビジョンもない。厚岸の道の駅で炉端焼を喰うときは、かなり積極的だったが、名物のカキには見向きもしない。本当は二つ喰いたかったが、一個父にやった。

 折角の旅行なのに、たのしむための準備はしていないのだ。それは個々人の趣味の問題だとは云え、人生をたのしむということと同根ではないのか。その点が寂しいものだと思われてならない。

 たしかに、父の時代はそんなものだったのかもしれない。しかし、硬い発想で、日常のみを良しとして生きるありように、物哀しさを感じずにはいられない。

 そんな父がこの自然豊かな田舎を半分馬鹿にしたように語るのには、怒りを越えて、あわれささえ思われてしまう。

 私が言っているそばから言ったことを忘れ、「天然」とも思える様な振る舞い。仕事を辞めたあと、どうなるだろうということまで考えてしまう。

 若い頃はスポーツが好きで、週末はそれに明け暮れていたはずなのに、休みも少なく仕事に明け暮れる日々を送っていたためなのか。

 その意味で母の云っていたことをようやく理解した。このことを若い日々に結婚する前に了解していたら二人の人生もまたちがったものになっていたであろう。しかし、二人が結婚しなければ、私は存在しないのであるが。

 そう考えると、離別というのは一体どんな意味がわたしの内面にあるのだろうか。たのしい人生において他者とは何だったか。

 鼾をかいて寝る父をみるにつけ、この人にとって人生とは何だろうとわからなくなる。

 この感想を母にぶつけてみたら「もうあの歳なんだから好いじゃないの」と言われた。私は改善すべきだと言った積りはなかったのだが、母がそう言うからには、それを期待していたのだろう。

 私も田舎を莫迦にしたような物言いさえなければ、心優しい父ということで尊敬こそすれ、批判的な気持にはならなかったろう。

 自身にたのしい気持があるなら、そんな場を提供してくれている道東の人々への敬意もあって然るべきではないか。

 右から左へ仕事を流すことは経験の成せる業として出来ても、自分の気持は一体…。

 摩周湖の深青色の水面の美しさと、牧草を巻き取った人の背丈ほどもある束が点々とする光景に完全に参ってしまった。

 旅行に出るたび、非日常を愉しむはずが、日常を反省させられる。

 父の生き方で何が悪いのか。その生き方こそが日常を粉す一番の方法かもしれないのだ。

 研究者として日々、独自であろうとすることばかりを考えてきた。人の考えないこと、人が想いつかないことをイメージする。さまざまの事々に注意を払ってみたり、暫く一つのことに集中してみたりする。

 雑用の中でも、イメージを絶やさない様に。そのためには孤独は便利な特性だった。

 観光客の少ない硫黄山も格別だった。硫化水素の嗅ぎ慣れた臭いと、音をたてて沸きあがる熱水と、植物も生えない荒れた山の斜面が。

 台風によって海面に臨んだ林野に海水が入って荒野となった野付半島のトドワラ・ナラワラ。立ち枯れたき儀。枯れて白くなった草が夥しく未だ地面にへばりついている。そして、沢山の巻貝。ここで夕日を迎えたいと思ったが、叶わなかった。

 人とちがう生き方をすることで自分の生きる場を得なくてはいけなかったのか。これを続ければあたりまえの日常として、そんなに難しくないありのままの日々に変わるのか。

 新しい大学という環境は。

 最終日まで父と本心の部分で心が通い合うことがあったろうか。というより、そんな心の通じ合いということ自体、本当に必要なのだろうか。

 誰もそんなことは期待せずに日々を過ごしているのかもしれない。みんな心の内を隠して生きているというのは本当なのか?私は裏腹のことなんて言ってやしないが。

 こんなことを書き連ねるのは泣き言なのか。私の弱さの言表なのか。

 人の求める形式で人生を歩むこと。そんな基準に一喜一憂しない。

 この私の考えを理解して欲しい。

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グルノーブルへの旅

 初の海外旅行は、博士後期3年のとき。良く仕事をしたというので、国際学会に参加させてもらえることになった。先方に連絡を取って、学生のための参加費用助成のお願いをする。英語でやり取りをするのは初めて。周囲には頼りなさげに映ったろうが、なんとか食事代や参加費などが免除になるところまで漕ぎ着けた。

 それはいいのだが、当てにしていた師匠のYさんが、家族と行くので別ルートになるという。今から思えば、頼りない私をなんとかしようという画策だったのだろう。可愛い子には旅をさせよということか。現地で落ち合うから、一人で会議のあるフランス・グルノーブルに行ってくれという。

 英語がろくに出来ないことがコンプレックスのひとつであったわたしにとって、このことはとても恐ろしく思えた。飛行機にも一回くらいしか乗ったことがない。もちろんわたしの性格からして、行きたくなくなったのだが、もう引き返せない。でも、追い込まれるのはいつものこと。諦めつつも、不安は消えない。

 手配は全部してもらった。予定ではANAで成田からパリ・ドゴール空港へ。パリ市内で一泊し、TGVでグルノーブル直通。会場に赴いて、所定の手続きを済ませるところまで。帰りも同じルート。一日余分にパリで時間をとることに。


 まず、「世界の歩き方」を買ってきて、TCが便利なことを知る。クレジットカードの手配が遅れて、間に合わない。池袋の東京銀行に行って、VISAのTCを買おうとするが、とても混んでいて嫌気が差す。近所の常陽銀行がAmexのTCを扱っているのを知り、大差ないだろうと、こちらを買う。これが過ちの一つ目。

 学生で金もなく、スーツケースを先生に借りることに。かなり大き目のケースでコロが小さいタイプ。これも過ちの二つ目。

 パスポートの手配などが完了し、どうにかこうにか出国にこぎつける。


 異国の地で客死する覚悟で、成田に向かう。前日に、スカイライナーの予約を入れておいた。スーツケースがことのほか重く感じられる。しかし、舗装道路ではことの重大性に気づくことも少ない。

 成田では手続きのひとつひとつが初めてで、戸惑うことばかり。

 当時の私は、孤高を保っていた。人に尋ねることなどない。そんな恥ずかしいことができるか。全部自分で事前に調べ、すべてを予測可能な範囲で処置できるようにしていた。そうだから、実験などで予測不能な事柄に出会うと、そこでストップ。仕切りなおしていた。確かにこの方法でも着実に進んでいくのだが、非常に効率が悪い。そして、予測不能な事態を回避しようという考えばかりが先立ち、冒険が出来ない。そのことは、外研に出て、仕事を教えてもらうようになって、強く感じていたことであった。これはどうにかしなければならないという気持ちはあったが、どう手を着けていいかわからない。そんな状況にわたしは居た。

 海外の一人旅は、予測不可能な事柄の連続。それの意味を理解させることを期待して仕組まれた旅だったのだろう。とにかくわからないことを人に尋ねなければ先に進めない。恥だのなんだの言っていられない。

 飛行機は満席。食事もなにもわからない。が、そこは日本の航空会社。パリには無事に到着する。入管手続きも適当にこなし、初日の宿へ向かうことにする。

 電車の切符を買うが、窓口で目的地を言っても通じない。英語の発音には多少の自信があったが、そんなものは通用しない。ともかく、恥をかきつつなんとか買い求め、電車に乗り込む。ドゴールは市内からはかなり離れている。電車で市内を目指す。落ち着いて二等車に腰を据え、一本で行けるはずの駅まで一休み。

 途中駅でほとんどの乗客が降りてしまう。まだのはずなのに、ここは大きな駅なのだろうと思う。ずっと待っていても出る気配はない。客がしばらくして乗り込んでくる。そんななか一人の婦人が私になにか話しかけてくるが、フランス語ではまったく意味がわからない。なにかを伝えたいようだが…。悪いが無視して、席を移動する。暫くして、扉が閉まって出発。あれ、逆に進んでいる。ああ、終点だったのね…。目的地の駅までまっすぐいけると信じていたのに、そうではなかったようだった。気がついたら後の祭り。教えてくれたご婦人には済まなそうな表情を作って、目を合わせた。まあ、一駅戻るだけなら、たいしたことないだろう。そう思ったが、なかなか止まらない。え!これは快速なの?5・6駅すっ飛ばしてかなり空港に近いところまで戻されてしまった。なんとか、さっきのターミナルまでもどるが、まるまる1時間は無駄にした。

 駅の案内所でどういくのか聞くしかない。某先生から、パリ市内のツーリストインフォメーションは日本語が通じると聞いていた。安堵して日本語を使うが、その美しい女性は、ぽかんとした表情でわたしを見ている。英語しか使えないらしい。また、恥ずかしい思いをする。まあ、そんなことたいしたことじゃないと、この旅行で思うようになっていくのだが…。それはともかく、地下鉄に乗り換えないといけないらしい。最初の話と違うじゃないか…。切符を買いなおして、地下鉄駅へ。

 もう、要領はわかってきた。一回乗り換え、目的の駅へ。地図の通り歩けば、目的のホテルにたどり着いた。予定よりかなり遅れて、あたりは暗くなっていた。部屋に入って、ようやく安心を得ることができる。

 一休みしたら、空腹が襲ってくる。切符や案内所でのやり取りに不安を覚えていたわたしが、食堂に入れるはずもない。もしかすると、TCが使えないのではないかという気持ちにもなる。隣がピザ屋だったが、値段も不安になって諦め、小さな食料品店でコーラとチーズを買うことにした。糖分と脂肪分を取っておけば、とりあえずは大丈夫だろう。そう思ってレジへ。前に並んでいた客が私を見て、何か言っているようだ。日本人への悪口だとはすぐにわかった。店主は居たたまれないような表情をしつつ、おつりを返してくれた。

 今晩はこれでOKだと、ようやく本当に安堵して、TVをつけて風呂に湯を張る。コーラは同じ味。でもチーズは…。一口食べて、便所にすべて捨てた。

 明日はTGVに乗ってグルノーブルへ。早く寝ることにする。


 AmexのTCはあまり通用しないらしいことがわかってきた。TCを現金化して欲しいとホテルで訪ねるが、それは出来ないという。宿代は無事払えたのだが…。

 チェックアウトを済ませ、TGVに乗るGare de Lyon駅への道順を尋ねる。タクシーで行った方がいいと言うのだが、現金がない。地図は借りて持っている。駅へはそれほど遠くないはず。歩いていくことにした。

 大きなスーツケースがここで足枷のようにのしかかる。15分くらいでいけるはずなのに…。ここで乗り遅れたら…。いろんな不安が頭をよぎる。早朝。歩いている人は少ない。

 なんとか時間前にたどり着く。切符にパンチを入れ、電車に乗り込む。朝から疲れがどっとでる。昨晩の空腹は今朝のパンだけでは満たされない。しかし、電車が動き出すと、車窓の風景に釘付けになった。ごみごみしたパリ市街を抜けると、農業国フランスらしく田園風景が繰り返される。そして、直線の線路に、新幹線との違いを強く感じ取る。これなら早く走れるだろうなと。そんな光景に安心したのか、うとうと。昼前に、グルノーブルに到着。

 こぢんまりした駅に到着したのだが、果たしてここからどうするのか。会場は郊外にあるグルノーブル大学のキャンパス。とても歩いてはいけない。わたしは、ほとんど途方に暮れた。案内所は怖くていけない。駅前を行ったりきたりしていた。

 ここなら誰か日本語を介する人に会えるかもしれない。それまで待つしかない。日本人と思しき人に、恥を忍んでようやく尋ねた。N大のT先生。そうこうしていると、知り合いの先生にも出会う。ようやく安堵し、昼食をご馳走になったりして、一息つく。そこからは、順調に物事が進んでいった。


 学会会期中は人と行動を共にして、支障なくすごすことが出来る。恥ずかしながら、ほとんど学会の内容は覚えていない。


 最終日、やはり私だけパリに戻る。今度は、パリで二泊してから帰国するという算段だ。パリ市内を散策することが目的。夕方にパリに到着し、地下鉄を乗り継いで、モンパルナスで降りる。ここは、都会の雑踏。たくさんの人が行きかっている。多少、恥をかくことに慣れてきたので、ここは思い切ってホテルのありかを訪ねてみようとする。若くて気の弱そうな女性が目に付いたので、この人に英語で聞いてみた。英語がわからないという。困ったような表情をされたので、御礼を言って、もう自分で探すことにする。地図どおり近くにあって、夕刻にはチェックイン。

 晩飯を食わなくていいように、昼ごはんをたっぷり食べておいた。そのお陰で、なんとか過ごすことに成功する。朝は、ホテルのカフェで、無料のパンとコーヒー。

 とにかくルーブルに行ってみたい。これが今日の目標。地下鉄なら乗れるようになっていて、シテ島やモンマルトル、エッフェル塔、凱旋門などを経由して、ルーブルへ。

 だんだん恥もかきなれてきていた。というより、わたしは日本人。知らなくて当然じゃないか。ルーブルを堪能すると共に、飯を自分で食ってみよう、と思う。

 ルーブルのカフェで、ジャンボンとビールを頼む。このフランスパンのサンドイッチはとても気に入った。また、ビールの酔いもいい具合にわたしの緊張レベルを下げてくれる。あちこち美術品など眺めるが結局、全部回りきれない。部屋に戻る。

 晩御飯は、スーパーで買ったのだったか。もう忘れてしまった。明日は、夕方まで時間が残っている。しかし、なにか吹っ切れたような気がしていた。


 荷物をフロントで預かってもらい、夕方にここに戻ることにした。買いはしないが朝市に出向いたり、レートのよさそうな両替所を探して、TCを現金化した。今日もまたルーブルにいこうと思う。それは、見る目的もあったが、所蔵品のレプリカを買いたいという気持ちが起きていたからだ。スカラベの安い置物をつたない英語で買うことに成功し、満足を得る。

 それに気を良くして、とにかくサンドイッチとビールを数箇所で食べた。にこにこした笑顔で、注文してみた。もう、恥も何もない気がした。とても、楽しい気分になった。そうしたら、パリの街も人も、とても親しげに思えてきた。人にわかってもらえないと思い続け、苦しんでいたわたしだったが、そうではなくて、自分から人を拒んでいたんだと思えた。一人で異国の街に立っているそんな危うい私が、社会で生きていくということがどんなことかを感じ始めていた。それが本当に吹っ切れるまでには、まだまだ時間を要しているが、確実に変化の兆しが見えてきていた。

 この旅によって、わたしは自分が避けてきた問題を明らかにすることができていた。忘れることの出来ない、とても貴重な体験である。

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ひとそれぞれ

 「ひとそれぞれ」。この言葉の真の意味を理解するのは、意外に難しいと感じる。それを際限なく許せば、人を束ねることはできない。しかし、それを厳密に否定すれば、自由がなくなってしまう。

 この相反する方向性を超えるには、時間軸を導入する必要がある。臨機応変さである。恒久的に一定の価値の下で生きることはできないと諦めたほうがいいのか。

 「何事もバランスである。中庸が良い。」と、別のところで書いたが、これもまた難しい。これはひとそれぞれの逆になる。とはいえ、これは統計的意味であり個人のユニークさを否定するものではない。臨機応変に対応してなにかを成した後、その極端な精神状態をもともとの意識に引き戻すことが大事だということを言っているつもりである。

 ところで、「ひとそれぞれ」という言葉を吐きたくなる場面として、経験豊かな老獪な人間の多弁さに若者が辟易するというのがあるだろう。今更、そのありようを認めるまでもないが…。これはどうしたものか。わたしもそんな経験をしている。押し黙って聞くだけだった人間が、いつしか多弁になる。


 これは、年長者にしてみれば、自分の考えを押し付ける、いわゆる自我肥大であるが、ユングはこの概念の形成を次のように説明している。以下は、あるサイトからの引用である。

 『無意識の現われを「自分に属さないものとして否定する」のと反対の態度は,「自分に属するものとして肯定する」ではないんですよね.このことを初めて知ったときは,かなり意外に思いました.さて,こうした態度をとった場合,自我肥大が起こるとされていますが,かといって「自分に属さないものとして肯定」した場合には,外化されて現実の神々が登場することになってしまいます.結局「自分に属しているけれども自分に属していないものとして肯定する」という矛盾した態度が必要になってくるわけですが,もはや普通の言葉では表現不可能ですね (^^) 』

 このことは実感としてよくわかる。無意識を単に肯定してしまうと、自分が神になってしまうということだ。さらにそこには無意識の意識化プロセスについて、こう書かれている。

 1.意識的な構えの偏り(?)によって、抑圧された心的なエネルギーが無意識に流入する。
 2.無意識に流入したエネルギーは、そのときの心的布置に応じた特定の元型を賦活化する。
 3.賦活化された元型は、自律的な性質を帯び始める。
 4.自律的な元型は自我意識にネガティブな影響を与え始める。このとき、自我意識が元型と一体化することは致命的である。
 5.元型を他者として扱い、理解することで、元型からの否定的な影響を除くことができる。
 6.意識化された元型は、自律的な性質を減じ、自我意識が自由に使える一つの機能になる。

 表現が難しいが、自分のケースについて敢えて極端に翻案すると、以下のようになるのではないだろうか。社会に生きて行くわれわれが、忌避したいことを如何にして受け入れていくかを段階的に書いた。もともとの意味からは違ってしまっているかもしれない。

 1.われわれは社会に生きなければならず、ためにしなければならないことがある。しかし、全てではないにせよそれを回避したいという思いが湧き上がる。
 2.したくはないけれども、それをしなければならないという思いが抑圧であり、それが強く意識される。
 3.その公民として社会に生きるという意識が自律的になる。それまでは、仕方がないという思いから発せられたものであった。
 4.しかし、したくないという思いと、しなければならないという思いの葛藤が起きる。自己欺瞞や自己嫌悪、自己否定などのさまざまな感情が湧き上がる。
 5.しかし、この義務感を達成するための自己を他者として扱うことで、現実的な対処を肯定的に受け止められるようになる。これは自分が社会に生きるために必要な表現形であると。
 6.そのような表現形にはもはや強い意識はない。あくまで、自分が生きていくために自分を利用するということなのだ。


 話を戻すと、教育において、人をある形に仕向けようと考え、そうすることがこの人にとっていいのだという思いが裏打ちされているとき、受け手はどのように反応するのだろうかという問題がある。そのことを判断できないからこそ、それを感性に照らし合わせ、いい感じなら受け入れようということになるのかもしれないし、嫌なら受け入れず「ひとぞれぞれ」とか言ってみたりする。単に便利に言葉を使っているだけかもしれない。

 しかし、そんなものなのだろうか。自由が全くないとはいわないが、それは受け手側の自由ではなくて、そのような集団生活の中にあって、それに協調していくという過程なのではないだろうか。それはここでいう元型が成長するということであろう。なにも、押し付けたからといって、その人間の本質が変わったりはしない。あくまでも、仮面(ペルソナ)の成長が起こって、内面と分離した形で表現形の変容が起こるのだ。それが社会へ適合する人間の成長であろうと思う。

 その意味で、「人が自分にないものを持っているからあなたを好きになった。そしてそれと係りあいたい。」という意識は、仮面の外在化であろう。あくまで、仮面との葛藤を回避するための戦略である。自分の中に構築された仮面があれば、本来そういう愛は発生し得ない。これは未発達な愛ではないかと思う。ある意味で甘えか。

 だからなのか、そういう方便って、わたしは好きになれない。それはただ、感性に運命に身を委ねた生き方じゃないか。もう、わたしは若くない。この年になると、そんなことくらいでは納得できない。とはいえ、もちろんその裏側をとってみると、やはり相手にも葛藤があり、そしてそれを受け止めて格闘しようという覚悟にも繋がる。それは成長であろう。
 やはり、その意味でも違うということは、離れて眺めるには面白く興味深いものなのだ。しかし、その違いと直面できるなら…。まあ、これは関係性の中にさえ入って行かない私のことを言っているのだ。離れてあるということで、安心した自分を感じられている自分のことを。

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意地悪な電話

 関西から関東の中学に転校してまだ一月も経たないとき、隣の席の女の子から、カンペン(いまでもこう言うのかな)と数本のサインペンのセットを貰ったことがある。

 まだ、自分の本領なんて発揮する場がないから、単におとなしい可愛い(?)男の子という印象しか、周囲に与えていなかったはずだ。お勉強がそこそこ出来ることがまだ知られていないのに、好意を寄せてくれる女の子がいることに私は驚いた。ちょっと可愛い子だったので、それから気になって仕方がなかった。まあ、転校生が女の子と付き合っていたら、それこそ…。そのあたりにはとても敏感なわたしは、自然に仲良くするだけだったのだが。

 そのプレゼントを目ざとく見つけた御仁が、触れ回ったりした。新入りにとって、それをきっかけにいじめられるととてもつらい。孤立無援だから。でも、大事に至らなかったのは幸いだった。

 そんなある日曜日。自宅に、ある女の子から電話がかかってきた。母が取り次いで、わたしに受話器をわたす。誰なんだろう?出てみると、どこかで聞いたような声。でも、まだ一月くらいだと、顔が浮かばない。

 好きな人はいるのかとかプライベートな事を聞いてきたり、わたしの好きな色を聞いてきて、わたしもその色が好きだといってみたり。数人の女の子がかわるがわる話をしてくる。最初は疑いもなく返事をしていたのだが、これってなんだろうと思い、返事するのをためらっていると、奥のほうで笑い声が聞こえる。ああ、あの人なのか。同じクラスの、顔は可愛いのに意地悪そうな女の子を思い出した。それを頼りに全員の顔が思い浮かぶ。

 適当に理由をつけて、電話を切った。


 これって一体なんだったのだろう。幼いわたしはいろいろと考えを巡らした。女の子って、だいたい幾つかのグループに分かれて行動していることが多い。そのプレゼントを呉れた女の子は、あまり目立たない女の子たちのなかで中心的な存在だった。とてもしっかりしているように見えた。別の子らも、わたしが気にならなかったわけではないのだろう。そこで、ちょっかいだしてみようと思ったのではないか。

 そのうえ、わたしはうぶで可愛い男の子に見えただろう。まあ、それは今も大差ない(?)ように思うが。だから、女の子たちには、なめられているのかもしれない。

 私に関心を持つ女性たちは、常に私を上位から眺めているように思う。わたしの、女性的とも思える敏感で高い感受性によって感受した刺激を、臆病にも思索に繋げる様は、かわいらしく、愛すべき対象であると思えるらしい。私への感情は母性本能にも関係するとある人は言った。これは、恋愛とは少し違うだろうが、区別できない女性も中には居るのである。わたしも、それを求める愛と勘違いし続けてきた。

 しかし、ある意味勿体無い話かもしれないが、わたしには自尊心もあるし、そんなお節介が好きになれない。わたしは対等な関係を求めている。人の成長には、さまざまの人間とのさまざまの係わりが大事ではあるけれど、それは、相互を尊重し敬意を持つ中から育まれるものではないのか。一方的に教授する関係などありえないと思う。それに対し、彼女らはただ母性本能を一方的に押し付けてそれで満足しようとするように見えた。その結果、わたしは女性との関係をうまく構築できた試しがない。繰り返し彼女らのそんな部分を引き出させ、その度わたしは幻滅する。それが頻繁に感じられると、嫌気がさしてくる。

 となると、わたしにとっては、わたしと同じように敏感な女性たちしかいないのかもしれない。そうやって、こちらの父性本能(?)をも満足させて、「おあいこ」にしてしまえばいいのかもしれない。あるいは、自分のそんな性質を変え、引き出させないような振る舞いをするか、そんな彼女らを却ってそのまま愛するか、のどちらかになろうか。

 女性たちをして母として関わらせようとするこの敏感さは、わたしの思索の根本であって、あらゆることごとを俎上にのせ分析する気質に反映している。そうやって、わたしは現在の自分を構築してきたのである。そのことにもちろん多くの人は気付くはずもない。単に、思索好きと、繊細さが共存しているのだと。もう少し言って、何かの関係があるとは思っていても、それ以上の思索が多くの人にあるわけがない。

 その後は別の展開を見せることになる。多分、彼女らは想像できなかっただろうが、わたしはその中学でもみんなにとって、特別な存在になっていった。だって、勉強が出来るのに、自己主張しない静かな男だから。他の手っ取り早く目立とうとする手合いとは、明らかに一線を画していた。転校してすぐに行われた全県実施の実力テストで、わたしの偏差値を見て周囲は、「関西の人はみんなこのくらいできるの?」と言った。そんなわけないだろうと思いつつ、「できるほうだったけど…。」と答えたわたしに、別に深い意図は無い。わたしは、共感くらいしか、人に求めているものはないから、その意味でも謙虚であると自分で言える。普通に見える私にうっかりしている人が多そうで、却って安心する。ただ、操るのはそんなに簡単じゃないですよ。


 って書いてしまった後で、せっかく人と係りあえるきっかけを、無残にも切り落としてしまっている自分に気付く。わたしらしく静かに係わり合いを続けていくべきなんだろうな。最近ちょっと刺激が多くて、反応も過剰すぎるのかもしれない。

 塩野七生「男たちへ」に、オノ・ヨーコの言葉が引用されていた。

 「男女平等? なぜ優れている私たち女が、男たちのところまで下がってきて、平等にならなくちゃいけないの?」

 ああ。対等な関係なんて、望むべくもないのかも…。


 中国出張で、ある立派な先生にスナックに連れて行ってもらった。日本語が多少できる女性がお酒の相手をしてくれたのだが、そこでもわたしの精神年齢は12−14歳くらいだと、うら若い美しい満族の女性に言われた。中学校から変わっていないのか。まあ、そうかもね。わたしの心の幼さは万国に通用するのだろう、周囲に確実に読まれているのだ。同い年のママさんには、大人だといわれたけど、それって慰めか、彼女の不幸な生い立ちを聞いたりした内向的な会話のせいなのかどうかはわからない…。ともあれ、この子どもっぽさについては別のところで触れたい。

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内なる旅

 父を亡くした昨年の6月以来、わたしは自分の内面へと旅立った。大学の学部時代をこれに費やして以来、十数年ぶりのことである。あのころと比べてなにが変わったのか。その間に仕事の成果があって、多少の自信はついたものの、然して代わり映えしない自分に気付く。

 もうそろそろ、この旅から日常に帰らなければならない。この旅のきっかけは、父を亡くしたときに貰った友人からのメールである。そこには、「ここまで懸命に走ってきたのだから、ゆっくり休んでもいいんじゃないか」という、優しい言葉があった。

 この言葉をありがたく受け取りながら、自分が目を伏せてきた一側面に向き合おうという試みに、いよいよ本格的に時間を割こうと思い至った。自分の存在意義を危うくするような所業、つまり研究以外のことに現を抜かしていいのだろうかという不安もあったが、今このことをしておかねばならないと思った。孤独の陥穽の中で、充足感と寂寥感の中にいた私には、心と他者との係わりの問題にけりをつけたいと思ったのだ。

 この思いはなにも、今に始まったことではない。しかし、研究の成果を求められ、それを得ることによって生かされていると信じていた私には、やすやすと傾倒できる問題ではない。しかし、研究ではなく学校での講義を行う中で、学生諸子とのコミュニケーションの難しさを強く感じたことに端を発し、心と他者への係わりを強く意識するようになったのである。

 最近評判の村上龍氏の著書「13歳からのハローワーク」には、氏の両親が教師であったこともあってか、特別の思い入れを持って理想の教師像について、次のように述べられている。

 『これから求められるのは、教師の権威の復活ではなく、児童生徒とのコミュニケーション能力を持った教師である。これから、教師を目指そうとする子どもや若者には、いろいろの知識やスキルを身につけることはもちろんのことだが、どのような学校に勤めるにせよ、まず「自分の人生を充実させ、楽しむこと」を優先させて欲しい。』

 これは大学教員に向けられた言葉ではなかったのかもしれないが、魅力ある教官像を構築することに意義があるということは、私には自然に理解できた。というより、一緒に居る人間が魅力的であれば、前向きになれるし、ともに時間を一生懸命過ごしたいと思える。こういう生き方を実践するための場を作るのが、教育には必要だということなのだろう。これは職場環境とは大きく異なっている。職場では、金を得ているという事実があって、集団はある目的に向かって進むことが対価として求められている。そして、そのことを構成員たちは理解せねばならない。教育の現場にはその当たり前の強制力はない。だから、前向きに生きていくということを見せ付けなければ、動機がないのである。

 老獪な先生方のような経験もないわたしは、未熟な若手(?)の教官だ。そして手持ちの研究技術だけでは満足できず、独自な研究を求めて日々彷徨っている。それほどまでに難しい命題なんて掲げなくてもいいはずなのに試そうとしている。もともとこの命題に没頭することを覚悟して、研究所の研究員として狭いニーズに応えていればいいだろうと孤独に向かった筈だった。一人なら思うがままに生きてもいいかなと思った。それがいつのまにやら、心を使う商売に鞍替えしてしまった。そして昨年来必要だと思って急遽心を穿り返したら、却って不安が亢進してしまった。

 わたしは、前向きに生きるために、悩み考えている人間であるということは、あからさまになっている。それでいいのかなと思っている。その一方で、ちょっと違ったことを考えている。目の前の個々の問題に没頭できないということの意味は何か。自分の思い込みに夢を抱いている。

 だめなら、首にしてくれという覚悟もない。じっとしていて幸せになりたいなんて虫がいい事を考えている。いつもそこに至ってしまう。ここまで人生を制限して、能力を高めてきたのに、それを使いこなせないで居る。

 内なる旅は、あまり意味がないのだろうか。わたしの場合、内面を掘り下げる一辺倒になってしまって、現実における他者との係わりを無視してしまっているようだ。現実の問題・人間を見ていない。そのことは、わたしの気質なのだろう。自分による自分の解明。これが可能なのかは、結局不明なのに、それを信じていつまでも掘り続ける。他の手立てを考えねばならないのにいつも常に一辺倒。何も進歩していないというのはこのことだろう。

 しかしやはり、他者との係わりを無視して生きることはありえないのだ。今日もこうやって、ここにやってきた。Enneagramだの、HSPだのは、本当はあまり好きではないのだけれど、いろいろと教示的なことを述べてくれるし、それはやっぱりありがたいことなのだ。なにか、自分の大事にしてきたところが、一部の他者と何も変わるところのない一気質に過ぎないということを詳らかにしてくれる。


 区切りを今年度末に設定したためもあってか、あと二ヶ月を切った最近の精神状態はいろいろあった割には、悪くない。いや寧ろよくなってきている。以前なら凹ませてくれるいろいろの事々も、客観的に軽く見られるようになっている自分に気付く。やっぱり、来年度は研究に没頭しよう。だからといって、ようやく向き合えるようになった人付き合いの問題を止めるつもりはない。もう少し、外に向かってみよう。

 この一年は無駄じゃなかったのかな。

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分類される私

 エニアグラムとか四柱推命にちょっとはまっている。自分はテストの結果、エニアグラムではタイプ5らしく、本を買ってきて調べてみたら、ある本(D. R. Riso & R. Hudson, Personality Types, Houghton Mifflin)にタイプ5に関する表を見出した。以下にそれを訳してみた。



行動姿勢欲求恐れ
健全の3階層
1. 解放のレベル
預言者
開拓/羨望の対象/深遠/革命/同情/知性
参加
瞬時の察知/悟り/畏敬/澄んだ心/信用
自己実現
外界から離れている自己像(外なる観察者)からの解放
根源的恐れ
無能・無力で援助できないこと
2. 心理的受容のレベル
洞察
当意即妙/好奇/戯れ/警戒/並外れた
観察
注意/鋭敏/魅惑する/非感傷的/客観/自己内包
根源的欲求
貢献するための何かを得るために有能になる
二次的恐れ
洞察が不十分で人生の指針が得られない(人生に圧倒される)
3. 社会的価値のレベル
革新
独創/熟練/創意/対話/創造/技能
集中
探求/開かれた心/忍耐/気まぐれ/頑固/独立
二次的欲求
自信を得るための何かを修得する(居場所をつくるための自信)

貢献する価値あるものを持っていない(不意)
平均の3階層
4. 不均衡のレベル
熟練
聡明/技術の修得/収集/篤学/実践/閉ざすのを遅らす/好事家
概念化
博学/モデル構築/分析/非拘束/準備/貪欲

心と想念に退却することで安心感と自信を感じる

他者からの要求が内的世界への脅威に感じる
5. 関係制御のレベル
夢中
世界構築/秘密/思索的/神経質/とっぴ/非実用/分割/ものおじ
分離
抽象/集中/必要の無視/複雑化/放心/煽動/無節操

(精神活動を昂進して)侵入を排除

他者は適所と能力を攻撃する
6. 過補償のレベル
挑発
議論好き/軽蔑/敵対/係争/遠くから取る/転覆/鈍感
極端
皮肉/知的な傲慢/疑念/悲観/結論への飛躍/けち/短気

適所や内的世界を脅かす他者を脅かす

世界や他者とともにある場を見出すことへの諦め
不健全の3階層
7. 侵害のレベル
奇矯
孤立/不安定/拒否/空虚/関係破壊
虚無
退却/価値を貶める/暗い幻想/逃げ場のない苦悩/直情

外界との関係を全て排除(あらゆるものと地獄へ)

世界は自分に対して閉じている
8. 欺きと強迫のレベル
妄言
幻覚/突出/撃退/悪意/不眠/奇矯
統合失調
歪み/奇妙な知覚/恐れ/過熱/むかつかせる/援助の拒否/躁鬱

恐れを寄せ付けない

外的かつ内的影響から自己を防衛しない
9. 病理的破壊のレベル
病的
狂気/自殺/消滅/自閉/麻痺/無力
忘却されることへの期待
縮小破壊/分解/内なる混沌/忌まわしい感覚/狼狽

現実を離れ、あらゆる感覚的入力を止め、自覚から離脱する

根源的恐れの現実化:無力かつ無能にして援助できない


 また、四柱推命をベースにしたキャラクター分析のサイトによるわたしの結果は以下の通り。

 1. 知識欲が強く、他人が知らない事を解り易く正しく伝えようとする人
 2. 啓蒙派、人々の無知を啓発し、正しい知識を与えるタイプの人。

 真面目で素朴な雰囲気の控えめな私心の無い人。率直で楽天的から、他人に振り回されたり騙され易い所がある。見た目は頼りなさそうだが、一本筋の通った人柄であり、頑固で融通がきかぬ一面もある。あくまで人柄を大切に人物評価を下し、温かく信頼深い交際を望んでいる。

 あなたは、初対面の人と話をするのが苦手でしょう。自分を上手く表現できません。でも相手には本当の自分をわかって欲しいと思っています。そして、子供のような純粋な心の持ち主でもあり、感情を隠すのが苦手で、駆け引きや裏表のある対応は出来ない傾向にあります。人に対する好奇心は旺盛なのですが、すぐに本来の心配性と臆病な面がのぞき、それが又、顔に出てしまい、好奇心を持続させる事は苦手なのです。でもいったん仲良くなると、途端にわがままになったり、ずうずうしくなったりしますが、そこは天性の無邪気な可愛らしさでフォローし、愛されてしまう上に甘え上手に振舞います。

 外見的には柔和で控えめな態度で、人の気をそらさない気遣いの人でしょう。円満な人格者で、自分や人を傷つけるのが嫌いでもあります。人情に厚く、律儀で誠実な性格であるため、社会を見る目も家庭の中でも封建的な面が強い傾向にあります。また、理不尽な事があると見逃せない正義感の強さも持っています。

 そして、気性がさっぱりとしている為に何時までも根に持つ事はありません。順応性もあり、どのような状況にも合わせていけるたくましい生命力を持ち備えているのです。

 案外に、おっとりとしたのんびり屋に見えていても、本当は非常にせっかちで合理的に手早く物事を処理していく人でしょう。元来サービス精神が旺盛で楽観的であるために、物事を頼まれるとノーと言えずに引き受けて他人から良いように利用されかねません。また純真な心と繊細な心配りが、人を育てたり教えたりする事に向いており、大人相手では緊張しても子供ならば大丈夫で、深い愛情で包んであげることも出来るのです。

 あなたは、誰にでも好かれ、どんな時にも心が波立たず、変わらない温和な人でしょう。服装にも無頓着で、態度にも飾り気が無く、裏表の無い素朴な性格の人です。初対面の人には強く警戒しますが、親しくなると可愛いわがままが出てくるようです。交際範囲は広くなく、心から信頼できる人と永く付き合うタイプでしょう。好き嫌いは激しく、純粋で、心が非常にまっすぐなので、思った事感じた事をすぐに口に出す事もあって口うるさく受け取られるようです。他人にもそれを求めて自然と厳しくなる傾向にあります。独善的にならないようしたいものです。でも本人はとても楽天的でサッパリしていて全く悪気は無いのです。立ち直り、心の切り替えの早い人でもあります。ストレスの溜まらない、得な性格といえるでしょう。積極的で活動的であり、開放的ですが、それゆえ、執着心や粘り強さに欠ける面もあり、努力を遠ざける傾向にあります。でも、秘めた情熱が夢や希望へ向かわせるので、何時までも若々しくいられます。ところが、物事をすぐに諦めたり上手くいってもあっさりと人に譲ったりする所があります。

 このおおらかさはあなたの魅力ですが、もうすこし粘り強さを持つようにして損がないようにしたいものです。

 また、事業運もありますので、成功の可能性は高いモノがあります。ただし、執着心の薄さがネックとなりそうですし、そしてまた金銭面での注意と慎重さが必要です。

 1.一際目立つ存在で、また、異色な存在である。
 2.理想が相当高く、大きな目標を打ち立てる。
 3.内面は、パワーに満ちていて相当な野心家です。
 4.人と違った一面をアピールし、差別化を図りたがる。
 5.人知れず努力し、人に手の内を見せたがらない。その裏には、高いプライドが見え隠れする。
 6.感情の起伏は激しく、怒りを爆発させる。孤独を愛するナルシスト。人に支持される事で、活躍の場が広がる人です。


 これを読んで、人の発達とはどんなものだろうか、そして、外界との係わりとはなんだろうかということを、少しく考えてみた。

 「基底欠損」は、精神医学者マイクル・バリントの一連の著作に出てくる概念である。全ての人は、多かれ少なかれ何らかの満たされない不足を幼いときに感じていて、それを満たそうとする欲求が、人の活動の原点になっていたりする。多分、エニアグラムは、それを根源的恐れ(Basic Fear)とか根源的欲求(Basic Desire)とか呼んで、類型化し分析しているのだと思われる点でとても興味深い。

 精神病理では「性格か病か」が常に問題となるという。だとすれば、精神病理の分類は、性格分類となりうる。土居健郎は「わかる」をめぐっての一方的なコミュニケーションの様式を提案し、病理を分類した。つまり、

 1.「わかられている」分裂病圏
 2.「わかられっこない」躁うつ病圏
 3.「わかってほしい」神経症圏
 4.「わかられたくない」精神病質圏
 5.「わかったつもり」パラノイア圏
 6.「わかっていない」器質的脳障害圏

が、あるというのである(土居健郎「土居健郎選集5 人間理解の方法:診断と分類についての若干の考察」)。これも、他者との係わり方の志向性を表わす分類として、基底欠損にかかわるのではないだろうか。

 満たされない不足の程度は、人格において結構重要な意味を持っている。要するに健全か不健全かということにもなろう。才能と欲求はあまり因果がないことかもしれないが、強く不足を感じれば、それを強く求めていくため、後天的な能力補強という形で自己開発を促す。いわばハングリーさだろうか。他方、恵まれた環境に育つと、動機が弱くなる恐れがある。しかし、いずれにしてもそれはバランスの問題であり、人が成長していく流れの中で、ある部分が
欠けていると感じる場面に出くわすことは多いのではないか。

 そんなとき、当然だと思ってしまう恐れや欲求を、客観的に眺められなければ、意外に簡単におとしあなに落ちてしまう。


 生年月日をベースにした占いなどによる性格分類に関しては、なぜそうなるのかの根拠がまるで分からない。しかし、当たっているような気がするのはなぜだろうか。もちろん全てが運命付けられているとは思えないが…。どのようにして、この種の占いが形成されてきたかを知りたい。その成立には、実は興味深い方法論が隠されていたりはしないだろうか。


 ところで、内なる旅は、自分の根源的恐れや根源的欲求に気付き、それを超えていくための内省であるのだろう。自分を掘り下げて得られるのは、その程度のことだが、さりとてその程度のことに気付くことの意味はとても大きいと思う。自分の感覚や無意識にしてしまう行動の源泉は、実はそんなつまらないことだったのだと気付くこと。それによって、楽しくなく感じる自分を客観視し、より自分らしく生きることへの道筋がつかめるのではないだろうか。

 このことをせずして、何のために生きているのか。簡単に得られる安全保障感に無反省に生き、人のせいにする生活。そんなつまらない生き方を見せられると、とても寂しくなるから、止めて欲しいのだけれど。


 大学に来る前、わたしはどうにか3のレベルまでに至っていたように思う。確かに狭い職場で、やっている内容は私の望みとは必ずしも一致していなかったが、少しずつそれを開拓していけるという兆しがあった。しかし、上司の異動やさまざまの人の想いが混ざり合って、今はここにいる。

 今のわたしは、3よりは下のレベルに戻ってしまったように思う。自分の適所を見出すのに時間を使ってしまうと感じていたのは、この表にきちんと説明されていた。新天地では、少し精神状態が悪くなる。でも、それは、タイプ5という人口の9分の1はいるとされている人間のパターンに過ぎない。このパターンを変えるなんて、なかなか出来ないことなのだろうし、こんなパターンを示してくれると、人生の可能性と限界に気付かされる。これは、却って気が楽になる。別に、諦めるということではなくて、着実に進むほかないのだなと気付かされるというべきか。

 塩野七生さんの本に影響されているのかもしれないが、こうしなければならないなんていうことは、世の中にはないのではないかと最近特に思う。某先生は、金を取ってきて、独創的な仕事をして云々と言われる。確かにそうなればめでたいし、周りにとってもとても良いことかもしれないが、そのことが自分の人生の幸福感や健全度とどれほどの係わりがあるだろうか。しなければいけないという義務感は、確かに行動のエネルギーにはなるけれど、それで生きているうちは楽しくないんじゃないか。そうではなくて、自発的に楽しく何かをしているということ。そうやって生きる術を手に入れたい。その上で、必要なことができるはずなのだ。

 人を何かに強いていくということはするまい。それが、自分にとってどうかという視点からのものである限り、却って意味を減じる。とはいえ、そういう影響を受けることも運命だし、それを受け入れられる健全さを身につけたいとは思ってもいる。

 ただ、ここまで他者に優しくなっても、わたし一人がしているだけなら意味がないだろう。生きやすいように、敵の軍門に下ってもいいが…。それほどこだわりがあるわけではない。しかし、今は優しさを人に押し付けているのだから、本当は優しくないのかも…。

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心を開く

 今朝は変な夢を見たからか、そんな夢を見る原因が先にあったのかどうかは分からないが、不安が心を占めていた。そのことは、すぐに反映される。要するに顔に出ている。

 自分が不安に直面するとき、それはほとんど人との係わりのなかにあるのだが、どうやら、心ではなくて知や理が勝ったときにそれが起きていることもあるようだ。いや、もともと、知や理で進めようとしていて、心を蔑ろにしてきている。それが、不安に直面して、先鋭化する。一方心の働きをなぜか抑制しようとする自分に気づく。知や理で持って解決しようとする。多分、そのこと自体は悪いわけではないのだが、周囲から離れた孤独な営みに見えるだろう。人を寄せ付けない何かが現れている。

 「心を開く」。多分、これが、自分の統一を侵すことなくより快い状態に到達するために必要なことなんだと感じている。考えていると書いていないところが、私らしくなくていい感じだ。これまでは、心を開くと、自分が失われてしまうと思っていた。心を開くと、自分の中に世界が入ってきて、自分を壊してしまうと思っていた。

 そうやって日々意識して、生きていくべきなのだが、さまざまのことごとに翻弄されて、うっかりしてしまう。もっと自己チェックをできるようにしなければならない。

 皆さん、御免なさい:-)

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暴力への恐れ

 二日酔い気味の今日、5時半に目覚めた。気分が悪くてかなわないが、風呂をセットして、コップ一杯の水を飲んで、コタツから布団に移動した。

 いろいろの想いが混ざっていたのだろう。うとうとしていたらかなり明確な夢を見る。

 登場人物は全員知っているのだが、意外な組み合わせ。数名のメンバーで山の温泉にでも来ているようなのだが、そこにある知った人が現れる。その人は、臆面もなく、宿舎の部屋で、性的に倒錯したような写真集を眺め始める。そして、そのうち、自らの手に登山ナイフで何度も何度もきりつけていく。何が起きているのか。わたしは呆然と眺めるだけ。血まみれになった手のまま、彼は一人山を降りていく…。

 目が冴えてしまったので、風呂に入りながら、この意味を考えてみた。その特定の個人とそのこととは関係ないだろう。しかし、この自虐的な暴力的な行為の意味はなんだったのだろうか。


 ふと、亡くなった父のことを思い出した。もう二十年以上前のことになるが、わたしが関西に住んでいた頃、母は社会人のテニスサークルでの活動に喜びを見出していた。そこには、多分メンバーたち男女の微妙な感情の往還もあったのではないだろうか。そのことを父は勘ぐっていたのだろう。何があったかは知る由もないが、多分、その勘は外れてはいなかったのではないかと思える。そして、それを確認するために、母のつけていた日記を読んだようだった。疑念が先か、日記を読んだのが先かはわからないが。

 ある休日、父は一人家を出た。わたしは気にも留めず家で過ごしていた。そのとき、父から電話を受けたのはわたしだった。父の「涙が止まらない」という言葉の後に続いたのは、信じがたく暴力的な言葉だった。小学生だったか、中学生だったか、そのころの私には、ただ、静かに聞くことしかできなかった。「こんな父なんてどうしようもないだろう」なんて言い方もしていた。母にそのことを伝えると、室内を確認し、日記を読まれたことに気づいたようだった。焦りと恐怖に慄いていたが、すぐに、出かけて行った。

 しかし、大事には至らず、父は母とともに帰ってきた。母は日記を焼き捨て、もう日記は書かないと言っていたことが記憶に残っているが、それ以外のことはわたしの心の中に封印し、忘れてしまった。その後、十年しないうちに二人は別れた。


 思い通りにならない人の気持。それに出会ったときに、暴力に訴えてしまいたくなる感情は、わたしのなかにはない。確かに幼い頃、兄弟げんかはよくしたものだったが、もうニヒルに諦めで包んでしまう。昨年の父の危篤に際して弟から貰った厳しい言葉にも、暴力的な気持など起きようはずもなかった。私の心の内面が伝わらない、そのやりきれない気持をどうしたものか、とても寂しくて、本当に悲しかった。

 ドメスティックバイオレンスは、以前から社会問題になっている。ということは、暴力は特殊なことではなくて、日常の問題なのだろう。悪循環が、他者を傷つける方向に展開することも日々あたりまえに起きているということだ。

 ときどき剥き出しになる感情は当然としても、それに付随した暴力。嗚呼、何の権利があって。

 それとは逆に運命に自分を委ね、感情を閉塞し、人生を諦めに包む。

 人々のさまざまな心の機微。これを愉しめって言うのか。このことの辛さの前に、気力が失われてしまう…。しかし、そんな衝突から身を守らなければ生きてはいけないのだ。

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私の恋愛観I

 何度となく失敗を重ねても、わかっていないことがある。心の中には自分しかいないわたしにとっての、他者と恋愛の意味である。

 塩野七生「男たちへ」を今更ながら読んでいると書いたが、ここに書かれていることの意味の重さを感じるだけの経験がわたしには決定的に不足しているような気がする。特に、「不幸な男(その一)」は、なんとも子供じみたわたしの恋愛観を一蹴してくれた。

 そこでは、職場で生まれた男女の友情を例にとって、話を進めている。男は友情としか思わないのだが、その妻は恐れを抱き、半年会わないか、ベッドを共にしろという。でも、どちらも拒否した男のその後は…。

 「対人関係とは、相手があることなのだ。それなのに、男のほうには、相手がどう受け取るかを思い遣る心情がない。原則に忠実に、理屈にさえ合っていれば自分の行為は正しく、まったくそれを変える必要を認めないのが男の考えであったのだ。妻はこの夫を、以前には思いもしなかった離れた視点から見るようになったのだった。」

 そして、男のほうは。「清らかな友情の相手であったはずの女は、それだからこそベッドをともにするなど考えもしなかったのだが、一年もしないうちに、その女の本質が、馬鹿ではない男にはわかってしまったのである。資質でも性格でも、友情の相手にするほどのものでもないとわかったとき、男に残った感情は、肉体としての女だけだった。ベッドをともにしたいと、そのときになって思ったのだ。」

 「他人の立場になって考える、とは、だから、不幸になりたくない男にとっては、良書を熟読するよりも、心しなければならない課題ではなかろうか。妥協をすすめているのではない。それにこれは、妥協ではない。人間という存在を、優しく見るか見ないかの問題である。」


 知識や技能を身につけることで初めて、世の中と関われると考えがちだったわたしにとって、このことは過去にはあまり理解できなかった。しかし、相手の立場になって考えなさいとはよく言われて育った。その人がそこにそんな風に生きているということには全て理由があって、さまざまな運命と経験を積んでそこにあると思っていた。だから、それだけを責められないと思って日々人と接していたように思う。だから、わたしは母の父への一方的な離婚理由を納得できなかった。不平はわかったけど。上述の夫婦は結果的には離婚したそうなのだが、結局それは相互が相手の立場になれないということにあったのだろう。そんな乖離に一方的な理由なんてない。

 相手の立場になって考えることにおいては、わたしは決して悪くない資質を持っていると思う。しかし、人の発達と成長という観点において何が大切なのだろうかといつも思う。厳しい環境は人を育てるが、そのために失うものも多い。その両面を補い合いながらわたしたちは生きていく。緊張と弛緩。まあ、一般的にはそれが生活と仕事の線引きなのだけど、もしかして女性は生活に緊張を全く求めていないとでも…。いや主婦たちはそれをごちゃまぜにできるところにある種の尊敬を覚える。まあ、塩野さんの書く女性は一辺倒ではないんだけど。

 良好な関係から、どうやってほころび始めるのかはわからないが、わたしがそれを恐れているのは疑いようがない。親を見ているからだろう。ほころびに至らずによりよい関係を作るためにはどうしたらいいのだろう。そんなことばかり考えている。でも、本当はほころびなんて恐れるに足りないものなのだろうか。成長と発達の妨げにはならないのだろうか。超えられるものなのだろうか。でも、一生懸命求めもせず、ほころびを恐れているなんて…。きわどいバランスに終始している。


 ところで、今を作っているさまざまな運命や経験から何を汲んでいくのか。最終的には人を形作っていくのはそこにあるのだと思う。若いうちはともかくも、充分な時間が与えられたら、自分の人生を運命だけの責任にするなんていう生き方は辞めたいではないか。理想の実現とか、それを選択していくとかそういうことも大切なことなのかもしれないが、実は運命を糧に自分を抽出していくところに人生の醍醐味があるんじゃないだろうか。それは、かなり自立的なプロセスだ。


 そう思っているわたしがわたしのことを思いつめるほど好きではない女を好きになる理由ははっきりしている。それは、それが重荷だからだ。ある思いつめた女は、わたしの内面を抉って、分解してみせ、方針を与えてくれた。それは思いやりからなのだろうが、自分が分かっていることを同じように繰り返されても、それは苦痛以外の何物でもない。方針を貰って嬉しいのは、並立する違った価値観だったりする。

 ただもちろん、その思いやりを理解しないわけではない。単なる甘えかもしれないのだが、わたしのありようのまま、受け入れて欲しいだけだ。とはいえ、それは努力なく生きることを意味しないことを理解して欲しい。だから、教員なんて向いていないんじゃないかというのは、その意味においてである。ある目標を強いて、そこに向かって生きろなんて、わたしは言いたくないから…。といっても、この環境を利用しないなら、ここにいて欲しくはないが。話が恋愛と関係ない方向に逸れてしまったようだ。

 そうなってくると、結局、理想的な男と女の関係なんて、互いにそうしたらいいじゃないかと思えるようなものでしかないのかもしれない。それを、伝え合える中で維持できるということ。それって楽しいのかなあ。まあ、そんな関係を構築し維持できるなんていうのも、それはそれで楽しいことかもしれない。互いのそうやって構築したものを眺めて、ああいいねって、でもわたしはちょっと方向性が違うけどね(違うのは方向性っていうのが大事だと思うんだけど)。それが面白みなのかもしれないなという結論にとりあえず今、達したようだ。そして、そこにセックスが絡んでくるのか…。

 これは理想的ではなくて、最終的ということかも。

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感受性って何

 中島義道先生の本を読んでいたら、塩野七生さんの『男たちへ』についての面白いコメントがあって気になっていた。ある日、古本屋で見つけて買ってみた。その軽妙な筆致に反して、どきっとするような厳しい言葉が並んでいて、とても楽しくなってしまう。

 最近、幸福感が得られていない私には、特に『不幸な男』の件が気になって仕方がない。

 「原則に忠実な男」と「完璧主義者」と「迷う男」。これが不幸な男たちだというのだ。ほとんど全部当てはまってしまうのに気づいて、なんとも私って哀れだなと思う。まあ、一人の作家先生の考えに過ぎないんだが。


 そう。そうやって、人の意見に振り回されている。一々反応する。これが感受性。要するに、真剣に人と係わってこなかったからか、自分の価値に気づいていない。だから、自分を大事にしていない。別に、自分なんて投げ出したって構わないっていう気持だってある。

 そう思うのはなぜか。博愛主義って言うのだろうか。あらゆるものを受け入れたいような気になっている。その実、その人の意見に斟酌すべきものがあるのかどうか、確認することをしていない。そんなことをするのは大変なことだから。「本当の」本音を引き出すのは結構大変だ。日本人なら「甘え」を引き出せるのかもしれないが、最近の都市生活者はそんなに甘くない。

 だから、これはと思う人の言うなりになっていれば、とてもやりやすい。だけど、それで本当にいいのだろうか。うまく行けば褒められて、満足できるけど、それがわたしの望みなのだろうか。まあ、そうだったのかもしれない。


 でも、悲しいかな、こんなことを問い続けたりして、わたしは自分を愉しくなくすることに慣れ過ぎているような気がする。そして、うまく行くことを手に入れたりしてきた割には、少しばかりの愉しみで充分満足している側面もある。まあ、それが感受性の高さだといえば分かってもらえるだろうか。そんな小さな成果を挙げるために必要な小さな責任を果たすだけで、もういっぱいいっぱいだった。人から見ればこれだけの実績を挙げてきて、少しの愉しみなのかというかもしれないが、手に入れてしまえばそれはもう幸福感を与えないものだ。そのことに気づいてしまったから、感受性の高さは不幸な気持を煽ってしまう。

 でも、同じ環境で時間を過ごせば、その不幸さと幸福さの間で適度なバランスを取ることには長けてくる。自分の望みとか、自分の価値とか、そういうものに無頓着になっている自分に気づくのだ。だから、環境を変えてみた。新天地で自分の価値を探すっていうのはあんまり易しいことじゃない。でも、自分を見つめなおすには、そんな荒療治も必要だと思えた。自分を追い込んでみないと、環境に甘んじて、物事の本質に到達しない。

 厄介にも事あるごとに一々凹んでしまうような感覚のお陰で、物事に潜んでいるさまざまなことごとを逐一突き詰めてみて、それがために、わたしも少しずつだがマシにはなってきているということである。とはいえ、物事の本質に到達しつつあるのかどうか…。でも、曖昧にしたまま放置したり納得したりできない性なのだから、このまま突き進んでしまう他ない。誰かこの行路に付き合ってくれないだろうか…。しつこい質だけどね。



 自分を追い込んでみると書いたのだが、これこそエゴイストの考え方なのかもしれない。あまり追い込みすぎると、ストレスを周囲に見せ、周囲を巻き込んでしまう。そうなると、人は去っていくかもしれない。その意味で、わたしはあまり教員に適していないかもしれない。いや、それこそ過去の蓄積を大切にするということだったのだ。

 わたしの志はなんだったのか。わたしにとって成功とは。物事の本質に到達したいということがそうだとして、それは研究者でなければ不可能なのだろうか。多分そうではない。ただ、もう私は研究者しかない。いや、他の可能性もあるかもしれないが、もう少し先のことだろう…。

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読書という愉しみIV

 目の前で起きていることやそこから感じたことを文字にするということはどんなことだろうか。


 我々の内面にある無意識。こいつは、私たちの感覚やそれに基づく行動を左右してくれるのに、自覚されることはない。つまらぬ事をしてしまったりして後悔しても、無意識だから如何ともしがたい。ではどうしたらいいのか。

 無意識を理解してみたらどうだろうか。それは容易ならざることだったり、目を背けたくなることだったりするが、それ以外に手立てがあるだろうか。

 無意識を意識の俎板に上げて来るためにはどうしたらいいか。まず、言語で分析するということである。そして、これを行うには、やはり他者の言葉を参考にしつつ、自分の言葉を紡いでいくほかは無い。

 だから、本を読む。確かに、人と話したり、テレビを見たり、漫画を読むのも悪くは無いんだけれど、それでは決定的に不足している点がある。これらの画像に頼るメディアは、これらの間接体験を日常の直接体験となんら変わりないものにしてしまい、流れていってしまう恐れがあるということだ。作り手の意図を汲まなければ、読書もそれ以外も変わりは無いのだが、この画像に引き摺られない本というメディアは、確実に脳を鍛えてくれている。それがつまらなくてもなんでも、日常と同じように流してしまうことはないだろう。少なくとも読んだというのならば。読んだのか読まないのかの判断がまだ分かりやすい。

 もっと言えば、ある感情を持つ人について伝えたいとき、言語で説明するのか、映像で説明することの差を考えてみたらいい。まあ、何かに気づくということ自体は、そういう人の気持との出会いだから、どちらが高級とかそういうことだけではないのだけれど。でも、紙と鉛筆は一番低級かもしれない。

 とはいっても、分かるということの次の段階には、人の言葉だけで分かった気になって、さらに、まるで自分で考えたかのような気になるというのが控えているから気をつけねば。でも、人の言葉を剽窃していたって、それが腹から出ている言葉なら、独自じゃないなんて言いません。ただ、人の言葉を参考にはしても、自分で言葉を探すことの苦悩を知っている人のほうが、わたしは好きだな。

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幸せになりたい

 外界は必ずしも自分の思い通りにはならない。

 自由にならない他者なんて目も呉れず、自然を解釈し、うまく操ろうとしてきた。

 仕事がうまく行けば幸せ。それは外界を思うがままにした結果だから。

 人を操ろうとはあまり思わなかっただけましなのかもしれないが、本当だろうか。


 ああしなさい。こうしてはだめ。そういう教育を受け、育ってきた私にとって、その言葉は常に私の心の中に響いていた。そんな要求を斟酌してやってきた。これは、母親の子への愛だということは分かっていた。そういう戦略をとれば、幸せになれるんだという母の人生観だった。それを信じるほか無かった。まず、それがきっかけである。しかし、この人生観が意味するところはなにか問い直す時期に来ている。予め、述べておきたいが、それはきっかけに過ぎない。されど、きっかけである。

 幼い日、感覚的に思うがままに生きることは許されないと感じていた。その代わりに、外界との係わりにおいて、自分を規制していく振る舞いを見せ付けることによって、外界を自分の思うがままに制御したいという欲求が生まれたのかもしれない。これだけやっているんだからお前もしろよという押し付け、あるいは甘えが多少は許されてもいいだろうという感覚が芽生えていた。それは、もともと思い通りにならない外界を、少しでも思うがままにしたいという達成感の乏しい戦いであり、わたしを追い込むことになった。

 この息苦しさに周囲は辟易とするのは当然だ。確かに自らを規正してこだわっていくことは、ある意味においては立派なのだが、それを受け入れられる人は必ずしも多くないし、受け入れる必要も無い。だから、周囲は手放しで褒めるばかりで、わたしとの深い係わり合いを避けていたのかもしれない。しかし、浅はかで、成長したい、よりよく生きたいという欲求の強い子供には魅力的な戦略だと映ったりするかもしれない。危険なことではある。

 そうして、他者に受け入れられないと知ったわたしが次に取った戦略は、対峙している外界に息苦しさを撒き散らさず、わたしの内面に留めておくことであった。そうすれば、嫌がられることは無い。そのためにも、対人関係で出てしまう息苦しさをちらつかせて達成感を得るのではなく、対物関係で達成感を得るほうが、迷惑もかからなくて好都合に思えたのかもしれない。それ以来、私は自然科学者を目指して歩き始めた。しかし、そういう孤独な戦いに援軍は必要ない。却って、意思を挫く存在でしかなかったかもしれない。そうやって、孤独をありがたがっていた。その結果が今の私である。

 自己規制した人間にとって、世界を思うがままにするには、妄想の世界に逃げ出すか、自分の考えを変え、思うがままになりそうな事柄だけを自らの欲求であるかのように自らを錯覚させる必要がある。自然科学者を目指していたわたしは、そうして対人関係を深く理解する機会を失うことにした。そこに家族の問題が加わって拍車をかけた。研究者になりたいという自己完結度の高い欲求はとても好都合である。これは達成感が得られる一方で、到達する可能性も決して低くない目標であった。

 しかし、このことは世界を思うがままにしたのではなくて、自分を思うがままにしただけだった。あくまで、そんな社会に適合できる自分を生み出しただけであった。これは本末転倒である。結局、孤独に逃避したのと変わりなかった。

 ただし、このことと引き換えになにがしかを得たのは間違いない事実である。達成感とともにある喪失感に気づく。何かを手に入れると、今度は無いものが欲しくなるということなのかもしれない。あとは程度の問題になっていく。


 ところで、世界を思うがままにしたいという感覚が強すぎると、倒錯していない限りにおいて、多くの場合理想から来ている。このことは、達成可能性が低いほど幻惑されやすい命題になる。これはなにを意味するのか。例えば、これまで解かれていない数学の問題を解きたいという課題には確かにニーズがある。となれば、価値はある。それを分析し達成すれば、名誉が得られ達成感や多幸感も大きい。

 しかし、これは自分が幸せだと感じることの意味を、かなり限定的に捉えた考えかたになっているように思う。分析し、解釈し、自分を変化させることによって得られるなにか。それをありがたがる考え方に没頭して、それを絶対的な幸福だと考えるのはなぜか。

 そもそも幸福だと感じるときはどんなときだったか。うまいものを食ったとき。欲しいものが手に入ったとき。人を好きになったとき。このなかでも恋愛は、わたしにとっては大きな問題を抱えている。若い頃、愛は容易に手に入れられると錯覚していた面もある。しかし、私の恋愛は惨憺たるものだった。望めば手に入るのではないかと思っていたわたしは、容易に手に入らなさそうなものを常に望んだ。そして、叶わないことに悔しさを覚えつつも、孤独でいられることに安堵した。幼いときに、女の子との関係でいじめられたこともあって、人を好きになることがトラウマになっていた面もある。もっとも一般的な幸福感につながるこの可能性を、自ら絶っていた。他者との対比で得られる幸福感にのみ依存していた。人より何かが優れている。そんな優越感で幸福感の代償にしていた。

 さあ、ここから組み替えていかねば。で、どうやって?

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自転車

 30代も後半に入って、基礎代謝が落ちてきた。たるんできた腹を収めるためにも、運動しないといけないという気持が高まってきた。もともと運動が嫌いなわけではない。でも、基礎体力は日々の積み重ねだから、技ではカバーできない。そこを比較されるのが嫌なのだ。なまけものだから。

 一旦貯めてしまえばあまり目減りしないのが知識。古くてもまだ多少ごまかしが利く。それを得るために、ほかの事を犠牲にして戦ってきた。でも、一方でずっと続けないと維持できないのが基礎体力と流行に倣うこと。もともとこれらが不得手な私からすれば、そこで戦う意味は無いと思えた。特に、経済的に恵まれないと信じていたわたしには、流行を追うなんていうことは、とても縁の無いことに思えていた。

 でも、それだって結局のところ同じ。費やした時間に応じた「あがり」だけが手に入る。なまけものに福は無い。東北大の大橋力先生の話を放送大学の講義で聞いたことがある。芸能山城組を主宰するこの先生の講義は、とても意外で楽しいものだったが、T.クーンの「科学革命の原理」にもあるパラダイムという言葉をもっと敷衍して解釈していた。ある一連の知識を得るためには、一定の時間と経験が必要で、それを経ればその分野の知識の大半が手に入る。それは先端の者たちの共有する問題に肉薄できるということである。そのくらいは、数年かければ可能だろうということだ。

 では何に費やすのか。それはそれぞれの価値観だ。そして、そういう知識なり経験なりをどんな風に織り交ぜていくか。そうやって、頑張ったり、諦めたり、日々意味を求めて生きていく。


 そんな私が自転車を買ってみた。独りでできることが大きかったのかもしれない。パーツを始めとしてこだわれる余地があったからかもしれない。そんな理由はどうであれ、自分の感じることに素直に生きたらいいじゃないかと思っている自分に最近気づく。

 思えば、中学生の頃は自転車通学だった。高校のときは、さらに遠い駅まで自転車。自宅から片道20-30分くらい自転車を転がしていた。なだらかな土地だったので、自転車で疲れることなんて無かった。雨の日は嫌だったけど。

 私が今住んでいるのは関東平野の南西部に位置する丘だのが多い地域。自転車には向かない。昨日は、自宅からアップダウンの多い道を、息切れしながら登ったり下ったりしてみた。二時間くらいの行程。へろへろになりながら帰ってきて、情けなさと肉体疲労の喜びで複雑な気持を堪能することができた。

 精神的な疲労を楽しく思えず、肉体疲労が楽しいのはなぜだろうか。ほっとする感じ。このことも日常化したいものだ。

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無為自然と教育

 求められているにせよ、自立的に問いを立てたにせよ、明確な問題意識があったとき、我々は有効に時間を費やすことができていると感じる。大学に移って、すべき仕事を成すことを続けてはいるが、このことに意義を感じられていない自分に気づく。

 たくさんの学生を前に、彼らの仕事をサポートすることが、わたしの仕事でもある。また、あることを成したいと思う気持もあって、それを如何に進めるかが課題となっている。

 しかし、一方で、仕事とは違う、異なる価値観の下に生きたいという気持も沸々と私の底の方に滾っている。楽をしたいという気持かもしれない。そして、この気持のつまらなさを得心することができない自分に、情けない気持になる。

 でも、別に楽をしたいのじゃない。人と愛し合いたい。人の心を汲みたい。自転車に乗りたい。哲学を修めたい。精神心理を学びたい。数学的発見だって、結晶学だって。いろいろのことをしたい。

 これらの欲求を、どんな風に片付けていったらいいんだろう。片付ける?どうして片付けるんだ。今を楽しめていないって言うのか。片付けることに何の意味が?

 何かができているとか、できたとかいう感じにわたしは囚われすぎているのか。


 その意味では、教員としてのわたしの存在意義を確かめるように、今わたしはある。学生たちが求めているもの。それにすぐに応えてあげるべきなのか。応えてあげないべきなのか。人は他者に依存しているとばかり感じている以上、己の幸福など手に入らない。いつも、人の顔色を伺う人生なんて、たぶん幸福じゃない。だからその摂理の下、生きる覚悟を理解してもらうべきではないのか。

 例えば、言われるがままに授業に出る学生。その時間を如何に使うべきかについて自ら考えない。この敷かれたレールの上を盲目的に進んでいくこと。そのことで、この人生をし遂せるつもりなのだろうか。そんな覚悟があるんだろうか。そんなことから大学院にも来ているのに指導しなければならないなんて、世も末だと思いながら。

 先日参加した安全衛生に関するとあるセミナーでこう問われた。「会社が社員の労災を手当てするのはあたりまえだとしても、生活習慣病にまでケアをしなければならないのだろうか。どう思うか。」と。

 わたしは、こう答えた。「もし、社員の多くが生活習慣病になったら、利益が上がらないだろう。そうであるなら、ケアしなければならない。でも、わたしは個人的にはそれを望まないが。」と。そのあとの言葉を飲み込んでしまった。「他者に自分の大事なところまで握られているのはかなわないから。」

 組織に間借りて生きていくには、組織のためにも仕事をしなければならない。でも、ただ借りるだけなら、使い倒してもいい。組織ってなんだろう。これからは個人が主体的に動く時代になってきている。このことは私が望んでいるわけじゃない。そうなってきているんだ。一部の人に権限を与え、彼らが作る組織の傘の下に安住するやりかたで来た人たちが、未だに今の時代の感覚を捕まえていないって言うのはどうしたわけだ。相変わらず、古い組織への感覚で生き、振舞っている。そして、それを突かれると腹を立ててみたりするっていうのは。

 そしてそれを見て育つ若者たち。従順さ・忠実さに生きるなら、それを徹底化しなければ。表向きは従順なようでいて、その実は人の指示を無視する。人の気持が汲めていない。それでも学びなのか。そこにだけ自主性を都合よく使うことに無反省でいいのか。

 大学は今、変化の時期にあるとは思う。大きなお金を持っている研究室では、スタッフを余分に抱え、彼らの生き様を学生に見せることで、一応教育が成立している。学生たちは、仕事をして生きるということに、深刻に向き合っていない。それは彼らがしばしば行っているアルバイトでは培い得ないのだろうか。金を得るための作業に過ぎないと感じていて、その場を特に考えていないのなら、難しいだろう。


 学生の人気取りをしているような今のやりかたでは、本当に彼らのためになぞならないだろう。傍からはそうみえるかもしれないが、実はそんな気は無くて、彼らの心を知りたいと思っただけなのだ。そのためには、自分の心も開かなければならないと思った。その結果が今なのだ。

 しかし、必ずしも思い通りにはなっておらず、彼らは人に依存し生きていくことから、なかなか抜け出せない。というより、その依存から自主への道筋を捉え切れていない。では、どうしたらいいのか。

 彼らが自主的に考え、生きていくこと。これを成就するためには、各人の生き方の経緯によって、方法はたぶん異なるだろう。こうすればいいというような万能で安易な戦略は無いと思われる。人一人一人に対して、私の信念で持って、当たるしかない。心を無為にして、彼らの言葉に耳を傾け、振る舞いに注目する。それを自然に解釈して、わたしの信念と照らし合わせる。それによって生まれる思いのまま、進むのみなのかもしれない。

 しかし、何にしても、彼らが自分で進めたのだという気持。自主的に進めたという気持を大事にしてもらうこと。他者の介在でできたのだという気持ではなくて。

 以下、大村はま先生(国語教諭)の言葉。『全体に力を入れたのが民主主義のもととしての話し合いの指導です。ずっと気になっていたのは教えない教師のことです。生徒の自主性に任せるという建前で「読んでごらん」「話し合ってごらん」「調べてごらん」と指示はしますが、話し合いの仕方、調べ方は指導しない、教えない教師がほとんどです。テーマも「自由に選べ」と言いつつ、この子にはこういうテーマがいいのでは、という腹案を持っているのでなければ、総合的な学習の時間もうまくいかないでしょう。教えることを大切にしてほしいと思います。』

 多分、小中高でこんな教育を受けてきたら、今ここで、こんな指導をする必要なんてないんだろうけどな。効率重視ではないけど、物事には手順がある。できない人をできるようにするには、それなりの時間のかけ方があるものだ…。


 でも、なぜこんなに急かされなければならないのか。とにかく結果。そんなに急かされないと生きていけないというのか?それが大学の望みなら、企業のように特許が出せる仕事に執着したらいい。いい仕事をしたい。人から注目されたい。それが望みなのか。教育なんてものに時間や金は使えないと言うのか。

 こんな今、形而上学では役に立たないのか。如何に生きるか。如何に問うか。そんなことを問うてみても始まらないのか。

 こんなにがんじがらめで何に興味を持てと言うのか。もうわからなくなってしまっている。モチベーションが下がるのも詮無いことだ。

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2003-2004

 2003年から2004年へ。初夏に父を亡くした昨年の私のテーマは、「こころ」。ひっくり返しても埃のひとつ出なかったわたしが、愉しく生きるために必要なことだと気がつきながら、それを考えるんだという決意を持てなかった。それを改めようとしたこの半年で、何か変わったろうか。この年末年始に感じたことを書いてみた。


 伯母:母方の伯母は、数年前に脳梗塞で倒れ、半身が言うことを聞かない。杖を突いて、一歩一歩確かめるように歩く。当たり前のことが、当たり前ではないのだ。この年末年始に福島の片田舎から、電車を乗り継いで母の家にやってきた。3日ほど実家に帰っていた私は、近所の駅まで車で伯母を迎えにいく役を仰せつかった。正直に言うと、わたしはどきどきしていた。どう接したらいいのだろうか。どんな言葉を掛けたらいいのか分からなかった。しかし、余計なお節介だった。なにも変わらない。やっぱり伯母さんだった。
 とはいえ、伯母は以前健康だった頃とは、とても違った印象だった。日々済まないという気持で生きているようだった。そして、とても一生懸命だった。頼ったりせず、自分で全てを賄いたいようだった。それが彼女の自負心を満足させるのだろう。でも、親切にしてもらうことを恐れていなかった。そのことに、とても清々しい気持にさせられた。

 「考える人」(本):今なら哲学を考えられるんじゃないか。そう思えた。20代前半のころ、哲学・思想に嵌っていたことがある。カント・ヘーゲル・ニーチェ・ハイデガー。わたしは当時から悩み考えていた。そして、その問題が哲学的でないわけが無かった。だから、答えをその中に探しそうとして彼らの著作を読んでいた。でも、言葉が難しくて、自分の心に響かず、無論欲しいものは得られなかった。そして放擲した。
 そんなアプローチに意味は無いのだ。そのことを確信したのは、研究をするようになってから。自分で探求しなければ仕方ない。教えてもらおうなんて、与えてくれだなんて、虫が良すぎる。そう思えたら、哲学も見えてくるように思えた。この本は、それを再確認させてくれた。いよいよ諦めて放り投げてある「小論理学」でも引っ張り出すか。

 「機動戦士ガンダムIIIめぐりあい宇宙」(映画):久しぶりに情けないくらい涙を流してしまった。戦場と言う常に死に瀕した場で、彼らの生き様が先鋭化する。私たちはなんと悠長に日々生きているんだろう。彼らの緊張感が、私の心に突き刺さる。このアニメにはまっていた理由を再確認した。でも劇場版オリジナルのDVDが出てないって何故に故に。

 「HANA-BI」(映画):たけしの映画を首都圏地方民放TV局で、連夜に渡って流すようだ。しかし、この緊迫感はなんだろう。多分、ガンダムのそれと同じなんだよな。エンターテインメントとは違う。とても直截的だ。これがとてもよくわかるなんていうのは、ちょっと変なのかも。

 「ペイ・フォワード−可能の王国」(映画):通じ合う心を恐れていた。トレバーの言うことがとても心に響いた。同じだ。僕の言葉と。また、明け方に、涙を流してしまった。ラストの展開は賛否両論ありそうだけど、世の中思い通りに行かないことを示したかったんだろうね。でもそれも寂しいなあ。メッセージの素晴らしさに対して、映画としてはどうかな…。結局酔わせてくれず、現実感に引き戻されるのは。

 「キッズ・リターン」(映画):3つ見てようやく、たけしの映画って同じパターンなんだと気づく。愛を恐れた、孤独な男の話なんだ。「座頭市」も同じだもんな。学校に添えなくて、ボクシングにも添えなくて、やくざに。でも、どれもひとつの生き方だからなあ。そこで頑張れるのは単なる偶然なのか、行き場がなくなったときなのか。うちの学生にも、ほかに行き場がなさそうなのが居るなあ。逆に、ここが居場所じゃなさそうなのもいるけど。シビアだけど、これが現実だから。自分で考えて、自分で決めて欲しいけど、無理かな。きちんと知らせてあげるのもやさしさのように思うけど。関係ないけど、大村はま先生の言葉。『努力すれば、どんなことでもできる。…そういうことはないのです。努力してもできないことは、山のようにあるのです。』。でも、努力しているように見えないからな。しているなら言えるんだけど。

 「菊次郎の夏」(映画):4つめは、孤独な男の愛の物語。いよいよ、たけしの本領発揮なのかもしれない。感受性が高い人間は、喜びも悲しみも人一倍感じてしまう。少年は淡々としているものの、母を訪ねて叶わず、悲しみに落ちる。喜びは一過性で、悲しみは尾を引いてしまうのはなぜだろうか。人は喜びを求めても、悲しみを求めないからだろう。人は喜びを手に入れたあと、飽き足らず新しい喜びを求める。でも、悲しみにであうと、そこから逃げ出したい。だから人間関係で悲しみを覚えると、そこから孤独に向かってしまう。でも、人が気になって仕方がない。喜びを呉れるのもやはり人だから。菊次郎の夏は、孤独からの脱却だったのだろうか。

 「アメリ」(映画):理知的で孤独な女の子。世の人々の心を読み解き操る。皆が幸せになるように仕組んでいくのだが、最初はともかく、最終的には幸せなのかよく分からない。そんなお節介なんてどうでもいい。自分が人と正面から向き合うことを避けていることに気づく。自分の幸せは何なのか。やはり、これも孤独からの脱却なのかもしれない。


 わたしはなぜ、こんなに感受性が高いのだろう。無視していても構わないかも知れないことにまで、一々反応してしまう自分に気づく。果たして、これは幸運なことなのだろうか。ただ、そのお陰で濃密な時間を過ごしてきた気がする。ある友人は、わたしは人の2倍人生を生きているように見えると言った。それには、さまざまのイベントも関係しているんだが。

 いずれにしても、ひとつのことにしか打ち込めないわたしがいる。実は、大学に移る前から、こころへの傾倒が始まっていた。一仕事終え、研究とは違う、自分の内面の解体と露呈こそ、今後のテーマだと思っていたのだ。

 いま、研究に追い立てられているような気がしている。それは、わたしが二兎を追っているからだ。そのことは仕方が無い。こんな時期も必要だろう。でも、その覚悟が私に無いような気がする。

 研究室に入る前の数年間の葛藤の時間こそ、わたしのこころとの戦いだった。それに決着をつけないまま、仕事に没頭してきたが、そのことが、さまざまのかたちでツケとして残っている。今は、そのツケを取り返すときなのか。

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自らを問うということ

 以下は、就職して数年経った頃に書いた文章なのだが、読んでもらえるだろうか。



 世の中には完璧とまでは言わぬにしても、社会生活が円滑にできていると自覚している人と、周囲との関係で悩む人間がいるだろう。その原因が両親にあるのではないかと考えることがある。

 わたしも、後者のグループに属するものと自覚しており、実際に両親を責めた経験がある。両親の不仲を幼いころから感じていたわたしはなんとか仲良くしてもらおうと幼い子供なりの戦略として、「いい子」をずっと演じていた気がする。素直で言うことをよく聞く優等生であり続けようとしたのだ。そのストレスをどこで発散していたのかは分からない。優等生であることで紛らされていたのかもしれないが、その分無理をしていたことは疑いようも無い。

 両親が離婚するに至った大学一年の秋、わたしの決断は父親についていくことだった。母親の離婚したい、父親のそのまま続けたいという意向に対して、わたしは離婚するという母親の意向を認めた。しかし全て子供をつれていこうとする母親の考えには結局従わなかった。弟と妹は母に、わたしは父にそれぞれついていくことで、離婚は成立した。

 数年の間この決断についてわたしは自分を責めていた。社会的にも経済的にも安定な父親(とはいえ、父の勤める会社はそれまでに何度となく倒産の憂き目をみているのだ)の側を選んだのだと。確かにわたしは大学院にも進学したかったし、苗字がかわるのも嫌だった。そんな自分勝手な理由で、兄弟離れ離れになったこと、経済に傾いたこと。それが潔白であろうとする、つまりは優等生であろうとする自分には許せないことだったのだ。そのうえ母親には、裏切られた気持だという言葉ももらっている。離婚は両親の身勝手な行為だともいえたが、その決断をする前の母親の健康の悪化が、その重さを思わせた。それに比べてわたしの決断の安直なこと。それを責め続けたのである。研究室に所属するまでの二年半のあいだ、半分家に籠る生活を続けた。とにかく表に出ずに日がな読書と想念に耽った。そのことを他人に知られると責められる、とおびえていたのかも知れない。

 しかし、時の経過とは偉大なものだ。研究室に入れば、行かざるを得ない。ひさびさに優等生の本領発揮なのである。大学の研究室は、独りになるために仕事に耽ることが許される場である。そのスタイル自体が研究者の一側面であると考えられなくもない。社会に徐々に復帰しなければならないわたしにとって非常に適当な場だったのである。そのとき与えられたテーマが独りでおこなうものだったせいもあって、なんとか通いとおすことができた。その傾向は大学院に進学しても基本的には変わらなかった。こうして六年が過ぎた。

 流されるようにとある研究所に就職する。直ちに兵庫勤務となる。ここで恐れていたことが現実となるのである。他者への恐怖感を払拭できないまま、付き合いの悪い失礼な輩というらく印を押されてしまうのだ(今更の注:実際にどうだったかは定かではない)。研究所ではなく建設現場である現状にはそぐわないことは理解していたものの、ここまで辛いものだという理解はなかったのだ。

 そうして二年が過ぎようとする今、母原病に関するTV番組を見た。わたしはいま一つ越えられなかった父親選択の理由の源泉を、さらに確認することができた。その番組では母親と対立するある女性の苦悩が描かれた。その女性は母親が好きになれないと言う。信頼できないとも言う。わたしは、ずっと仲良くしていると思っていた母親を選択しなかった理由がどこにあったのか問い直すきっかけにすることができた。母親の存在をストレスに感じていた側面もあったのだと。物言わぬ父親を選んだ理由が単に経済でなく、優等生としての存在を恒久に求められ兼ねない、理屈っぽく正論ばかりを吐く母親から離れたいという気持が、わたしの底のほうにはあったのだろうと。このこと自体はすでに気づいていたのだが、そんな決断が人間としてどんな評価を受けるものなのかと不安なままこの数年間を過ごしてきたのだ。しかし、第三者の事例を客観的に見るに至って、ようやく安心させられたのかもしれない。

 そうしていると、また別のTV番組を見た。そこでは、なぜ「いい子」でなくてはならなかったのかをも問うていた。子供に殉じ兼ねない母親の生きかたに、自分もどこかで共鳴していたのではないか。自らの責任を果たさねばならないという精いっぱいの生きかたを選択せざるを得なかった母親に、反抗などできないという感覚が自らを「いい子」へ向かわせたのではないだろうか。

 その主人公は父親を責め続けていた。わたしの家庭では、最近、祖母が亡くなり、父はその葬儀の喪主を務めた。その折々の振舞や、そのとき連れて行った弟妹との会話(十数年振りであった)の端々に、わたしは苛立ちを覚えずにはいられなかった。一体どれほどの事態を、理解していると言うのか。この十数年の重みを、どう受け止めてよいのか分かっていないこの父親を、どうやっても理解できない存在なのかと、諦念さえも生まれかけていた。

 自然な生きかたができない。人々との関わりの中で、そういう感覚にときおりさいなまれる。そして、独りで居ることの安寧に簡単に引き戻される。

 幼少期に両親の愛情を感じることができなかった人間がこのように対人恐怖、神経症などの心理的な病に陥るケースが増えてきていると言われて久しい。わたしは両親の愛情を感じられなかった訳ではないが、それは明らかに社会構造の変化に対応しているものと考える(今更注:?)。

 わたしは自らを決定的に不幸な人間だと考えたりはしないが、自らを理解して貰いたいと言う欲求と、先に述べた自己嫌悪、他者に受け入れられないだろうという自己不審がわたしの心を引きさくのである。孤独は独りでいるときには滅多に感じられないものだ。集団のなかで、違和感から生じるものなのである。幾ら集団のなかでうまくことを運んだとしても、その空虚さと会話の無意味さに社会での関わり合いの虚しさを覚えてしまう。虚勢を張って生きなければならないような高みにまで登って来てしまったのだろうか。このように生きなければならないのだという重苦しさがいまだに挟まっているのである。それが独りでする仕事に自分を向かわせる理由なのである。


 その後、いくつかの本にであう機会があった。それは、この小篇を書いたときのように、中井久夫や辻邦生の著したものではなく、著名な日本画家、東山魁夷のエッセイであった。

 これまで、絵というものに持っていた感覚は、あまり明解なものではなかった。自分でも描いてみたいと思うこともないわけではなかったが、高々二人の画家への共感があったのみである。松本竣介のなにか得体の知れない清さと暗さ。安野光雅の規律正しさとやさしさ。こんないい加減な感覚で眺めていた。

 東山魁夷の絵への興味のきっかけもまたTVである。魁夷の詩的な画風を静かに伝えていた。このときは、「絵」というより、絵を題材としたドキュメンタリーとして興味を覚えたというのが正しいかもしれない。しかし、いずれにせよ、この番組によって、魁夷に導かれた。

 魁夷の絵は、ほとんどが風景画である。それは雄大な自然を描くということよりむしろ、人間と自然の距離、その緊張感のようなものを伝えているように感じる。確かに、雄大で手の届かないかのように思える自然に引かれている自分を、近年感じることが多くなったが、それは、決してただ雄大だというのではなく、人間の意志とは無関係に、しかし、常に傍らある自然に、憧れと恐れを感じてのことなのかもしれない。

 そうこうしながら、魁夷の画集を購入する。そして、その絵をたのしむとともに、巻末の評伝に、彼のひととなりを探ろうとする。

 そこには、美術評論家である岩崎吉一氏による解析が述べられていた。魁夷が、両親に愛されながらもふたりの間にあった確執に、こころ引き裂かれていたこと。ひとを愛することができる一方で、憎むこともできる人間の業。このことが、彼を孤独に向かわせたこと。云々。

 わたしは、この文章で目から鱗が落ちる思いだった。母原病という現代の問題として自分を分析しようとしていたのだが、そこには、違和感がすこしあった。両親に愛されていないという感覚はわたしにはなかった。すくなくとも、努力を続けることで、維持できるものだという感覚があった。本当は、私の両親のあいだにあったのも、私が考えていたほど大袈裟なものではなく、恒久的なものでもなく、ましてや絶対的なものでもなかったのかもしれない。が、当時のわたしには、そう感じられていた。そのずれがわたしを孤独に向かわせるのかも知れない。そう感じられるようになった。

 そして、魁夷自身のエッセイを入手した(今更注:「泉に聴く」講談社文芸文庫)。そこにあるのは、真摯な画家の視線であった。孤独な心を大事にしながら、静かにものごとを眺める姿勢があった。わたしは、魁夷のような偉大な人間ではないが、しかし、今のような生き方を続けていくことが決して無意ではないのだと感じられるようになった。そうは言っても、活発で社交的で他者のためになるような立派な生き方の強い意義に気押されて、憂鬱な気分になることがしばしばある。全人的なありかた、それをまだどこかで探っているのだろう。優等生的な生き方が、十数年の重みとして残ってしまっている。この厄介なわたしの部分とまだしばらく格闘しなければならない。真の安息を感じられるまで。



 この文章は、就職して数年経った頃に書いたものだ。今や、最初の段落の文章は次のように書き換えたい。

 世の中には、他者とかかわるための努力を惜しまずにできるが孤独に耐えられない人と、孤独に耐えられるために他者とのかかわりに努力できない人が居るようだ。

 いや、これでもまだ不足なような気がする。ただ、この元の文章で、充分この内容には沿っているように思う。

 そこでふと思う。他者が読んだらどちらでも構わないような自分に都合のよい文言を探すために、自分はこれまで生きてきたのだろうか。こんなふうに、理由ばかりつけて、わたしはやって来たのだが、そんな行為の意味自体を問い直すところに今至っている。

 つまり、問い続け、理由を手に入れることで、わたしは世の不条理を心から納得し、諦めることに成功していた。それは、特に人とのかかわりにおいて顕著だ。それは、自分の意思とは無関係に、世が流れているのだということの再確認であった。

 しかし、一方、研究者を続けてみれば、もちろん自然もそのようなものであって、決して意のままにはならないことに、すぐに気づく。結果や功名を焦る学生たちを眺めるにつけ、この事実を強く思う。

 それでは一体、わたしはどう生きるべきなのだろうか。諦めもせず、納得もせず、自分の意思のまま。それを実現するために必要なことは何だろう。

 いや、それはわたしはできていると思う。結果はまだ出ていないが。

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今更反抗期?

 ああ、また母を責めてしまった。正確に言うと、責めたわけではないんだけど、そう受け取られても仕方がない。


 とある資格を取ってこいという職場の命令で、清瀬にある研修所で 5日間の講習を受けることになった。宿泊も可能なのだが、せっかく実家の近くなのだからと、母の家から通うことにした。

 初日から食事の量が多くて参ってしまう。いつもの癖で、全部食べなきゃと思ってしまう。この一週間で2.5kg体重が増加してしまった…。試験に受からなければというプレッシャーとか、慣れない朝から晩まで座って人の話を聞くとかいうことに、とても疲れた。でも、これは精神的疲労・静的疲労というやつで、多分カロリー消費には結びつかない。

 そんなこんなで、いつもなら夜は孤独な時間を過ごすところなのだが、遅くまで話し込んでしまう。母は飲んでいないのだが、私はアルコールのせいで饒舌気味になっていた。

 正直に言って、母の話って面白くない。大体が職場の話で、それも、ただ自分の思いこみで話を構築していて、こうすべきなのになぜしないんだというような内容が多い。相手に聞かせようという配慮がなくて、自分の視点からの現象の解釈に終始している。

 まじめに聞かないで、本でも読みながら、適当に相槌を打っていれば良いというのならそうもするが、当然のごとく、そんなことがご所望の人なんていないだろう。だから、私も真剣に聞くし、そうなれば反論を述べたくなってくる。

 「あまり悩むのは時間の無駄で意味がない」と、私に常々言ってきた母には、私の苦悩の深さと、そこに費やした時間の重みがあまり良くわかっていない。私はその苦悩の過程で、自分や人間のつまらなさを論理的に徹底的に明らかにした。その結果、人の喋っている内容のうちでも、自分勝手な部分はすぐに気づく。論理的に破綻しているのに、自分の趣味嗜好でそれを埋めてしまって、当然だという感覚があることに気がついてしまうのだ。

 その感覚自体を悪いと思っているわけではない。結局、我々はそんな趣味嗜好で価値を決める場面も多い。自分が何を求めているかを決めるにあたって、その前提をどこに据えるのか。それは、前提自体に自分の趣味嗜好が入っている場合もあれば、前提から導かれる何かが自分の趣味嗜好に合うかどうかというやりかたで選ばれている場合もある。いずれにしても、それを選ぶ時点で、その人の恣意が含まれているのだが、多くの場合それは無意識的になされている。われわれの分野の実験なら、問題解決に当たって、ウエットな作戦でやるか、ドライな作戦にするかという判断も、一方が理にかなっているということではなく、単なる趣味嗜好が理由だったりするが、これもそれに該当する。

 それはそれで構わないのだが、それを人に説得するのは容易ではないことはわかるだろう。もちろん、今の場合は親子の会話なのだから、それを察してあげるのが、大人になった子供のすることなのかもしれないとは思う。

 しかし、申し訳ないが、それは母との会話ではそれは難しい。わたしは同じ轍を踏んでしまう。母の思い込みに問題があるだろうことや、そう思い込むならなぜそれを徹底しないのかとか。とあるベストセラー本に、女の会話は問題解決を期待しているのではなくて共感を求めているのだと書かれているのを思い出し、まあ、思いやりがない言葉をかけてしまったと気がつく。少々反省して、そんな言葉を述べてみるが、母は涙を流している。言い過ぎたかと反省するが、「今更反抗期なのかもしれない」と、慰めにもならないことを言ってみて、ごまかすことしかできなかった。

 ただ、問題はそれだけではないのだ。


 仕事の話であることもそうだが、それ以上に母の価値観や人生観を受け入れ切れていないから、わたしは母の話を率直に受け入れられていない。というより、母の人生観がわたしには良くわかっていない。親子なのに、こんなに離れてしまったのかと感じる。母が他者の価値観に寛容でないと思えてしまうところにあるのかもしれない。といって、母の生き方を否定するつもりはこれっぽっちもない。

 母は小さな会社で事務員をして、周囲にも評価されるような仕事振りで、場合によっては社長を叱責することもある厳しさで仕事に日々当たっている。しかし、帰ってくれば独り。数年来付き合っている彼とも、最近はあまり往来がないという。一体なにが望みなのだろうか。

 父の葬儀を喪主としてわたしがしたとき、母は自分の葬儀も僕がして欲しいと言ったことがあった。その話がこのときもあった。わたしは弟が責任を持ってやって欲しいと言ったが、それは了解はしつつも、納得できないようだった。

 両親の離婚に際した親権選択で、わたしは母を選ばなかったが、そのことを母はずっと重く考えていたように思う。もちろん、わたしにとっても重いことで、それについては他の文書を読んでいただければわかると思う。そのときに発せられた「裏切られた」という言葉には、わたしは深く傷ついた。もちろん、母を選ばなかったことが、母を傷つけたことはわかっている。しかし、誰も選ばないかもしれない父を蔑ろにしていいなんていう道理はない。

 この離婚の原因こそ、お互いの意思疎通と他者の価値観の受容ができないということであった。今の世の一般的な離婚原因でもあるのだろう。わたしの会話は、いつもそこに向かってしまう。だから、母には痛いだろう。それに反して、多分、母はわたしにすべてを受け入れて欲しいと思っているのだろう。そしてもっと言えば、父が亡くなった今、母を受け入れる不都合はなくなった。でも、多分母は、私との距離が以前よりもっと離れていることを感じているだろう。わたしもそうだから…。

 とはいっても、母は多分子供たちの中で私を一番愛している。母との同居の時間は一番短いかもしれないが、一番長く母を見てきたし、支えてもきたつもりだ。子らへの愛情に順番なんてないとは思うが、「ある意味」において、一番私を愛している。そのことは痛感している。もっと、母の気持ちを素直に聞いてあげたいという気がしてくる。


 何もかもを考えるということは、優しくないことなのだろうか。

 母は、わたしが引っ込み思案で、ナイーブな事を殊更問題視していたように思う。ことあるごとに、家から引っ張り出し、集団の中に投げ込んだ。地区の野球チームに入れ。運動部に入れ。ともかく、自分の信じる価値に自分を従わせようとした。

 しかし、母と違って、わたしは勉強の出来が良かった。このことは、母からするとあまり面白くなかったようだ。自分の家系には学のある人はいないこと、父の家系は優秀で裕福だなどと安易な分析をしていた。第一子のわたしが、父方に似ている事を指摘されると、そんなことはないと、懸命になって否定する母がいた。

 こんな母との関係を捉えなおしてみると、ある結果に至る。それを母に伝えると、母はそれは私の責任なのかという。

 母には、人の行為が、全てその人の責に帰すべきだと考えている節がある。自分はちゃんとしているから、人に責められることはないという論理で生活している。周囲からつけこまれない様な生き方をしていれば、それでいいという考え。だから、強弁である。人に厳しくも出来る。そして、結局は自分が否定されることが、我慢ならないのだ。これだけやっているんだから、一体何が駄目なのか。母に問うときには、頑張っている事を否定しているんじゃなくて、人の思いはそこで考慮されたのかという問いなのだ。頑張ったのだからという弁解は無意味だ。結果を重視しているというわけではない。その過程でも、周囲を見つめる必要はないのかということである。

 父に対しては、過去の問題をいつまでも引き合いに出し、責めていた。飲み屋で知り合ったよく知らない人に金を貸し、返ってこなかったこと。

 こうしなければ駄目なのだとかいう言い方の便利さに気付いていない。臨機応変ではない。その時々で必要なことは違う。

 弟が井戸で溺死したから、水泳はできないという。スポーツが得意なのに。飛行機は落ちるのが怖くて乗れないという。それなら、自動車の運転は大丈夫なのか。年間の死亡者数は交通事故のほうが多いのだ。そして健康食品にはこだわり、これをしなければ駄目だという。


 話が飛躍するが、父に成り代わって、母のような女性を受け入れてあげることが、私のすべきことなのかもしれないと思っている自分がいる。それは理屈のないことなのはわかっていて、それを否定しようとしている自分にも気づく。でも確かに、私の周囲にそんな風な人が数名居るんだよな。これが…。

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私の女性観III

 昨日から、どきどきするが空虚なものがわたしの心を占めている。これは不安なのだと感じていた。しかしどうやらそうではないようだ。立て続けに、3人の学生さんの心を踏みにじったような気がしてから、そして、その反動でなのか、自分の内面の空虚さが透けて見えてしまっている気がしてから、この心的状況にある。

 もうこれは対人関係とか、ましてや女性観とかなんだとか、そういったものとは無関係に、しかし、わたしが求めている安心感とスリルのせめぎあいに気づかされたということだったのかもしれない。そこに、やり残した仕事が気になっている意識もあって、そんな雑多なものがないまぜになった感覚に暫く囚われていた。

 しかし、我に返って、この虚しさと焦りはなんなのか分解してみると、膚接を恐れて生きていることの虚しさと、それを求めて焦っている自分に気がついた。この引き裂かれるような感じ。それは、ここで言っている安心感の問題より、ひとつ上の階層での問題だと思えた。

 だからなのか、わたしは、女性に色気を求めているように思える。それは、わたしの忌避してきた膚接への恐れと渇望の矛盾を一気に解消してくれる女神のように思えるからかもしれない。

 今やわたしは気がついた。第一義的にはなにを女性に求めているのか。これまでの嗜好を振り返ってみると合点がいく。結局、それは相手のことを思っているわけではなかった。第一印象なんて、思いやりから出ているわけではない。

 同居生活という仕事の側面において、どうやっていくかについては、問題なく進められるだろう。そんな場面での感情の制御はもう上手く出来るようになっているはずだから。だから、どんな人とでも、一緒に生活することはできるとは思っている。でも、それで満足というわけではないから、人と向き合うこともなく、現在に至っていた。

 こんな風に合点が行く以前から、自分の心に素直に生きてきていること自体に変わりはない。気に入らない人は振ったし、気に入った人には向かっていったが、なぜそうするのかわからなかった。わからないということは、確信にならないということだが、それがわたしが女性に没入できなかった原因でもある。でも、今や疑いなく進めるように思う。そうだ、そんな女性が好きだったのだ。その観点でもって、わたしは自分の女性観を組み立てる。それでもって、決断できるように思う。少なくとも今の時点では:-)

 そう思ったら、胸にわだかまっていたもやもやが、消えていた。周りからはエゴの塊だと思われるかもしれないが、致し方ない。許してもらうしかない。

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我が両親II

 対人関係における安全保障感の取り方における2つの方法について、中井久夫先生の本を読んで考えるようになった。 [参照:安心感]

 分析をしてみても、今更なのかもしれないが、今になってよくよく考えてみれば、母は安全保障感を膚接に依存し、父はそれを距離に依存する性質として考えられるのではないかと感じられる。

 母は、早くに父を亡くしたので、母からの愛のみを受けることになった。しかし、貧しい農村の片親という状況では、母からの愛を充分な時間受けることは叶わなかったろう。そして、末っ子だったことも影響しているかもしれない。だからこそ、得られなかった膚接を求めていたのかもしれない。

 一方父は、両親とも最近まで健在であった。そして、その父親は、仕事に忙しかったり、病に臥したりして、多分母親に子育ては任せきりだったと想像される。専業主婦だった母親に、一人目の男の子として愛情を注がれたのだろう。だからこそ、逆に距離を求めるようになったのではないか。

 そんな二人が惹かれあって結婚し、子供を生み育て、仕事をして家庭を養っていくというとき、一体どんなビジョンがあったのだろうか。

 自分の内面から来るそうした安全保障感を手に入れるための情動を抑えることが当時は必要だったろう。まだ、日本はそこまで豊かではなかったし、また、これまでの流れから、生活のゆとりに気づくこともなかったろうから。

 だとすれば、母の離婚への決断は、相対的にでも豊かさを手に入れたと感じたときの、自分を振り返るタイミングだったのだろう。それまでは、自分を見つめなおし、相手を見つめる余裕なんてなかったのだろう。そのためにも、自分の時間を確保したかったのかもしれない。

 勝手な妄想で話を作ってしまったが、人というのは一体何なのだろうか。心を手に入れたとて、虫けらと同じように決して自由ではないのだから。

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読書という愉しみII

 仕事に没頭することはとてもいいことだ。それは、得意不得意に関わらず、自分にさまざまの問題を降りかけてくれる。それに対面することで、自分が見えてくる。ああ、これが不得手で、これが嫌いなんだと。でも、そんなことを言って逃げていたら、仕事は進まない。

 一方、世の中にはさまざまの人が生き、さまざまの活動をしている。そんななか、その環境に応じた問題があり、それらの人々は日々それを解決しようとしている。わたしが解決できない問題に、彼らは日々向き合っている。その意味において、私は彼らに敬意を払うことが出来る。彼らなくして、われわれはないのだから。もちろんお互い様なのであるが。

 そんな普段出会えない彼らに会う愉しみ。それが本を読むということである。さまざまな分野で人が日々頑張っている。そのことを本音でさまざまに思いを巡らしているそんな本が嬉しい。それを教えてくれることが嬉しい。ジャンルは問わない。

 彼らが日々悩まされている問題は、自分の抱えているそれと表面上は違っても、本質的には何も変わっていないことを本は教えてくれる。私の才能がどうだとか、能力がどうだとか、環境が自分に合っているかどうかとか、そんなことではないのだと、教えてくれる。今居る場で頑張れない輩が、他所で出来るのだろうか。環境が自分を必要としてくれて、そのことに甘えられるような体験をしてしまうと、それが忘れられなくなって、自力で環境を開拓することを回避しようとしてしまうことがあるかもしれない。しかし、そこで逃げてしまったら、折角の機会を逃してしまうことになる。

 とにかく、もうちょっと頑張って楽しくなるようにしてみよう。失敗したって仕方ない。でも、とにかく手を尽くしてみよう。結果ばかり求められる社会に居すぎて、受験に成功してきた皆さんにとって、失敗はつらいことかもしれない。しかし、周りの年長者たちは、それを暖かく受け入れてあげなければならない。でも、年長者たちも結果を求められている。そのことを理解してあげて欲しい。みんな持ちつ持たれつ。自分だけ逃げようとしないで欲しい。みんなで一緒に戦っていればいい。そうすればそんなに大変なことではないから。

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読書という愉しみ

 幼い頃から本を読むのが好きだ。どうやら母親が読書好きにしたかったらしく、良く絵本を読んで聞かせてくれたらしい。本はわたしには特別なものではなく、常に傍らにあった。

 本は、わたしにとっては、言いなりになる他者のようなものだ。こんな付き合い方は、実際の人間関係ではありえない。書店でめぐり合って、家につれて帰る。興味が沸けば、溺愛するように。そして、別れを惜しむように、ゆっくりと読んでみたりもする。でも、少し会話してみて、つまらなければページを繰ることもなく、放っておくことの方が多いように思う。

 わたしの書棚には、そんな本が並んでいる。かなり付き合って、ページがくたびれている本より、きれいなまま出番を待っている本の方が多いかもしれない。しかし、彼らにはそれなりの思い入れでここに居てもらっている。本との出会いは、わたしの潜在的な問題意識に対応しているのだと思っている。いまはのめり込めない問題でも、いつしか考えたいというわたしの想いとの出会いである。その問題意識はいつも無意識の中にあるが、書棚の背表紙を見るたび意識に昇ってくる。そして、もう少し待っていて欲しいという気持ちになる。

 人間関係において、第一印象が薄く、気持ちが入れ込めないと、そのまま特に働きかけることもしない性向は、こんなところから来ているのかもしれない。というより、やはり、一人静かにお気に入りの本と向かい合っているのが好きなのだろうか。自分でもわからない。しかし、自分の趣味嗜好や理由のないこだわりを押し付けるような手合いは苦手である。対話によって自分の問題意識を見つめなおす機会を与えてくれる関係が好きだ。著者の主張にはそれほど期待していない。しかし、徹底的に問題を検討するような本に出会うととても嬉しくなる。そこには勝手な思い込みがなく、自分にも他者にも厳しく、そしてその意味で公平で、とてつもなく人に優しい。

 教育に必要なことの一つに、いろいろな人との出会いがあると思っている。この仕事では、気持ちの押し付けも多少は必要だ。しかし、わたしは気持ちを人に押し付けたくはない。その意味では、わたしに向いていないかもしれないのだが、なるべく誠実にやって行きたいために、やはり本を読む。

 わたしにとって本と出合うというのはこんなことだ。人の想いが凝集されている文章に、圧倒されることもなく、しかし耳を傾ける。そんな出会いがある限り、たくさんの本を手許に置くことだろう。

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心を見透(か)す―共感の拒否

 人は自分の内面にある感情の動きを察知されたとして、そのことをなんと思うだろうか。わたしはもう騙されない。これまでの習慣として、そういうことを隠しておきたいという感情が湧き上がらないわけではない。しかし、自分の内面にある本当の情動を隠し遂せたとしてなんだったのだろうか。これまで、隠すことを善しとして生きてきたのは、そういう意識のすべてが、わたしの基本的な部分を成し、それの一端が他者によって崩されるかもしれないと思え、そうすれば、調和が失われてしまうのではないかという危惧からであったように思われる。

 このことはしばしばわたしが見る夢と関連があるように思えてならない。しばしばといっても年に一度見るか見ないかなのだが、それは鮮烈なものだ。不安に満ち溢れ、じっとしていられない。かといって、動いてみても仕方がない。目が覚めてもその感覚は残っていて、心を締め付ける。何かはわからないが、わたしを成している要素の空間的配置がともかくも乱れている。それは途方もない数の要素が、見事に調和しているはずだったものである。その乱れようは、収拾がつかず、ただ途方に暮れ、嫌な汗を掻く。堪えられず、ベランダの塀をよじ登りかけて、父に止められたことがあった。(どうやら、これは一種のパニック障害なのかもしれない。ここ数年出くわしていないが、数年に1度の頻度で起きていた。神経が昂ぶりやすいわたしの性格を生理学的に説明できる事実かもしれない。)

 自己に沈潜し、自分の内面ばかり問うてきた十代も終わらんとする大学生のころから、三十代も半ばの今に至るこの十数年間の結果、気がついたことはなんであったろうか。仕事をするようになって実践が伴い始めて、私という自分個人に集中してきた意識を、外部にも向けることによって、結果的に自分という存在を制御できるようになったということであった。そして、その結果、立場としての責任には自覚しつつも、自分をよりよく顕したりすることに無縁だったわたしの内面にさえ残っていた恥と気位などの感情が、さらさらと流れて行くのを感じていた。すぐに押し付けられてくる社会的責任なぞ負う必要などないのではないかという放埓ささえ、内面に芽生えつつある。自分の意識としての他者への働きかけができているのであれば。

 自省の中から、確実にこの心情に至れるのかどうかはわからない。わたしの受けてきた教育は、母からのそれを除いて、公共サービスとして一般に受けられるものであるから、決して特殊なものではない。しかし、母は、わたしを育てるのに、多分相当のエネルギーを使った。そのことはとても感謝してもしたりないのだが、それにも合わせ、家庭環境や社会環境も大きく影響しているだろう。


 他者の心を洞察することはあまり意味がなかったのだろうか。わたしは、他者との関わりにおいてその点を注意し、それによってよりよく人と関われるのだと信じてきた。しかし、現実は異なっている。決して豊穣な関係を構築するには至っていない。少ない友人や身の回りの人々にもたらすものは決して少なくないと信じているのだが…。少ない共有時間から得られるものは少なく、深い理解に至れない。このため、他者を回避しているのは事実である。

 しかしながら、少しずつ変化しているのは間違いない。初対面の人が苦手な私でも、心のゆとりがあるときには、わたしは確実にそのような場を共有することを表面的には拒まなくなってきている。そして、心のゆとりは少しずつは増えてきている。

 しかし依然として、私は豊穣な人間関係を期待するのを止めてしまっている。というより、性急な(とわたしが感じる)関係構築に、内面的な精神不安を覚える。さらに、そのことを言下に否定されることは、わたしの精神を益々消沈させる。

 私は内面をしばしば語っていないだろうか。そう信じてきたつもりだった。しかし多分、わたしは客観的(?)な自己分析をしているだけで、内面には至っていないのだろう。内面を話しているつもりが、精神論になってしまっているようなのだ。その理由は、内面、つまり心の面を顕にしたとして、受け入れられないのではないかという不安があるから、つい一般化してしまった結果なのか。確かにそうだったかもしれないが、むしろ、もう、そのことに麻痺して、理解するということのみがわたしの生き様に反映され、心の面がなくなっていると思われるのだろうか。

 わたしと一回り違う若い学生たちの考え方とわれわれの世代の間に横たわっているものに気づかされる場面が多くなっている。われわれと言い切ることはあまり正しくなく、せいぜい私個人の考え方との比較なのだろうが、彼らの思考方法は、彼らがそのままで十分に存在価値があるという疑いのない自己意識の上になりたっているように見える。

 少なくともわたしが自省するとき、究極的には自分の存在価値がどこに見出されるかに到達して、そこで不安を覚えて終わってしまう。つまり、私の存在価値は私の中にはなく、周囲の中に分散してしまっていて、そのことを安心して先に進むことができていない。

 他者とか、システムとか、そういう自分以外の存在に対して、そしてその論理や価値判断に対して、彼らはたいして注意を払っていない。払わずとも、彼らは彼らの内面に不安になる要因を持ち合わせていないように思われてならない。彼らが落ち込むとしても、それは自分のありかたに問題があるという考え方ではなくて、周囲の価値基準に適合できなかったということに過ぎなかったりする。それはどう考えても豊かさのなせる業のように思われる。

 とはいえ、義務や責任という言葉が圧し掛かってきたら、彼らがどのように振舞うのか。それを見ていないうちには判断のしようがない。彼らの内面をそういう社会的な圧力が占めるようになったときに、変わるのだろうか。しかし、わたしの十二年前はそうではなかったように感じてならない。


 どうして心を開かないのかと周りがわたしに向かって言う。心を開くとはどういうことなのだろうかがわからない。酒を飲んではしゃぐことが内面をあらわしていることだというのか。わたしは充分本音が出ていると思うのだが。その本音とはなに?そのことの意味がわからない。そもそも、そのようなものが現れていても、人が人を理解するということが容易であるという発想自体がわたしには想像できない。また、一方で、内面に去来している部分を表にしてしまうと、作っている調和が乱れるような気がしているのはどうしてか。

 不思議なことに母との会話はいつも仕事の話になる。如何に仕事をし遂せるか、そのために必要なことはこんなことであるといったことなど。だから、時間を共有したいという欲求よりは、そのような議論をしたいという気持ちが先行してしまっているのかもしれない。ほとんど、母の肩肘を張って生きていくようなやり方の側面にしか気づかなかった結果、仕事ばかりが前に立って、心の往還についての時間の意義を失っていた。そんな私がようやくたどり着いたのは、

 「人にわかって貰いたいと思う気持ちとは裏腹に、人をわかってあげられない自分に気づく。」

 ということであり、人の理解に際して、この根源的な問題を意識することこそ、まず他者と本音で向き合う第一歩であるような気がしている。そして、この意識から、幾つかの戦略がとられていくことになり、その人の色合いを決めて行く。しかし、このことに気づくと、意識が過剰になって、次なる問題が発生してくる。

 「よりよく人にわかってほしい。よりよく人に伝えたい。」

 この結果、もがき苦しむことになる。辻邦生先生はある本のなかで自分に課した「絶えず書く」という作業を、次のように言っている。

 『…自分の考えたこと、感じたことを、過不足ない、正確な形で表現する能力を手に入れる… しかし、文章と思考内容のずれ、離反ということはつねに起こるし、装飾過剰な文章も存在する以上、文章がそのまま思念とぴったり合致することのほうが、書く側としては、むしろ困難な仕事であるはずであった。したがって、「絶えず書く」とは、意識的に文章への関心を放棄し、ただ思念を純粋に全的に表わす行為として私の前に現れてきたのである。』

 ふつふつと沸いてきた思念の一部を隠蔽する作業を、わたしは長年にわたってしてきたのは間違いなかった。しかし、それを取り戻すように、この十数年来、文章として吐き出してきた。それはなにかまとまったものを書くなどという行為ではなく、また、人に理解して貰うと言うことでもなく、本当に抉り出し、切り取り、裁断し、排泄するようなものだった。その結果、わたしの心に固着していたネガティブな要素が少しずつ洗い流されているのを感じ、考え方次第でどのようなあり方も執れるのではないかという意識が芽生えつつある。

 しかし、この抉り出したものを再度眺めてみて感じるのは、それ自体決して論理的に無矛盾に行為に帰着できるような種のものではなく、これまでも考え方次第であったということである。考え方というような物ではなく、感じ方という未熟なものなのだ。かなりの度合いにおいて、独り善がりであって、他者に理解できるような思索とは違っていた。そのことに、愕然としてしまっている。そして、次の段階なのか、日記のように書いて垂れ流しておける種のものとは違うものを書こうとしていることに今気がつかされている。


 私にとってテレビやウェブ、本のような間接的な方法くらいしか、積極的に情報を集める手立て(もちろん、お仕事関係は除くが)はない。今日も、ふと、とあるわたしと同い年くらいの大学の先生が書いているページを眺めていると、田口ランディという作家(?)の書評が目に入る。

 その先生は、この人のぬるさを指摘しているのだが、その文言の一言一言が、私の生き方を批判するように突き刺さる。もちろんわたしは作家ではないのではあるが…。ともかく、以下に一部を引用する。

 『切羽詰った感じの文は、なにか女性の悩みや焦燥と共振するみたいで、思春期から30代の女性が激しく共感するものがあるようだ。(したがって悩む若者に勧める。)この方のメールマガジンはかなり多くの人が読んでいるが、私の印象ではあたりはずれが多い。ご自身の人生や、亡くなった兄など家族のことについての内省や、知り合ったり見かけたりした普通ではない人のことはとても興味深く、面白い。しかし、ムリに心理・精神分析的にまとめようとしたり、逆にニューズについて結局はなんだかよくわからない、という終わり方をすることがあるのはどうかと思う。』

 『明らかに世の中は変化して、簡単に理解できない状態になっているのに、そのことに自身がぼんやりとしか感じていないようだし、「うまく言葉にできない・・・」「なんて言ったらいいかわからない」と書くことが多くあきらめていることがあるような気がする。田口氏は「自分が今幸せで、のうのうと生きてられるから、そんなこと言っていられる」んだと意見を言われるそうで、それに対して「でもね、たとえば私の兄は自殺をしてるんです・・・」と言うのだが、その意見自体に対してはまともに反論していない。(寺門・田口「こころのひみつ」メディアファクトリー、p.80-81)田口氏自身は、いろいろと悩んで苦労して、結局は幸せにたどり着いた。』

 この先生は、それではぬるいから、もっと突っ込んで、苦悩から脱出する具体的な方法論を提示してあげないといけないと仰る。しかし、この本を読みもせずになにか言うのは恐縮だが、既に方法はこの文章に示されているように思えてならない。さらに、この先生は『で、「自分の役割を担ったら、あとは傲慢に生きていい」と気づいて気が楽になったという。』という文章を引用しているが、これこそが、最終的な方法論であると言うのでは駄目なのだろうか。

 最近の若者たちは、私たちも含めて、親の世代の大半より、考え方と言うものを学んでいるような気がする。世代論を云々するのはあわないかも知れないが、濃厚な人間関係から希薄な人間関係に移りつつある現代において、しかし人とのつながりを意識しなくてはいけないのではないかという狭間に立たされたわれわれの生き方が、最終的に「役割」を担うことのあとは、希薄さに身を委ねて構わないとする。それ以前の苦悩は、無理に濃厚な人間関係を構築しなくては生きていけないのではないかという、あくまで前世代を引きずった形式的なあり方に対して、現実に空虚な関係においてどうしたらいいのかという問いであったのだと思えてならない。

 またこの先生は、『子どもを捨てて駆け落ちするなど、長い人生を自分のために生きてこられた瀬戸内寂聴さんが、晩年となられた今は人助けに残りの人生をかけていらっしゃることについては、どう思うのだろう。』と書いて、人のために生きることの大切さを説いていらっしゃる。さらに、『他人を幸せにしたいと思うことは傲慢だ、と田口氏はいう。』と、いう言葉を追加して、その差を強調している。

 この辺は、どうしてそのような温度差があるのかという問いになってしまう。わたしもそうなのだが、両親の離婚を経て今に至った結果、田口氏の言葉に共鳴できるような気がする。結局、一人で悩みぬいた挙句(もちろん、いろいろの方に相談に乗っていただいたが)に到達したのは、瀬戸内さんの「自己から他者へ」とは逆の、「他者から自己へ」の流れであった。とはいえ、いつも中心は自己にあるのだから、単なる逆と言うわけではなくて様相は少し違っている。価値観を押し付けられる他者に、頭でっかちになってしまった考えることを強いられて育ったわれわれにはもう反論の余地はなく、幼い頃から理性的に屈服させられてしまっていた。しかし、一時代前なら、それとは少し離れて未開拓な現実があって、それを実現していくという行為によって、彼らは自らを生きてきたのではないか。われわれにある、もう残された独自性はないという諦念が、すでにほとんどが用意されてしまっている現実とあわせて突きつけられているように思えてならない。

 その後、いろいろなコメントがこの人に対してあるのを知る。まあ、そんなことはどうでもいいのだが。そのうち、本を読んでみよう。


 わたしは両親に愛された。そして、弟妹を押しのけてそれを獲得することにも執着してきたように思う。それには、家庭が安心できるような雰囲気ではなかったような気がしてならなかったことも関係しているかもしれない。突発的な両親の不仲や最終的には離婚の前後の諍いが、恒常的にずっとそうだったということではなかったかもしれないが、強く心に残ってしまっている。だから、常に安定的な関係をついつい身近に求めてしまっているのだが、その戦略はあくまで個別の関係構築によって、そこに到達しようというものである。それは子供ながらの自己中心的な構図であって、私を介してしかつながらない他者がつながることに、喜びを感じる自分に気づく。鎹(かすがい)としての子なのである。それは社会に出てからも変わらない。中間管理職にとっては、職場の人間関係を如何にして良好に保つかが、関心事のひとつになると思うが、結局、この方法論ではすべての関係を掌握しておこうと言う傲慢さにつながっていく。関係の場が以前からそこにあるのなら、われわれはそれに身を委ねるのだが、その場の感覚が薄らいでいるところに、関係性は自ら構築せねばならないという決意が必要になる。その結果、関係が必要以上にクローズアップされ、生きるうえで欠くことのできない、人生でもっとも重要な課題であるかのような印象を持ってしまっている。それへの反語として、他者を幸せにしたいことは傲慢であり、役割を任じさえすれば関係性を果たしたと考えたいという言葉が出てくるのではないだろうか。人を幸せにする?どうやって?と考えてしまうのは、多分、わたしだけの問題ではなく、この種の経験が作り出したものなのだと思える。結局苦悩の挙句に到達した幸福感は、役割を任じたからOKだと考える自立の結果生じたもので、もう共感ではなくなってしまっているのだ。共感を諦めることでようやく到達したのである。

 両親に愛されたという事実を否定できない自分がいるが、その「愛され方」については、あまり丁寧に考えていなかった。あるページの書評に次のような引用があった。土居健郎『土居健郎選集3精神分析について』(岩波書店、2000年)。

 「それでも私は、『こころ』の「先生」が投げかける問題はわれわれすべてにとって意味があると思う。それは特にわれわれ日本人にとって重要であろう。われわれは「甘える」ことはしっているが「愛する」ことを知らない。いや「愛する」こととは「甘えさせる」ことだと思っている。ところで「甘える」ことは知っているが、真に「愛する」ことを知らない人物が、精神的自由と独立の問題にぶつかるとき、精神病と境する孤独に陥ることを『こころ』は教えているのである。もっともここで問題をさらに一歩つき進めることもできる。「先生」がつまずいたのは、ただ「愛する」ことを知らなかったというだけではなく、真に人格的に「愛される」という体験を持たなかったからではないのか。この体験が欠如しているからこそ、「先生」は「愛する」ことができなかったのではなかろうか。」

 「人格的に」愛される体験という言葉の意味が、わたしに突き刺さる。親が子を愛するというとき、それは一体何なのだろうか。どうやら母は、わたしに自立して欲しかったらしいが、自立できなければ愛せないということではなかったか。もちろん、自分が死して後、子が人生で立ち往生することを恐れ、一人で生きられるようにしてくれたのかもしれない。しかし、結局それは、わたしがどんな生き方をするにしても、「自立」を避けて通れないことを意味する。理路整然とした母の叱り方に、わたしは全人格を否定されたようなとても寂しい思いをしたものである。わたしは、わたしの人格を、母の気の向くようにしなければならなかった。そうしなければ受け入れられず、さりとて、受け入れないという選択肢を取れるほどの勇気もなければ、孤独な母を見放すこともできなかった。その意味で、わたしは、母を超えなければならないと思う。未だに、そんな母の価値観に引っ張りまわされているように感じる。

 小学校教諭の露木和男先生の言葉『授業こそが、唯一、教師が成長できる場である。授業で勝負、というのは斎藤喜博先生の言葉であったが、授業で「勝負」などしなくてもいい、他人と比べることもない、教師は目の前の子どもに心から共感し、共に歩むことで教師は成長できるのである。』『子どもの「こころ」の声を聞く。今、何が必要なのかが見えてくる。子どもの「こころ」が集まれば、そこに無数の関係が生まれてくる。複雑になればなるほど、そこに新しい関係が生まれる。子どもの「こころ」は、あたかも生き物の生態系のように、競争関係も含めて、互いにつながり助け合い補い合う関係が生まれる。』『子どもが学校で学ぶ意味は、将来のために知識や能力を貯えることではない。仲間の中で互いにかかわりながら、価値ある活動に参加し、世界とつながり仲間とつながり、そして、自分らしさを見つけていくことに意味がある。』『そして、結果として、見出した自分の知識や能力が生かされることを無上の喜びとする生き方を見つけることである。』『人間の素晴らしさは、こまやかな美しさに感動したり想像力を駆使し、文化や芸術を育んできたことである。そして、心豊かに自然や文化を慈しんできたことである。教育が、文化の伝達とともに創造をめざす営みであるならば、その根本において、仲間を思いやり自然や文化への愛を大切にしなければならない。』

 これとは違い、やはり国語教諭の大村はま先生の言葉は『自立』がキーワードであった。これは、彼女が苦学して教員になったときの、女性の自立への強い信念が作用したものと思われる。それは価値があるし、立派だとは思うが、あくまで個人的な信念である。こういった何かに固執する生き方が、個性を生むのかもしれない。そして、そんな個性が融和しあって、社会を形成していく。

 さまざまな人が、それぞれの個性を発揮して、一見勝手に見える事をして生きている。平和にやりたいと思うが、個性を公共性に変え、それを大義名分にして人に強要する人もいる。それに反論したり、それがもとでけんかになったり、それも勝手なことなのだろう。優しさを価値にしたり、勝ち続けることが価値だったり、そんなそれぞれが、それぞれとして生かしてもらえる世界というもの。そんな世界を、自分の自由にならないものとして理解するだけでは寂しいかもしれない。

 人を愛し愛されるということの意味は、それではなんなのか。土居先生の『こころ』に関する記述を見、自分の体験と重ね合わせ、それではどうしたらいいのかと問いたくなっている自分に気付く。すべてをフルに動員して生きて行きたい。そういう欲求が空回りしている。自立も依存も。愛し愛されることも。大事なところを握られていない感じ。自由な精神を持って生きていくこと。それを


 人間関係の場が自分にとって違和感なく感じられるために、どのような考え方を取っていったらいいのか。これまでのわたしの人生は、他者との心の往還がないまま進んできている。形式的で、合理的という言葉で表現されてしまう生き方がすべてになっている。家族の関係であっても、長男として家庭を支えていかねばならないという強い責任感があった。

 甘えは許されず、疾うに諦めていた。素直な感情を出すと、叱られることもあった。あなたは長男なのだから、我慢して譲りなさいなどなど。弟とけんかして、腹の立つことがあっても、どちらが正当かなどは問われず、お前が悪いと言われた。

 欲しいものをねだっても買ってもらえないから物を手に入れることに躊躇するようになっていた。でもほしいものだってあるので、そのときは作戦が必要だった。高校に受かったときにPCを買ってもらったときには、中学生の頃からPCの本を小遣いで買ってきて勉強していたのだ。そして、これはゲームやおもちゃではなく、今後とても重要なものになっていくのだと、直接言わなくても伝わるようにしていた。

 だから、家庭では自分の素直な心が受け入れられていたという気持ちは薄かった。それは学校においても同じだった。人に頼り甘えることはできない。だから諦める。そういうスタンスだった。それを納得するために理屈で動いていた。黙していて、ただ着実に物事を進めていた。それによって受け入れられるんだと信じていた。人はそういうものだと。だから、できなくても短期で諦めることはなかった。そうしなければ、受け入れられないんだと思っていた。

 もちろん、他の人たちはそうではなかった。楽しそうに心のうちを明かしている。着実でもなければ、持ちうる能力だけで生きていた。あまり考えていないようだった。僕はそれができなかったが、そのことが他者や他所の家庭と違っていても、それは関係のないことだった。そう説教もされた。とにかく、望んでもそれが理由で受け入れられないことが多かったから、諦めていた。

 今更そのことを蒸し返して、親を責めるつもりはない。実際親はそうしなければやっていけなかったろうし、彼らも昔の生活との対比で生きている。彼らにしてみれば、充分豊かな生活だったから。この不満は、子供の相対的な感情に過ぎない。しかし、満たされなかったのは物欲だけではなかった。

 そうやってわたしなりの考えで対処してきたわけであるが、的確な支援もなくかなり心が矮小になっていたように思う。母の理屈に答えるために、思考回路を組み立てていった。理屈で固めた人との関係。ぎこちないそんな気持ちも、人前に出て慣れていって、上手く演じることができるようになっていった。気がつくと、それが私の本心だったかのようになっていた。

 しかし、今になって、そんなに心を隠して、自分を前面に出すことなく、本当に人と関わることはできないことに気づく。講義でも学生実験でも、指導するときには、そんな理屈だけで押し通せない。私は、押し通されてきていたが、それでも納得しきっていたわけではなかった。


 とある学生が将来について悩んでいるようだ。就職か進学か。それだけではない。家庭の問題も含まれてしまっている。あまりそれにコメントしても始まらないかもしれないが、わたしの経験を語って、自らほじくってみることを促す。

 とはいえ、なんだか、何かを彼らに伝えようという気持ちが勝ってしまっていて、本当に伝わっているのかどうかわからない。今、目の前の仕事を片付けることに汲々としているつもりでも、実際にはそれはできていない。そんな怠惰な日常を晒して、彼らに何を伝えるというのか。言葉ばかりの虚しいメッセージが、宙に浮いてしまっている。

 私だって、迷いの中にある。でも、それを押し殺して、孤独に戦ってしまっている。そして、援軍があれば容易になるかもしれないその戦いに、日々敗北してしまっている。

 彼らの欲求を満たすことが大切なわけでもないし、まして、僕の欲求を満たすことでもない。それが適当に混じり合ったところに、係わり合いの喜びがあるはずなのに、そこが見えてこない。

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異動、環境変化

 これまでわたしは人の厚意に甘えていたような気がします。人の与えてくれた環境の中で、仕事をしてきました。これまでも、施設運営業務に身の入らないことが多々ありました。自分のやりたいことでないから、それはそれで構わないと考えていました。しかし、それならば、自身で段取りをして、実行しなくてはならないのですよね。本当なら、そんな環境の中から自分の果たせるべき責任を、楽しくできるようにして、次の展開を探るのが一番自然なことのように思いますが、正直言ってここでそれができませんでした。新しい施設を作りたいと思えないし、それを使った新しいサイエンスの展開を創造することもできなかった。

 こんな輩で、大学の先生が本当に勤まるでしょうか?自信がなかなか持てません。人間として弱いのだと思います。この分野で理論的な仕事をなどと大それたことをしたいと思いながら、至らない自分に気が付きます。そこまで現実に集中できていません。一生懸命研究に打ち込みたいと思っても、課題が大きすぎて敵わないような気もしていて、気が萎えてきてしまいます。

 もうそろそろ状況を変えたいという気持ちはありました。それで、留学を申し出たということもあります。なかなか相談できる人も居ず、もやもやしていても施設は運転しています。気にならないと言いながら、ユーザーに使いにくいと言われればなんとかしなくてはと思ったりもし、それについて思いを致したりします。

 私はあまりに無駄な時間を使いすぎているような気がしています。そんな余裕があるなら、前に進んでしまえ!という気力がとても弱いのです。というより他人の目が気になりすぎている。自分がこれでいいと思ったら、それに向かって進んでいく勇気がないのですね。欲しいものがあるなら手に入れようじゃないか。でも、そんなものを欲すれば、人にとやかくいわれるのじゃないか。そんなことばかり考えているから、前に進めないんですね。その根底にあるのは、支持されなければ終わってしまうんじゃないかという不安なのです。なんとなくでも支持していれば、そこからの恩恵は受けられるでしょう。でも、それではその枠を超えられない。

 ではどうしたらいいのでしょうかね。自立するということは、支持者をなるべく多く用意できるということのような気がします。年上でも、年下でも、同期でも年齢に関係なく、そして職種などに関係なく、支持してもらえる人を増やすということでしょうか。でなければ孤高の人になってしまう。

 そのためには、わたしの仕事を支持してくれる人を探すしかないのでしょうか。それと同時に、自分が支持できる人を明確にしていくということでしょうか。人脈というか、派閥というか、そういうものが必要悪のように言われますが、そのなりたちはそもそもなんなのだろうかと考えます。派閥のもたらす恩恵にばかり注目すると、さまざまの硬直化した形に変容してしまいますが、それが現実なのかもしれません。

 派閥に擦り寄って生きていくのではなくて、いい仕事をしているということで親近感を得、新たな展開を見つけていく。そういう形を取れればいいんでしょうね。

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我が両親

 亡くなる2年ほど前、還暦を迎えた父と道東に旅行した。出張などでは行ったことがあるがゆっくり旅してみたいという父の要望に従い、羽田から釧路に飛び、レンタカーで釧路から根室、知床、網走、サロマ、北見、阿寒、摩周、川湯温泉と回る旅を漠然と考え、お盆も過ぎた8月16日から19日の旅程で出発した。

 その一年前、父に先んじて、母と宮島に旅したことがある。紅葉を当て込んで、シーズンを狙って行ったのだが、暖冬の影響で緑も美しいモミジを眺めるに留まった。内容はともかくも、いい大人になってから両親を見つめなおす機会として、この2つの旅行は大きな意味があったように思う。

 自立した人間として共に旅したわたしには、すでに両親の言葉は強制力を持たなくなっていた。客観的に見て不合理であれば、受け入れることもない。子供のころは、精神的にも経済的にも自立していなかったから、両親の言葉をことさら重く受け止めていた。


 わたしの両親は、わたしが大学に合格後半年して、離婚した。母は機会を伺っていたようで、わたしが大学に入ると程なく体調を崩し、数ヶ月寝込んでしまう。どうやら、決断をしたものかどうかで心的に病み、心因性の体調不良が現れたのである。

 予兆は何度となくあった。聞き分けのいい、優等生のわたしは、母にとっては便利な子供であったろう。家庭を顧みない父は、母にまかせっきりで、ろくに会話をしようとしなかった。それが亭主関白というものなのかどうかわからない。勝手に借金をしてきたり、人に金を貸して返ってこなかったり。そんな愚痴を小さい時分から聞かされていた。母は、そんなに悪口を言ったかなととぼけているが、両親なしで生活できるはずもない(と考えていた自立していない)わたしには、その言葉は重く感じられていた。両親がけんかしているだろう雰囲気を微妙にも感じ取ってしまうナイーブなわたしには、その間に挟まったような感覚から逃れることができず、気が落ち着かないことがしばしばあったことを記憶している。母は自分なりに、そういった感情を整理しようと努めていたのだと思うが、日々の積み重ねは、着実に決断へ向かわせていたのだと思う。

 母はそれにめげず、自活の道を模索していた。主婦にとっては、子供くらいしか相手も居らず、特に末の妹は当時まだ小学生だった。しかし、家のローンに追われるようになって、いよいよ外に勤めに出るようになった。こうすれば、父もうちで何もしないではいられないだろうという計算と、もうひとつの可能性を探っておくことの両面があったように思う。そして、家庭の外に生き甲斐を見つけること。これは、とても重要なことであったろう。聞き分けの良い子供たちは、母が仕事に出ることにも協力的で、交代で飯炊き・風呂の準備・後片付けなどを分担していた。

 一方、わたしは勉強に興味を持っていた。勉強で成果が上がれば、両親は喜んでくれた。決して、勉強をしろなどと、急き立てられたりされなかったので、あくまでもその意欲は自主的なのだが、幼いころの無目標な勉強への意識(うちで勉強したわけではないが学校では集中していた)は、そんな両親の振る舞いも多少なりとも影響していたのではないかと振り返って思う。

 わたしの大学合格後、母が勤めに出ても協力的でなかった父も、母の体調不良によって、さすがに変貌しつつあった。これで改善の道がと甘くも思ったりした。しかし、結局、寝込んでから数ヵ月後、母は離婚を切り出した。勤めに出ても変われなかった父に、期待はできないというのが結論だったのだろう。それからの数日は修羅場であった。父は、悔し紛れか男がどうのと言っていたが、多分、そんなことはなかったろう。


 その後、母の兄や姉の協力で父は離婚届に判を押した。そこから、わたしの決断が迫られた。どちらを選択するのかという、理不尽なものである。わたしは、さまざまの要因を考え、またそれを理由にして父を選んだ。そして、その選択を原因として引きこもることになる。なぜ、経済的に弱者になる母を選ばなかったのかを責められると感じていたのである。

 わたしはもう大学生であり、自分でものを考えることができるようになっていた。この選択はあまりに辛かった。しかし、自分の将来にとって有利なことを考えた。研究者になりたいというわたしの考えは、ゆるぎなかった。中学生の頃から、研究者に憧れ、それを目指してきたのである。両親のエゴに巻き込まれることを恨んでいた。だからこそこちらもエゴでもって決断していいのではないかと思った。経済は重要な問題であった。そして、わたしは父を嫌う理由はなにもなかった。そうやって、わたしは選んでいた。

 そこからわたしの苦悩の日々が始まった。いつ誰に責められるだろうという不安が高まり、人と話をしたくなかった。本当はわかってほしいから、話したくて仕方ない。でも、核心に迫ると、否定されかねない。心を占めているのは、この問題だから、他の会話などできなかった。一度、友人に事情を話したことがあったが、あまり説明が丁寧でなかったのか、理解してもらえなかった。そうやって、どんどん心を閉ざしていった。理系だから、実験は出なくてはならない。その日は、仕方なく出席した。講義なら自分で勉強すればいいと思った。研究者になりたいのだから、勉強をしたい気持ちはあった。そして、勉強がてら、俄仕込みの精神分析で、自分の心を分析していた。

 家に引きこもっていたとき、罪滅ぼしという意識で、父の養育費の支払いを促したり、自分の小遣いを取り崩して弟や妹に施したこともあった。必死でわたしの選択が過ちでないことを示したかった。しかし、それがエゴから来ている以上、そんなことを示すのは不可能で、考えて精神を回復することは困難だった。

 しかし、わたしはタフでいい加減なものだった。そんな状況に置かれても、最終的には自分に都合のよいように解釈し、生きていく。しかし、わたしのこの状況を積極的に救ってくれる人は誰もなかった。これを皆に説明しているわけではないのだから無理な話である。また、自分で招いたこの自分の状況を誰かに救ってもらおうという気はなかった。この選択を済ませた時点で、わたしは既に多くのものを受け取っていたと感じていた。弟や妹たちはどうだっただろう。素直に母に随っていった彼らは…。

 中島義道という人を知っているだろうか。某国立大で哲学を講じる先生である。この先生の「カイン」という本は、親との確執の仲で成長していく人間の生き様を暗くしかし明快に書いている。この本を手にしたのは、ごく最近だが、わたしが辿ってきた道のりと同じことがそこに書かれていた。状況はまったく同じというわけではないが、確かに似ていた。

 今になってみれば、親が子供を制御して、自分の心的状況を慰めようとしていたことは、わたしにはネガティブに働いていたように思う。しかし、それを克服しようという考えにつながって、現在に至っているのである。今では、ようやく前向きに物事を考えられるようになってきた。これには、不安が薄らいできたということが主な要因として働いている。経済的にも、心的にも。

 一言付け加えたいが、父が育った環境も、母のそれも、彼らが望んだものではない。しかし、確実に彼らの思考方法や現実を受け入れる感受性にも影響を与えていたのだと思われる。その点においても、彼らは自由ではなかったし、これからも自由ではない。とはいえ、そのことを理解した時点で、われわれは自由になれるのかもしれない。


 研究室に入り、精力的に研究に努めることで自信を取り戻し、さらに、研究者として職を得、揉まれることで、ようやく自立することができたように思う(もちろん、自分で解決しようとしていた時点で、ある種の自立は獲得してはいたが…)。その結果、この自由にならない世の中に生きているさまざまな人々の決意と運命の前に、ある種の諦念でそれを受け入れることができるようになった自分に気がついた。もう、父を責めることも、母を責めることもない(もう、父はいない…)。わたしが今ここに生きているということ。そのことが、十分奇跡なのであり、両親に感謝することが素直にできるようになった。よくぞまあ、この心的状況に至れたと、自分でも感心している。もっと早く到達していればと思わないではないが。なんにしても、その理由は自分で考えたからだ。今、教員として学生に指導したいことは、「自分で考えること」ただそれだけである。

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自在な生き方って?

 自然で、自在で、楽しい生き方ってどんなものだろう。自分の中にそんな感覚が湧き上がってきただけでも、自分はまだまだ進歩しているんじゃないかと、わくわくしてくる。これまでのわたしなら、「如何に生きるべきか」とか、「なにが正しいあり方なのか」とか、そういう自らを枠に嵌めるような発想で生きてきたような気がするからだ。

 これらを直接問う前に、わたしのこれまでの発想を形成するのに関係したであろう、私の家族と、それに対するわたしの印象について述べてみたい。ここで、ある個人が自らの両親について持っているイメージについて書かれた文を引用したい。岩崎吉一氏による日本画家東山魁夷の評伝「厳しい精神性の果てに生まれた慈しみの絵画」には、魁夷の両親とそこから受けた心的影響について次のように述べられている。

 「性格の違う両親の間には心理的な葛藤があったらしい。彼はこのことを、『楽天的で、殆ど感情だけで生活している父と、悲しみを理性で抑えているような母、この極端に異質の2人の間には、相当に深刻な問題があって、まだ小学校に入ったばかりの頃から、私は人間の間にある愛憎と、またその業とも言うべきものの姿を見て来たのです。』と書いている。少年時代の東山魁夷は、両親のありあまる愛情に育まれて成長しており、それだけにかえって父と母の間の亀裂を自分自身の心の痛みとして受け止め、深い部分で傷ついていたのかもしれない。」

 消極的でしかし地味に真面目に生きている我が父。わたしの少年期には、父にはどうしても乗り越えられない精神的な壁があるように思われた。家庭からしか父を見られなかったためで、職業人としての父を見られなかったからだろう。しかし、両親の離婚後にようやくあまり感じることのなかった父の精神的な強さと弱さを感じられるようになる。父と本音で対話する機会も増え、わたしも仕事を持つようになったからなのだと思う。しかし、地味そうな反面、服装の趣味などは結構派手目なのだが…

 積極的で真面目な我が母。いつもはっきり意見を述べ、正しいと思うことは主観であれなんであれ主張し意見する。その正当さに返す言葉のないわたしの少年時代、それを受け入れようと努力しつつ、その息苦しさにたまらなくもあった。

 二人の離婚の理由として母は「父が話をしなくなったのだ。」と言ったが、それは他人としての客観的な目でなくても、母に育てられた私にもよくわかる。まさにわたしが感じた「乗り越えられない壁」のことなのだと思う。母の正当な話の前に一体誰が文句を言えるだろうか。誰が反論できるだろうか。そして何か言うことがあるだろうか。

 母が体を気遣って、父にご飯よりおかずを食べるように言ったことがあった。ご飯が好きな父にはあまり喜ばしいことではなかったようだ。それを帰省の折、祖母に洩らしたらしい。そのことを、後に母は言う。「なぜその話をしたときに言わないのか」と。

 父にとって、両親はどんな存在であったのだろうか。国鉄時代の祖父は、A駅助役を歴任するなど、苦学して出世した立派な人だったのではないかと思う。それは決して世間的にみてとても偉い立派な人ということではないのかもしれない(とはいえ、F民報の出版したF県紳士録のような本には、祖父と母の兄の名がある)。そういう立派な尊敬すべき祖父の下に育ち、人の父となった父の心境は如何ばかりだったろう。

 母が離婚の話を切り出してから、修羅場がしばらく続いた。重苦しい不安な時間だった。うちに帰りたくない。直面したくない。でも、放置できない。自らを攻め、どうすればこの状況を脱却できるのかひたすら考えていた。

 わたしは、自らに現実を離れた理想化された問題を課すことで精神の平安を保つ性格を持っている。それは理想化されている分だけ美しく、しかし現実から離れている分だけ遠く重苦しい。これはわたしが葛藤の場である家庭のなかで孤独な空間を作り、妄想を逞しくして心の平安を保つ試みを行ってきたことと関係がある。わたしが布団に入ってからなかなか寝付けなかったのはそういうことであろう。

 それは「ひとのよさ」「おひとよし」と呼んでもいいかもしれない本来的に人間関係の葛藤を解消したいという欲求があってのことなのだろう。わたしはその種の葛藤を嫌悪しているし、その種を持ちこむ輩を忌み嫌っている。そのために妥協や譲歩することも多かったが、自身の方向性を大きく変えることはしてこなかったように思う。果たして妥協の繰り返しと、自身の方向性を変えないということは本当にいいのだろうかと、最近特に考えるようになった。B先生を見たいというのは、この先生のやりかたや考え方は一体なんだろうかということでもあるし、それを見据えた上で、自分の位置を確認したいということでもある。これは敵わないとあきらめるもいいだろうし、がんばればできないことではないのだと感じるのもよかろう。そういう機会として訪問してみたい気がする。師として教えを受けることは理想的には求めたいが、そこに至らなくてもいいかもしれない。理想が低いと思われるかもしれないが、たかだか1年くらいで一体なにを得ようというのか。

 それはともかくも、ついに理想化された妄念を具体化する機会としての留学のチャンスが与えられたのに、それを有効に使えないとはどういうことか。それよりも、早く大学に着任することのほうに意味があるのだろうか。

 以前、私は後輩のある男にある感情を抱いていた。私は、当時、彼を羨ましく思うと共に、疎ましくも思っていた。その感情は全く同じところから出ている。彼は、人生を楽しむことについては貪欲で、それは素晴らしく積極的な行動力を持っている。この点はとても魅力的である。これについては、同僚のある男とも通じるところがある。しかし、後輩の男は、それが行き過ぎて、周囲が見えなくなるところがあったように思う。私などは、そういう場面で軽視されているような、甘く見られているような印象を受けてしまった。彼のペースに乗せられてしまっていたのかもしれない。(ただし、これらはすべてその当時の印象である。)

 しかし、自分が楽しく生きようとするためには、そのくらいの部分を持ち合わせていないと、難しいのかもしれないと思う。職場の人間関係に自分の理想を期待するのも変だし、それを履き違えていた彼自身にも変な部分がある。若さの問題点とは、何事も単純化して考えてしまうところにあるような気がする。それぞれ場面場面に期待すべきところがあり、それをうまく配分するところに楽しみがあるのではないか。

 その大学当時から今に至るまで、わたしは説教臭かったような気がする。これはそもそもどういう意味か考えてみた。説教すべき理由があるということは、やはり如何に生きるべきかという前提から今の生き方を導いているからではないだろうかと思い至る。

 自分が如何に生きていくかを知るということは、最終的には自分の内面から沸きあがってくる本音に耳を傾けるということあって、他者からとやかく言われるような筋のものではない。だから、本当の気持ちがあるのなら、とやかく言われようとどうしようと、ぐらつくものでもないであろう。ぐらつくなら、そのくらいの考えしかないわけだし、それならそもそも本当の気持ちなぞなく、どうでも構わない程度のことなのだと考えられる。

 一方、自らを拡大したり、自分の新たな可能性を見出したりすることは楽しい。無理をすることはなく、できる範囲内で努力すればいいのではないだろうか。そういうと、苦しいこと、辛いことはやる必要がないと簡単に片付けることになってしまうだろうか。そうではなくて、しんどい分だけ、成就したときの喜びも大きいのである。大きな喜びを得ようとすればするほど、それは闇雲な努力だけではできないものである。ことを成すにあたって、自分のやり方を客観的に見つめることができなければ、難しいであろう。そして、出来る範囲が狭まってくる。

 それでは、喜びとはなんだろうか。幸福だと感じるのはどんな場面なのか。それが得られなければならないのか。研究において喜びとはなにか。ということになる。

 人に認められるということは、自らの存在意義を他者に認めてもらったということそのものである。研究者が良い研究成果を挙げることは、それに該当する。その成果を挙げるために選ぶテーマはどう関わってくるのか。

 わたしが、自分のやりたいことをなりふり構わず実行できず、中途半端な下請け仕事に安住しているのかを考えてみている。

 自在に生きるということ、それと自分の存在価値を再確認する生き方ということ。その二つは無関係ではないように思われる。自在に生きるといった場合、その言葉の背後にあるのは、自分勝手な生き方に近いありようを考えていた。しかし、自分が自分本来の生き方をしているのなら、その意向に沿うものばかりでなく、沿わないものまでも自在に受け入れられる。そういうことにはならないか。そこでは、むしろ意味は逆転してしまっている。いまの自分のスタンスによって、語義をいかようにも捉えられてしまう。その守備範囲の広さは余裕のなせる業である。余裕と自在は完全には一致しないが、要はそういうことなのかもしれない。

 今日見たTV番組で、10代の若者が議論するというのがあった。彼らは、ルックスを話題にしていたが、そのなかで、暗いことを罪悪としていた。ネアカ、ネクラの話は以前にも話題になったことがあるが、いわゆる豊穣な人間関係が大切なのだという資本主義的な強迫から外れた人々の行き場を、この議論が狭めているのだ。話題提供者の彼女は、まだ15歳という若さだが、自分の抱えている問題をまだ完全には捉え切れていないようにみえた。そのことは、問題ではない。問い続けるに値する問題であるから。それよりはむしろ、明るくて、常に中心にいる人々のストレスを感じる。そして、そのストレスを正当化しなくてはいけないという考えに囚われているように思える。こういった人々の強弁は、なにか受け入れなくてはいけないのだと感じさせる。それが社会の雰囲気を反映したものなのだろう。でも、その根拠は?結局は会話のための方便なのだが、本当にそれが必要なのかどうかについては議論にならない。この窮屈さは、豊饒さを生みだせるのか。そうではない方向で、今私の抱えている問題を考えてみたいのだが、これは現実逃避だろうか。


 いよいよ大学の先生になることが決まりそうだ。まったくといっていいほど、わくわくする感じはない。むしろ憂鬱で仕方がない。はじめはいじめに堪えないといけなさそうだ。

 そんななか処世術を説く本を読んだ。Yさんが気にかけていて、気が付くと買ってきている本のうちの一冊である。出だしは、物事をあきらめずに、腐らずに、日々注意を払っていることについて書かれている。それは確かにおっしゃるとおりだろうと思う。諦めたり、妬んだりと、人のせいにするのはもってのほかである。そして苦労を自ら買って出ること。確かにこうすれば、さまざまの経験が身に付くだろう。その次が意外なことに、楽に生きることだというのである。まさに無為自然、自在といったことだ。この文章のテーマと同じである。

 そこには、守りに入るから、萎縮するのだと書かれている。失敗しても裸一貫、やりなおせばいいではないかというのだ。まったくそのとおりだと、今はこころから思える。

 みんなそれぞれ、それぞれの人生だ。人のことを云々するのは本当はおかしいのだが、世の中そんなに甘くない。羨んだり、妬んだり、蔑んだり。私は、そういう人の気持ちが恐ろしくてならない。私が萎縮しているのは、そういうことだと思っていた。しかし、隠している部分、守ろうとしている部分、それがわたしを萎縮させるのだろうか。

 この世がわたし一人なら、寒くなければ、裸で過ごすのではないか。そして、なにも無理をして勉強したり、人によく見せようとも思わないし、人が怖くてならないということもない。

 Yさんを見ていると、責任感の塊のように思える。この人の傍らに居ると、自分の責任感が矮小で、つまらなく見える。

 一方、昨年度まで同僚だったM氏は、とてもマイペースで自在だった。仕事もできるのだが、無理をしていない(ように見える)。とても着実だ。M氏は責任ある職務をどう務めているのだろうか。

 それに比べて、頼りない私はどうだ。わたしは、諦めているのでもないし、そういう人の気持ちの前に恐れおののきながらも、前に進んでしまっている。じわじわとではあるが。そして、その恐れの前に、次々仕事を用意して、どれも手付かずになってしまっている。焦りだ。それが頼りなさとして顕現してしまう。そういう循環に陥ってしまっている。

 しかしそれは若さだろう。百戦錬磨の老師に勝てるはずもない。また、勝つ必要もないと思っている。この若き頼りなさは、わたしのありようそのままだ。その本は、ついに「老荘」の教えと、「禅」の教えを説く。これを読んでいて、大乗仏教の他力本願は、無為の教えなのだと思い至る。私は、信仰はないが、自分が行き着く先が、これらとそれほど違わないことを、理解している。

 「得意冷然」は、わたしの十八番だった。でも、「失意泰然」というわけには行かなかった。ただ、振り返ってみれば、わたしを理解してくれた人は本当に少ないし、それはわたしが自分を明らかにしないからだ。理解してくれればうれしい。そういう関係の中に自分を置けるように、自らを捕らえなおしたい。理解し理解される。その方策を考えたい。要は無理をしないということだろうか。

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私の女性観

 女性とか、男性とか、そういう性差を意識的に語ることをこれまで拒否して来たこと。そのこと自体が多分、対人関係の中に自らの感情を抑圧してきた私という人間の性質がそのまま現れているのだろう。

こんなところから書き始めなくてはならないのは、三十数年生きてきて寂しいことなのではあるが、それを正面から捉えなおしていくことがとても大切に思われてきている。

 こう言うのもなんであるが、わたしは、小さい頃は結構もてるほうだったと思う。とはいえ、小中学生あたりのもつ意識というのは、未熟で、なにをもってよしとするかの基準があまりに純粋であったような気がする。ルックス、身長、運動神経などを基準にする。お勉強ができるのも悪くないが、それは決して優先度は高くなかった。もちろん性格が自分に適当であるという意味での相性というのもあるだろう。ともかくも、そういう純粋で単純な基準で、ある評価を受けていたように思う。わたしは、ナイーブで他人の気持ちに敏感であったから、それぞれの本音の欲求がぶつかり合う子供社会では、それは高い価値を与えられていたということなのかもしれない。

 そんなわたしの抑圧は、小学生のときだったか、女の子と親しくしていることをクラスメートにひどく囃し立てられたことに始まっているのかもしれない。確かに彼らの指摘は間違ってはいなかった。かわいい感じのいい子だなという感覚はあったのは事実である。しかし、そういう仄かな感情を超えて、進めていこうという気持ちはあまりなかった。転校生であったこともあり、周囲とうまくやっていかねばという気持ちが強く働いたかもしれない。それによって、なにかそういう感覚を封印していくことが、周囲とうまくやっていくには必要なのではないかと考えるようになったのは間違いない。両親の間に挟まって、自分の落ち着ける環境を自分なりに模索するには、自分の殻のなかに閉じこもるほかなかったはずなのに、母はそれを認めず、常に引きずり出そうとしていたように思う。だから、そんな周囲を意に介せず、突き進んでいくことを自分に課すことのないまま、他者の顔色を伺わずにはいられなかったのだ。

 そういうわたしが、三十路を過ぎて、女性にどんな感情を抱けるのかといえば、全くお粗末で恥ずかしいものである。高校以降、男子ばかりの環境に進み、これらの意識を改革することもないまま、今に至っている。私の陳腐な他者に対する意識のなかでも、女性という、ほとんど競合しない他者という存在をどう扱っていいのかわからないのである。小中学生のときは、ただ隣にいて話をするだけで楽しかったのだが、いまでもそれにせいぜい性欲が重なってくる程度の認識しかない。その性欲についても素朴な諦念が抑止力として作用していて、となれば、とても少ない期待感しかない。本来なら、性も含めた心の往還が、癒しとなってくれることを期待すべきであるはずなのに。

 であるから、ただ日々かわいい笑顔で、楽しい会話さえ提供してくれればわたしにはあまり期待するものがないという考えもあった。しかし、わたしには、家庭事情から男女や家庭の平安が容易には得がたいものではないかという不安がついて回っている。そのため、まず他者に何を要求できるのかをつい考えてしまう。人は、そんなこと以上にいろいろの条件を、というよりもっと別の価値を必要としているようであるが、それらを求める以前に、とても重大なことのように私には思えてならない。

 ただ、それらの平安がある心をそもそも持っている人間によって容易に得られるのだというような素朴な考えはない。やはり、相互の不断の働きかけなくしてはありえない。そのためには、心の内のこまやかな感覚を静かに見つめることが必要なのではないか。その点に対する違和感のない自然さを求めたくなるのは、おかしいだろうか。それは仕事なのではない。日々の擦り合わせは大切だとは思えるが、それを前提にスタートすることはないと思う。

 以下は数年前に、この種の問題について書いたメールの一部分である。この文章は本音で綴ることができたような気がする。

 『しかし、わたしにはその温度差や距離感というものは前提になるように思えてならないのです(注)。私の両親は、わたしが幼いころから不仲で、大学に入学した秋に別れました。不仲といっても、喧嘩や暴力が続いていたというのでなく、会話もない冷めた時間が長かったのです。わたしにはそれが苦痛でした。
 それを幼少のころから重く受け止めていたわたしは、年を追うにつれ、自分や他者の内面にばかり意識が向かうようになってしまったような気がします。そんなわたしが自分なりにこのことを解釈した結果は、人は時間をいくら共有しても、それだけでは意思の疎通はないということです。そして、もっとわたしの心に刺さっているのは、互いに向き合おうと試みたのだという親双方の話を了解してしまうと、容易にはそんな距離感は得られないということになってしまうということです。
 これはとても極端な例なのかもしれませんが、そういうことを含め、どちらもいい人間なのだからその間もいい関係になるだろうなどと楽観することはできません。いいとかわるいとか単純には決められない関係のすれ違いに敏感になっています。
 その意味で、「本当に分かり合える」ということ、そのこと自体が難しいと思っています。内向的なわたしには、わからなければいけないという関係では、遠いような気がするのです。
 そして、わかりにくい書き方で申し訳ありませんでしたが、彼女はわたしにないものをわたしに求めているのではありません。彼女が自分にないものを私にみて、それを魅力的に感じるというのです。わたしも、彼女の前向きさとひたむきさにはもちろん魅力を感じます。しかし、そこからスタートすると、常に傍らにある状況で進むのは、違和感の積み重なりになるように思えてなりません。
 「もっと自然な敬意と、温度差のない距離感」とは、「本当に分かり合えるわけではない」他者同士が向き合うための前提なのだと考えるようになったのです。それまでは、そういう決意はないまま「分かり合えないのだ」ということに悲観していたような気がします。そうではなくて、前提として「分かり合えない」ということを受け入れれば、他者になんとか手を講じてわかってもらおうという熱心さを採ることはありません。自分が理解することができない存在である他者に畏怖や敬意も生まれますし、適当な距離感も生まれます。
 そのことは、決して寂しいことなのではなくて、人が自分と向き合って生きていくことを尊重しあうということなのではないかと考えます。わたしはそういう生き方を続けてきたし、それが楽でこれからも続けていくでしょう。そういう過程の中で静かに互いを受け入れていける関係が構築できたらと考えています。そのために彼女に直接会うことをせず、メールでの間接的な関係を続けていたのです。これは自分勝手な行為なのかもしれないですね。彼女はメールよりはもっと、直接会うような、時間を共有するような関係を求めていたのでしょうから。
 実際に、メールのなかで彼女はわたしをすぐにでも分析し理解しようとしました。しかし、それはわたしの求めたことではなかった。わたしが欲していたのはもっと形の違うものでした。彼女にしても、メールでのやりとりという不本意な関係をとっていたということであったと思います。
 そういうことを総合的に考えて、わたしは先の結論を出したのです。そういう経緯があったことを理解していただければと思います。
 理屈っぽくてすみません。でも、行動的でない私には、こうやって内面から変えていくほか採るべき道がなかったのです。』

 注:男女の間の温度差や距離感は徐々に埋めて行くほかないのではないかという相手とのやりとりに対して。

 こんな子供じみた弁明しかできないのかと、お腹立ちの方もおられるのではないだろうか。しかし、これもわたしの本音である。そこまで臆病なのだ。しかし、そのことを修正しようとはもう思わない。もうその手は食わないのだ。そうやって、都合のよい人間に仕立てることはしたくない。自分で自分を生きるしかない。その決意がようやくできてきたように思う。


 これまで封印してきたものが溢れてくるような感覚に、自らを置きたくもある。 TVを見ていて、とてもかわいいアイドルに目を奪われた。こんなことはあまりなかった。ないことはないのだが、これまでの感覚とは明らかに違っていた。わたしの女性を見る目、見方をようやく自覚しつつあるからだ。自分がどういう人を好もしく見るのかがわかってきた。目を奪われる、要するに「一目惚れ」するタイプの女性と、後からじわじわといいなと感じるタイプがあるようなのだ。

 そのアイドルは、まだ15歳という若さで、私の半分も生きていないのだ。しかし、そんなことは関係なく、わたしがまず目を奪われるのは要するに、無垢な、もっといえば天然系のかわいい人なのである。Webで検索すると、彼女の自筆の手紙の画像があったりして、その想像が間違いではないことを示している。好ましくない噂話もあるが、それらを総合すると、賢くはないが人は良さそうな人間であるということである。要するに、無防備なかわいらしさというか、天使(これしか適当な言葉がないが、天使の裏の面はここでは意味しない)のような、もっというと白人の幼児のかわいらしさ、美しさに通じるものだと思われる。実際、ヨーロッパやアメリカに行くと、わたしは幼い子供のかわいらしさに目を奪われる。これは性別に関わらない。そのような好もしさを感じているのだ。しかし、このアイドルの場合は、そこに女性も感じるのはもちろんである。無垢な女性の美しさをこのアイドルは体現しているように思われた。とはいえ結局は、対人経験の少ないわたしの性質をそのまま現しているといえばそれまでか。しかし、この国ではそういう好もしさは商品になるのだ。このあたりの議論は、「甘えの構造」にもつながるだろう。

 しかし、その感覚が、結婚したいというような実際的な感覚とは違うことはすぐに気が付く。それは、自分の子供にもつながっていく愛おしさのようなものだ。それとは別に、後からじわじわと好もしい感情が高まってくることがあると知った。それまでは、目を奪われることがわたしの本質的な欲求であって、こましゃくれた思惟に重きをおく自分を否定的に捕らえて、そういうじわじわとした感情を押さえ込んでいた。そういう自己否定がわたしを生き難くしている源泉であったのだが、それに気が付くのにかなりの時間を要した。だから、最後は大人の女性ということになる。会話も独善的ではなく、適当な距離感を保っていられる。この距離感は時間経過に伴って変動するが、うまくやっていくには、お互いの距離感が平衡的に推移する必要がある。一方的にならないで、うまく詰めていけなければならないだろう。それにはさまざまの感覚や思惟方法が必要になると思う。

 とはいえ、感情の問題であるからこそ難しいのだ。理屈だけなら、正しいルートは間違いもあるとはいえ選択できるし、修正もできる。うまくやるということではなくて、自然に流れていくような感覚は得られないだろうかと、まだわかっていない。。。


 やっぱり、感情の昂ぶりを期待している。自らを恋愛感情に引き込ませる何かを。いい人だし、気も合うが、そこには至れない。それはなぜ?

 この種の感情の昂揚は、今まで封印してきたものだ。多分、仕事の中ではあまり必要としない。しかし、要らないものではない。自らを衝き動かすエネルギーとして、静かに内面では滾っているものである。でも、人との関係においては、表に出せなかった。それが、わたしの生き様にとって、主要な表現になっているのだが、これからはもっと私の素直な気持ちに耳を傾けるべきなのだと思う。問うべきは「やさしさ」ではなく、「素直さ」なのではないだろうか。それによって、わたしの本質が開放される。それこそが、わたしの存在価値であり、貢献であるのではないか。

 私のことを好いてくれる女性は確かに居たし、その逆に、私が好いた女性も居た。しかし、結局成就することなく今に至っているのは、好いてくれても、それを受け入れられない自分が居たし、好いてもそれに傾倒できない自分が居たからだと思う。

 好いてくれるのだから、自分がその人を好きになれるかどうか、試してみたらいいではないかと言ってくれる友人も居た。でも、わたしは男の子。なかなか出来ないんだよな。私の冷たい心が、変わっていくことを暖かく見守ってくれているのだとは思うのだけれど…。

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理系の気質

 身の回りの理系人間というと、大半がスペシャリストとしての位置づけになっているように思える。スペシャリストとしての立場に安住しジェネラリスト的な生き方を否定的に捉えているのではないかと思える節がある。正直言って、研究に適性がないと思えるのに(もちろん、他のことに適性があるという意味だが)、なぜか研究に固執する。そんな人が数名思い浮かぶ。彼らは優秀だし、理系の知識と考え方を学習したのだから、それを利用して他のことをしたらいいのにと思えてならない。でも、なぜかほかの事に関心が持てないようなのだ。

 わたしが学生の頃と比べて、最近の学生は垢抜けていて、文系の学生たちと見かけの上ではそれほど変化なくなってきた(ちょっと褒めすぎか?)。しかし、上のような考え方は決して変化していないように思う。むしろ、バブル期に学部を卒業した僕らの頃のほうが、金融に行ったりするなど、必ずしも専門に縛られなかった。まあ、これは企業側の意識の問題もあるが…。

 その一方で、世間が持つ理系の人に対する意識もあながちおかしくはない。そもそも、科学技術立国などと言っておきながら、世間は科学の成果などに関心は低いし、理系の人間を偏った者たちと考えている。企業が学位取得組の採用に二の足を踏む理由として、専門を超えて幅広い関心を持つことができない点が指摘されている。これは、いつまで経っても、スペシャリスト止まりだということだ。実際は、そうでもない人が増えつつあるのは幸いなことだが。


 理系の人間はある程度知識やスキルがあって優秀なのに、限られたこと以外に関心が低いのはなぜだろうか。これは、日本人の仕事観にもあるのかもしれない。なぜ大学に進むのかというとき、多くの人は仕事との関連になる。もちろん多くの教育機関は、そのような人材を輩出するに当たり、職業人としての意味を考えている。

 こんな職業意識の上で、技術とかスキルとかに関心が高く、哲学とか心とかの問題に関心が低い(ように見える;あるいは忌避している)理系の人間の気質をどのように解釈したらいいだろうか。

 自然科学的な事象というのは、人間の内面や人間関係とは無関係にある。だからこそ、それが意に沿わなくても、不思議に思わず、受け入れるしかないという客観的な姿勢を維持することができる。物に意図は無いと理解しているからかもしれない。

 しかし、いざ対人関係となるとどうだろう。自分が受け入れられないとか、分かってもらえないとか、人に認められたい、気を引きたい、操りたいなどという感情が不思議と湧き上がってくる。これは、やはり他者からなにがしかを受け取りたいという感覚との現実との乖離を嘆く、つまり甘えであって、対物関係にはありえないものである。ここで、「甘え」という言葉を否定的に捉えないで欲しい。あくまで、現実の解釈のために導入した語である。

 自分の意図どおりにならないという点では、対人関係も、対物関係も、なにも変わるところは無い。それなのに、なぜ、一方を志向してしまうのだろうか。一般的な理系人間に関して言えば、なぜ彼らは物に向かうことになるのか。どうして、対人関係をもっと客観的に捉えることができないのか。

 また、自然科学の事象は人によって解釈され、それが言語化され、伝達される。そうであるのに、事象の解釈さえも、無矛盾な体系であると信じ込まされている。確かに、多くの人に批判され検討されるので、無批判な事象とは比べようも無く強固な体系であるが…。いずれにしても、無矛盾な科学観を当てにしているとすれば、それは誤解である(トーマス・クーン『科学革命の構造』)。研究者として自分が問うべき対象や問い方というものについての自覚が不足していると思わざるを得ない。一時的に信じている約束事であるという事実は、科学論の成果であるが、そのことを理解している理系学徒は少ない。意外に気まぐれなのが科学なのである。

 そんなわけで彼らの一部が頑固なのは、こんな対物志向性とはあまり関係が無いはずだ。であるなら理系人間の頑固さはどこからくるか。それは、自分に自信があるからではない。寧ろ他者に攪乱されるのを恐れているのだ。だから多分、他者の意見や見解に対して素直に聞いてみたり、自分と対比させてみたりするような余裕が無いのではないか。しかし、そんな彼らも無矛盾な体系である自然科学的アプローチには疑義をさしはさんでいる様子は無い。これは有無を言わさず受け入れなければならないことだと思っている節がある。このアプローチを絶対無二のものだと思い込むと、情緒的な意見などは無価値なものだと一蹴されてしまうかもしれない。

 だから、想像力を働かせるということが当たり前にできない。物事を柔軟に考えてみる、思ってみるということを限定的にしかできないということに慣らされている。例えば現象はこの式によるのだから、これしかなくて、ほかはありえないのだとか。しかし、展開が見えると、一気に能力を発揮する。推論・演繹のセンスは高くて、その点はすばらしい。

 数学や物理が怖い生物屋が沢山ラボに入ってくるが、理系ならそのくらい出来るだろうこと(でも、今日明日に出来るなんて誰も言っていない)なのに、簡単に辟易して、諦めてしまう。そうやって、狭い専門の中に埋没してしまう。確かに、究極的に何かを成すというのはどんな分野でも難しいことだ。だけど、自分にとって必要なことは頑張ればなんとかなるんじゃないか。頭が良すぎて却って、リスクを回避する。それは、総合的な力を失わせ、最終的には企画力の欠如をもたらす。なんでもかんでも考えてみようとか、やってみようという貪欲さがあると、もっと楽しいのだが…。もう一歩踏み込んでくれたらいいのに。

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プレゼン考

 最近発表練習を見ていて、いろいろ思うことがある。それぞれの思いは伝わってくるが、そもそもプレゼンの意味は何か。思いを伝える場ではない。その意味において、プレゼンテーションのうまさと研究の価値は全く関係がない。価値があまりなくても、そこそこのプレゼンは作れる。それについて考えてみる。

 まず、人の結果をうまく使う。聴衆の大半は知らないのだから、そこを利用するのは簡単だ。ただ、それは場面を理解していないと使えない手立てである。極端な話、結論さえも持って来たって、大学の修士の発表くらいならこなせてしまうかもしれない。でも、そんなのは詐欺です。ただ、類似の結論になってしまうことはたびたびなので、そんなときは楽かもしれない。楽が良いかどうかはともかく。

 予め人の意見をよく聞く。プレゼンの受けは、自分では分からない。だから、事前に多くの人に聞いてもらって、問題を明らかにしてもらった方が得である。だから、発表練習であまり中途半端にしてやっておくと、いい結果にならない。本番前にどれだけ準備しておくか。それが、うまくやるポイントの一つであるのは間違いない。とはいえ、これも歳を増すごとに、だんだん使えなくなってくる手立てである。

 しかしながら、もっとも大事なことは、論理的裏づけをきちんととって、流れを組み立てるということである。結論から逆算して、起点を設定する。起点は必ず皆が同意できる問題から。そして、結論に至るまでに前後のつながりを重視して、混乱を招く余計なことは差し挟まない。情報を加えすぎると却ってわかりにくくなる場合がある。ただし、加えなければ疑義を生じるような情報や論理を補強するような情報は付け加えなければならない。そして、その研究分野で当然示すべき情報は加えなければならない。何か当然なのかは、自分で判断する問題ではない。日頃から他の人のプレゼンを意識して見ておいて、自分のプレゼンに反映させよう。そして、万が一迷いや疑いがあったら、それは排除する。それは推察とは意味が違う。推察は推察で構わない。結論を支援しうるなら加えて構わない。

 図は見やすく。センスよく作るのは効果はあるが、わかりにくいのでは意味がない。きれいな絵を描いても、ラベルも含め、必要な情報をきれいに配置しよう。それをサボるとわからない。聴衆はあなたの絵画作品をみたいわけではないのだ。

 これらの心は何か。とにかくわかりやすく人に伝えるということである。これはコミュニケーション能力なのだ。と書きつつ、普段からコミュニケーション下手なわたしには、どれもこれも難しいことだった。でも、最近はすこしずつ慣れてきたけど…。

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拙い英語

 意外にみんなわかっているんだな。先日の英国の某大学とのワークショップで講演したのを、学生さんたちが見ていて、ポジティブな評価をくれたというのだ。

 わたしは英語が苦手である。中学校で初めてそれに触れたとき、全く意味が理解できなかった。意味の同じ別の発音の何かがあって、そして文法も異なる、英語という言語があるなんて。いや、そんな風に捉えることはできなくて、いきなり赤ん坊に逆戻りさせられた感じだった。あまりに分からなくて、最初の中間試験のとき、とんちんかんな質問をしてしまった。そのとき対応した英語の先生の冷ややかな表情と言葉は忘れない。

 試験は覚えれば対処できるから、そこそこの点をとることはできて、及第ではあった。しかし、ぜんぜん判った気にならないのである。そうこうしているうちに、高校に進むが、全く改善しない。それでも試験は及第で、危機感なく受験を迎える。

 そんなわたしであったが、発音については、中学校以来「よろしい」という評価をもらっていたので、わたしが英語が得意だと他所様は勘違いするらしい。そういう評価を呉れる人については、単なる人伝か、その人自身も英語を得意でなくてわたしのまずさがわかっていないかのどちらかなのだろう。

 わからないのいうのは、解読すればわかるにしても、即興的にわかるということとはどういうことなのかという問いだった。わたしにとって意味の体系というものは、秩序だって構成されていて、言葉の理解によってサポートされたものである。理系だったが、国語の特に現代文の読解力や思考力は褒められていたし、社会科も得意だった。それらはとても興味があったし、理解を積み上げていけばいいと思っていたから、着実な手合いであるわたしには、無理がなかった。

 でも、英語はなぜかわからなかった。よく、英語で会話するには英語で考えなければならないという。わたしの考えはすでに日本語の意味と構造に囚われていた。だから、それを離れて考えるということができない。

 ところで、最近速読に興味を持ち始めたのだが、それは大村はま先生の言葉が引っかかってからのことである。子供に黙読を教えないと、早く読めるようにならないというのである。本を読んでいて、ついつい声に出してしまう。声に出さなくても、声帯が動いてしまう。そうしていると、絶対に早く読めないというのだ。そういわれてみれば、英語の文章を読むときには、声帯が動いているようだと気がついた。日本語の本を読むときはあまりそんなことはないのだが。これが、英語を早く理解していくのを阻害していたのではないかと。本を読むという行為と、何かを理解するということは、間接的につながっている。理解するときには読むだけではなく、聞くということも含まれている。言語の理解は、「聞く、言う、読む、書く」が相まって進んでいくのだろうから、どれかの進度が遅れてしまうとバランスを欠くのではないか。まあ、私の場合、どれも停滞していたのだが…。

 まあ、そんなわたしに英語を使わねばならない状況を与えたのは、そもそもはやはり研究である。海外での発表、あるいは国内での英語の発表などがあるたびに、戦々恐々としたものである。英語であれなんであれ、講演というのは、内容に関する理解と自信が表れてしまう。研究にかかわっていて、実績としては自信があるものの、そのことを理解してないような仕事があった。それについて2度も英語での講演を求められたのである。案の定、どうしようもない講演だった。内容の論理的な流れについても、必然としての展開として捉えられていなかったのだ。

 言語学習は技法取得ではあるのだが、対人関係の技術が含まれている。こうやって、文章を書いたりしてみることも、そういう技術が含まれうる。なぜ意見を表明しなければいけないのか。また、意見を表明することの意義は何なのか。その観点に立って、なにかを伝えていこうという意思。それこそが、このことの本質なのである。

 いいかたちで終わらせたい。そんな風に講演を捉えてしまうと、聞いている側も苦痛である。別に人のいい格好を見たいわけではないのだから。心から表れていない言葉は伝わらない。

 だから、原稿を読んでしまうと、言葉に力がなくなってしまう。そのことは聞いているとよく分かる。まあ、初めのうちは仕方ないのだけど、時間に余裕があるなら、全部覚えて臨みたいものだ。

 留学生のお嬢さんのお陰もあって、コミュニケーションしなければならないことの必然もあって、なおのこと、語学学習がコミュニケーションであるということの本質に気づかされる。初めから首尾よくやろうなんて思わないことだ。

 今回の講演も、緊張がほぐれない初めの数枚のスライドについては原稿を用意した。しかし、調子が乗ってきたところで、自分を追い込んでみることにした。拙いけれど、自分の言葉で話そうとしたのだ。それが功を奏したかどうかはわからない。しかしまあ、自分の実力くらいの講演になったと思うし、そのことはもっと勉強しなければと思うきっかけとして使うしかない。まあ、実力がないんだから、後悔もできないというのが正直なところだけど…。質問にもう少しきちんと答えられたらと思いながら、それはいつの日だろうか。

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研究と論理

 研究を行うにあたって欠くことのできないもののひとつに論理性がある。日々の研究結果の解釈や論文を書くのに必要だ。これは研究に限られず、お仕事一般、もっと言えばよりよい生き方に繋がるとても大事なものだと思っている。

 なぜ大事なのか。論理とは、社会・言語を超えた推論の共通ルールである。三段論法や命題の逆・裏・対偶などの基本的な事項は、みな知識として知っているだろう。論理を使うことで、既知の公理・定理を基に、新しい事実から結論を導き出す。こうやって、新しい事実を分析・解題して、受け入れていき、対処していく。この推論のルールは共有されていて、疑いないものである。だから、この方法のもつ意味は研究に限られない。このことを受け入れない人はいないと思う。受け入れない人がいたとしたら…。そんな環境を放置してはいけない。頑張って説得するか、さっさと退散しよう:-)

 とはいうものの、現実はそんなに甘くない。新しい事実が目の前に現れたとき、それを分析して、論理推論の連鎖に乗るように翻案していかなくてはいけない。例えば、うまくいかない実験結果が目の前に現れたとき、要するに実験がうまくいかないとき、どう考えたらいいだろうか。

 まったく情報がないときには、すべての工程が怪しいということになる。それは等確率で疑わしいわけである。試薬の配合を間違えた。試薬が古かった。手順を間違えた。いろいろあるだろう。それを一つ一つつぶしていかなければならない。各工程で確認するというのも重要である。それによって、それ以前の工程に問題がないことが保証される。対照実験によって、保証するのも賢いやり方である。

 また、推論に使われる既知の公理・定理としての既成事実の確度は問われるべきである。Aさんがこう言っていたとか、ある本に書いてあったとか、そういうことにこだわりすぎると、正しい推論ができないこともある。

 そのほか、背理法などの論理構築のテクニックも、とても大事だ。

 あんまり論理を操るのが得意じゃない人は、野崎昭弘著「詭弁論理学」・「逆説論理学」(中公新書)あたりからトレーニングするといいかもしれない。とても楽しくて読みやすい本です。また、論理は数学的思考の基礎です。数学初心者はこの際、井関清志著「集合と論理」(新曜社)を一回読んでおくと数学の基本概念が抑えられます。ほとんどの大学の教養課程で教わるのが解析の基礎と線形代数でおしまいなので、数学的な考え方の基本が学べないようにも思えます。わたしは数学屋じゃないから偉そうには言えないけど…。

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研究と心と

 皆さんは、自分の心を大切にしているだろうか。わたしは、あまり大切に扱ってこなかったように思える。何かを成すために、ある部分を犠牲にすることは、多かれ少なかれ皆行っていることだろう。しかし、それが行過ぎると、どうなるだろうか。

 大きな仕事を成した人物の実生活が荒廃していることは、しばしば耳にするところである。果たして、それが彼の望みだったのか。われわれが望んでいるところのものは何なのか。

 皆、多くのものを望む中で、さまざまな問題を放置したまま生きている。放置なのではなく、諦めてしまっていることも多々ある。諦めると、滅多なことではその気持ちは戻ってこない。

 そして、それを諦めたことがもたらす影響の大きさに気がつかないことが多々ある。


 知識を得るためには魂も売るというファウストの例を引くまでもなく、研究に没頭するには、なにかを引き換えにしなければならないと私は考えていた。自分には先天的な能力があるとも思えず、その代わりに、後天的な環境を自ら構築して進むのだと。不要なものはそぎ落とす。そして、その覚悟を周囲に見せ付けて脅かし、競争者を減らす。なにかを喜んで選ぶということではなくて、覚悟し制限するということだけが、わたしにとっての自由になっていたように思える。

 満たされていない心の部分を持ち合わせたままでも、成果が挙がることで、日々充実しているように思えた。虚しさはないような気がした。

 しかし、父を亡くしてみると、父が私に残した印象と、父の勤めた会社の同僚たちの印象との食い違いを見せ付けられた。家庭や妻を顧みることが少なかったにも関わらず、会社での高い評価を聞くにつけ、一体そんな仕事上の成果とかなにかというのは、絶対的なのだろうかと思えてくる。これは父の気持ちを汲めなかった私の後悔から来るのかもしれないが、両親の離婚によって生じた家庭内のさまざまの問題とは大きく違って、それはそれで充実しているように思えた。

 現実を生きるのには、回避できない多くの問題があることは間違いなく、それに忙殺され日々が進んでいく。そうやって生きていきながら、ある人からは評価され、他方からは評価されない。そんな、他者からの評価ほど当てにならないものはなく、そしてそれに惑わされる自分を見るにつけ、自分を見失っているようにも思えてくる。

 しかし一方で、われわれは他者との関わりぬきに生きることなど叶わない。そんな狭間の中に置かれて、それでも生きていくために、人のためになることを夢見ている。


 多分、そのさまざまに思う時々で、自分が望んでいるものも変わっている。過去や周囲に影響を受ける。金が入れば、名誉が欲しくなる。ある立場を手に入れたら、他が欲しくなる。そんなことの繰り返し。

 わたしも今となってみれば、そのあたりの機微がわかってきて、人のことを褒めたり、貶めたりすることほどつまらぬものはないと思えてきている。しかし、こんな風に哲学めいたことを考えることだけは譲れない。思考停止に陥ってしまっている輩たちをなんとか救済したい。このことを無視して生きると、つまらないし、苦しいのに、それでも諦め他の可能性を探っている者も居る。

 回避している人間が居ることは承知している。そんな輩は研究者でさえ五万と居る。そのなかからも、それなりの仕事をする輩は出ている。だから、そのことの問題に尚のこと気がつかない。研究者とはそういうものなのだとも。

 そのことは寂しいが、一方で、そんな覚悟から無縁の輩が発生しているのに驚いた。今年の学生たちの多くはどうもそうらしい。

 彼らに覚悟なんてないように見える。これから進む道の不安をおくびにも出さない。あまりに意外だった。これが豊かな時代の申し子なのだろうか。そんな風に思えた。


 思考停止や対人関係停止。そんな諦めを持たないで欲しい。大学院なんて、臆病な人間たちが集っている場なのだから、遠慮なくそれをさらけだして構わない。そのことで君たちを責めたりしない。

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なぜ進学するのか

 皆さんはなぜ進学するのでしょうか。

 小学校あるいはそれ以前から勉学に勤しんできた人も、そうでない人も、わざわざ大学とか大学院とかいうところに来て、時間を費やし、可能性が拡大することもあるでしょうが、一方で自分の生き方を制限している。このことは、目的がなければ結構な無駄のように思われますが、どうでしょうか。

 親に学歴こそが大切だと仕込まれたから。たまたま勉強がよくできたから。世の中は学歴社会だと心からそう思うから。いい大学、いい大学院、いい会社。いい会社に入れば幸せになれる。いい会社に入れば優越感が得られる。

 わたしは別にこういう考え方を否定するわけではありません。ただ言いたいのは、世の中はそれほど甘くないということです(まあ、今時こんな価値観を持っている人は、もう少ないような気はしますが…)。いい大学をでて、いい会社に入れば、後は運しだいさ、などという考えで世の中を見てしまうと、人生をよりよく生きることはできないということです。

 ある学生さんが、芸能関連の仕事をあきらめ、研究者になるといいます。その理由は、芸能の仕事は運しだいだというのです。研究者は運を使わなくてもそれなりにはなれる。さらに運がよければ、ひとかどの人間にはなれるだろう、そう考えているようです。

 わたしは未熟にも腹が立ってしまいました。


 人の能力はさまざまです。さまざまの場面で、さまざまの個性が必要になります。歳を経るほど、さまざまの場面に出くわすことになりますが、それにどのように対処していくか、そうやって皆試されています。しかし、そのさまざまな場面に、好き嫌いなく、こだわりなく対処できる人はそうはいません。それでは、その心は何でしょう。たぶん、「公」の心だと思っています。

 まず、その逆を考えたいと思います。「私」に生きることは楽しいでしょうか。とはいっても、一人で生きることはできないわけです。愉しいことを求め、愉しくないことには不満を言う。したくないことからは逃避する。唯一無二の存在として、わが道を行く。そうなると、その生き方が他者に受け入れられる保障はどこにもない。となれば、金も名誉も手に入れられないかもしれない。そのことに気づいたら、そういう諦念、つまり人生における欲求を制限する、ある種の禁欲的な生き方になるのではないでしょうか。こういう気持ちをうまく制御して、「私」に専念することは、それで美しい人生だと思います。自立した人生というべきでしょうか。究極には道家的な哲学に至るのでしょう。

 一方、儒学的な生き方として、皆のために生きることが、最終的には私の自己実現に至るというやりかたがあります。世の中から求められ、それに応じ達成すれば、名誉を得、うまくすれば金を得る。皆に喜ばれ、万々歳です。このときは「私」のこだわりなどは捨てねばなりません。その求められたことを成し遂げなければならない。しかし、こだわりも捨てられる自在さを自らの内面に構築していく、そういうあり方こそが、ある種の自己実現だと考えることもできるような気がします。といっても、儒学的な生き方をのみよいと思っているわけではありません。多くの衒学的な人に対するアンチテーゼとしての提案に過ぎません。

 私は、学生の間は少なくとも「私」に満たされていた。仕事として研究をするに至り、「公」の部分を示さなければならなくなった。もともと研究は中世以来「私」の中にあったわけですが、私的な資産をもってそれができる人たちはかなり限られている。もちろん、そのような資産をもつ人の中から研究者が生まれるわけですから、効率は悪く、科学の進展は遅々として進まなかったでしょう。しかし、今や資産を持たない人も、科学の効用から「公」がそれをサポートして、研究を推進しています。したがって、「公」の立場としての研究者が今やほとんどです。特に大学に奉職する人々は「公」としての立場で生きていかなければなりません。ましてや私企業の研究者は、会社組織という「公」に奉仕しなくてはならない。この時点で、現代の科学研究は歴史的なそれとは異なった意味を持つようになっています。

 そんな「公」への同化が求められるわけですが、一方で究極的な生き方は無価値ではないので、どちらかに徹するという選択もあるでしょう。しかし、現実にはそのようなことはなかなか選べません。一切の「私」を捨てることが可能だとも思えません。また、そもそも研究の動機とは一体なんだったのでしょう。真に知的好奇心からこの道に入った人は、それのみに没頭できるわけではないことを知るわけですが、そのときに「公」としての私というものに気づかされるのではないでしょうか。

 しかし、ユニークな考え方は、必ずしも自分の内面のみから発生するわけではない。このことを忘れてはなりません。必要は発明の母といいますから、世俗との関係を絶ってしまっては、滅多なことでは有用な仕事が出てくることはないでしょう。そして、世の中のニーズに応えていくこともこの仕事の本質になりつつあります。ニーズが生み出した問題への個人の特質を生かしたアプローチが、多分、科学研究の「私」的な醍醐味ではないでしょうか。


 さて、この国には「公」と「私」を履き違えてもかまわないという甘えが伝統的にあります。都合のよい使い分けが行われているのです。むしろ、それが渾然一体になっていることを善しとするする考えがあります。表裏一体の人間像ですが、これが意味するのは、単純な人間像です。しかし、このことを明確に峻別できない人では、人を率いることはできないと思います。

 学生の方々は、これまでの勉強は「私」の実現のためにやってきたのだと思います。あくまで私的な幸福の追求としての、知的欲求の満足、生活の安定、優越感など。この考え方が根にあると、結局、できることは自分が今得意なことや興味があることばかりになってしまいます。自分にとって楽しくないことは排除する。それは、自分を制限することになります。

 しかし、ここで難しいのは自分の時間は限られているということです。限られた人生の中で、思うことすべてを行うことはたぶんできない。そのような取捨選択をしたうえで、初めて実践ができるわけです。実践なくして思惟はありえない。こうして、適当な「公」と「私」の間に落ち着くのでしょう。

 さて、なぜ進学するのか。それも大学院まで。皆さんは結局、自己満足から進んできたのでしょう。みんなのために働きたいという。


 「私は中学生のころから研究者になりたかったのだ」と言って、学生さんたちを煙に巻いている私ですが、それから現在に至るまでに、私にもさまざまの不安と葛藤があったことを彼らに話すことはあまりしていません。

 大学院生になることを選んだということは、研究者になる決意をしたということとほぼ同義なわけです。修士課程ならともかく、博士課程に進むとなると、もう後戻りできないような感覚がありました。しかし、本音で話をしていない(?)からなのか、何か皆さんにはその種の切迫感がないように思えます。覚悟とか、決意とか、そういったものとは無縁なのでしょうか。あるいは、それを見せないのでしょうか。いずれにしてもわたしにはよくわかりません。

 以下に、研究室見学に来ていただいた初老の女性から感謝の手紙の返事を恥ずかしながら載せます。多少は私の真意が汲めるでしょうか。


拝啓

 先日は、わざわざお越し頂き、またお声掛け頂きありがとうございました。さまざまのご経験を踏まえた重い一つ一つのお言葉に恐縮いたしましたが、誇りを持てるところまでは成長していないわたしに、暖かいお言葉を掛けていただき本当に感謝しております。その上、鄭重なるお手紙まで拝領し、日々の自分の仕事も無駄ではないのかと、勇気付けられた次第です。平素、このように専門的過ぎて、人様の役に立っているのかどうか怪しい仕事に十年余り従事していますと、しばしば不安を覚えます。しかしながら、研究という仕事を進めるにつけ、これも他の仕事と変わりないという意を強くし、その点においてようやく意義深いのだと、自分を納得させている次第です。

 研究は、わたしにさまざまの場を提供し、多くのことを気づかせてくれました。学生の頃、いろいろの「思い」を臆病さゆえに封印し、覚悟の上で知の世界に専念するつもりでいました。しかし、人はその「思い」によって、ようやく素直に人や仕事と関わっていくことができるのだと今や痛感しております。また、われわれは誰一人自由ではなく、なにがしかの運命の下に生きており、その意味において互いに敬意を払って生きていけるのだと、研究を通じて強く思うようになりました。そのことを、学生さんたちに、研究の真似事を通じて伝えたいと思って、日々を送っておりますが、なかなか思うように参りません。時間をかけてできればと思っております。

 気がつくと今年もあと2ヶ月を残すばかりとなりました。寒さを増していく時節柄、どうぞご自愛くださいますようお祈り申し上げ、筆を置きます。

草々

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神秘主義と科学主義

 普段のわたしを知っている人なら、エニアグラムや血液型性格分析に関心を持つなんて信じられないだろうと思う。こんな根拠のはっきりしない理論を納得するなどということは、科学主義の信徒のように生きているように見えるわたしにはありえないだろうと。

 確かに数年前の自分ならそうだったかもしれない。科学的裏づけがないものは信ずるに足らず。そう考えていた。

 しかし、その一方で、人のこころが神秘なものに囚われることにも関心があった。なぜ、宗教を信じるのか。あるいは、科学なら信じられるのはなぜか。それを解明するその人文・社会科学的なアプローチにも関心があった。多くの受容するのみの人々にとっては、自分の都合がいいことや耳障りのいいことを受け入れて、利用することに過ぎず、それを探求するということとは無関係のことだろうが。そうではなくて、ぼやけていても現実をうまく説明できるということ、つまり帰納の意味を見つめてみる必要があるということを言っている。

 そんなことを考えていると、「科学を進めることは、わたしに幸せをもたらしてくれる。」なんて思っていること自体を不思議に思うようになった。確かに、科学を信じ、科学に現を抜かした結果、科学者としては順調で幸せな人生を進みつつあることに気付く。一方で、私生活はどうなのかという問いに、幸せですと答えられない。このことは、科学者のコミュニティーにおいてのみ、認められているということに他ならなかった。

 これらの行為はあくまで方法なのだ。なにかを信じる信じないではない。そう考えることもできるかもしれない。方法を実践して、何事かをなし、コミュニティーに受け入れられる。しかし、ある方法を採るということは、それによる恩恵を期待するということである。そのことを信じるというのではないか。

 裏づけを積み上げていくうちに求める世界に到達することが出来るはずだ。そんな価値観で世界を眺めるとき、われわれは人生の到達点をユートピアに設定することはできないだろう。その建設のために、累々と屍が積み上げられていく。先日、「Lord of the Ring」の第3話を映画館で見た。悪を滅ぼすためという名目の下、戦いの中で何千何万という生命が瞬きする間もなく失われていく。そのことの虚しさは、そうやって手に入れた平穏な生活との間のギャップの甚だしさにも感じられる。実際、その戦闘シーンに、一部の観客から笑いさえ上がったほどだった。しかし、一方で策を弄して手に入る安穏とは。われわれの欲望の際限のなさと、簡単に打ちのめされる理想とは…。そんな運命に翻弄されることを怖れ、確たる平穏を手に入れたいという欲求とは。

 われわれが論理を期待する理由が、運命を因果に変え、選択が恩恵に繋がる裏づけが欲しいということなのだとして、それでは科学はわれわれに幸せを本当にもたらすのだろうか。科学は、裏づけを与えてくれるとしても、直ちに恩恵を与えるわけではない。わたしは、それを都合よく錯覚しているのだろうか。リスクを回避することを望むということ。しかし、それでは大成しないと、多くの成功者は語る。

 わたしは神秘主義者ではないが、そのようなものにも関心はある。そして今や科学的方法論だけを信奉することはできなくなっている。ようやく真人間になってきたということだろうか。根拠を説明できなくとも、それがために、無意味だとか、信ずるに値しないなんて、子供みたいな論理を弄することはしたくない。逆に、神秘的なものに大きな価値を与える意味はそれではどこから来るのかという問いが発生するが、それは多分、信じるということこそが、生きるうえで重大な決意の表れなのだ。無根拠な生を信じるということ。その望む欲求を自由に求める、つまり信じる自由が大事なのだろう。しかし、信じ実行するうちに、恩恵を受け、それに飽き足らなくなる。そんな、さまざまな欲求の繰り返しに陥るだけなのだろうかという気もしなくはなく、その先の地平を探している…。

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売れる自分

 「鉱脈を探り当てる。」

 苦悩の末、溢れるように成果が出てくるようになったとき、そんな言葉を使うことがあるようだ。売れなかった作家が、急にいい文章を書くようになったときなどに使ったりする。研究者が苦悩の後、成果を量産するなんていうのも、これに当たるかもしれない。

 日々、研究と称する自由な環境の中に居ると、却って苦しむことが多い。鉱脈を探り当てていないときには、人に貢献しているのか疑わしく、自分を責める。いつかは貢献できることを見出したいと戦っているつもりである。

 そんな我々は、あらゆる可能性を考察しながら、思いつくアイディアを組み合わせ、混ぜあわせる。その、何をしてもいいという自由が息苦しい。が、自分で選んだのだから、そのことに不平は言うまい。

 その様は、多分日々汲々と過ごしている人からは、気楽な商売だと映るのかもしれない。しかし、不誠実な生き方に甘んじられる人は、ほとんどこの仕事をしているなかで見たことが無いことを、言っておきたい。同業者の甘い評価だと言われたら、返す言葉は無いが…。


 そんなわれわれの作り出す結果も、経済システムの中で消費されるものに過ぎない。幾ら分かりにくい結果でも、研究という自己再生産システムの中に位置づけられる。研究自体が社会システムの一部を成しているから、やはり、他の人に役立つなにかでなくてはならない。

 他の人に役立つというのはどういうことか。その感覚を的確につかむことは、自分の欲するものを手に入れる第一歩であるだろう。

 まず、リスクの高いものは価値が高い。自分が安全なところに居て、手に入れるものは価値が低い。これは疑いようの無い事実である。

 それ以外には、まったく新規で便利ななにかを提示することであろう。これは暫くすると便利さに麻痺し飽きられるが、必須であるのならいつまでも求められるものである。

 しかし、これらをとてもグローバルな意味において考える必要は無い。かなり部分的な範囲だけでいいのである。ただし、その範囲と価値がどのくらいなのかは、業態によって変わるし、歴史的文脈においても変化しうる。それを察知する必要がある。

 これまでの仕事を振り返ってみれば、そんな社会的な意義なんてあまり考えてもいなかった。上司や偉い先生に認めてもらえることが大切だったのだ。これと同じように、意義というのも社会と独立してあるわけも無く、外界の求めるもののうち、自分が他者よりも経験・実績において可能性の高いものを選んだらいい。そうやって社会に貢献していけばいいのではないか。そうやって気負わずに仕事をしていけないか。


 そうやって鉱脈を探り当てれば、いいのかもしれないが。そのためには、さまざまのことを意識してかかる必要があるというわけでもない。いい加減にしていても、その鉱脈に当たることもあるだろうし、幾ら努力しても結果が得られないこともあるだろうから。

 しかし、我々は信じている。努力の結果、良い結果が得られることを。あるいは諦めている。頑張っても、どうにもならないということを。

 この差異はなんだろう。やはり、結果が出なければ貢献にはならないのだろうか。そうやって自分を責めていること自体は健全なのだと思うが。

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ジェネラリストとしてのモチベーション

 じっくりと生きていく中で、その時々の意欲とか動機とかを自然に掘り下げて、新しい展開に繋げていくことができたら、どんなにかいいだろうと思う。性急ではなく、着実に自らを成長させていきながら、人生を歩んでいけたらいいのに。

 でも、そんな風に思い通り行かないのが世の中。望んでいるのにやってこなくて、望んでもいないのに展開を期待される。

 これは、自分の意思決定においても同じである。特に、将来の展望、具体的には職業選択をこの点から考えてみるとどうなるか。

 子供たちの将来の夢のアンケートは毎年公表されるデータである。そこで出てくるのは、スポーツ選手や学者、大工、刑事、調理師、看護婦、教師などのスペシャリストばかりである。これは当然だろう。職業といったときイメージするのは、特殊技能を持った人たちだろうから。

 しかし、スペシャリストに徐々に求められてくるのは、特殊技能を追求することだけではなく、そのことをマネージすることである。別の言葉で言うと出世。ジェネラリストとしての第一歩が始まる。多分、どんな会社でも、初めは特定の業務で実績を上げることが期待される。それは狭いが深い技能である。それを究極的に掘り下げていくことはひとつの選択である。しかし、人間、それほど我慢強くない。満たされるという感覚は、同じ対象ばかりでは容易に得がたくなってくる。

 とはいえ、自分をその狭い分野に限定して仕事をしてきた結果、それに縛られている。その狭い分野を好きになるべく努力してきたのだから、他のことに喜びを見出せるだろうかという不安。そうして、好き嫌いだけで能力を掘り起こすことの限界にぶち当たる。

 そもそも自分がしたかったことは何か。生き甲斐って何だ。ジェネラリストへの道に足を踏み込むと、そんな哲学的な問いに向き合わされる。スペシャリストの仕事は、成果が見えやすいから価値が分かりやすい。最近は、ジェネラリストへの道を歩みつつあって、自分の嗜好に合わないことを、無理して取り込もうとしているのだが、そのことはとても困難だと感じる。へこむことも多い毎日である。

 また問い直し。今度は少しは早く再構築できるだろうか。

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育った気になった大人たちへ

 教師たちが学生たちと格闘しているこのときに、その問題の大きさに触れず、最近の若い者はと語る人々の多いことよ。それならば聞く。あなたはどれほどの人だったのかと。

 今の時代は厳しい。速度が優先される。本当はそうではないのだが。拙速なら巧遅よりましという判断がまかり通っている。

 楽をするために、富を得たい。そんな浅ましい想念が、街を埋め尽くす。そこから生まれる浅はかな作戦に目を覆いたくなる。

 最近になって国語教師の大村はま先生の言葉に触れる機会があった。彼女が繰り返し書いている内容に以下のようなものがある。

 「---あるとき、仏さまが道ばたに立っていらっしゃると、1人の男が荷物をいっぱいに積んだ車を引いて通りかかった。そこはたいへんなぬかるみであった。車はそのぬかるみにはまってしまい、男は懸命に引くけれども、車は動こうとしない。男は汗びっしょりになって苦しんでいると。仏さまはしばらく男のようすを見ていらしたが、ちと指先で車にお触れになった。その瞬間、車はスッとぬかるみから抜けて、男は車を引いて行ってしまった。---「男はみ仏の指の力にあずかったことを知らない。自分が努力して、ついに引きえたという自信と喜びで、その車を引いていったのだよ……」

 仏様の指のようになるのだと大村先生は決意されたということである。

 子供たちが自立することを中心とした教育。仏のように、神のように、子供たちに意識されずに彼らを慈しみ導くいうのは、自分の成果をアピールしなければいけない時代には確かに美学だろう。だからこそ、それが求められているのかもしれない。ここからは揚げ足取りになるかもしれないが、一言触れておきたい。教師が必ずしも感謝されなくてもよいというのは、行き過ぎると危険であるし、それこそ神や仏のみが成しうる所業ではないだろうか(最後まで読んでみると、わたしの浅はかな考えは萎んでしまったが…)。よい教師にめぐり合う幸運に恵まれ「最近の若い者は」という言葉が吐けるような育ち方が出来た者は、その恩恵を忘れている。教員は努力していないとのたまう。確かに一部はそうかもしれないが。しかし、人への敬意を忘れ、極端な価値観を持ち込み、それに沿わないものを切って捨てることに吝かでないというのはどうしたものか。そうのたまう彼らはついにそうやって、教育現場を破壊する。

 この国の人たちは神を持たないからか、神をも恐れぬ傍若無人か、人々を恐れる謙虚な人たちに二分されてしまう。その結果、神なくして神を知る謙虚な人々を愛し、その言葉を愛して已まないが、結果、盲目的になって、愛し過ぎ行き過ぎる人々を生むのだ。

 自立して生きることと、そのためには他者への感謝を欠くことはできないことが人生の両輪であることを、学徒らに指南していく必要があると思う。こんなことは当たり前だと思うかもしれないが、両方の言葉でもって説明しておきたい。そのためには、教師の言い分や現実を知ってもらうことも必要かもしれない。その意味では、私の母は偉かったと思う。我が家の、母の、辛さを語ってくれた。だから、私は萎縮した。しかし、最終的には、それを乗り越えて今に至っている。これはわたしの場合だけなのかもしれない。でも、あまりに計算尽なのも、また不自然に操っていることなのではないか。こんな考えは東洋的に過ぎるだろうか…。

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今ここに生きる

 時代と社会に無縁に生きることは難しい。ここにいつしか生まれ、今がある。それは自ら選んだことではない。

 その回避できない運命の下に、我々は生きている。場所を移ることはできても、時代を超越することは叶わないだろう。その運命を受け入れなければ、ただ取り残されるだけだ。


 ほぼ日で小論文について書いている山田ズーニーさんは、そのエッセイ( Lesson177 表現への動機が生まれるとき) で、自分と社会のかかわりにおいて自由はないが、しかし押し付けられる不自由を解釈してみると、それが自分の求めていたものにつながっていると述べている。そして、置かれている流れと、自分の発想とのギャップを次のように言っている。

 『私が書いたシナリオは、「まだやったことがないから、やってみたい」「未来」の方向を向いて、書かれていた。本人はそれは、興味関心があるだろうが、「やったことがない」で、いきなり勝負をかけるのは、素手でなぐりこみにいくようなものだ。一方、人が見ていてくださって、手を引いてくださったのは、私の「過去」だった。』

 結局、人が望まないことをしても意味がないということなのだ。もっと言えば、そのことをするまえに考えるべきは、それをあなたがして、社会に意味があるのかということである。あなたの経験・実績を踏まえて、展開してゆく。そのためには、孤独では厳しいということだろう。自分を見守ってくれる人とのかかわり。こんな視点は、引きこもってしまう若者たちには見えてこないだろう。


 こう書きながら、次のように言っているズーニーさんはわたしには良くわからない。

 『何か、不測の事態で、それまで一所懸命やってきた自分の経験や歴史が、そこから繰り出される未来が、外から、急に断たれようとするとき、そういうときこそ、自分という存在は、もっとも激しく生きようとして、美しい。』

 彼女が思いがけない異動を嫌って、会社を辞めたときのことを指しているのだが、なぜだろう。一辺倒にならず、あるときは自ら関わりを絶って、選択してみるのも悪くないということなのか。

 教官になる前、わたしは公的研究機関に居た。国策研究のため研究費を大量に投入していたそこでは、当時、研究でいい成果を挙げることが主眼にあった。そのため、わたしも仕事の上で必要な人とのかかわりを意識することはあったが、研究でいい結果を挙げることに躍起になっていた。求められることに集中でき、他の人が持たない技術を手に入れることが出来た。

 しかし、この技術は誰でも手に入れられるものではない。環境と時間がわたしに与えられたのだ。それは、わたしが元々望んだものではなかったにせよ、確かに私に根付いた。ここで時間を使うのだと信じていたように思う。

 その後、疑問を持ちつつも、人に求められ大学に移ったのはなぜだったろうか。

 仕事に就く前に、我々は長く学生という時間を過ごしてきた。この立場では、金を払う代わりに、責任を回避できるという特典を社会的に認められている。その間、無責任さのお陰で、たくさんの関心を自分の中に掘り起こしてきた。それは主として内面から外界へのアプローチであった。あくまで、個人的な取り組みである。

 そのお陰で、大学に来ても、学生の心理を含め、研究において人を指揮していくことにも関心が掘り起こされつつある。

 移った先で、好きにやって構わない。そういう環境ではある。ただし、これからは自己責任、自助努力。そこに踏み込んでしまった。

 果たしてこの選択はどうだったろうか。言われるがままに、人に押されるがままに、流され、前に進んでいるが、結論は数年後まで待たなければならない。

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予定調和

 以前、自治会の会長をしていたことがある。100戸に満たない県営団地のそれである。新しい街で、人の出入りが多く、地元意識は当然のごとく低い。そんな自治会だから、熱心なはずもなかった。しかし、わたしの責任感は、自分を行動に移らせていた。営繕への対応、草刈、ごみ集積所の清掃、蛍光灯の交換、各種連絡、公社事務局との対応などなど、意外に忙しい。わたしは一人身。他の人たちは、当初は逃げるようにして、わたしに押し付けてきた。しかし、もう意地になっていた。

 まず、しなければならないことを列挙し、一つ一つこなしていくことにした。特に、自治会の意思決定プロセスが不透明で、会員の間との意思疎通もできておらず、不満が鬱積していた。この種の仕事に消極的な人はともかく、積極的に関わってもいいと思っている人が不満を持っている状況は耐えがたかった。

 一人一人説得した。肩書きがこれほど便利だと思ったことはない。私なく自治会のためにしているんだという意識の下、率先して動けば、人もついてくる。号令一下、他の役員さんの協力も取り付けられるようになってくる。

 渉外事項も、会長という肩書きがあればOKだった。責任者として遇してくれる。対等の交渉ができた。他の人のためにするんだと思ったら、なるべくよい条件を引き出しておきたいから、落としどころも見えてくる。

 もともと自治会の仕事の評判はあまり良くなかった。だから、気負う必要がまったくなかった。だから、思いつきを実施することに躊躇がない。それらの仕事はすべてよい評価を得た。とても気持ちよく仕事ができた。その分、後の人が大変だろうけど…。

 初めは、厄介な仕事を押し付けられたという感覚だったが、世の中、役に応じた仕事があるし、それがしやすいように出来ているんだと思えた。予定調和。人がやっているんだから難しくない。難しければ相談したらいい。まあ、前の会長に相談したら、あんまりネガティブなので、嫌になって自分で決めていくことにしたんだけど。これだって、相談として役には立っている。決意ができたんだから。

 自治会長が偉いとは思わないが、でも、私なく皆のためにする仕事の心地よさを味わった。今度は一気に議員にでも立候補してみるか。

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反省の落とし穴

 自らを省みることはとても意義深い。しかし、一方で危険性も孕んでいる。対人関係において発生する問題は、必ずしも自分の内面にあるわけではなく、相手の側に問題が潜んでいる可能性があるということである。わたしが子供の頃、「お前が悪い」、「そんなことではいけない」、とたびたび母に叱られた。その原因を求めて、幾ら自分を掘り返してみても、徒労に終わることがあった。自分の根源的な欲求を否定されていたときである。そして、そんな欲求自体を持ってしまう自分を責め続けることになった。ストイックに生きることを自然に目指していた。

 わたしの場合は気がつかず時を過ごしたが、そんな関係からは逃げ出したほうがいい。しかし、異性であれ同性であれ、その相手が好きなのであればそこにのめり込んで、ともにその内面を抉り出して、問い直してみるべきなのかもしれない。大変なエネルギーが必要だが、それを乗り越えなくては、なにも変わらないから。

 その場合の作戦は「相手の気持ちを汲む」というところにしか多分ないのではないだろうか。この言葉は、精神医学者の中井久夫先生の精神病の治療に関する文章からの引用である。精神病と一緒にするなと言う人もいるかもしれないが、わたしはそうは思わない。精神医学の本を幾つか読んできたが、特に先生の本に書かれているのは、普通で当たり前の人への愛であるような気がしている。お節介でない配慮こそがそこでは意味を持つように思える。

 しかし、そんな問題に振り回されるというのも、なにか侘しい気がしないでもない。自分の限られた人生をよりよく生きたいと考えているわれわれにとって、この問題の前に横たわっているのは一体なんだったのだろう。実現したい事々がある。そんな自分の夢ってなんだったのだろうか。この問題が根深いと思えたときに、迷いの中にあったわたしは、研究に対する自分の集中を取り戻すことができていた…。

 それにしてもなんでこうやって、人の事を考えてしまうのか。どうしてわたしは人が好きなのだろう。そして、わたしはどんな人を好きになるのだろうか。

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表現するものは理解される

 この前映画館に来たのはいつだったろう。本当に久しぶりだ。自主的ではなくて学生に誘われてなのだが…。北野武監督の「座頭市」である。

 評判が高くて、ベネチア映画祭でも賞を受け、さまざまな評価を耳にしなかったわけではない。しかし、そんなことを気にすることなく、私も好きなあのたけしの映画を観たいと思った。

 漫才ブームの頃から、私も笑いには関心があった。自分を道化にしたり、他者を道化に仕立てたり。ユーモアのセンスがなかった私も、いろいろと学ばせてもらった。

 なんでも一生懸命。徹底的。そんなやんちゃなおじさんにみんな惹かれているのは事実でしょう。わたしもそうですから。でもたけしの映画は実はあまり観ていない。

 そんな背景でもって、観に行きました。


 革新的な時代劇とかなんだとかは関係なく、一人の孤独な人間が、つるんではいるもののやはり孤独な人間たちと争う。そして、その周りにいる愚かで翻弄されるが、それはそれで愉しく生きる人々という、人生観の対比で観てしまった。

 もう、たけしも今や、その辺の人たちとは違う地平に出てしまっている。多分、彼を理解する人なんて滅多にいやしない。しかし、彼は表現を続けている。

 そして、それをさまざまの仕方で解釈し理解しようという人たちがいる。評論家や観客たちである。その感想に違和感を覚える場面が多々あるのではないか。たけしにとってはそれで充分で満足なのだろうか。

 座頭市も、悪役たちも、皆孤独な人生を生きている。その、自分の行く末を固めた生き方の格好よさといったらない。悪役であっても、なんであっても、自分のあり方を極め、他者との緊迫感の中に生きている。

 それはタップダンスに興じる大衆と対極にある。しかし、そのメンバーの中に、恨みで生きてきた姉弟が加わることは何を意味しているのか。

 わたしも結局、こうやって人の表わしたものを、私の勝手な枠組みで解釈するだけなのだ。


 わたしも自伝的なものをまとめてみている。時間がかかってなかなか進まないが、いろいろなことがわかってきた。理解してもらうことを重視すると、過剰になり、せっかくの切迫感などが失われてしまう。かといって、思いのまま綴ると、独り善がりの意味不明に陥ってしまう。

 映画の可能性と厳しさを両方感じた。序盤の伏線の張り方や状況説明の簡潔さは、小説にはなかなか得がたい。しかし、一緒に行ったある人が中だるみを指摘していた。わたしにはそのことは感じられなかったが、大団円に持っていくには、それでは不十分で、中だるみとも思えるくどい表現が必要なようだ。とはいえ、挿話と伏線の配分をどのようにするかは、観客の想像力によって大きく配合が変わってくる。自慰的な作文を繰り返している自分には、今のように評価をしてもらえない状況では成長がない。もっと、自分をさらけ出して、コメントしてほしい気もしている。

 そんな表現者たちの愉しみを共有したいという意を強くした。


 こんな風に、思いを綴りたい気持ちがあって、それを皆に伝えたい気持ちがあるのだけれど、学生たちのような明らかに立場の違う人たちがお説教みたいに聞こえかねないこんな話を、もう少しすっきりと聞いてくれる、あるいは理解しようとしてくれるためには、どうしたらいいのだろうか。

 このように匿名で書いても、結局それはなかなか彼らには伝わらないだろう。説教くさいわたしが傍らに居て、その上にさらにこの種の文章を読まされるとしたら、彼らにはかなり苦痛ではないか。

 思いのたけをここに綴って、いつでも読んでみてねと言うだけにして、普段はそんなことはおくびにも出さないなんていう芸当ができるだろうか。

 最近のたけしは、「TVタックル」でもあんまり偉そうなことを言わなくなったような気がする。映画という新しい表現方法を手に入れて、それに語らせているからだろうか。

 彼の人となりやその考え方を身近に感じられる人たちにとって、彼はどんな存在なのだろうか。




 2004年の年始は、TVで映画三昧だった。とくにたけしの映画は3本ほど見た。そこで思ったのは、この文章は「表現しなければ理解されることはない」というタイトルの方が良かったかもしれないということだった。理解してもらおうという気持が無ければ理解してもらえないが、理解しようという気持が無ければ理解できないということでもあるから。

 映画を観客の側から見ると、金を出すから喜ばせてくれという受身の感覚も在り得る。それでも喜ばせてくれる映画って確かにすごいのだけれど、それってコミュニケーションじゃない。まあ、普通の映画って、別に監督とのコミュニケーションじゃないのかもしれないし、そうしないと商業ベースに乗らないことは自明だろうからいいんだろう。そして、映画監督って、最初はそのジレンマに悩まされるけど、だんだん名前で映画を作れるようになって、思い通りにできるようになって、つい思うがままにしてしまったりもする。そうすると、初期は面白かったのに、だんだんつまらなくなってきたとか言われることもあるんだろうな。でも、監督とのコミュニケーションという観点からすると良かったりするのかも。

 でも、どちらがその人を表わしているのだろう。結局ここに舞い戻ってきてしまう。思うがままこそが現実だという、ルールにしたいんだけどね。

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神の概念と日本人

 以前、インドネシアからの留学生との会話の中で、「神」という概念に対する日本人の違和感を意識した。ふと、あるWebページを見ていると、ユダヤ人と日本人を対比させて、日本人の特殊性について書いた本の書評が目に留まる(イザヤ・ペンダサン著、山本七平訳「日本人とユダヤ人」、「日本教について」)。それを見て興味を持ったが未だ読んではいないその本には、「日本人の究極の概念は、神よりもまず人間であり、神を人間に近づける形でしか日本人は神を理解できない」というような主張が書かれているらしい。

 その留学生と話していて思ったのは、われわれはどうしても神という言葉から、人間的なものを感じ取ってしまう。というより、神の中においても人間を見出そうとしてしまっていた。このことは意外であった。日本の神道は、決して彼らのイスラムのような、同じくキリストのような神を崇拝するのではない。神格化という言葉が使われるように、われわれの身近にあることごとを人格化し、さらに神格化して神と呼ぶのである。古事記を読めばそこに書かれているが、その神たちは限られた能力しか持たず、その意味で人間と対比できるものであり、おろかな行為さえする。であるからこそ、人間も神になりうる。菅原道真などが良い例である。もちろん、現人神としてあった天皇も。

 それは、新興宗教においても変わりない。アメリカの宗教番組を見ると、彼の牧師らもその気がないではなさそうだが、日本の宗教家はそのルーツがなんであれ、自分自身が日本で言う神になろうとする。そして、その活動は、布教活動にも明らかなように、あくまで人間関係を駆使したものなのである。神、つまりはわれわれには自由にならない何がしかの力の前には何者も平等であるという考えがないから、絶対的な力、絶対的な運命の前に屈服することがない。従って、機会の平等という考えは受け入れられない。人間を苦しめるこの世の問題の多くは、あくまで、人間の関係であって、それの解析によって解消可能であると考える。しかし、それは同じように、人間関係によって諦めざるを得ないことをも意味する。人の問題設定でさえも、人間との関係である。科学研究において何をすべきか。それは、人間関係で決まる。わたしたち日本人は、神によって生かされ、そして死んでいくのではないから、他者に依存し、阿って、自分の生き場を許される。そうやって生き延びたものが、今度は依存され、阿られ、若者たちに生きる場を許す。こうして日本人は、権限を持つものと持たざるものとに二分される。いわゆるタテ社会である。

 そもそも世界とは不合理なものだが、唯一神を頂く社会では、その不合理さを神に委ねることで不条理とし、人間たちの不合理さを浄化している。このことは、彼らを生き易くしている。しかし、われわれ日本人は、その不合理を自らで引き受けている。もっと正確に言えば、主権者が最終的に不合理さを背負わされ、汚れ、地に落ちるのだ。しかし、人は常に死んでいくので、常に新しい主権者が補給される。彼らは酷使され、その途上で絶命しない限り、神にはなれない。希薄な自己に対する意識。これこそが、日本の歴史の根源ではないだろうか。

 この国では、深い他者理解こそが、他者に、さらに言えば社会に受け入れられるという幻想を持っている。あるいは、それが叶わぬとして、諦めに人生を包む。

 高々、人間の運命を決めたとて、神の前にはひれ伏すしかない。戦争になっても、ある意味、厭戦の感覚は個人的なものに過ぎない。結局は、その意味では日本も諸外国も変わりはない。個人にゆだねられるか否かという、最も極端な選択においては。

 このことを逆に利用できないだろうかと考えてしまう。しかし、これまでの様相を見ても、ただブームという名の一過性の病に過ぎないのだ。そうやって、生きるに十分な富を得たブームの創造者は、一人穏やかな人生を歩んでよしとする。

 この絶対的に不安定な人間に基づくしかありえないという考え方は、われわれ日本人を不幸にしている。絶対的な力の前に無力な一神教徒たちは、今ある環境を楽しく生きるしか道がないことを知っている。しかし、一方でわれわれは、自助努力が足りないから幸せになれないのだと考えている。つまりは、運命を目の前にしても、諦めることができないのだ。だからこそ、自助努力の結果としてその地位にいるヒーローやヒロインたちは神格化され、熱狂的な人々を生み出す。そろそろ分け知っても良さそうな若者たちが、プロ野球選手やタレントにあこがれるのは、必ずしも万国共通ではない。わが国の彼らのこの感覚は、純粋で、不良たちにも共感を持つ、そういった、生き方である。それは未熟なのではなく、この国では見出せない「神」に出会うことを期待した生き方であるのだが、既に、努力の結果見出されると感じている点で毒されてしまっている(もちろん努力が実る事だってあるのだが)。彼らの逃げ場はもうない。不幸にも、親たちと同じ運命をたどるしかないのだ。そして、諦念に人生を包む。

 とはいえ、われわれ日本人はこの構造から抜け出す必要などないのかもしれない。グローバル化の波の中で、われわれの独自性は既にここにしかないのではないだろうか。とはいえ、近年の社会変革に伴う個人改造が作り出した不器用なまでに徹底した個人主義は少しずつこれを解消していくのか。多分、無理だろう。自然、世界という自由にならないものに対する敬意がないこの大多数は、既に、力であり、その共鳴によって生きている。民主主義を得てしまったこの社会から抜け出すためには殲滅しかない?そんな不毛さでなく、この国が、それを背負いながらも、生きるすべを探すべきだろうが…。

 わたしの不安が、このような神のいない国「日本」の中にあって、その違和感から生じてきているとしたら、どうだろうか。わたしはどうやって、この囲みを破って、心から気持ちよいと思えるだろうか。わたしの行動や考え方に意見し、それは普通ではないというのはどうしてか。その源泉を捕まえなければ、わたしの安寧は得られないだろう。


 最近、わたしは2つの問題について考えている。

 日本人の極端さがどこから来るのかについて考えている。

 また、「公としてのわたし」と「私としてのわたし」をどのように配合していくかについて考えている。

 これも、日本人の世界観から来るのかもしれないと考えたくなるのだ。これも、日本的な発想だろうか。

 極端さ。これは、意識と無意識の区割りの中で、どのように生きるかということに還元できるのではないだろうか。

 一人の人間が意識的に何かの事柄を行うときにも常に、一方で意識されない事柄があるだろう。それは気づかないということであるが、その気づかなさを共有しなくても、相互に補い合うことによって、生かされている。このことが自由な意思の共存である。神の前では、何人も平等であり、その生き方を非難されたりはしない。いや、非難はされるが、それによって人格を否定されることはない。

 20年くらい前だろうか、東北大の西澤潤一先生の仕事についてTV番組が放映されていた。当時中学生の私はその番組に見入っていた。その仕事へ傾注するエネルギーに心を打たれたのだ。そこでは、西澤先生の新理論に対する日本の学会の受け止め方について触れていた。ノーベル賞学者の打ちたてた半導体理論に意義を唱えた先生の説を、日本の学者は受け入れようとしなかった。しかし、欧米の研究者たちは、率直にそれに賛意を示したという。

 科学の問題が新たに起こるというとき、日本ではそれを受容するかどうかは、集団の共通無意識としていかにかという、科学とは別の次元の問題で動く。それは、現状の安易な肯定という、日本的な社会観にある。


 資源のない国が求める豊かさ。資源がなくとも、ものがなくとも豊かに生きる術を開発していくことができないのだろうか。江戸時代以前を考えてみれば、このような世界規模でのエネルギー依存体質とわれわれは無縁だったはずだ。

 薪をくべ、菜種油を絞り、必要なだけのエネルギーは手に入れることができた。

 既にわれわれは原子力まで使って、エネルギーを搾り出している。自らの国にないそれらの資源を手に入れるため、戦前はアジアの諸国を、戦後は労働者たちを搾取し、切り売りした。今はどうか。労働者が全国民になったのではないだろうか。皆が、楽しみを捨て、目の前の狂乱の後の負債の整理に躍起になっている。これが済めば楽しい時間がやってくるのだと。これは子供の教育とも関係している。小さいころ苦労をすれば、後が楽だろうと。そうやって耐え忍ぶことになれたわたしたちは、相も変わらず、そんな苦行を人に強いている。そして、その共同幻想を振りかざして、自らばかりでなく、他者をも苦行に貶め、満足するのだ。

 われわれが神を持たないとして、それがどうしたというのだ。そのことを誇り高く語り、そして生きていけるようなそんなあり方を模索したい。それは、日常の中にあるのだと信じている。


 その後、山本七平氏の著作等を読む機会があった。そこには恐ろしくも、確固たる事実が書かれていた。以下、幾つか取り上げてみたい。

 三島由紀夫の割腹事件における周囲の反応について、司馬遼太郎氏の批判を引用している。「思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである。思想は思想自体として存在し、思想自体として高度の論理的結晶化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とはかかわりがないところに繰りかえしていう思想の栄光がある。ところが、思想は現実と結合すべきだというふしぎな考え方がつねにあり、特に政治思想においてそれが濃厚であり(と氏は書いていますが、私はむしろ、日本では、「政治においてそれが露呈する」と考えます:著者注)、たとえば吉田松陰がそれであった。」

 嗚呼と唸ってしまった。研究者の生き方というのは、思想を現実とどのように合一させられるかというところにあったと思われるし、わたしもそれを実践してきたつもりであった。しかし、ここではそれがあっさり否定されてしまっている(司馬氏は科学とイデオロギーは別のものだと言ったかもしれないが)。虚としての思想を構築するのが科学だとするなら、それを批判することはた易いし、決して批判によっても罪悪感などはおきないものである。先に書いた西澤先生の思想の受け入れが、国内では速やかにはなされなかったのは、ここにあるのではないか。キリスト教国では、科学は人間の営みであって、神に迫ろうとするものであるが、不完全な人間であるから、そこに至れないことは、彼らにはわかっている。日本では、最近の科学論(村上陽一郎先生らの成果として)科学は現実を説明するための仮説に過ぎない点が強調されてきている。これを強調せねばならないのは、われわれが、絶対をわれわれのなかで解釈しなければならないからではないだろうか。われわれは、科学を金科玉条のごとく受け取っているのではない。また、欧州の価値観を絶対だと思っているわけでもない。

 また、ここでわたしが政治に期待する理由がここに明らかにされてしまっていた。思想と現実の一致こそ、わたしの理想とするところであって、それを実現するには政治こそがもっとも主要な手段であるから。そうではあるが、この国ではそのような考え方は決して多数派ではないということがここに述べられている。わたしの苦悩の源泉は結局ここにあるのだ。政治家になりたいと嘯いているが、こういう理由なのだ。

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気質・性格と向かい合う

 別のところに少し書いたが、精神医学者の土居健郎先生は、人間の気質の分類を精神病理の言葉を使って試みた。

 精神病理では「一方的なコミュニケーション」が生じる。『「わかられている」分裂病圏。「わかられっこない」躁うつ病圏。「わかってほしい」神経症圏。「わかられたくない」精神病質圏。「わかったつもり」パラノイア圏。「わかっていない」器質的脳障害圏。』(土居健郎「土居健郎選集 (5):診断と分類についての若干の考察」)

 気質とは対人関係で表れてくるものだ。独りでいても、悩みの原因は究極的には対人関係であるから、このコミュニケーションの不和こそ、苦悩の源泉である。

 そんな苦悩を生み出すのも脳の作用である。脳は非常に高度に構築された情報処理器官であるが、その複雑さゆえに生物学的にも必ずしも完璧な機能を持つ状態が実現できるわけではないのだろう。そして、その極端に失調した場合が精神病理に繋がるわけであろうが、それほど極端ではないときにどうなるのか。一般に正常だと思われている人々にも、その程度の軽重によって、それがさまざまな気質として現れる。しかし、これらの不完全な状態も実は不完全ではないかもしれない。新たな可能性として捉えることもできるのではないだろうか。つまり、ある機能が低下した結果、脳の可塑性によってそれを補完するように他の機能が昂進する。それが究極の場合には、異能と解釈される。

 話が逸れるが、自分の子供を異能児つまり「天才児」にしたいという親が存在する。厳しい言い方かもしれないが、そんな親は、人生において何が幸せなのかの一端さえも掴みきれていないと思う。われわれは、複雑な社会の中に生きている。そのなかで、極端な能力で生き延びようという安易な戦略である。誰しも思いつくが、それが成功するかどうか、きちんと検証できるのだろうか。それが幸せなのだろうか。人はそれが子供でも他者の人生を生きることは出来ない。人生が思い通りにならないことを知りつつ、それを子に、そのような形で託そうという思いの根拠が分からない。多くの場合、根拠なんてないだろう。また、その意識の裏側には、そういう手立てをしたのだから、親として充分だろうというエゴも見え隠れする。

 先天的に気質を決定する要因がある一方で、このように後天的な要因によって能力、いや気質を開拓しようという試みもあるだろう。意図的なら習慣であろうし、望まれなければトラウマがそれに当たるであろう。反復的な価値観の植え付けなどによって、ある考え方が強く形成される。あるいは、精神的なイベントによって、あることを回避しようという意思などが働くことがある。それは、感覚器で受容した刺激を、価値と称する脳内の情報処理メカニズムによって、なんらかの感情に繋げる。例えば、人と話すのが嫌だ、怖い。それは過去に人が自分を受け入れてくれなかったからかもしれない。そういった過去の反復は、ある刺激、例えば人と話さねばならないという思いがおきたとしても、途中の価値に関する処理をすっとばして、いややっぱり止めるという結論に結び付けてしまう癖になっているのかもしれない。

 さて、ではどんな指針で生きるべきなのか。ある脳の機能が低下することで、ある気質が形成されるとしたら、その機能が回復しない限り、その気質は消えないことになる。特に脳の先天的な病を治すのは、現時点でほとんど困難である。今問題にしている脳の機能の低下が、先天的な問題なのか、後天的なのか。それが中心課題なのかというとそういうわけではない。置かれた環境において、それを解決すべきなのかどうかを見極めることのほうが先かもしれない。自分の代わりは幾らでもいるのだ。嫌なら辞めたらいい。もっと他に自分にあった環境があるかもしれないのだ。多くの場合、その気質は先天的か後天的かはすぐには分からない。だから、こんなとき自分の気持ちに素直になってみるほかはない。努力して繕える部分かどうかを。とはいえ、これは運命なのかもしれない。運命は人に幸せを感じさせることもあろう。しかし一方でとても残酷なものでもある。あくまで両価的なものに過ぎない。

 諦めて他所に移るんではなくて、ここでまず頑張ってみたいと思ったら、さてどうしたらいいだろうか。別のところで、努力すれば何でも出来るというのは幻想だと書いた。だから、今の選択や決意が成果にどうかを判断することは非常に難しい。だから、若いうちは失敗するのである。自分を弁えない。評価する能力がないから仕方がない。だから、年長者の助言が意味を持つこともあるわけで、素直に聞けばいいのかもしれないのだが、それをまず聞けないのでは…。仕方がない。

 そんな不安をもって絶望的でも頑張ってみるというのは、果たしてどうだろうか。一縷の望みを繋いで、それで満足できるなら、それも悪くなかろう。あくまで、自分の決意である。そして、それは独りだけのことではない。他者もそれに多かれ少なかれ巻き込まれる。他者の人生との係わりを完全に除くことはできない。その覚悟をするということ。それが人への想いであり、喜びではないのだろうか。多分、その覚悟が人を輝かせて見せるんだと思う。

 それは覚悟の上で頑張ろうというのなら、わたしの方法はこれである。例えば、対人関係において、自分なんて他者には「わかりっこない」と思ったら、躁鬱病気味の脳の状態になっているのかもしれない。そんなときでさえ、その問題点を客観的に眺めるだけだ。

 気質と能力については別のところで述べるが、両者の深い係わりについてはほとんど理解されていない。人間が都合よく欲しいと思う能力を、自分を変化させることなく手に入れられると思っている。そして、もっと言えば、人の内面が変えられると思っているようである。それは勘違いも甚だしい。

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自立と依存―成長とは何か

 わたしは両親に愛された。そして、弟妹を押しのけてそれを獲得することにも執着してきたように思う。それには、家庭が安心できるような雰囲気ではなかったような気がしてならなかったことも関係しているかもしれない。突発的な両親の不仲や最終的には離婚の前後の諍いが、家庭の不安要因として強く心に残ってしまっている。だから、常に安定的な関係をつい身近に求めてしまっているのだが、その戦略はあくまで個別の関係構築によって、そこに到達しようというものである。それは子供ながらの自己中心的な構図であって、私を介してしかつながらない他者がつながることに、喜びを感じる自分に気づく。鎹(かすがい)としての子なのである。それは社会に出てからも変わらない。中間管理職にとっては、職場の人間関係を如何にして良好に保つかが、関心事のひとつになると思うが、結局、この方法論ではすべての関係を掌握しておこうと言う傲慢さにつながっていく。関係の場が以前からそこにあるのなら、われわれはそれに身を委ねるのだが、その場の感覚が薄らいでいるところに、関係性は自ら構築せねばならないという決意が必要になる。その結果、関係が必要以上にクローズアップされ、生きるうえで欠くことのできない、人生でもっとも重要な課題であるかのような印象を持ってしまっている。それへの反語として、他者を幸せにしたいことは傲慢であり、役割を任じさえすれば関係性を果たしたと考えたいという言葉が出てくるのではないだろうか。人を幸せにする?どうやって?と考えてしまうのは、多分、わたしだけの問題ではなく、この種の経験が作り出したものなのだと思える。結局苦悩の挙句に到達した幸福感は、役割を任じたから OKだと考える自立の結果生じたもので、もう共感ではなくなってしまっているのだ。共感を諦めることでようやく到達したのである。

 両親に愛されたという事実を否定できない自分がいるが、その「愛され方」については、あまり丁寧に考えていなかった。ウェブを眺めていると、あるページの書評に次のような引用があった(土居健郎『土居健郎選集〈3〉精神分析について』岩波書店, 2000年)。

 「それでも私は、『こころ(注:漱石の小説)』の「先生」が投げかける問題はわれわれすべてにとって意味があると思う。それは特にわれわれ日本人にとって重要であろう。われわれは「甘える」ことはしっているが「愛する」ことを知らない。いや「愛する」こととは「甘えさせる」ことだと思っている。ところで「甘える」ことは知っているが、真に「愛する」ことを知らない人物が、精神的自由と独立の問題にぶつかるとき、精神病と境する孤独に陥ることを『こころ』は教えているのである。もっともここで問題をさらに一歩つき進めることもできる。「先生」がつまずいたのは、ただ「愛する」ことを知らなかったというだけではなく、真に人格的に「愛される」という体験を持たなかったからではないのか。この体験が欠如しているからこそ、「先生」は「愛する」ことができなかったのではなかろうか。」

 「人格的に」愛される体験という言葉の意味が、わたしに突き刺さる。親が子を愛するというとき、それは一体何なのだろうか。どうやら母は、わたしに自立して欲しかったらしいが、自立できなければ愛せないということではなかったか。もちろん、感受性が高く頼りなく映るわたしが人生で立ち往生することを恐れ、一人で生きられるようにしてくれたのかもしれない。それは、幼い頃父を亡くした母の思いなのだろう。その結果、わたしはどんな生き方をするにしても、「自立」を避けて通れないことを意味する。理路整然とした母の叱り方に、甘えたかった幼いわたしは全人格を否定されたように思い、とても寂しい思いをしたものである。そのことは、今、わたしが過去について何かを言うとき、母は怯えたように思うことからも明らかだ。自分自身がそのことを恐れているのである。その結果、わたしは、わたしの人格を、母の気の向くようにしなければならなかった。そうしなければ受け入れられず、さりとて、受け入れないという選択肢を取れるほどの勇気もなければ、孤独な母を見放すこともできなかった。その意味で、わたしは、母を超えなければならないと思う。未だに、そんな母の価値観に引っ張りまわされているように感じる。

 小学校教員は、その意味ではしばしばとても深い体験に基づく言葉を述べる人がいる。ウェブサイトで見つけた小学校教諭の露木和男先生の言葉を引用する。

 『授業こそが、唯一、教師が成長できる場である。授業で勝負、というのは斎藤喜博先生の言葉であったが、授業で「勝負」などしなくてもいい、他人と比べることもない、教師は目の前の子どもに心から共感し、共に歩むことで教師は成長できるのである。』『子どもの「こころ」の声を聞く。今、何が必要なのかが見えてくる。子どもの「こころ」が集まれば、そこに無数の関係が生まれてくる。複雑になればなるほど、そこに新しい関係が生まれる。子どもの「こころ」は、あたかも生き物の生態系のように、競争関係も含めて、互いにつながり助け合い補い合う関係が生まれる。』『子どもが学校で学ぶ意味は、将来のために知識や能力を貯えることではない。仲間の中で互いにかかわりながら、価値ある活動に参加し、世界とつながり仲間とつながり、そして、自分らしさを見つけていくことに意味がある。』『そして、結果として、見出した自分の知識や能力が生かされることを無上の喜びとする生き方を見つけることである。』『人間の素晴らしさは、こまやかな美しさに感動したり想像力を駆使し、文化や芸術を育んできたことである。そして、心豊かに自然や文化を慈しんできたことである。教育が、文化の伝達とともに創造をめざす営みであるならば、その根本において、仲間を思いやり自然や文化への愛を大切にしなければならない。』

 これとは違い、別のところに書いたが、やはり国語教諭の大村はま先生の言葉は『自立』がキーワードであった。これは、彼女が苦学して教員になった頃の女性蔑視への反動として、自立への強い信念が作用したものと思われる。それは社会的意義があるし、立派だとは思うが、あくまで個人的な信念である。こういった何かに固執する生き方が、個性を生むのかもしれない。そして、そんな個性が融和しあって、社会を形成していく。

 さまざまな人が、それぞれの個性を発揮して、一見勝手に見える事をして生きている。わたし個人としては平和にやりたいと思うが、個性を公共性に変え、それを大義名分にして人に強要する人もいる。そして、それに反論したり、それがもとでけんかになったり、それもそれぞれ勝手なことなのだろう。優しさを価値にしたり、勝ち続けることが価値だったり、そんなそれぞれが、それぞれとして生かしてもらえる世界というもの。そんな世界を、自分の自由にならないものとして理解するだけでは寂しいかもしれない。

 人を愛し愛されるということの意味は、それではなんなのか。土居先生の『こころ』に関する記述を見、自分の体験と重ね合わせ、それではどうしたらいいのかと問いたい。すべてをフルに動員して生きて行きたい。そういう欲求が空回りしている。自立も依存も。愛し愛されることも。大事なところを抑えられていない感じ。自由な精神を持って生きていくこと。

 極端な自立と極端な依存。その両極にある価値観。その両者の考え方が融和していく。人間関係とはそのようなものだろう。甘えが得意な人は、豊かな人間関係を構築できる傾向があるが、それ一辺倒では人からの信頼を勝ち得ない。真の思いやりは、自立した人間がもつことができるものであるから。だとすると、この両面を兼ね備えなえることが、人の目指すところではないだろうか。これはバランスであるため、維持することは難しい。うっかりすると極に安住しようとする。しかし、これは避けがたいことなのだろう。

 その意味では、教育とは上に書かれているような一辺倒の何かを提供することではないと思う。常に中庸を維持する。生真面目な集中と、中庸を保つ鷹揚さ。それは安易な生き方ではなく、むしろとても困難なのだ。そのことに気付く必要がある。ただ、それを如何に実現するかとなると、その方法を構築せねばならない。今年度は、内省の仕方がテーマだったが、次はそれだろうか。


 数学者の岡潔先生の本を読んでいたら、次のような言葉を見つけた。

 『私の友人の秋月(康夫)君が、ある若い数学者に「君のクラスにはよく出来る人が多いが、なぜだろう」と聞くと、その男は「それは先生がいなかったからです」と答えたということです。』岡潔「創造性の教育」

 人が育つ過程において、あまり性急に解を与えると、彼らは解を自ら探す事をしなくなる。とはいえ、自分で自分の方向性を決められるからこそ、この若い男はよくできたのであろう。放っておいても勝手に育つ。そんな放任主義の自立を促すやり方が誰にでも通用するわけではない。岡先生は同じ文章でエリート教育について触れている。

 『誰でも教育さえすれば、必ずしも創造性を伸ばすことができるかといえば、そうはゆかないことです。これは天分がいるのでして、そういう天分を持った人の比率は、それほど大きくないと思います。…それ以外の人に創造性の教育を行っても、国としての収益はないから、経済的な観点からは、無駄です。』

 では、誰がそれに値し、誰が値しないのか。それは、今の私には分からない。

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欲望のバランス(2)

不自由さの中に生きる戦略

 なんだか言葉が宗教じみてきて、胡散臭さが漂うが、この問題を避けて通ることは出来ない。宗教嫌いのわたしも、ようやく最近そんなに悪くないかと思うようになってきたから、今やこんな風に書けるのかもしれない。勘弁して欲しい。

 われわれ人間は、それぞれに自分の理想的な世界観を持っている。しかし、一方で自由にならない外的環境、つまり世界と他者が存在し、それと係らなければいけないことを知っている。そうしなければ、特別の庇護がないかぎり生きていけないから。そこで、その分裂した自己と他者の間をどうにか取り持つために、さまざまな工夫をするのである。

 その取り持つ工夫には幾つかの方法があるだろう。もっとも世界的に見て一般的なのは、宗教である。これは理想的な世界観を掲げて、それに皆従うようにさせるものである。皆の持っているそれぞれの理想から共通部分を抽出して、一定のルールをつくり、他者の世界観と自分の世界観が一致するような形式をとらせるものである。これに従える人は、そのコミュニティーのなかで愉しく生きられるのだと思う。わたしは、そのことを否定的に捉えない。

 もともと、宗教の効用というのは、制度としての理想の制御である。現実に満足するため、余分な理想を描かせず、発展・展開させない。米国産の映画にはたびたび、浮世ばなれした生き方をするアーミッシュというキリスト教の一派を信仰する人々が登場する。彼らは、電気も使わなければ、車も運転しないとても質素な生活をしている。しかし、彼らの子供はその窮屈さを強制されず、成人したときに、信仰を続けるかどうかの選択が出来るのである。映画の中では、彼らを褒め称えたり、現実を愉しまない愚者として扱ったりして、評価が一定しない。過ぎたるは及ばざるが如し。しかし、こんな窮屈な生き方を望むものは少ないだろうと思いきや、彼らの多くは成人になっても、信仰を続けるそうだ。

 このことは、自由とは何かということについて、とても深い問題を提起していると思う。アーミッシュの子供らは、生活の中で宗教の効用を実感する場面が多いのではないだろうか。だからこそ、成人になってもそれを選択する。そんな精神の自由が彼らに許されているから、不自由を感じないのだろう。それに引き換え日本では、一部の宗教は信者の自由をある部分では奪う印象が強い。入信した後の信仰の自由、つまり脱会の自由がないのが、新興宗教の典型的なパターンである。しかし、ここでは宗教だけを責められない。信じる側の自覚と責任について、あわせて議論する必要があろうが、ここでは触れないことにする。

 こんな風に、自由にならない世界とか言って自由を諦めている一方で、宗教に不自由さを見て嫌い、自由を求めているように書くことは、これまでの論旨と矛盾しているように思うかもしれない。しかし、決してそうではない。自由にならないのは世界や他者だと言っているのであって、自分自身の精神まで不自由だとは言っていない。信教の自由といったとき、共通の世界観に拘束される自由は認めるが、そこから外れる自由は認められているのか。どんな価値観に生きるとしても、その自由が保障されていること、つまり自分が思うがままに生きるということが最低限必要なことだと思える。だから、そのために宗教を使うのは構わない。でも、もっと思うがままに生きる方法はないだろうか。宗教に限らずひとの思想には傾聴の価値があると思うが、人間というものはいつでも信用に足るものではないから。

 また、もっと言えば、自分の思うがままに生きるというのは、まさにエゴイズムを表わしている。そして、世界や他者への思いやりというのは、社会を越え、宗教に行き着くかもしれない。私の問いは、ただ単に求めればエゴイズムの究極になるかもしれないが、前にも書いたとおり、そこにゴールを求めているのではない。どちらも、わたしにとっては避けたい方法だ。

 さて、話を戻そう。これまで、想像力や理想というものは、自分の満たされない欲求と、解消されない不安を減らすために使えるものだと思っていた。理想への不断の努力は確実に日々を充実させる。実際、栄光はこの結果として得られたものである。しかし、それにばかり頼っていると、安易な成果では満足できなくなってきて、目指すものを難しくする。そのうち、現実と理想の乖離が甚だしくなるうえ、時間は過ぎていき、不安が高まってしまう。もちろんこの話は、理想主義者にだけあてはまる。

 これは生命活動の本質であるインフレーションとは、相反する考え方である。われわれが生物として利己的な遺伝子を残すために生きているのだとすれば、ヒトという種の保存のために、さまざまの無理難題を引き受けたいなんて思えるはずがない。

不自由さを超えるタフな精神

 理想を原動力とするとしても、その理想が何かによって、生きる戦術が違う。現世の自分の利益を追求するとしたら、何をしたらいいのか。前面に出られるように作戦を練る。連戦連勝の輩は妬まれる。ゴルバチョフや李登輝がどんな心変わりをしたか知らない。実は心変わりなんてしていないのかもしれない。

 しかし、エゴイストは周囲が気付くといった。それでは、曖昧に使ってきた言葉「エゴイスト」とはなんだろうか。周囲を凹ましたり、上に取り入ったり、手に入れた能力とはなんだろうか。

 人を責めないというスタンスは、ある意味、戦略的にはエゴイストともいえる。最初からその戦いには入らないということで、敵前逃亡ともいえる。

 戦うエゴイストと、わが道を行くエゴイスト。どちらも大差ない。結局、自分の作った価値の中で、思うがままに生きているだけなのか。

さて本当に人の求めるもの

 ここまで読んだら見えてこないだろうか。自由な精神で、不自由な世界を泳いでいく。当初はつたない泳ぎかもしれないが、だんだんとうまくなってくる。そして、そんな風に生きる自分を愉しく思えるということ。疎ましいことを好きになってみる。自分の心が、狭い価値に囚われず、のびのびとしている状態。それを自ら作っていけるということ。

 しかし、そうやって不安が除かれたとして、新たな不安が襲ってこないだろうか。ここまで努力したのに、安心は得られないのか…。

 この文章でも難しいでしょうか。もうちょっと方針を変えないとわかってもらえないように自分でも思う。これは今後の課題ですね。

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欲望のバランス(1)

自分勝手の落とし穴と能力を手に入れるということ

 自分の思い通りにならないのが現実だが、そんな環境の中で、思いを実現しようと頑張ってみる。思いが強すぎると、現実とのギャップに苦しみ、世界の中に埋没してしまうけれど、普通はその現実の中、不満も喜びも抱えて生きている。

 まだ未熟で幼い頃、頑張ればいい事があるんだと信じ込んでいた。でも、実際は何も変わらなかった。ただ、人をおとしめて手に入る束の間の優越感は別だった。人より優秀だとか、格好いいとか、そんなことが自分を頑張らせる源だったのかもしれない。しかし、その時々で良い気分にはなっても、それは根本的な解決にはなっていなかった。人を劣等感におとしいれることの引き換えに、自分が優越感を得る。そんな卑劣な方法で、孤独に堪え、集中して何かに向かうことが出来た。そうやって、自分の能力を高めることができた。ただ、一方では人に劣等感を与えた後ろめたさから、表面的なものではない真の友情を得ることは難しくなり、孤独に置かれている。これは交換条件なのだと諦めていた。そして、いくら孤独に悩んでも、その上でさらに孤独を保つことによって、優越感を保つために必要な時間を手に入れることが出来る。だからいいだろうと思っていた。しかし、時々寂しくなると、媚びてみたりする。そんな悪循環に落ちていた。

 しかし、そうやって手に入れた能力は、決して悪いだけではない。それを相変わらず、自分の優越感を手に入れるために使うのではなく、人との係わりの中で威力を発揮させたら、初めて人をおとしいれた恥を雪ぐことが出来るのかもしれないと思う。他者のために役立てる自分を発見したとき、孤独から解放され、充足感を強く感じることができるように思う。

 とはいえ、長く悪循環に置かれていたためか、この喜びの中にもう一切の優越感が含まれていないのだと言い切れない自分を恥ずかしく思う。しかし、それは以前の単なる優越感とは少し違っていて、優越感を得られないことでも、人の役に立つならやってみようという気持になれる。

他者の役に立つということ

 しかし、他者の役に立つというのは、どういうことだろう。その人がそのとき喜んだとして、本当にその人のためになっているのか。実はその場の喜びに過ぎないのではないか。本当にその人の目指すものはなんなのか。これを理解するのは、とても難しいことである。

 これでいいのだという自信が持てないから、その場の喜びを追い求める。今さえ良ければいいじゃないか。まあ、それも構わない。好きにしたら良い。あなたの人生なのだから。しかし、そうやって人の本当に求めているものについて配慮がなく、理解しないうえでの行為は、自己満足に過ぎない。行く行くは、他者からも理解されなくなって、孤立していくことになるだろう。

 では、本当に人の求めるものとはなんだろうか。それは人としての成長ではないかと思う。成長が具体的に何を指すのかというと難しいことだ。人に優しいことや、高い能力というのもここに入るだろうが、もっと奥深いものなのじゃないかと思っている。これについては後で述べたい。

 そんな人間としての成長なくして、人からの信頼は勝ち得ない。人は一人では生きられない。自分が何かしたいと思ったとき、人の助けはどこかで必要になる。信頼されない者に、誰が手を貸すだろうか。あいつはエゴイストだから、勝手にしたらいいじゃないか。多分そう思うだろう。

 相互依存で成り立っているという人間関係の基本でさえ、安易で安楽な自己満足の世界に埋没すると見えなくなってしまう。こんな風に、日々の自己満足への欲求が邪魔をして、本当に目指しているものを見えなくしてしまう。更に厄介なことに、本当に目指すものへは、ゆっくりとしか到達し得ない。そこに、難しさがある。スピードを求められる現代社会においてはその困難さは増すだろう。しかし、それに惑わされてはいけない。着実に進んでいる感じがつかめれば、日々は充実していると感じられるものだ。それを頼りに進むことを恐れないようにしたいものだ。そのためには、自信が必要なのだけれど。

他者の理解のための自分探しの旅

 人の本当に目指すものはなかなか奥深くて理解しがたい。だから、まず日々目指しているものが何なのかを考えたい。そのためには、他者を題材にしてもいいのだが、それはさまざまの問題があって難しい。だから、自分が目指すものを理解するところから始めるしかないだろう。自分自身との付き合いは長いから、他の人より自分のことをよく分かっているはずだし、裏切らないという点で他の誰より信頼できる。そして、自分の言葉で正面から対話できるのは、ひとまず自分しかいない。

 自分が目指しているもの、つまり欲するものが何なのかを、腹の底から抉り出そう。自分の根源的な欲求はなんだったのか。ただ、ここでいう欲求とは、食欲や性欲といった生物学的で本能的なことではない。それが恒久的に満たされれば満足かもしれないが、それはありえない。だからこそ、その手段として自分がなにをどうしたいのかという、もっと人間的なものを求めているのだ。

 その欲求としては、お金を手に入れたいとか、人に喜ばれるような事をしたいとか、優越感を得たいとか、人からちやほやされたいとか、人をうまく操って思うがままにしたいとか、さまざまなものがあるだろう。そして、それぞれへの思いの強さはどうだろうか。とても欲しているとか、諦めているとか、さまざまではないだろうか。斯く言うわたしにも、ここに挙げたような思いは、どれも少なからずある。しかし、あえて探してみれば、悠々自適の晴耕雨読の生活を送り、あらゆる知識を集約したいというのが、一番の望みであろうか。ただ、その反面、研究で良い結果を出して評価されたいということもある。これらは相反することのように見えなくもないが、同じ人間から出ているものである。多分、何かの問題があって、矛盾という形で見えてしまっているのだ。それを探すのも、内省の旅の意味に含まれる。

 さて、次に考えるべきは、その目指すものを欲しているのはなぜなのだろうかということである。なぜその欲求が他の欲求より強調されて自分の心の中にあるのか。私の場合、悠々自適の晴耕雨読とは、人との係わりを少なくするということに、あらゆる知識を集約するということは、知を持って他者との係わりを再構築できるのではないかという欲求の裏返しのように思える。その背後には、対人関係への恐れも含まれていよう。

 一義的には、もっともらしい欲求だったのに、裏を返せば、わたしの単なる対人恐怖症が原因かもしれないということが見えてきた。内面の弱さを隠すために、高貴に見えるテーマを掲げているとも思えてくる。このように、自分を掘り下げていく過程で、自分を否定するような辛い事実にも直面する。しかし、ここで大切なのは、そのことをあまり自罰的に考えてはいけないということである。まずそれは単なる事実であり、そのことだけで善悪を判断することは出来ないと考える必要がある。この問題が明らかになる前に、特段困ったり悩んだりすることがなかったなら、この新しい見解は自分を改善していく良いきっかけなのだと肯定的に捉えられると思う。もっと冷静で着実な分析をすべきだろう。

 それではなぜ私は対人恐怖症なのか。ここまで掘り下げた問題に答えるのはそれほど容易ではない。そして、それを克服するのもそれほど容易ではない。それはなぜか。とても根源的な幼少期のころの遠い記憶に端を発し、それからの長い経験と反復が、そのような性質を補強して強固な循環を形成させるからである。(このあたりのわたしの個人的な問題については、他のところにしつこいくらい書いた。)

 このことは、人は自由ではないことを示している。選ぶことの出来ない外的環境のなかに置かれ、それが与える刺激と、幼い時には自分の無意識の相互作用によって、人格を形成してきたのである。周囲がある人の行為や発言を、どう感じどう思うとしても、それはその人が自由に望んで得たなにかであることは意外に少ない。言い方は悪いが、見るべき部分がない人ほど、そのことは顕著である。そのような会って不愉快になる人に出会うと、わたしはその人の運の悪さにとても寂しくなる。だからこそ、先に書いたような内面に向かった結果としてあからさまになる自己を否定するような事実も、避けがたい不運に端を発していて、その意味で自分を責め続ける理由はないのである。自分にとって辛く嫌いな側面があったとしても、その事実から自由ではないのだ。

 このように我々は、人との係わりや内省の中で、自分の持っている循環だけでは対処しきれない苦悩や問題を背負い込むこともしばしばである。そんなとき、それを何とか克服したいと思うか、あるいは単に逃避する事を考えるだろう。後者を選ぶのは、安直ではあるがとても効果的に安寧を得ることができる。よりよく生きてみたいという本当の欲求を覆い隠す点では、不満感をもたらすとしても、その不満は一時に過ぎず、去ってしまえば残らない。しかし、前者のように、満たされない気持ちを俎上にのせ、それに注目しつづければ、とても日々は辛いものになる。それを選ぶくらいなら、便利に生きようという考え方になるのも当然だろう。こうやって、ますます安易に循環に従い、その循環を補強し、逃れられなくなってくる。よりよく生きてみたいという欲求から離れて行き、日々の繰り返しの中に、取り返しの付かない時間を蕩尽していくことになる。

 しかし、人はその気になれば、どんな運命の下でも、意志を持って生きることはできる。そのことがあまり容易でないことも含めて皆知っている。世界には混乱の中にある国家が残念ながら数多く存在する。そこに生まれた彼らが不幸かといえば、そうかもしれない。しかし、その運命に甘んじて生きていていいと彼らは思っているだろうか。その意味でも、何歳になっても無反省に、運命に安易に身を委ねていることは、単なる自己中心であり、身勝手に過ぎない。周囲の状況を解せずただ気の向くままに生きている人を、いつしか周囲は見放していくものである。

 二十歳を過ぎたからといって大人になったとはいえないし、人はいくつになってもよりよく生きたいと願う子供のようなものだ。しかし、子供のように自分の欲望に正直だが、大人の分別があるというのは、とても寂しいことだ。そのことは容易には人には知られないだろうと自分で信じていても、エゴイストに人はすぐ気がつく。人はそういう人と係わるリスクに敏感だからである。また、大人びて見えていても、それは単に諦めのなかに生きている人だったりする。諦めも自己中心の別の表現形であるからだ。

 「四十にして惑わず」。いわば不惑であるが、それの意味するところは何か考え直してみると、自分の迷いを運命の所為にして時間を過ごすことを卒業し、自ら思うところのものに従って生きていくということではないだろうか。われわれは自由ではないと書いた。面倒な仕事も生きるために引き受けていかねばならぬ。そんな不自由さの中で、満たされた感覚を得るためには、どんなふうに考え、日々生きたらいいのだろうか。

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幸せって

 まず、思いっきり引用。池田晶子先生の『考える日々―One size fits all (2)』から。

 『人が絶望するのは、あらかじめ希望をもっているからに他ならず、希望がなければ絶望するはずもない。と言って、希望を捨てる、希望をもたないようにするというのも、一回転した希望である。そうではなくて、私が言っているのは、「生きて在ること」すなわち「人生」が、そもそも希望をもったりもたなかったりするべき何事であり得るのか、ということである。』

 『欲するということは、定義上、げんにそうあること以外のことを欲するということだから、やはり定義上、げんにそうあることに満たされることは、あり得ない。しかし、幸福とは、げんにそうあることに満たされて在る感覚以外の何ものでもあり得ないのだから、欲するということが、それ自体で不幸なのである。そして欲さないことが、すなわち幸福なのである。幸福であろうと欲するなんて、こんな不可能ってありますか。』

 『幸福は、欲するものではなく、気がつくものだ。宇宙のことを考えるたび、私はそのことに気づく。宇宙は、それ自体で、完璧である。いや正確には、宇宙が完璧なのではなくて、それが「在る」ことが、完璧なのだ。「在る」ことが完璧なのだ。完壁なのだから、なお欲するべき何ものもない。何もかもそれでいいのだと、深く感じられる瞬間である。』


 これには本当に参りました。欲さないことが幸福であるとは。これまでは欲し続けていたからなあ。でも、心のどこかで、こうやって気づいていくことが幸せなんだとは気づいていたんだと思う。幸福感なんていうものは相対的でかつ脳内の刺激に過ぎないから、そのように仕向けていく思考パターンを身につければいいのだと思っていた。でなければ、こんな考え続けたりしないで、もっと欲することに傾倒していただろう。そして、次々と手に入れ、消費し続けたんだと思う。

 でもなあ。なんだかいつも周囲に翻弄されるんだよね。どうしてかな。

 池田さんがこんな考えに到達しているのは、多分、今の消費社会とそれを支えている人々の価値観に根ざしている。われわれは豊かになり、さまざまな物を手にいれ、余裕ができたはずなのに、幸せだという実感に乏しい。物ばかりではない、知識も手に入れたのだから、もっと哲学的に幸せを考えられてもいいはずなのに。

 脳内の刺激に過ぎないと言ってみて、それなら勝手にすればいいようなものの、世の中に対して誠実に生きたいとはなぜか思っていて、やっぱり世の中の価値観は無視できない。誠実さだってひとそれぞれなんだけど、それをどう伝えたらいいんでしょうかね。みんなに理解してもらう、要するに売れるっていうこと。まあ、それが倫理ですかね。これが次のテーマですか…。でも、私の解決法って、なんだかんだ言っても、やっぱりこんなふうに考えていく路線しかないんだろうな。


 以前の職場では、消費し生産し続ける生き方に触れた。それは、充実感も大きかったが、その一方で焦燥感もあった。その経験はとてもわたしには大きいものだった。これこそが、現代の価値観の極みであると、今更ながら実感する。

 今がこうだから、それに倣って生きるべきだという考え方もある。しかし、それがわたしの望むものだったのか。

 競争社会において、この池田さん的な考え方が、どのように受け入れられるのか分からない。しかし、これが現実を踏まえたものであるのには違いない。だからこそ売れるのだ。

 でも、この考え方が、次代に定着していくのだろうか。それを望んでいるんですかって、聞くのは野暮なのは分かっているんだけど、池田さんに聞いてみたい。そして、万一:-)これが定着するとして、この考え方に基づく経済のあり方はどんなものだろうか。そして科学は。




 そうは言いつつ、追い求め続けるということから降りていない自分の側面もある。このバランスはどう理解したらいいんだろうか。ちょっとわからなくなってきた。景気のいいときは追い求めることに不安がなく、循環が悪くなるとこんな論理に安堵感を覚える。

 悪循環から回復するために、この現実を受け入れ、そこから頑張ってみようという気持にさせるためにこんな言葉を捜しているというのか。随分前に書いたことだが、人生を常に喜びに包まねばならないということはないとわたしは思っている。そして、外界がある以上、常に喜びに包まれる必然はどこにもない。しかし、それは、そのことを踏まえて前向きに生きるということを気がつかせてくれるということであって、喜びのないことに甘んじるということなのではない。確かに喜びはあるのだから。

 では、幸福論とか哲学とかそういうものはなんなのだろう。順調な人たちは、こんなものを読まないかもしれない。でも、学生さんたちと日々向き合っていると、それぞれの悩みに直面させられる。親身になろうとすると、彼らの負のエネルギーをまともに食らってしまいかねない。

 あまり長い間苦悩に晒されると、そのことが当たり前になってしまう。それで良いというならいいし、そう思えるなら多分他の展開になっていくだろう。「人間、死ぬ気でやってみればどうにかなるものだ。」という言葉に、それが端的に表れている。人である以上、彼らだって苦悩に包まれることを良いとは思っていないのに、なかなか抜け出せなかったりする。

 しかし、負を背負うのは人間の業でもあるだろう。多分、負は他者からもらうことが多い。というより、われわれの価値観は独立してありえないという前提に立つなら、他者から正も負ももらうことになる。その意味において、制御不能な外界ということをあまりに意識しすぎている。

 制御してみようというより、それと一体化するというのでは駄目なのだろうか。池田さんの「幸福とはそれに気がつくことである。」というのは、一体化ということなのだろう。しかし、土居健郎先生は「甘えの構造」の中で、禅的な一体感への生き方は退行であり、超克ではないという。それは本当だろうか。また出口がここになってしまった。禅的な一体感の回復についてもう少し勉強してみる必要がありそうだ。

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あなたの人生でしょ

 人がなんだとか、どうだとか言っているあなたへ。


 人なんて関係なくて、とにかくあなたの人生だし、あなたの問題でしょ。

 教員になって以来、こう言いたくなって、そして言ってしまっていることが多いと感じる。学生稼業は、人から高い評価を受けることが中心にある。その流れから、人からの評価ばかり気になって、そして、人が望んでいることをしていること理由に責任を転嫁する。このこと自体が悪いというつもりはない。そういう場面も、もちろん在っていい。でも、そればかりに人生を覆ってしまうと、楽しくないのじゃないか。でも、多分、そういう生き方に慣らされて、責任を負うような生き方の楽しみがわからないのだろう。実際、学生の先にある社会では、立場が逆転して、評価し責任を負うという場面が多々あるのだ。そして、そこにあるのは、つまらない人生だと思っているのかもしれない。


 人がなんだとか、どうだとか言っているあなたへ。


 こんなことを言う輩に限って、他者の立場になって考えてみるということが出来ていない。人への思いやりが欠けていたりする。

 みんなそれぞれの立場があって、それぞれ頑張っているのに、そこに自分の思いを押し付けてみて、叶わないなんて言っている。それって、エゴじゃないか。文句を言うなら誰でもできる。本気でその問題に向き合う気があるのか。その覚悟を見せて欲しい。

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安心感

 こんなページ を読んでいると、臆病なわたしは、ことの真偽に関わらず人が怖くなってしまう。ましてや、意思疎通が自由にできなくて価値観が大きく違う海外なんて、おいそれと行けなくなってしまう。人が死ぬなんて簡単に起こることだけど、対人関係でことが起こるというのはとてもやりきれない気持ちになる。その上、いのちが大事だなんて考え方だって、それもひとつの価値観に過ぎないから参ってしまう。

 人の気持ちってそんなに簡単にどうこうできないのはわかっている。だからこそお互い様ということで、自己責任で他人へのフォローができる範囲で、自分の気持ちに素直になっていいじゃないかって言えるはずなんだけど、それがわかっていない人に出会ってしまうことだって、全くないとは言えない。俺がこれだけ思ってやっているんだから、お前もそれに応えろよという思いが極端に強くなってくると、いろんな問題がおきてくる。最近の社会の行き過ぎた個人主義は、ともするとそんな自己中心的な在り方を助長しかねない。現に、それが原因と思えるさまざまな問題が起きている。自分をそんな環境から守るために考えておかねばならない。

 守るものがないのは強いというけど、自分の身の安全だけは、誰でも最低限守りたいだろう。人目に晒されるような著名な人たちは、そのあたりをどうしているんだろう。多分、社会に対して意見を言うと、そこから批判や反発を受けることもしばしばだろう。また、愛しさあまってなんとやら、という状態だって起こらないとも限らない。でも、それを恐れたら、人となんて会えないし、声をあげることもできない。

 私にとっては、独りで静かにしている時間はとても大事で、それを侵されたくないと思っている。互いに自立している人なら傍らで、気兼ねなく時間を共有できるのだと思っている。その距離感が安心感において大事なのだと、わたしは信じて来た。しかし、人付き合いが増えてくるにしたがって、どうやらそれだけではないのだということがわかってきた。わたしとの距離を詰めてくる人がいる。でもそれをわたしは恐れてしまう。その感覚をどのように扱っていいのか戸惑っている。不安になってしまう。


 中井久夫先生のエッセイの中で、安全保障感について触れている件がある。

 『バリントという...精神分析家がいた。彼は『スリルと退行』という本を書いて、発達論的対象関係論からすれば、最初の母子一体の「調和的渾然体」が敗れた時に二つの状態が実現すると指摘したことがある。第一は、安全保障感を距離に依存する「フィロバティズム」であり、第二は、安全保障感を膚接に依存する「オクノフィリア」である。』(中井久夫「精神科医がものを書くとき (1)」広英社)

 これを見て、ああそうだったのかと、思えた。でも、だったらどうしたらいいんだろうか。安心感に対する根本が違ってしまっている。この対峙する者たちの共存は出来ないということだろうか。


 とはいえ、これまでの経験から、極端に安住すると、良いことはあまりないというのはわかってきている。その両極にもそれぞれの価値が、異なる場面で与えられている。それらに臨機応変で居ることが大事だろう。それが関係構築の基礎である。

 それでは、この安心感はどのように構築されるのだろう。発達心理、要するに子育てを考えたとき、どうだろうか。調和的渾然体から切り離されたばかりの彼らをどう導くのがいいのか。これは膚接だけなんだろうか。たぶんそうではないが、距離だけであるはずもない。僕はどんなふうに育てられたんだろうか。私がそうらしいエニアグラムのタイプ5は、 こんな人間らしいのだけど…。わたしはやっぱり極端になってしまうようだ。こんなことでは、結婚なんてできないだろうな。理解してから行動する人間で居続ける限り。

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心にゆとりを

 伸びやかな心を養うにはどうしたらいいだろうか。

 研究という孤独な営みを一方で行いながら、教育という人に関わる仕事についている私が、今学生たちに望んでいることといえば、「自主性を高め、自ら考え、自ら愉しむ」ということである。研究でなければ、他の方法もあるのかもしれないが、大学院という特殊な環境で、それを生かしてできることがたくさんあるとは思えない。そんな記号が周りからわかるように日々精進しているつもりではある。

 我々は、いろいろな人や生き方を目の当たりにして、影響を受け、自分に何かを強いてみたり、リラックスしてみたり、そういうことの繰り返しで、成長していくのだと思う。それを単に経験という言葉で片付けるには惜しい事々があると思う。心が縮んだり、伸びたり、そんな刺激を受けながら、日々を過ごせる環境を作りたい。それが今の目標。

 心は萎んだままになると痩せてしまうが、かといって伸びきってしまうと、刺激に慣れ、感受性が落ちてしまう。

 これは山田ズーニーさんの エッセイからの引用。『この友人は、わたしと同様に、教育を目指しているのだが、この分野では、ずっと彼女の方がくわしい。でも彼女は、その知識や経験をふりかざすことをいっさいせず、むやみに私を緊張させたり、不安を煽ってよけいに勉強させようというようなこともせず、上記のように、私を落ち着かせ、リラックスさせるメールをくれた。わたしは、ふっと、緊張が緩み、また周囲の情報が自然に入り込んでくる。』

 その一方で、百ます計算で有名な陰山英男先生は、プレジデント誌の取材に対して『子供を追いつめれば、いいんです。でも、そこでほんとうに追いつめられるのは教師。その度胸があるかどうかがいま教師には問われているんです。』と述べた。

 心の動きに関わるこの2つの文章が頭に浮かんだ。断片的な引用でわかりにくいかもしれないが、どちらも納得いく言葉である。両者はまるで反対のことのようなのだが、そうではなくて、日頃の心がけの違いなのだ。日々緊張して生きている人には余裕が、日々リラックスしている人には刺激が必要だと言うこと。この両面こそが、心の動きを豊かにするためのアプローチなのだと合点がいく。

 緊張があって弛緩がある。そんな当たり前のことに気づかなくなっていないか。ただ、流れていく日々。心を使うのに疲れたり、心を使わないことに気づかなかったり。そんな気持ちのない感じは辛いだけでなく、成長がない。

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こざかしい!

 優秀な学生さんたちと日々付き合っていると、とてもやりきれない気持ちになることもまれにある。彼らは頭がよいのだが、概して責任回避的である。そして、ことが起きたとき、責任や状況を回避・解決しようとして、そのために人を動かそうとして、いろいろの策を弄してみる。しかし、優秀な彼らの策が練られているかどうかはともかく、彼らの内面にあるものはほとんど私には透けて見えている。その浅はかさに、とてもやりきれない気分になるのである。

 とはいえ、わたしもそんなこざかしいことをたくさんしてきたように思う。中学生のころ、人前に出るのを極端に嫌がっていた私は、生徒会選挙などへの立候補を先生に勧められることがあった。わたしは、それを見越して、予め選挙管理委員になってしまうのだ。周りは多分そんなことに気づいていなかったろうが、選管委員は立候補出来ない規定になっていた。あとで、生徒会役員への立候補を先生に勧められるときには既に、断る理由が出来ていた。

 恥ずかしながら、こんなことは小さい頃から山ほどやってきた。しかし、高校・大学と進むと、放っておいても目立たなくなり、そんな技を使わなくても、責任は降ってこなくなった。多分、責任回避的なわたしの性格を周囲は見抜いていた。あいつに任せようとしても、そういう仕事は断るだけだろうからと。

 そうやって、自分の可能性を狭めていった。自分が責任を負って頑張るのではなくて、人との関係でなにかを勝ち得ようとしていた。しかし、それも限界に来ていた。人前に出るのを嫌っていたから、そもそもそんな人間関係が構築できなくなっていた。歳の離れた先生たちとの交渉や、意見交換などの経験は失われた。そのツケは今でも尾を引いているように思えてならない。

 失敗もしてみなければ、失敗の意味もわからない。失敗した人の気持ちにもなれない。段々と責任の大きさが膨らんでくるにしたがって、益々後に引けない状況に追い込まれていく。

 こざかしいことを止めたいと思いながら、まだそれが出来ていないわたしに気づく。まだまだ修行が足りない。

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過去からの解放

 意思決定をするときにはいつでも、大なり小なり自分を振り返り見つめなおすことになる。その決定によって、新しい可能性が拓けるとともに、他の可能性は失われる。その決意によって、自分が確定していく。その代償として経験を積み上げていくことになる。

 就職や進学という大きな意思の決定において、多くの人が自分を振り返る。自分は何がしたいのか、どんな仕事に就きたいのか。そんな望みが湧き上がってくる源泉はどこにあるのか。そして、自分の得意なフィールドで勝負したいという気持ち。さまざまな想いが、一気に湧き上がってきて、自己同一性が失われ、収拾がつかなくなってしまうこともある。

 そもそも自分はなんのために生きているのか。なんのためにここまでやってきたのか。なんのために就職や進学をするのだろうか。研究者になりたいと早々と決めていたわたしもかなりこの問題に苦しめられた。学科進学時にはどの分野を専攻するかで悩んだ。理学部に居たわたしは物理・数学・生物という相互の関連が薄い(と思っていた)分野のどれを選択するか考えた。大学院進学時には、学部時代にずっと悩んできた哲学的な問題をもっと徹底的に考えたいと思って、哲学科への学士入学や科学哲学の大学院に進むことなどを考えた。その後も、医学部に学士入学して、精神医学を学んでみたいなどとうそぶいたこともある。いまでも、教員を辞めたいだの、他のいい職場に行きたいなどと、きりがない。

 しかし、そんな過去を経て、現在に至っている。それぞれで決断したことはいまでは懐かしい記憶であって、後悔してはいない。とはいうものの、後悔していないということと、決断が正しいかったとか間違っていたということとは、あまり関係がないと思っている。

 むしろ、目の前の現実に没頭して、そこで自己実現を果たすことに集中できたお陰だろう。どうして、そのようにできたのかはわからない。最近、自転車を買ったのだが、急いでいるわけでもないのに、スピードを出したくなっている自分に気づく。目の前のゴールに高い関心を示し、不恰好にもいつもいっぱいいっぱいの自分である。わたしの意識できていない根っこの問題がなにかあるのかもしれない。

 しかし、こうは言ってみても、相変わらず未練がましく、物理や数学、科学哲学の勉強は引き続きしている。興味のある精神医学の本なども読んでみている。もちろんあまり時間が取れなくて不満は多少あるが。とはいえ、わたしにとって、これらのどんな分野への関心も、やはりわたしの根から出てくる欲求であり、自分らしさの表れであるのだろう。


 資本主義経済の中に生きている我々は、いつも他者との競争の中に晒されている。自分を幾らで他者や社会に売りつけるか。なるべく高く売りたい。そんな欲求も持たされている。だからこそ、得意で好きな分野で勝負したいと考える。これまでの短い人生経験の中で培ったものをベースに考えていく。そして、人と違うユニークさを売りたいと考える。それが評価につながるだろうから。

 しかし、振り返るしかない過去の経験に基づく発想と、自分のしてみたいことが一致しているだろうか。たぶん乖離している。というより、自分のしてみたいことなんていうものが本当にあるのか。ただ、過去に囚われているだけではないのか。ましてや、他者や従来の社会的価値に囚われているのではないか。そんな疑問が頭をもたげてくる。

 わたしはむしろその時々で不得手な仕事をも取り込んできた。難しいからしないというのではなくて、周りがあまり望まないようなことを、自分の中に一旦取り込んでみた。その結果、もともとある自分の関心興味の側面から、それらの事実を捉えることが出来るようになった。その結果、段々とユニークな仕事ができるようになってきていると感じる。

 逆に自分の関心をそのまま職業にしたらどうだったろうか。想像するしかないが、自分の引き出しの少なさに愕然とするかもしれない。そして、自分の理想にこだわって、新しい問題が目の前にあっても、それに気づかなかったり、意図的に無視したりしてしまうかもしれない。そうやって、過去の経験の中に、自分を狭く閉じ込めてしまうことになるのではないか。そんな風に思えてならない。

 研究室では、機械を分解修理したりして、研究とは程遠いことをしていたりするわたしである。あるとき、学生さんから、「そんなことをする必要があるのか?」「そんなことに意味があるのか?」と言われた。

 彼らはいろいろのことに興味はあるが、そうやって自分が発散してしまうことを恐れている気がした。もっと、狭い専門に集中していかなければ、人より優れた能力を身に付けられないのではないかと。

 その割には、集中できていないように思えるのはわたしだけだろうか。研究以外にもたくさんの関心興味があって、それに心も時間も奪われている。そして、もっと言えば、難しい問題には没頭できず逃避し、もっぱら自分の好きなこと得意なことに生きているのではないかと思えることも多い。

 確かに、この流れの速い時代の中で、巧遅より拙速が求められているように感じるのは仕方ないことなのかもしれない。しかし、自分が実現してきたことを振り返って欲しい。拙速にそれほど意味がないことが見えてこないだろうか。自分に素直に、よいと思えることを選択する決断を続けていけば、道は開けるのだと思っている。

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三つ子の魂を超えて

 とある学生と喋っていた。食べ物の好き嫌いの話である。わたしが、あまり好きでなかった芋焼酎を、克服するように飲み続けたら、おいしいと感じられるようになったということを言った。

 なんでそんなことをする必要があるのかと彼が言う。素直に自分の感覚に従っていればいいではないかと。そうやって慣らされた感覚は虚構ではないかという。もともとの味覚に対する感受性は、人によって先天的に多様であり、その多様さによって好悪の感覚が決まるのだと。

 しかし、わたしはそうは思っていなかった。意味や価値を考えた時点で、既に我々は囚われている。おいしいも、まずいも、感覚に対する評価であって、感覚そのものではない。おなかいっぱいだから食べたくないのと、おいしくないから食べないのは意味が違っている。純粋に生物学的な欲求とは異なり、嗜好という次元に話が移っている。

 そして、その評価は三つ子の魂、つまり幼少期の食生活や食生活観に依存しているとしたらどうだろう。それは先天的ということだけではなくて、後天的な環境にも左右されている。また、歳を取るにしたがって、少しずつ変化していく。そうであるなら、こだわりなく愉しんでみることはできないのかとついつい思ってしまう。


 好きというのではなくて嫌いだという「こだわり」は「とらわれ」かもしれないと思う。これはおいしくないから食べない。これは苦手だからしない。しかし、それが苦手なのはそもそもなぜなのか。

 期待していたとはいえ、おいしくないと思っていた焼酎が、とらわれをほぐすように、おいしくなった様は、私には意外だった。今や、なぜ焼酎をこれまで旨いと思えなかったのか不思議なくらいだ。お湯割りも旨いし、ロックでも。

 これは、わたしのこれまでの生き方とも関わっているように思う。理系を本格的に志望し始めた高校初学年のころ、数学の成績は芳しくなかったが、一念発起して得意科目にした。また、大学での学科所属の際、興味はあったもののよくわからなかった生物の分野に決めたのは、この分野が未知で、不可思議だったからである。そして前任地に職場を決めたのは、流れがあったものの、苦手な環境に没入してみようかという、意識が働いていたからである。

 臆することなく、苦手かもしれない世界に飛び込んでみると、意外な愉しみが実はころがっているものである。見ないようにしていたそれらの事々の死角に、わたしが求めていたものがほぼ間違いなく潜んでいる。選んだらそれに意識を集中してみる。そうやって、焦らずに、自分の感受性にじっくりと耳を傾けてみる。ときどき、それを繰り返す。いつ、私が、それまで忌み嫌っていたことを好むことができる性質に変わっているかわからないからである。そして、また自分が新しく異なる物事を受容できていることを喜びとするのかもしれない。それはわたしの全人になりたいという意識がそう感じさせることに過ぎないかもしれないが、わたしの望んでいることと思える。


 ここを眺めていたら、「自分の感性を疑え」と書いてあるのを見て、共感を得た。これって「これでいいんだ」とか「ひとそれぞれ」ってことからの脱却じゃないか。

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不安・選択

 若い頃のわたしは、自意識が過剰で、強迫神経症的な人間でした。多分察することができるでしょうが、今でもその傾向は若干残っています。

 自分は勉強ができるし、父親譲りのがっちりとした体型ながら昔はもうすこし痩せていたのでルックスにも自信があった。といっても、小顔じゃないし、背は高くないからK先生のようにモデルにはなれないけど。とはいえ、人が好きだから、やさしく接しているので、あんまり文句を言われることはない。むしろ賞賛される。

 だから、ついつい頑張ってしまって、几帳面そうな生き方になってしまう。でも、自分の内面には、もっとルーズで、ずるくて、いやらしい人間が潜んでいるのを知っているから、人に褒められると、焦ってしまうし、素直に反応できない。そして、もっと頑張らないとと思ってしまう。本意じゃないのに、本当はそういう人間じゃないのに。誰も自分を理解してくれないなと思っていました。

 その一方で褒められたい。それが自分を理解してもらっていることになるのかわからないけど。それなのに、褒められることを素直に受け入れられない。そんな生き方を続けていました。

 人に褒められようとしてやってきたから、周りとは必ずしも心から理解しあうこともない。人の愛を独占しようとしていたんだから、そもそも無理な話ですよね。

 そこを超えていくことができなかった。今までの戦略を捨てることができなかった。長い間。

 その結果、登って、昇って、上ってきてしまいました。褒められるために生きてきたら、もうそこには誰もいなかった。The BOOMの歌詞そのもの。共感が得られないと感じてしまっていました。

 だから人を愛することなんて忘れてしまった。というより、元々そんなことをしたことがないように思う。


 何かを選んでそれに集中するためには、その他のことを諦めねばならない。若いときに開発した自分の能力はそうやって得られることが多いから、このことが真実だと思えてしまう。確かに短期的にはそのとおりなんだけど、長期的にそれを見た場合には、必ずしも諦めていることにはならないように考えることはできないか。そんな悲壮感なんて人生に要らないんじゃないか。

 だから、今は気になることも、確信を持って脇に置いておける。今しなくてはいけないことや、今したいことにしばし集中するということでいいんじゃないか。

 深刻になる必要はない。そしていつの日にか、解決しなければならない日が来るし、心から重要だと思う日が来る。そして、それに集中する。選択の仕方は、その人の色合いを決めていることだけなのだ。人とのかかわりが大事だと思う人。研究が大事な人。趣味や余暇を重視する人。人それぞれ。そんな違った人たちがいるから、面白いんじゃないか。一面的な価値で捉えてしまうと、結局、矛盾に陥ってしまう。自分の営みだって、他者から見れば結局同じことだから。

 自分を振り返ってみれば、人との関わりに怯え、それを避けるように孤独な時間を過ごすことになった。その結果、自分を孤独な精神と孤独な知識(?)の点で徹底的に鍛えることになってしまった。それは単に結果論であるし、ある一部分での鍛錬に過ぎないことはわかっている。それと引き換えに今まで選んでこなかった心が通い合うような生き方をしてみたいと、ようやく最近心から思えるようになってきたというだけ。30代半ばにもなって、何を今更と言わないで欲しい。

 それは悩んだ挙句の結論なのだ。確かにそれは事実だけど、今更といわれると、なにか無駄があるように思えてならない。悩むなんて行動を伴わない時間は、多くの人には無駄に映るらしい。どうして、今までできなかったんだと。

 人に与えられる時間も環境も平等ではない。あんな環境に生まれたかった。あんな風にルックスが良かったら。生まれつき頭がよければ。スポーツができたら。そんなことと、この今までできなかったことへの後悔とは同じ欲求かもしれない。先天的か後天的かの違いだけ。

 だから、現実を受け入れてしまうほかなく、後悔なんて必要ない。わたしは日々前向きに生きている人が好きです。外面的なスタンスとは関係なく、内向的な人間でも社交的でなくても、斜に構えていてもなんでも。その人の生き方からたくさんエネルギーをもらえます。そして、そんな生き方をアシストしたい。時間の価値を忘れた年寄りたちに惑わされずに、着実に進むしかないのだ。

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人生の愉しみ

 人生を愉しく有意義に生きたいという欲求は、誰しも心の中にあると思われる。この欲求を満足するためにどのような生き方を選ぶのかと考えて、行動するわけであるが、その戦略をどう引き出してきたか。その発想の原点を考えたい。

 ある席で、AさんがBさんに対して、「君は専門書を読んでいるとき愉しくなさそうだが、なぜなのか。愉しく読むことはできないのか。」というような指摘をされていた。

 さすがによくAさんは見ているなと思った。その一方で、Aさんは一つ一つの人生のなかでのあらゆる所為を愉しんでやりたいという意識が強く、そのことに関しての優先度が高い、あるいは、その場でその役を演じようとしているのだと思われた。そこで、わたしはその議論に対置する形で加わることにした。それは、わたしの考えと通底していたからである。

 確かに、どんなことでも愉しくできれば、嬉しいことであるが、果たしてそんなことが可能なのか。また、それが本当に目指す人生の愉しみなのかという気がした。個別の愉しみの集積と人生の愉しみが同一のものかということである。

 そもそも、愉しいという感覚はどこから来るのか。また、愉しくないという感覚は。

 私は自分の内面にあるものを意識に上せ、また、無意識に戻す作業を行いながら、それを確認してきたつもりだった。しかし、Aさんは、内面には解はないという。

 自分の内面の卑しさに辟易とし、その不確かなたゆたいに惑わされるなら、それを掘り下げず、素直にその感覚に委ねて生きようという気持ちはわからないではない。しかし、そのことと、愉しいことをし、愉しくないことをしないということは関係がない。愉しくないという感覚は素直な感情であるが、だからしないのだという意思はまた別の決意である。

 愉しくないことを愉しくする発想の転換はしばしば有意義である。しかし、この作業が完全になされるならともかく、不完全なら必ず失われるものがある。特定の個人にとって、一個の事物が愉しいことと愉しくないことに明確に分けるられることは滅多になくて、それらが混ざっていることが一般的である。となれば、この発想の転換という作業は一体となっている物事を都合よく分解することでしかないのではないか。その意味では、やはり完全に愉しくするということが重要であろう。それは愉しくないことも含めて愉しみとするという決意である。

 だから、愉しくないという感情を封印することは、とても愉しくない道に進むと思えてならない。わたしには、愉しくないことを無理にする必要はないという考えが、ただ自分の固定につながるのではないかと思えるからだ。現在の感覚からくる愉しみという側面からだけ自分を捉え、その場凌ぎの選択に生きて行くということではないだろうか。

 この固定を恐れた私は、人生を愉しくしたいという欲求はあっても、愉しくないことが人生の一部を占めるということに、ある種の諦めを感じるようになっていた。なにもすべてが愉しい必要などないと。そのことを意識するようになって、わたしを愉しくなくすることごとに却って翻弄されにくくなり、精神的に安定するようになったと思っている。そして、愉しくないと思っていたことが、それに慣れ、理解が深まる中で、愉しみに変化して行くことを経験できた。わたしは、苦悩を避け、人生を愉しみに包みたいということより、より有意義に生きたいという気持ちのほうが強いのだろうか。

 これは、結果的に人生を愉しくする戦略にもなっていると感じている。最後には愉しみを増やすことになるからである。一方、愉しくないことをしないということは、自分の内面的な理想に忠実であって、目の前の現実を受け入れないということと考えられないか。掘り下げることのない野放図な内面への依拠であって、現実とのかかわりを無視している。愉しいことも、愉しくないことも、現実とのかかわりのなかで意識されるものであるなら、現実を受け入れることも考えておかねばなるまい。

 世間や人がいいと言う事には、それなりの理由があるものである。それを感じてみることは大事ではないだろうか。所詮めぐり合える物事なんて限られているのだから。


 ところで、この世には愉しみを目標とする生き方が普通であると考える人以外にも存在する。人間を9種の類型に分類する性格分析の手法であるエニアグラムは、とても興味深い内容を含んでいる。この理論はグルジェフにより補強されるという経緯を持ち、神秘学的ないかがわしさや、某国での布教活動(?)に違和感を感じないではないが、人の生い立ちとその発達心理から、その人の本性としての動機が形成され、それを元に生きていく人間が到達するところがどこなのかを説明するところまで深化している。

 このたった9種の類型から、多くの人間的な部分の説明が出来てしまいそうなところに、恐れと、人間の単純さを感じてしまう。幾つかの判定の結果タイプ5w4に分類されたわたしが、それに関する記述を眺めて感じたのは、あまりの符合になんとも失望してしまったということである。つまり、精神活動の面においてもプログラムされた生を実感させられてしまうのである。これはあまりにつまらない。もちろん、それとは別のところに人生の意義があるのはわかるが、その人間のよりよい展開のプログラムまで分析されてしまうと、独自でありたいという欲求さえも、すべて見透かされたような寂しさを覚える。この感覚も、多分5w4の考え方に過ぎないのだが…。とはいえ、非常に興味深く、こうやってまた分析・理解しようとしている悲しい自分を自覚する。

 愉しみを至上とする生き方も、この分類に含まれていて、タイプ7になるという。これが意味するように決して、普通の生き方なのではない。そういう価値観からの一方的な判断がもたらすものはネガティブなものだけではないのだろうか…。

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