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私の恋愛観I

 何度となく失敗を重ねても、わかっていないことがある。心の中には自分しかいないわたしにとっての、他者と恋愛の意味である。

 塩野七生「男たちへ」を今更ながら読んでいると書いたが、ここに書かれていることの意味の重さを感じるだけの経験がわたしには決定的に不足しているような気がする。特に、「不幸な男(その一)」は、なんとも子供じみたわたしの恋愛観を一蹴してくれた。

 そこでは、職場で生まれた男女の友情を例にとって、話を進めている。男は友情としか思わないのだが、その妻は恐れを抱き、半年会わないか、ベッドを共にしろという。でも、どちらも拒否した男のその後は…。

 「対人関係とは、相手があることなのだ。それなのに、男のほうには、相手がどう受け取るかを思い遣る心情がない。原則に忠実に、理屈にさえ合っていれば自分の行為は正しく、まったくそれを変える必要を認めないのが男の考えであったのだ。妻はこの夫を、以前には思いもしなかった離れた視点から見るようになったのだった。」

 そして、男のほうは。「清らかな友情の相手であったはずの女は、それだからこそベッドをともにするなど考えもしなかったのだが、一年もしないうちに、その女の本質が、馬鹿ではない男にはわかってしまったのである。資質でも性格でも、友情の相手にするほどのものでもないとわかったとき、男に残った感情は、肉体としての女だけだった。ベッドをともにしたいと、そのときになって思ったのだ。」

 「他人の立場になって考える、とは、だから、不幸になりたくない男にとっては、良書を熟読するよりも、心しなければならない課題ではなかろうか。妥協をすすめているのではない。それにこれは、妥協ではない。人間という存在を、優しく見るか見ないかの問題である。」


 知識や技能を身につけることで初めて、世の中と関われると考えがちだったわたしにとって、このことは過去にはあまり理解できなかった。しかし、相手の立場になって考えなさいとはよく言われて育った。その人がそこにそんな風に生きているということには全て理由があって、さまざまな運命と経験を積んでそこにあると思っていた。だから、それだけを責められないと思って日々人と接していたように思う。だから、わたしは母の父への一方的な離婚理由を納得できなかった。不平はわかったけど。上述の夫婦は結果的には離婚したそうなのだが、結局それは相互が相手の立場になれないということにあったのだろう。そんな乖離に一方的な理由なんてない。

 相手の立場になって考えることにおいては、わたしは決して悪くない資質を持っていると思う。しかし、人の発達と成長という観点において何が大切なのだろうかといつも思う。厳しい環境は人を育てるが、そのために失うものも多い。その両面を補い合いながらわたしたちは生きていく。緊張と弛緩。まあ、一般的にはそれが生活と仕事の線引きなのだけど、もしかして女性は生活に緊張を全く求めていないとでも…。いや主婦たちはそれをごちゃまぜにできるところにある種の尊敬を覚える。まあ、塩野さんの書く女性は一辺倒ではないんだけど。

 良好な関係から、どうやってほころび始めるのかはわからないが、わたしがそれを恐れているのは疑いようがない。親を見ているからだろう。ほころびに至らずによりよい関係を作るためにはどうしたらいいのだろう。そんなことばかり考えている。でも、本当はほころびなんて恐れるに足りないものなのだろうか。成長と発達の妨げにはならないのだろうか。超えられるものなのだろうか。でも、一生懸命求めもせず、ほころびを恐れているなんて…。きわどいバランスに終始している。


 ところで、今を作っているさまざまな運命や経験から何を汲んでいくのか。最終的には人を形作っていくのはそこにあるのだと思う。若いうちはともかくも、充分な時間が与えられたら、自分の人生を運命だけの責任にするなんていう生き方は辞めたいではないか。理想の実現とか、それを選択していくとかそういうことも大切なことなのかもしれないが、実は運命を糧に自分を抽出していくところに人生の醍醐味があるんじゃないだろうか。それは、かなり自立的なプロセスだ。


 そう思っているわたしがわたしのことを思いつめるほど好きではない女を好きになる理由ははっきりしている。それは、それが重荷だからだ。ある思いつめた女は、わたしの内面を抉って、分解してみせ、方針を与えてくれた。それは思いやりからなのだろうが、自分が分かっていることを同じように繰り返されても、それは苦痛以外の何物でもない。方針を貰って嬉しいのは、並立する違った価値観だったりする。

 ただもちろん、その思いやりを理解しないわけではない。単なる甘えかもしれないのだが、わたしのありようのまま、受け入れて欲しいだけだ。とはいえ、それは努力なく生きることを意味しないことを理解して欲しい。だから、教員なんて向いていないんじゃないかというのは、その意味においてである。ある目標を強いて、そこに向かって生きろなんて、わたしは言いたくないから…。といっても、この環境を利用しないなら、ここにいて欲しくはないが。話が恋愛と関係ない方向に逸れてしまったようだ。

 そうなってくると、結局、理想的な男と女の関係なんて、互いにそうしたらいいじゃないかと思えるようなものでしかないのかもしれない。それを、伝え合える中で維持できるということ。それって楽しいのかなあ。まあ、そんな関係を構築し維持できるなんていうのも、それはそれで楽しいことかもしれない。互いのそうやって構築したものを眺めて、ああいいねって、でもわたしはちょっと方向性が違うけどね(違うのは方向性っていうのが大事だと思うんだけど)。それが面白みなのかもしれないなという結論にとりあえず今、達したようだ。そして、そこにセックスが絡んでくるのか…。

 これは理想的ではなくて、最終的ということかも。

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